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『海から百万石 ~江戸時代に転移した国交省の土木職員、水守と河童と有明海の大干拓に挑む~』  作者: 天手古まい


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第五十五普請 海の向こうを知る男

寛永六年(一六二九年)、春。


三年近い歳月を経て、水学所がついに完成!


諫早の米の収穫は五万石に達し、かつての子どもたちも、それぞれの夢に向かって歩き始めています。


そして今回、小春が出会うのは、海を越えてヨーロッパを見てきた実在の歴史人物・千々石ミゲル。


諫早の小さな村から、世界へ。


新たな出会いが、小春の未来を大きく変えていきます!

 寛永六年(一六二九年)、春。


 諫早の野を、柔らかな風が渡っていた。


 かつて潮の満ち引きに翻弄されていた干拓地には、青々とした麦が穂を揺らしている。


 田の畦には小さな花が咲き、水路を流れる水は、朝の陽を受けてきらきらと輝いていた。


 三年前。


 この土地には、まだ十分な道も水路もなかった。


 泥に足を取られ、雨が降れば普請が止まり、海から吹きつける風に人々は身を縮めていた。


 今は違う。


 荷車が通れる道が延び、漁師たちは水揚げした魚を運び、農民たちは新しい田を耕している。


 そして、村の一角に、一棟の大きな建物が建っていた。


 太い柱。


 雨を防ぐ瓦と板葺きの屋根。


 広い土間と、風の通る学びの間。


 裏庭には、小さな堤や水門を試すための水路まで造られている。


 ――水学所。


 かつて青空の下で始まった学びの場は、三年近い歳月を経て、ようやく一つの形になっていた。


 そして、その奥には。


「白瀬! いつまで寝ておる!」


「……あと五分」


「ごふん?」


「あ、いや、もう起きる!」


 白瀬湊一、三十五歳。


 現代から江戸初期へと迷い込み、気がつけば八年近い歳月を、この諫早で過ごしている男である。


 そして、彼を叩き起こしているのは――。


「まったく。妾が起こさねば、朝餉も食わずにおるつもりか」


 水守の澪だった。


 澪は白瀬の部屋の前で腕を組み、呆れたようにため息をつく。


 水学所の奥には、白瀬と澪、それぞれの部屋が設けられている。


 もちろん、夫婦ではない。


 ……まだ。


「今日は城からも皆が来るんだろ?」


「そうじゃ。ゆえに、早う支度せよ」


「わかってるって」


 白瀬が慌てて着物を羽織ると、澪が一歩近づいた。


「襟が曲がっておる」


「え?」


「じっとしておれ」


 澪の白い指が、白瀬の胸元を整える。


 ふわりと、清らかな水の匂いがした。


 顔が近い。


 白瀬は思わず息を止めた。


「……ありがとな、澪」


「礼を言われるほどのことではない」


 そう言いながら、澪は少しだけ視線を逸らした。


 そこへ。


「おーい! おいの朝飯はまだかー!」


 庭の水路から、勢いよく河童が顔を出した。


 ガタ吉である。


「ガタ吉! 朝からうるさい!」


「なんば言いよっとか! 腹の減った河童は働けんとばい!」


「お前、昨日の夜も団子を六つ食ってただろ!」


「昨日は昨日、今日は今日たい!」


 澪が額に手を当てる。


「……三年経っても、変わらぬのう」


 白瀬は思わず笑った。


 三年。


 村も、人も、暮らしも大きく変わった。


 けれど。


 こうして三人で迎える朝だけは、相変わらず騒がしく、温かかった。


     ◇


 その日、水学所では、建物の完成を祝う集まりが開かれていた。


 諫早領主・諫早直孝。


 奥方。


 若殿の茂敬と、その妹の千代。


 家老や勘定方、村の長老たち。


 そして、かつて白瀬の周りを走り回っていた子どもたちも、今では立派な若者になっていた。


「先生! こっちの席、空いとるばい!」


 真っ先に声をかけたのは、おたえだった。


 二十歳。


 長崎で商いを学び、今では領内の品物を扱う帳面も任されている。


 昔のように小さな銭を握りしめて商売の真似事をしていた少女ではない。


 今では長崎の歌姫であり、商いにも長けた鈴明美を師と仰ぎ、教わったことを諫早の商売に生かしていた。


 もっとも、銭を数えるときの目の輝きだけは、少しも変わっていない。


「おたえ、今日は勘定帳を持ってきてないだろうな?」


「持っとるに決まっとるたい!」


「……祝いの日くらい休めよ」


「何ば言いよっとですか。祝いの日こそ、銭の動く日です!」


 白瀬は苦笑した。


 その横では、逞しく成長した長吉が、村の農民たちと田の水管理について話し込んでいる。


 健太は、新しい水門の仕掛けを見せようと、茂敬に木製の模型を差し出していた。


 源太は漁師仲間と笑いながら、今年の魚の様子を語っている。


 そして小春。


 十八歳になった彼女は、初めて会う城の家臣たちにまで気軽に話しかけ、いつの間にか輪の中心にいた。


「若殿! 健太の話、難しかでしょう?」


「いや、面白い。じゃが、途中から何が何やらわからなくなった」


「ほら! 健太、もっとわかりやすく話さんば!」


「おいはちゃんと説明しよる!」


「ちゃんと説明しよる人は、聞いとる人が首ば傾げたりせんと!」


 茂敬が声を上げて笑った。


 若殿と村の若者たち。


 その間には、身分の違いこそあれ、共に学び、働いてきた者たちの親しさがあった。


 その様子を、直孝が満足そうに見つめている。


「白瀬」


「はい」


「三年前、ここには柱が一本立っておるばかりじゃったな」


「ええ。澪に握り飯をもらって、次は屋根だなんて話していました」


「そうであったか」


 直孝は笑った。


「人の夢というものは、形になると、また次の夢を呼ぶのう」


 白瀬は、賑やかな学び舎を見渡した。


「はい。俺も、そう思います」


     ◇


 祝いの席が一段落した頃。


 家老が、一冊の分厚い帳面を携えて進み出た。


「殿。昨秋の領内の実りにつきまして、取りまとめが済みましてございます」


「うむ。聞かせよ」


 家老は帳面を開いた。


「元和七年、上地の後、当家の公の領知は一万石余りとなりました」


 その言葉に、年配の家臣たちの表情が少し引き締まった。


 かつて二万二千石を領した諫早家。


 佐賀本藩による上地は、領内にとって大きな痛手だった。


 だが、家老の声は次第に明るくなる。


「しかし、干拓による田地の拡大、水路の整備、作付けの改良が実を結び、元和九年には、領内の米の収穫が三万石に達しました」


 長吉が誇らしそうに頷く。


「そして、昨年。寛永五年の秋――」


 家老は一度、言葉を切った。


 広間が静まる。


「領内の米の収穫、締めて五万石にございます!」


「……五万?」


 誰かが呟いた。


「五万石じゃと!?」


 直孝が思わず身を乗り出す。


「左様にございます。昨秋の収穫を田地ごとに改め、重複を除いて取りまとめました」


 白瀬も、思わず息を呑んだ。


 五万石。


 一石をおよそ百五十キログラムとすれば、七千五百トンにもなる量だ。


 あくまで領内で実際に収穫された米の総量であって、公に認められた領知の石高ではない。


 それでも、三万石から五万石へ。


 五年間で、さらに二万石もの実りを積み上げたことになる。


「先生!」


 おたえが勢いよく立ち上がった。


「そいは、米だけの話でございましょう?」


「ああ、そうだ」


「魚は!? 野菜は!? 蜂蜜は!? 長崎の商いは!?」


「どれも別勘定だよ」


 おたえの目が、ぎらりと光る。


「……そいなら、もっとすごかことになっとるばい!」


 広間に笑いが起こった。


 源太が胸を張る。


「魚も増えたばい! 今年はまた、ふっとかエイも上がったけんな!」


「それは米とは別だってば!」


 白瀬の突っ込みにも、源太は満足そうだった。


 健太が言う。


「水門も、まだ改良できるところの残っとる」


 長吉も頷いた。


「田の土も、去年よりよくなっとるところがあるばい。来年はもっとよか米ば作りたか」


 直孝は若者たちを見渡した。


「……まこと、頼もしくなったものじゃ」


 その声には、深い感慨があった。


 だが白瀬は、一つだけ付け加えた。


「殿。五万石という数字は、確かに大きな成果です」


「うむ」


「でも、すべて売っていいわけじゃありません。来年の種籾も、災害に備える蓄えも必要です。何より、領民が腹いっぱい食べられることが先です」


 直孝はゆっくり頷いた。


「わかっておる。米は、蔵を満たすためだけに実るものではない」


 その言葉に、白瀬は微笑んだ。


 干拓によって得た土地。


 そこで育った米。


 そして、その米をどう使うかを考える人々。


 諫早は、ようやく自分たちの力で豊かさを育て始めていた。


「白瀬」


 直孝が静かに言った。


「そなたは以前、土地だけでなく、人も育てたいと申したな」


「はい」


「今日、その意味がわかった気がする」


 直孝は長吉たちに目を向けた。


「田を耕せば米が実る。人を育てれば、国が育つのじゃな」


 白瀬は深く頭を下げた。


     ◇


 祝いの膳が運ばれてくると、今度は思いがけない知らせが飛び出した。


「先生! おい、今年、祝言ば挙げることになったばい!」


「……え?」


 声の主は源太だった。


「祝言!?」


 白瀬が目を丸くすると、源太は照れくさそうに頭をかいた。


「隣の漁村の娘たい。前から、魚ば運ぶときに会いよって……」


「うわあ! 源太、いつの間に!」


 小春が身を乗り出す。


「どげんな娘ね!? 可愛かと!?」


「そ、そがんこと聞くなって!」


「顔の赤かばい!」


 健太が笑い、おたえが手を叩く。


 ガタ吉はというと。


「祝言!? 団子は出るとや!?」


「お前、それしか考えとらんとや!」


 またもや大笑い。


 その騒ぎの中で、長吉だけが妙に静かだった。


 おたえは見逃さない。


「……長吉?」


「な、何や」


「あんたも、最近よく新しい田のほうへ行きよるよねえ?」


「そいは仕事たい!」


「ふうん。仕事ねえ」


 おたえがにやりと笑う。


 長吉の耳が真っ赤になった。


「な、なんば考えよっとか!」


「うちは何も言うとらんばい?」


 白瀬は思わず笑った。


 かつて泥だらけになって遊んでいた子どもたちが、今では仕事を持ち、家族を作ろうとしている。


 時は確かに流れているのだ。


 広間の反対側では、千代がおたえの帳面を覗き込んでいた。


「おたえ。これは、何の数字?」


「こっちは長崎へ送った干魚の数です。こっちが舟賃で……」


「まあ! そんなにたくさん!」


 千代が感心すると、おたえは得意げに胸を張った。


 二人は身分こそ違うが、すっかり気の合う友になっていた。


 話が一段落すると、千代が小さく歌を口ずさむ。


 まだ名もない、素朴な歌だった。


「千代様、その歌は?」


「この前、おたえから長崎の歌姫のお話を聞いたでしょう? それで、わたしも歌を考えてみたの」


「ああ、うちのお師匠様のことですね!」


 おたえが嬉しそうに笑った。


「お師匠様は、商いだけじゃなく、歌もたいそう上手かとですよ!」


「そんなにお上手なの?」


「そりゃあもう! 長崎じゃ、あの歌声ば聴きたか人が集まってくるほどですけん!」


 千代の目が輝いた。


「わたしも、いつか聴いてみたいわ」


「もちろんです! 今度お師匠様が諫早へお見えになったら、うちが千代様をお連れします!」


「本当!?」


「はい! 約束です!」


 千代は嬉しそうに微笑んだ。


「楽しみにしているわ、おたえ」


 おたえも笑った。


 長崎の歌姫・鈴明美。


 おたえにとっては、商いの厳しさと楽しさを教えてくれた、大切な師匠である。


 そして千代にとっても、やがて人生を変える出会いとなることを、このときはまだ誰も知らなかった。


 そんな賑やかな祝いの席で、白瀬は改めて思う。


 土地を育てること。


 人を育てること。


 その両方が、少しずつ形になっている。


 そして、長崎との縁もまた、諫早に新しい未来を運び始めていた。


     ◇


 翌朝。


 水学所の庭に、小春の声が響いていた。


「先生! 先生ーっ!」


「なんだ、朝から」


 白瀬が顔を出すと、小春が一枚の紙を両手で掲げていた。


「見てくれんですか!」


 紙には、覚えたばかりの唐語の言葉と、その意味が並んでいる。


 長崎の明謝楼で、明美や父の鈴建華から教わったものだった。


「ずいぶん覚えたな」


「まだまだたい! この前も、唐のお客さんが何か困っとったとに、途中から何ば言いよるかわからんかったと」


「それで?」


「明美さんに助けてもろうた」


 小春は少し悔しそうに唇を尖らせた。


「言葉がわからんかったら、相手がどげん困っとるかもわからんとよ」


 白瀬は頷いた。


 初めて長崎で唐商人に出会った頃、小春は身振り手振りだけで誰とでも仲良くなろうとしていた。


 今もその性格は変わらない。


 だが、彼女の中には、新しい欲求が芽生えていた。


「先生。うち、もっと言葉ば覚えたか」


「唐語を?」


「ううん。唐語も、南蛮の言葉も、その向こうの国の言葉も!」


「……ずいぶん欲張りだな」


「欲張りでよか!」


 小春は笑った。


「知らん国の人と話してみたか。どげんな暮らしばしよるとか、何ば食べよるとか、どげんな歌ば歌いよるとか!」


「歌まで?」


「そいは大事たい!」


 白瀬は思わず吹き出した。


「明美さんの影響か?」


「そいもあるばってん……」


 小春は少し真面目な顔になった。


「うち、もっと遠くの人とも仲よくなってみたかとです」


 その言葉に、白瀬はふと、ある名前を思い出した。


 以前、長崎の商人から聞いた話。


 諫早の近くに、かつて海を渡り、遥か西の国々まで旅をした男がいるという。


 名は、千々石清左衛門。


 そして、白瀬の知る歴史には、もう一つの名が記されていた。


(千々石ミゲル……!)


 天正遣欧少年使節。


 一五八二年、日本を出発し、遠いヨーロッパを訪れた四人の少年。


 その一人が千々石ミゲルだった。


 八年の旅を経て帰国した彼は、やがてイエズス会を離れ、清左衛門と名乗った。


 白瀬は学生時代、歴史の授業でその名前を聞いたことがある。


 だが、実際にどのような人物だったのか。


 詳しいことまでは覚えていない。


 歴史に名前を残した男が、今、この時代のどこかで生きている。


 そう考えるだけで、不思議な興奮が胸に湧いた。


「小春」


「はい!」


「世界を見てきた人に、会ってみたくないか?」


「……世界?」


「ああ。海を越えて、遠い遠い国まで行ったことがある人だ」


 小春の目が、みるみる大きくなった。


「ほ、本当に!?」


「本当だ」


「そがん人のおると!?」


「いるらしい」


「どこに!?」


「伊木力だ」


「いきりき?」


「ここから西へ行った、大村湾のほうだ」


 小春は一瞬黙り込み――。


「行く!」


 即答だった。


「まだ何も説明してないだろ!」


「行くったら行く!」


「相手の都合だってあるんだぞ?」


「そいなら、会ってもらえるようにお願いする!」


 白瀬は苦笑した。


 なるほど。


 この娘の勢いだけは、八年経っても変わらない。


     ◇


 訪問の話を直孝に相談すると、意外にもすぐに許しが出た。


「千々石清左衛門か……。名は聞いたことがある」


 直孝は少し考えた。


「かつて大村に仕え、海の向こうを見てきた男じゃな」


「はい」


「ただし、伊木力は大村領じゃ。諫早の内を歩くのとは違う。無用な騒ぎは起こさぬようにな」


「承知しています」


 直孝は小春にも目を向けた。


「そなたが会いたいと申すのか」


「はい!」


「何を学ぶつもりじゃ?」


「世界のことです!」


「ほう。大きく出たな」


「まだ何も知らんけん、何でも学べるとです!」


 直孝は目を細めた。


「……よい答えじゃ」


 手紙の取り次ぎには、長崎の鈴建華も力を貸してくれた。


 以前から話に聞いていた清左衛門への訪問を願い出ると、建華は知り合いの商人を通じて、面会を頼んでくれたのだ。


 数日後。


 返事が届いた。


 ――若い者が学びたいと申すなら、話くらいは聞こう。


 簡潔な言葉だった。


 小春は、その文を何度も眺めた。


「先生! 会ってくれるって!」


「ああ」


「どうしよう!」


「どうしようって、行くんだろ?」


「そうばってん! 何ば聞こうか、考えとかんば!」


 白瀬は笑った。


「まずは挨拶だな」


「そいくらい、できるばい!」


「なら、相手の話をちゃんと聞くこと」


「うん!」


「それから……」


「それから?」


「知らないことを、知ったふりしないこと」


 小春は少し考え、力強く頷いた。


「わかった!」


     ◇


 出発の日。


 白瀬が荷物を整えていると、澪が小さな包みを差し出した。


「持っていけ」


「何だ、これ?」


「握り飯じゃ。道中、腹が減るであろう」


「ありがとう」


「小春の分もある。二人で食べよ」


 白瀬が笑って受け取ると、澪は少しだけ声を落とした。


「……白瀬」


「ん?」


「その清左衛門という男、海の向こうを見てきたのであろう?」


「ああ」


「ならば、妾たちの知らぬことも、よう知っておろうな」


「そうだな。俺も楽しみだよ」


 澪は静かに頷いた。


「たくさん学んでくるがよい」


「おう」


「それと……」


「まだあるのか?」


「日のあるうちに帰れぬなら、無理をせず泊まってこい。山道を夜に歩くでないぞ」


 白瀬は思わず笑った。


「わかってるって。心配性だな」


「誰が心配など!」


 澪の頬が、ほんのり赤くなる。


「お主が怪我をすれば、仕事が増えるだけじゃ!」


「はいはい」


「二度も返事をするでない!」


 そのとき、庭の水路からガタ吉が顔を出した。


「白瀬ー! おいへの土産ば忘るんなよ!」


「お前は何が欲しいんだよ」


「異国の団子たい!」


「そんなものがあるかどうかも知らないぞ!」


「そいば調べてくるのが先生の仕事じゃろ!」


 小春が腹を抱えて笑った。


「ガタ吉! わかった! うちが聞いてくるけん!」


「頼んだばい!」


 澪がため息をつく。


「……まったく。世界を知る前に、団子のことしか考えぬ河童がおるとはのう」


 白瀬は笑いながら、荷物を肩に掛けた。


「じゃ、行ってくる」


 澪は静かに頷く。


「うむ。気をつけてな」


 その声は、いつもより少しだけ優しかった。


     ◇


 春の日差しが山の端を照らす頃、白瀬と小春は諫早を発った。


 途中まで荷を運ぶ者たちと道を共にし、山あいの道を西へ進む。


 道端には山桜が咲き、木々の間からは鳥の声が聞こえた。


 小春は歩きながら、何度も白瀬へ質問を繰り返した。


「先生! 海の向こうには、ほんとに石で造った家のあると?」


「ある。大きな石の建物も、城もな」


「ふっとか城!?」


「それはもう、でっかいのが」


「諫早のお城より?」


「もっと大きいのもあるらしい」


「ひゃあ……!」


 小春は想像が追いつかないらしく、何度も首を傾げた。


「石で家ば造ったら、重たかろうに」


「まあな。でも、石は火に強いし、長持ちする」


「屋根まで石なん?」


「場所によるな」


「なんでそがん家ば造ると?」


「……うーん」


 白瀬は答えに詰まった。


 石造りの建築物について、現代人としての知識は多少ある。


 だが、それを江戸時代の小春にわかりやすく説明するのは、思いのほか難しい。


「先生も知らんと?」


「ああ。知らないこともある」


「先生でも?」


「当たり前だろ。俺だって、まだ勉強中なんだから」


 小春は、しばらく白瀬の顔を見つめていた。


 やがて、にっこり笑う。


「そいなら、今日は先生も一緒に教わるとね!」


「そういうことだ」


「なんか、楽しゅうなってきた!」


 白瀬も笑った。


 やがて山道を抜けると、視界が開けた。


 青く穏やかな海。


 静かな入り江。


 幾重にも重なる山々の向こうまで、水面が続いている。


 大村湾だった。


「うわあ……!」


 小春が足を止めた。


「先生、海の向こうに、まだ国のあるとよね?」


「ああ。いくらでもある」


「こがん広か海ば、ずーっと渡っていくと?」


「そうだ」


 小春は、しばらく黙って海を見つめていた。


 それから、小さく呟いた。


「……行ってみたかねえ」


 白瀬は、その横顔を見た。


 かつて村の道を走り回っていた少女の瞳が、今は遥かな海を映している。


 彼女の世界が、少しずつ広がっていく。


 その瞬間を、白瀬は目の当たりにしていた。


     ◇


 伊木力の集落は、山と海に抱かれるように広がっていた。


 小さな畑。


 海へ下る細い道。


 入り江には漁舟が浮かび、沖から吹く風が木々を揺らしている。


 二人が訪ねたのは、集落から少し離れた屋敷だった。


 特別に大きな屋敷ではない。


 だが、庭木はよく手入れされ、軒先には使い込まれた履物が揃えられていた。


 案内を請うと、奥から一人の男が現れた。


 六十歳ほど。


 髪には白いものが混じり、顔には深い皺が刻まれている。


 着物は質素だった。


 しかし、その立ち姿には、どこか人を寄せつけない静けさがあった。


 そして、何より。


 その目。


 年老いてなお、まるで若い武士のように鋭かった。


「……諫早から参った者か」


 落ち着いた声だった。


 白瀬は深く頭を下げる。


「白瀬湊一と申します。お目通りをお許しいただき、ありがとうございます」


「ふむ」


 男の目が、小春へ移る。


「そちらの娘は?」


「小春と申します!」


 小春は勢いよく頭を下げた。


「今日は、清左衛門様に世界のことば教えていただきたくて参りました!」


 男の眉が、わずかに動いた。


「……世界のこと、か」


 千々石清左衛門。


 かつて千々石ミゲルと呼ばれ、天正遣欧少年使節の一人として海を渡った男。


 その人物が、今、白瀬と小春の目の前に立っていた。


 白瀬の胸が高鳴る。


(本物だ……)


 四百年後には歴史の教科書に名前を残す人物。


 その男が、目の前で息をし、言葉を発している。


 だが清左衛門は、そんな白瀬の興奮など知るはずもない。


 小春をじっと見つめた。


「そなた、いくつじゃ?」


「十八です!」


「若いのう」


「はい!」


「異国の言葉を学んでおるそうじゃな」


「はい! 唐語ば少しだけ!」


「なぜ学ぶ?」


「いろんな国の人と話したかけんです!」


 清左衛門は首を傾げた。


「何のために?」


「え?」


「銭を儲けるためか。商いを広げるためか。それとも、ただ珍しいものを見たいだけか」


 小春は一瞬、言葉に詰まった。


 白瀬は口を挟まなかった。


 これは、小春自身が答えるべき問いだった。


「……うちは」


 小春は顔を上げた。


「知らん人と、仲よくなりたかとです」


「ほう」


「言葉がわからんけん、話せん。話せんけん、相手が何ば考えとるかもわからん」


 小春は真っすぐに清左衛門を見た。


「そいが、もったいなかと思うとです」


 清左衛門は黙っている。


「唐の人も、南蛮の人も、笑うときは笑うし、お腹が減ったらご飯ば食べるでしょう?」


「……そうじゃな」


「なら、ちゃんと話してみたか。どげんなことが好きで、何が嫌いで、何に困っとるとか」


 清左衛門の目が、ほんの少しだけ細くなった。


「なるほど」


 しかし、すぐに表情を引き締める。


「では、そなたに一つ尋ねよう」


「はい!」


 清左衛門は、静かに言った。


「言葉が通じれば、相手の心までわかると思うか?」


「……え?」


 小春の笑顔が止まった。


 清左衛門は、その反応をじっと見つめている。


「言葉さえ覚えれば、誰とでもわかり合える。そう思うておるのか?」


「そ、それは……」


「ならば、試してみるか」


 清左衛門は二人を屋敷へ招き入れた。


 板敷きの間には、古い文箱と、幾冊かの書物が置かれていた。


 海を渡った男の授業が、静かに始まろうとしていた。


     ◇


「そなたの村では、米がよう実るそうじゃな」


 清左衛門は、小春に尋ねた。


「はい! 去年は五万石も穫れたとです!」


 小春が胸を張る。


 清左衛門の眉がわずかに上がった。


「五万石?」


「はい!」


「……ほう。それは大したものじゃ」


 彼は白瀬に一度目を向けたが、それ以上は聞かなかった。


 代わりに、小春の前へ小さな木札を二枚置いた。


「では、ここに一人の商人がおるとしよう」


 一枚の札を指で押す。


「その商人が、そなたの村の米を買いたいと申した」


「はい!」


「値は高い。相場より、よほどよい銭を払うという」


 小春の目が輝いた。


「そいなら、おたえが喜ぶばい!」


「おたえ?」


「うちの村の商い上手です!」


 清左衛門が小さく笑う。


「なるほど。では、その商人に米を売るか?」


「売ります!」


「全部か?」


「……え?」


「商人は、あるだけ欲しいと申しておる」


 小春は、はっとした。


「全部は駄目たい!」


「なぜじゃ?」


「村のみんなが食べる分も、来年の種籾も残さんば!」


「では、断るか?」


「……はい!」


「すると、商人は怒った。二度と諫早とは取引せぬと申す」


 小春の顔が曇る。


「そ、それは困るとです……」


「なぜ困る?」


「商いができんようになるし……」


 清左衛門は、もう一枚の木札を指さした。


「では、こういう話ならどうじゃ」


「……?」


「その商人が米を欲しがるのは、遠い国で人々が飢えておるからだという」


 小春は息を呑んだ。


「食べる米のなかとですか?」


「そう申しておる」


「そいなら、分けてあげんば!」


「だが、そなたの村にも、米を必要とする者がおる」


「……」


「さあ、どうする?」


 小春は黙り込んだ。


 白瀬は、その横顔を見つめていた。


 いつもの小春なら、初対面の相手にも笑顔で話しかける。


 困った人を見れば、真っ先に駆け寄る。


 けれど、今の問いには、笑顔だけでは答えられない。


 誰かを助ければ、別の誰かが困るかもしれない。


 自分の村を守れば、遠い国の人々を見捨てることになるかもしれない。


 小春は膝の上で拳を握った。


「……わからん」


 小さな声だった。


 清左衛門は何も言わない。


「うち、どうしたらよかか、わからんとです」


 小春は俯いた。


 これまで、話せば何とかなると思っていた。


 相手が怒っていても、笑っていても、まず声をかければよいと思っていた。


 けれど。


 相手が何を望んでいるのか。


 なぜ、それを望むのか。


 その願いを叶えた先に、何が起こるのか。


 そんなことまで考えたことはなかった。


 しばらく沈黙が続いた。


 やがて、小春が顔を上げた。


「……清左衛門様」


「何じゃ」


「うち、まず聞きたかです」


「何を?」


「その商人に、なんでそがんに米が欲しかのか」


 清左衛門の目が動いた。


「ほう」


「ほんとに困っとる人のおるとなら、どれくらい米が必要なのかも知りたか」


「……」


「それから、村のみんなにも聞きます。どれだけ残せば、来年まで困らんとか」


 小春は一度、白瀬を見た。


 白瀬は黙って頷いた。


 小春は続ける。


「全部売ることはできんばってん……少しなら分けられるかもしれん」


「それでも足りぬと言われたら?」


「そいなら……」


 小春は考え込んだ。


「魚はどうやろか。うちの村には干魚もあるし、米以外の食べ物もあるけん」


「相手が魚を欲しがらぬなら?」


「そいなら、別のものば考えます!」


「それでも駄目なら?」


「……また考えます!」


 清左衛門の口元が、わずかに緩んだ。


「答えになっておらぬな」


「はい……」


 小春は肩を落とした。


 だが、清左衛門は続けた。


「それでよい」


「……え?」


「そなたは、まだ何も知らぬのじゃからな」


 小春が顔を上げる。


「商人の言葉が真実かどうかもわからぬ。村にどれだけ米が残っておるかもわからぬ。相手の国がどこにあり、何に困っておるかも知らぬ」


「……はい」


「知らぬまま答えを出せば、誰かを傷つけることもある」


 清左衛門は木札を手に取った。


「言葉を覚えることは大切じゃ。じゃが、言葉は人の心を運ぶ舟にすぎぬ」


 白瀬は、その言葉に耳を澄ませた。


「舟があっても、向こう岸を知らねば、どこへ漕いでよいかわからぬ」


 清左衛門は小春を見つめた。


「そなたは、まず相手の話を聞こうとした」


「……はい」


「自分の村の者にも聞こうとした」


「はい」


「そして、すぐに答えを出さず、考えようとした」


 そこで初めて、清左衛門は穏やかに微笑んだ。


「それが、人と人を結ぶ者の始まりじゃ」


 小春の目が大きく見開かれた。


 白瀬も、静かに息を吐いた。


(……すごい)


 知識を教えるだけではない。


 考え方そのものを変えようとしている。


 四百年後の学校で学んだことのある白瀬でさえ、今の問いには考え込まされた。


 この老人は、ただ海の向こうを見てきたのではない。


 違う考えを持つ人々の間で、生きてきたのだ。


     ◇


 その後、清左衛門は一枚の紙を取り出した。


「さて。そなたは世界を知りたいと申したな」


「はい!」


「ならば、少し昔話をしよう」


 清左衛門は筆を取り、紙の端に小さな島を描いた。


「これが日本じゃ」


 次に、その西へ大きな陸地を描く。


「こちらには明国がある。さらに南へ行けば、幾つもの島々が続いておる」


 小春は身を乗り出した。


「そいから!?」


「さらに海を渡る」


 清左衛門の筆が、紙の上をゆっくり進む。


「幾つもの港に立ち寄り、また船に乗る。海を越え、陸を進み、また別の海へ出る」


「……そがんに遠かと?」


「遠いとも」


 清左衛門は笑った。


「わしがまだ少年の頃じゃ。仲間とともに船に乗り、日本を発った」


 白瀬は静かに耳を傾けた。


 天正十年、一五八二年。


 千々石ミゲルは、伊東マンショ、中浦ジュリアン、原マルティノとともに日本を出発した。


 少年たちは長い船旅を経て、遠いヨーロッパの地を踏んだ。


 そして八年後。


 一五九〇年、日本へ帰ってきた。


 白瀬にとっては、歴史の教科書に書かれた数行の出来事だった。


 だが。


 今、その旅をした本人が、目の前で語っている。


「海は、いつも穏やかではなかった」


 清左衛門の声が、少し低くなった。


「嵐に遭えば、船は木の葉のように揺れる。波に呑まれれば、二度と故郷の土を踏めぬやもしれぬ」


 小春はごくりと唾を呑んだ。


「怖くなかったとですか?」


「怖かったとも」


「……清左衛門様でも?」


「わしも人間じゃ」


 老人は小さく笑った。


「船がひどく揺れる夜など、何度も故郷へ帰りたいと思うた」


「そいでも、行ったとですね」


「うむ」


「なんでですか?」


 清左衛門は少し考えた。


「……見たかったのであろうな」


「何ば?」


「海の向こうに、本当に何があるのかを」


 小春は黙って頷いた。


「見知らぬ土地には、見知らぬ人がおった。言葉も違う。衣も違う。食べ物も違う」


「どげんな食べ物ですか!?」


「小麦を焼いたパンというものがある。葡萄から造る酒もあった」


「ぱん……?」


「丸いものも、長いものもあったのう」


「美味しかと!?」


「ふふ。そなたは食いしん坊じゃな」


「ガタ吉ほどじゃなかです!」


 思わぬところでガタ吉の名が出て、白瀬は吹き出した。


 清左衛門は不思議そうに首を傾げたが、すぐに話を続けた。


「石を敷き詰めた広い道もあった」


「石の道!」


「雨が降れば、その石が濡れて光る。馬車が通ると、車輪の音が町に響くのじゃ」


「馬車……?」


「馬に引かせる車じゃ。こちらにも似たものはあろうが、向こうの町では多く走っておった」


 小春の目が輝く。


「見てみたかあ!」


「大きな建物もあった。人が見上げるほど高い石の壁。幾つもの鐘が鳴る町もあった」


 清左衛門は、懐かしむように目を細めた。


「朝になると、町じゅうに鐘の音が響く。遠くの丘にも、その音が届くのじゃ」


 小春は目を閉じた。


 知らない町。


 知らない言葉。


 石畳を走る馬車。


 空から降ってくるような鐘の音。


 頭の中に、見たこともない風景が広がっていく。


「……すごかねえ」


 小春が、ほうっと息を吐いた。


「そがん世界が、ほんとにあるとですね」


「ああ。ある」


 清左衛門は頷いた。


「わしは、そこで王にも会うた。多くの人々にも会うた」


「王様!?」


「うむ」


「どげんな人ですか!?」


「そなたと同じ、人間じゃよ」


 小春がきょとんとする。


 清左衛門は、少し笑った。


「偉い王であっても、腹は減る。喜ぶこともあれば、怒ることもある。悲しむこともある」


「……そっか」


「身分も国も違う。じゃが、人であることに変わりはない」


 小春は、何度も頷いた。


 やがて清左衛門は、ふと口を閉ざした。


 窓の外では、春の風が木々を揺らしている。


「……しかしな」


 その声が、少しだけ変わった。


「人は、違うものを恐れることもある」


 白瀬は顔を上げた。


「言葉が違う。信じるものが違う。生まれた国が違う」


 清左衛門は、ゆっくりと筆を置いた。


「それだけで、相手を敵と思う者もおる」


 小春は眉を寄せた。


「なんでですか?」


「……難しい問いじゃな」


 清左衛門は静かに笑う。


 だが、その笑顔には、どこか寂しさがあった。


「人は、自分が正しいと思うものを、他人にも認めさせたくなることがある」


「……」


「そして、認めぬ者を許せなくなることもある」


 白瀬は、清左衛門の過去を思った。


 遥かな海を渡り、キリスト教の世界に触れ、帰国後はイエズス会を離れた男。


 彼が何を見て、何を考え、何に苦しんだのか。


 白瀬は知らない。


 歴史に記された出来事を知っていることと、一人の人間を知っていることは、まったく違うのだ。


 清左衛門は小春に目を戻した。


「小春」


「はい」


「世界を知るとは、珍しいものを見ることだけではない」


「……はい」


「自分が正しいと思っていたことが、他の土地では通じぬと知ることでもある」


 小春は真剣に聞いていた。


「海を越えるとは、そういうことじゃ」


 清左衛門は静かに続けた。


「己の常識が通じぬところで、人と向き合い、生きること」


 その言葉が、白瀬の胸にも深く響いた。


(……俺だって、そうだった)


 現代から江戸初期へ。


 四百年という時を越えてきた自分。


 当たり前だった暮らし。


 当たり前だった知識。


 そのすべてが、この時代では通用するとは限らなかった。


 何度も失敗し、何度も人に助けられた。


 白瀬が、今ここにいるのは。


 知らない世界で出会った人々が、手を差し伸べてくれたからだ。


(この人も……海の向こうで、同じような思いをしたのかもしれないな)


 白瀬は、目の前の老人を、歴史上の人物としてではなく、一人の人間として見つめていた。


     ◇


 話が終わったとき。


 小春は、しばらく動かなかった。


 広げられた紙には、清左衛門が描いた世界が残っている。


 決して正確な地図ではない。


 しかし、彼女にとっては、それまで知らなかった世界へ続く、一枚の扉だった。


「……清左衛門様」


「何じゃ」


 小春は、きちんと座り直した。


 そして。


「うちに、世界のことば教えてください!」


 深々と頭を下げた。


 白瀬が驚いて振り向く。


「小春!?」


「お願いします!」


 清左衛門は目を丸くした。


「……何じゃ、突然」


「突然じゃなかです!」


 小春が顔を上げる。


「うち、今日、いっぱい知らんことば知りました!」


「うむ」


「ばってん、もっと知らんことが増えました!」


 清左衛門の口元が緩む。


「……ほう?」


「海の向こうに、どげんな人のおるとか。何ば食べよるとか。何で喧嘩するのか。どうしたら仲よくなれるのか!」


 小春は両手を膝についた。


「全部、知りたかとです!」


「欲張りな娘じゃな」


「はい!」


 即答だった。


 白瀬は思わず笑った。


 清左衛門も、とうとう声を上げて笑った。


「はっはっは! 面白い! そこまで堂々と欲張りと申す娘は、初めてじゃ!」


 笑いが収まると、清左衛門は静かに言った。


「じゃが、わしはもう若くない」


「はい」


「昔のように、あちらこちらを歩き回ることもできぬ」


「はい!」


「教えられることにも、限りがある」


「はい!」


「……少しは考えて返事をせぬか」


「考えとります!」


 小春は胸を張った。


「清左衛門様が歩けんなら、うちが来ます!」


 清左衛門が瞬きをした。


「うちが覚えたことは、諫早へ持って帰ります。そいで、ほかの子らにも教えます!」


「……」


「清左衛門様の知っとる世界ば、うちだけのものにせんです!」


 老人の表情が変わった。


 小春は続ける。


「先生が教えてくれたとです」


 そう言って、白瀬を見る。


「覚えたことは、自分だけのものにせず、次の人へ渡していくんだって」


 白瀬は、何も言えなかった。


 あの青空教室で、子どもたちに何度も話してきたこと。


 自分がいなくなっても、知恵が残るように。


 一人が知ったことを、十人へ。


 十人が知ったことを、百人へ。


 その思いが、いつの間にか小春の中に根づいていた。


 清左衛門は、しばらく白瀬を見つめていた。


 そして、小さく頷いた。


「……よい先生に出会うたようじゃな」


 白瀬は頭を下げた。


「いいえ。俺のほうが、この子たちから教わることばかりです」


「ふむ」


 清左衛門は再び小春へ目を向けた。


「よかろう」


「……え?」


「折々、訪ねてくるがよい」


 小春の顔が輝いた。


「ほ、本当ですか!?」


「ただし、約束がある」


「はい!」


 清左衛門は、人差し指を立てた。


「わしの申すことを、すべて正しいと思うな」


「……え?」


「わしも一人の人間じゃ。間違えることもあれば、知らぬこともある」


 小春は真剣な顔になった。


「教わったことは、自分の目で確かめよ。自分の頭で考えよ」


「はい」


「そして、いつか」


 清左衛門の目が、穏やかになった。


「わしの知らぬ世界を、そなたが教えてくれ」


 小春は息を呑んだ。


 やがて、満面の笑顔になった。


「はいっ!」


 その声は、春の空へ飛び出していきそうなほど明るかった。


「ありがとうございます、師匠!」


「……師匠?」


「はい!」


「わしは、そこまで申しておらぬが……」


「もう決めました!」


 清左衛門は呆れたようにため息をついた。


 しかし、その顔は笑っていた。


 白瀬も、心から笑った。


 諫早の小さな村で生まれ育った少女に。


 海を越え、世界を見てきた師ができた。


 それは、この日、誰も想像していなかった新しい物語の始まりだった。


     ◇


 夕暮れが近づいた頃。


 小春は、清左衛門が描いてくれた紙を大切に畳んでいた。


 その姿を見ながら、白瀬は老人に深く頭を下げた。


「今日は、本当にありがとうございました」


「礼には及ばぬ」


 清左衛門は庭先に立ち、大村湾を眺めた。


「久しぶりに、若い者と話した。なかなか愉快であったぞ」


「小春は、少し騒がしいですけど」


「はは。あれくらいでよい」


 清左衛門は笑った。


「海の向こうへ渡った頃のわしも、知らぬことばかりであった」


 白瀬は、隣に立った。


 海の向こうには、夕陽が沈もうとしている。


 しばらく二人でその景色を眺めていた。


 やがて、清左衛門が口を開いた。


「白瀬殿」


「はい」


「先ほど、五万石と申しておったな」


「ええ。昨年の収穫です」


「諫早の領知は、一万石余りと聞いておったが」


「はい。公に認められた石高は変わっていません。五万石というのは、実際に収穫した米の総量です」


「……なるほど」


 清左衛門は、静かに頷いた。


「それは、たいしたことじゃ」


「ありがとうございます」


「じゃが、一つだけ申しておこう」


 その声に、白瀬は顔を上げた。


 清左衛門の表情が、先ほどまでとは違っていた。


「世の中にはな。他人が豊かになるのを、素直に喜ばぬ者もおる」


「……」


「米が増えれば、米を欲しがる者が現れる。銭が集まれば、その銭を手にしたい者も現れる」


 白瀬の脳裏に、佐賀本藩のことが浮かんだ。


 かつて諫早の領地を削った上地。


 領内が豊かになることは、決して悪いことではない。


 だが、その豊かさを、周囲がどう受け止めるかは別の話だった。


「白瀬殿」


「はい」


「そなたは、何のために五万石もの米を実らせた?」


 白瀬は、少し考えた。


「……みんなが、安心して暮らせるようにです」


「ほう」


「食べるものに困らず、子どもたちが学べて、災害があっても立ち直れる。そんな土地にしたいんです」


 清左衛門は黙って聞いていた。


「それから……」


 白瀬は、遠くの海を見た。


「今よりもっと、豊かな諫早にしたい」


「どこまで?」


「……そうですね」


 白瀬は笑った。


「夢だけなら、百万石くらい」


 清左衛門が、目を丸くした。


「……百万石?」


「はい」


「そなた、本気で申しておるのか?」


「はは。まだ、夢ですよ」


 白瀬は苦笑した。


「米だけで百万石というわけじゃありません。田も、川も、海も、人も。全部合わせて、それくらい大きな豊かさを生み出せる土地にしたいんです」


 清左衛門は、じっと白瀬を見つめていた。


「……なるほど」


 やがて、ゆっくりと笑う。


「そなたも、相当に欲張りじゃな」


「小春には負けますけど」


「いや。よい勝負じゃ」


 二人は笑った。


 しかし、清左衛門はすぐに真顔へ戻った。


「ならば、なおさら覚えておくがよい」


「何をですか?」


「豊かさを生み出す知恵と、豊かさを守る知恵は、必ずしも同じではない」


 白瀬は黙った。


「土を知り、水を知り、海を知る。それだけでは足りぬ」


 清左衛門は、白瀬の目を見つめた。


「人を知ることじゃ」


「……人を」


「その欲も、恐れも、願いもな」


 遠くで、海鳥が鳴いた。


「海の向こうでも、同じことであった」


 白瀬は深く頭を下げた。


「……肝に銘じます」


 清左衛門は穏やかに頷いた。


 その横顔は、ただの隠居した老人には見えなかった。


 海を越え、異国の王侯と会い、幾つもの国の栄えと争いを見てきた男。


 その長い人生から生まれた言葉には、重みがあった。


     ◇


 翌朝。


 白瀬と小春は、伊木力を後にした。


 空はよく晴れ、山道には春の光が降り注いでいる。


 小春は歩きながら、何度も懐から紙を取り出していた。


「小春。破れるぞ、それ」


「大丈夫たい!」


「さっきから何回見てるんだ?」


「何回でも!」


 白瀬は笑った。


 清左衛門が描いてくれた世界。


 紙の上には、日本から遠い西の土地まで、幾つもの線が延びている。


 小春は、その線を指でなぞった。


「先生」


「ん?」


「うち、決めた」


「何を?」


「いつか、海の向こうの人たちとも話してみる」


 白瀬は頷いた。


「ああ」


「そいで、諫早のことば教えるとです!」


「諫早のこと?」


「そうたい! 田んぼのことも、河童のことも、水守様のことも!」


「……河童は信じてもらえるかな」


「見せたらよか!」


「連れていくつもりか!?」


「ガタ吉も喜ぶばい!」


 白瀬は思わず吹き出した。


 目に浮かぶようだった。


 異国の船に乗り込んで、団子を要求する河童。


 想像するだけで頭が痛くなる。


「……いや、あいつは置いていこう」


「なんで!」


「絶対に騒ぎになる!」


 二人は声を上げて笑った。


 やがて、小春は笑いを収めると、静かに海を見つめた。


「先生」


「ん?」


「うち、まだ知らんことばっかりたい」


「ああ」


「ばってん……」


 小春は、胸元の紙をぎゅっと握った。


「知らんことが、こがんに楽しかとは思わんかった」


 白瀬は微笑んだ。


「それが、学ぶってことなんだろうな」


「うん!」


 小春は、大きく頷いた。


 そして、もう一度、遥かな海へ顔を向ける。


「いつか、行ってみたかねえ……」


 その声は、春風に乗って遠くへ流れていった。


 白瀬は、隣を歩く少女を見つめた。


 かつて、田んぼの脇を走り回っていた小さな女の子。


 誰にでも声をかけ、誰とでも仲良くなろうとしていた小春。


 その才能は、今、諫早の外へと広がり始めている。


(……すごいな、お前たち)


 長吉は田を育てる。


 健太は道具を作る。


 源太は海を知る。


 おたえは商いを広げる。


 そして、小春は人と人を結ぼうとしている。


 それぞれが、自分の道を見つけ始めていた。


 白瀬は、静かに空を見上げた。


 八年前。


 この時代へ迷い込んだとき、自分には何もなかった。


 帰る方法もわからず、明日を生きるだけで精一杯だった。


 けれど今は。


 守りたい土地がある。


 共に歩く仲間がいる。


 そして、自分の知らない未来へ踏み出そうとしている若者たちがいる。


(……百万石、か)


 まだ遠い。


 途方もなく遠い夢だ。


 だが、白瀬は思った。


 自分一人では、決して辿り着けない場所。


 そこへ向かう道を、今、仲間たちがそれぞれの足で歩き始めている。


 そのことが、何より嬉しかった。


     ◇


 一方、伊木力の屋敷では。


 千々石清左衛門が、静かな部屋で一人、茶を飲んでいた。


 窓の外には、大村湾の穏やかな海が広がっている。


 老人は、昨日訪ねてきた二人を思い返していた。


 目を輝かせながら世界の話を聞く娘。


 その娘の言葉を遮ることなく、静かに見守っていた男。


「……小春、か」


 清左衛門は、小さく笑った。


「面白い娘じゃ」


 そして、もう一人。


「白瀬湊一……」


 百万石。


 それも、米だけではないという。


 田も、川も、海も、人も。


 そのすべてを豊かにしたいと語った男。


 清左衛門は、海の向こうへ目を向けた。


「……まるで、昔のわしらのようじゃな」


 少年だった頃。


 まだ見ぬ世界に胸を躍らせ、船に乗り込んだ日のことを思い出す。


 あの頃、自分たちは何でもできると思っていた。


 世界はどこまでも広く、希望に満ちていると信じていた。


 だが、世界はそれほど単純ではなかった。


 清左衛門は、ゆっくりと目を閉じた。


「白瀬殿……」


 その声は、誰に聞かせるでもなく、小さかった。


「そなたの夢は、海の向こうまで届くやもしれぬ」


 そして、目を開ける。


「じゃが……」


 老人の視線が、遠く佐賀の方角へ向いた。


「夢を妨げるものが、海や水ばかりとは限らぬぞ」


 春の風が、障子を静かに揺らした。


 諫早は、米五万石の実りを迎えた。


 だが、その豊かさは、これから新しい人々の目にも触れることになる。


 そして白瀬たちは、まだ知らない。


 海を拓くことよりも難しい戦いが、この先に待っていることを。

最後までお読みいただき、ありがとうございます!


今回登場した千々石清左衛門は、天正遣欧少年使節の一人として知られる千々石ミゲルをモデルにしています。


天正十年(一五八二年)に日本を出発し、ヨーロッパを訪れた実在の人物です。帰国後はイエズス会を離れ、清左衛門と名乗りました。


本作では、その豊かな経験を小春へ伝える師として登場させました。二人の出会いや会話は創作ですが、歴史の中で生きた人物の息遣いを感じていただければ嬉しいです。


そして諫早では、米の収穫がついに五万石へ!


ただし、これは本作独自の設定による年間収穫量であり、史実の諫早領の公称石高ではありません。


土地を育て、人を育て、今度は世界へ。


小春がどんな女性に成長するのか、どうぞお楽しみに!


次回もよろしくお願いいたします。


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