第五十四普請 みんなで造る、未来の家
殿様のひと言から始まった、水学所の建設計画。
長吉は畑、健太は道具作り、おたえは商いの場所が欲しいと大騒ぎ!
ところが、学び舎を建てるには、思わぬ難題が待ち受けていました。
子どもたちの知恵と、澪の力、河童水工衆の技が一つになるとき――。
そして、どうやら白瀬と澪の「新しい家」にも、ひと騒動ありそうです。
寛永三年(一六二六年)、秋。
諫早の小さな村に、とんでもない知らせが駆け巡った。
殿様が、子どもたちのために学び舎を建ててくださるという。
しかも、ただの学び舎ではない。
文字を覚え、算術を学び、田畑を育てる知恵を磨き、道具を作り、商いを考える。
そんな場所を、村に造ろうというのだ。
名は――水学所。
その知らせを聞いた子どもたちが、大人しくしているはずもなかった。
◇
「おいの畑は、どこに造ると!?」
「ちょっと待て、長吉。まだ建物の場所も決まってないんだぞ」
「そいなら、今から決めればよかたい!」
長吉の家の納屋。
いつもの学び場は、朝から大騒ぎだった。
白瀬湊一は、城から持ち帰った建築の覚書を広げながら、早くも頭を抱えていた。
「おいは道具ば作る場所が欲しか!」
健太が勢いよく手を挙げる。
「木ば削って、穴ば開けて、そいから……」
「火事だけは起こすなよ」
「分かっとるって!」
「前にも聞いた気がするけどなあ」
白瀬が苦笑すると、今度は源太が身を乗り出した。
「おいは網ば広げられる場所が欲しか。破れた網ば直すのにも使えるけん」
「うちは、遠くから来た人と話せる部屋がよか!」
小春が両手を広げる。
「唐の人も、ほかの国の人も、みんな来られるごたる場所!」
「お前、それじゃ学校じゃなくて寄合所だろ」
「学校でも話せばよかやん!」
確かに、それも一理ある。
白瀬が頷きかけたところで、おたえが胸を張った。
「うちは蔵が欲しか!」
「蔵?」
「そうたい! 諫早の品物ば置いとく蔵! そいに帳面ばつける部屋も!」
「……おたえ、お前の店を造る話じゃないんだぞ」
「店も学ぶ場所たい!」
妙に堂々と言い切る。
長崎で商いの厳しさを知ったおたえは、以前にも増してたくましくなっていた。
儲け話となれば目が輝く。
ただし最近は、儲けた銭の使い道まで考えるようになっている。
そこが昔とは違った。
「では、私は書物を置く場所が欲しいです」
遠慮がちに声を上げたのは千代だった。
諫早直孝の娘であり、若殿・茂敬の妹。
数日前、父に連れられてこの学び場を訪れて以来、すっかり子どもたちの輪に溶け込み始めている。
「書物がたくさんあれば、みんなで読めますから」
「よかねえ、それ!」
小春が嬉しそうに手を叩く。
おたえは、さっそく帳面に何かを書きつけた。
「書物を置く棚……と」
「おたえ。それ、誰が造るんだ?」
「健太!」
「勝手に決めるな!」
また笑い声が弾けた。
その騒ぎの中、納屋の戸口から、ぬっと緑色の頭が現れた。
「おおっ! みんな集まっとるたい!」
「ガタ吉。どこ行ってたんだ?」
「川ば見てきたとよ。新しか家が建つなら、おいら河童水工衆の出番たい!」
ガタ吉は得意げに胸を張った。
そして覚書を覗き込む。
「ところで白瀬」
「なんだ?」
「おいの団子部屋はどこね?」
「……は?」
「団子ばしまっとく部屋たい。学校には必要やろ?」
「必要ない!」
「なんでね!?」
「学校だからだよ!」
「勉強したら腹の減るばい!」
今度ばかりは、白瀬も言い返せなかった。
子どもたちが腹を抱えて笑う。
そんな様子を、少し離れたところで澪が眺めていた。
「まったく。おぬしらは朝から騒がしいのう」
「澪も何か欲しい部屋はないのか?」
「妾か?」
澪は少し考えた。
「水を調べられる場所があればよい。川の石や土を持ち帰り、子らと比べてみるのも面白かろう」
「いいな、それ。水の勉強部屋か」
「……別に、妾だけの部屋が欲しいわけではないぞ」
「分かってるって」
白瀬は笑って、覚書に目を戻した。
そこで、ある一文に気づいた。
『水学所並びに白瀬屋敷、水守の居室を設ける』
「…………ん?」
もう一度読む。
読み間違いではなかった。
「俺の屋敷まで?」
城で直孝から住まいを移すよう命じられたことは覚えている。
だが、こうして書きつけにされると、妙な実感が湧いてくる。
今まで白瀬は、村の世話になりながら暮らしてきた。
それが、いよいよ自分の住まいまで与えられるという。
しかも――。
「澪の部屋もあるぞ」
「何?」
澪が隣へ寄ってきた。
覚書を覗き、しばし考える。
「……水守の居室、とな」
「ああ。学び舎の奥に住まいを造るらしい」
「つまり、白瀬も妾も、そこに住むということか?」
「そうなるな」
澪の頬が、ほんのり赤くなった。
「……待て。なぜ妾まで同じ屋敷なのじゃ?」
「水のことを教えるのに、毎日通うのも大変だろ?」
「そ、そういうことではない!」
そのときだった。
「あらあら。楽しそうなお話ですこと」
聞き覚えのある声がした。
振り向けば、奥方が侍女を伴って立っている。
「お、奥方様!?」
白瀬が慌てて姿勢を正した。
奥方は、澪と白瀬を交互に眺める。
「なるほど。同じ屋敷にお住まいになるのですね」
「いえ、あの、学び舎と住まいを一緒にするというだけで……」
「でしたら、お部屋は近い方がよろしいでしょう」
にっこり。
「水守様のお部屋と白瀬殿のお部屋、隣同士にしてはいかが?」
「なっ……!」
澪が絶句した。
「もちろん、廊下を挟めばよいのです。何も問題ございませんでしょう?」
「そ、それは……!」
澪は白瀬を見た。
白瀬は、あっさり頷いた。
「確かに、廊下があれば別の部屋ですしね」
「白瀬!」
「え? 何かおかしいか?」
「……もうよい!」
澪はぷいっと横を向いた。
奥方は扇で口元を隠している。
その肩が、小さく震えていた。
ガタ吉が、こそっと小春に耳打ちする。
「……奥方様、楽しそうたい」
「うん。すっごく楽しそう」
子どもたちも、何やら面白そうな顔になった。
白瀬だけが、何を笑われているのか分かっていなかった。
◇
数日後。
学び舎を建てる場所を決めるため、村の周囲に人が集まった。
城から派遣された役人。
普請を請け負う大工の棟梁。
村の年寄たち。
そして白瀬、澪、ガタ吉に、子どもたち。
若殿の茂敬も同行している。
候補地は三つあった。
一つ目は、城に近い高台。
二つ目は、村の中央にある平らな土地。
三つ目は、長吉の家から少し離れた、緩やかな高みだった。
「こちらであれば、城からの往来にも都合がよろしゅうございます」
役人が最初の候補地を勧めた。
確かに高台は水に浸かりにくい。
見晴らしもよい。
しかし、白瀬は首を傾げた。
「ここだと、村の小さな子には少し遠いですね」
「多少の坂道は、足腰の鍛錬にもなりましょう」
「晴れの日なら、そうかもしれません。でも、毎日ここへ通うんですよ?」
白瀬は坂道を見下ろした。
「雨の日は滑りやすい。冬の朝も大変です。子どもたちが通えなくなったら、学び舎を造る意味が薄れてしまいます」
役人は黙った。
次に向かったのは、村の中央だった。
「ここなら近か!」
小春が喜ぶ。
「うちの家からも、すぐ来られるばい!」
確かに、通うには便利な場所だ。
だが――。
澪が、足元の草を見つめていた。
「白瀬」
「ん?」
「ここは、あまりよくないのう」
「水か?」
「うむ。雨が続けば、この辺りへ集まる。水が去るのも遅かろう」
白瀬はしゃがみ込み、土を手に取った。
表面は乾いている。
だが、少し掘ると湿り気が残っていた。
「なるほど……」
白瀬は周囲を見渡した。
土地は平らに見えるが、北側から緩やかに下がっている。
しかも、先には細い溝が一本あるだけだった。
「長吉。ここは大雨のとき、どうなる?」
「んー……」
長吉は考え込む。
やがて、少し離れた場所を指さした。
「そっちに水のたまるとよ。田んぼじゃなかけん、あんまり気にしとらんやったけど」
「いつまでも残るのか?」
「うん。晴れても二日くらい、ぐちゃぐちゃしとることのある」
「そっか……」
白瀬は頷いた。
澪が感じ取った水の動き。
長吉が日々の暮らしで見てきた土地の様子。
そして、実際の地形。
三つが同じ答えを示していた。
「ここに建てるなら、相当手を入れないといけないな」
「白瀬。この土地が悪いわけではないぞ」
澪が静かに言う。
「水には、水の集まる場所がある。それを知らずに家を建てるのが危ういのじゃ」
「ああ。その通りだ」
白瀬は立ち上がった。
「じゃあ、最後の場所を見よう」
◇
三つ目の土地は、なだらかな高みにあった。
長吉の家からも、さほど離れていない。
近くには畑があり、少し先には小さな流れもあった。
子どもたちが歩いて通える距離だ。
「ここなら広かね!」
健太が走り回る。
「道具ば置く場所も造れそうたい!」
「おたえの蔵も造れるばい!」
「蔵はまだ決まってないだろ!」
白瀬が突っ込む。
その横で、大工の棟梁が腕を組んでいた。
「地面も悪うなか。ここなら、柱を立てるにも都合がよさそうじゃ」
しかし、白瀬はすぐに決めなかった。
「水の出口を確かめたいんです」
「出口?」
「雨が降ったとき、この土地に集まった水が、どこへ行くかです」
棟梁が頷いた。
「なるほど。それは見ておかねばならんな」
白瀬は縄を張り、杭を打って高さを比べた。
水を入れた竹の管も使い、地面の傾きを確かめる。
難しい道具ではない。
だが、少しの高さの違いでも、水の行き先は変わる。
「健太、こっちの杭を持ってくれ」
「おう!」
「源太、そこの溝はどっちへ流れてる?」
「向こうの川たい。でも、雨の後は泥のたまるとよ」
「長吉、そっちの畑は普段どうだ?」
「よう乾くけど、あっちの隅は水の残りやすか」
いつの間にか、子どもたちが次々と測量を手伝っていた。
それを見ていた茂敬が、長吉に声を掛ける。
「長吉」
「は、はい!」
「お前なら、どこに建てる?」
突然若殿に尋ねられ、長吉は目を白黒させた。
「お、おいですか?」
「そうだ。お前はこの土地をよく知っておろう」
「ばってん、おいは百姓の子ですけん……」
「それがどうした」
茂敬は微笑んだ。
「田のことなら、私よりお前の方が詳しかろう」
長吉は、ぽかんと口を開けた。
そして、少しずつ笑顔になった。
「……なら、おいはこっちがよかと思います!」
畑を避けて通れる道。
水の残りやすい場所。
雨が降ったとき、ぬかるみやすい所。
長吉は一つずつ説明した。
茂敬は真剣に耳を傾ける。
「なるほど。土地には、住んでおる者にしか分からぬことがあるのだな」
「そうたい!」
長吉は嬉しそうに頷いた。
白瀬は、その光景を見ながら思った。
数年前なら、百姓の子が若殿と肩を並べて土地の話をするなど、考えられただろうか。
少しずつだ。
本当に少しずつだが、この土地は変わり始めている。
「よし。ここを第一候補にしよう」
白瀬が言うと、子どもたちから歓声が上がった。
しかし、まだ一つ仕事が残っていた。
「ただし、建物の位置は、雨水の流れを確かめてからだ」
「そいなら!」
健太が勢いよく手を挙げた。
「おいに考えのある!」
その顔には、自信満々の笑みが浮かんでいた。
◇
翌日。
長吉の家の庭に、奇妙なものが出来上がっていた。
土を盛った小さな山。
細い溝。
木片を組み合わせた建物。
その隣に、桶いっぱいの水。
「何だ、これは?」
白瀬が尋ねると、健太は得意げに胸を張った。
「新しか水学所たい!」
「……小さいな」
「当たり前やろ! 本物のごたる形ば造ったと!」
どうやら模型らしい。
白瀬は思わず笑った。
まだ十分に教えていないのに、健太は自分で土地の形を再現しようとしたのだ。
「で、これをどうするんだ?」
「見とって!」
健太は桶から水をすくい、模型の上へ少しずつ流した。
水が土の斜面を伝い、細い溝へ入っていく。
「おおっ!」
源太が声を上げる。
水はくねくねと曲がりながら、模型の外へ流れ出た。
「ほら! ちゃんと流れたばい!」
「すごかね、健太!」
小春が拍手する。
おたえも感心したように頷いた。
「こいなら、雨が降っても安心たい!」
健太は、ふんぞり返った。
「おいの考えた水路に、間違いはなか!」
白瀬は模型を覗き込んだ。
「なるほどなあ。じゃあ、もう少し強い雨が降ったら?」
「へ?」
「今よりたくさん水が来たら、どうなる?」
「そいも大丈夫たい!」
健太は桶を持ち上げた。
「見とって!」
ざばっ!
先ほどより多くの水が流れた。
最初は順調だった。
ところが――。
「……あれ?」
水が溝の途中で滞り始めた。
細い曲がり角に、土が崩れ込んでいる。
「ちょ、ちょっと待て!」
健太は慌てて指で土をかき出した。
しかし、その間にも水位が上がっていく。
「健太! あふれるばい!」
「分かっとる!」
次の瞬間。
ばしゃっ!
水が溝からあふれ、木片で造った建物を直撃した。
「ああああっ!」
健太の悲鳴が響く。
模型の建物が傾き、横倒しになった。
しばし沈黙。
そして――。
「ぶっ!」
おたえが噴き出した。
「水学所じゃなくて、水浸し学所たい!」
「笑うなあっ!」
子どもたちが一斉に笑い出した。
ガタ吉まで腹を抱えて転がっている。
「ひゃははは! 学校が川になっとるばい!」
健太は顔を真っ赤にした。
「もう一回やれば、ちゃんと出来る!」
しかし、白瀬は笑わなかった。
壊れた模型の横にしゃがみ込む。
「健太」
「……何ね」
「よくやった」
「……は?」
「いい失敗だ」
健太は目を丸くした。
「失敗が、よかと?」
「ああ。本物の学び舎を建てる前に、危ないところを見つけられたんだからな」
白瀬は、崩れた溝を指さした。
「水は、いつも同じ量が流れるわけじゃない。雨が強ければ増えるし、土や落ち葉が詰まることもある」
「……うん」
「だから、実際に水を流して確かめるんだ。失敗したら、どこが悪かったか調べればいい」
健太は黙って模型を見つめた。
やがて、小さく頷いた。
「……もう一回、造ってよか?」
「もちろん」
「今度は、もっと上手に造るけん!」
白瀬は笑った。
「期待してるぞ」
その横で澪が、そっと白瀬の袖を引いた。
「白瀬」
「ん?」
「この子らは、よい顔をするようになったのう」
白瀬は振り向いた。
健太はすでに源太と相談を始めている。
長吉は土を持ってきた。
小春は桶に水を汲み足している。
おたえは、何やら紙に図を描いていた。
誰も、健太の失敗を笑い続けてはいなかった。
「ああ」
白瀬は頷いた。
「俺が教えなくても、自分たちで考え始めてる」
澪は嬉しそうに微笑んだ。
「……ならば、妾たちも負けてはおれぬな」
◇
その日の午後。
空が、にわかに曇り始めた。
秋の雨だった。
白瀬たちは、候補地で地面の様子を調べていた。
浅く掘った溝へ雨が落ちる。
最初は細い流れだった。
だが、次第に水量が増していく。
「白瀬!」
澪の声が鋭くなった。
「あちらへ水が寄っておる!」
「え?」
白瀬が振り向く。
敷地の端に集まった水が、低い方へ流れ始めていた。
その先には、村人の畑がある。
「まずい!」
白瀬は駆け出した。
雨水は、試しに掘った溝を伝い、思いもよらぬ方向へ向かっていた。
「土のうを! いや、まず土で塞ぐんだ!」
大工たちが慌てて動く。
ガタ吉も水の中へ飛び込んだ。
「こっちたい! 水ば止めるけん!」
泥を積み上げ、水の流れを変える。
幸い、畑へ水が入り込む前に食い止められた。
しかし――。
「何ばしよっとか!」
怒鳴り声が響いた。
畑の持ち主だった。
「学校ば造るとは聞いとったばってん、うちの畑に水ば流すつもりか!」
「いえ、そんなつもりでは……」
白瀬が答えかける。
「つもりがなかなら、何でこっちに水の来よっとか!」
返す言葉がなかった。
確かに、水を敷地の外へ流すことばかり考えていた。
その水が、どこへ行くのか。
最後まで確かめなければ意味がない。
白瀬は深く頭を下げた。
「申し訳ありません。俺たちの見落としです」
健太が、泥だらけの顔で立ち尽くしていた。
「……おいの考えた溝が、悪かったとやろか」
誰も答えなかった。
雨音だけが、辺りに響いていた。
せっかく始まった水学所の普請。
その最初の一歩で、白瀬たちは壁にぶつかったのだった。
◇
雨が上がったのは、夕方近くだった。
空には薄い雲が残り、濡れた草が夕陽を受けて光っている。
白瀬は、泥だらけの溝を前に考え込んでいた。
「……おかしいな」
水の流れは、測量で確かめた通りだった。
高い場所から低い場所へ流れている。
それ自体は間違っていない。
しかし、問題はその先だった。
敷地を乾かすために掘った溝が、これまで別の方向へ流れていた雨水まで集めてしまったのだ。
水が一か所に集まれば、その分だけ勢いも増す。
行き着く先が畑では、たまったものではない。
「白瀬」
澪が隣に立った。
「まだ考えておるのか?」
「ああ。水の出口を、ちゃんと造らないといけない」
「うむ」
「学び舎を守るために、誰かの畑を駄目にするわけにはいかないからな」
澪は、静かに頷いた。
「……白瀬。水を追い払うことばかり考えるでない」
「え?」
「水は、ただ邪魔をしに来るわけではない。田を潤し、人を生かし、川を満たす」
澪は濡れた地面に手を触れた。
「水には、水の行くべき道がある。それを見つけてやればよいのじゃ」
白瀬は、はっとした。
「……そうか」
学び舎から水を遠ざける。
それだけを考えていた。
だが本来、雨水はその土地の水の巡りの一部だ。
どこかで受け止め、無理なく流し、やがて川へ戻す。
問題は、水をなくすことではない。
水の通り道を、きちんと造ることなのだ。
「ありがとう、澪」
「礼などいらぬ。妾は見えておることを申しただけじゃ」
澪は少しだけ得意げに顎を上げた。
そのとき、足元の水たまりから声がした。
「おーい! 白瀬ぇ!」
「うわっ!」
ばしゃん!
ガタ吉が飛び出してきた。
「見つけたばい!」
「何を!?」
「水の出口たい!」
ガタ吉は、濡れた手で向こうを指さした。
「あっちに昔からの細か流れがある。今は泥と草で詰まっとるばってん、下の川まで続いとる!」
「本当か!?」
「おいが嘘ば言うと思うね!」
「団子の数なら、たまにごまかすだろ」
「そいとこいとは別たい!」
澪がくすりと笑った。
白瀬は、ガタ吉の指さした先を見つめた。
もし、その流れが使えるなら。
畑を避けて、水を川へ戻せるかもしれない。
「よし。明日、みんなで調べよう!」
白瀬の目に、再び光が宿った。
◇
翌朝。
まだ朝露の残る野原に、子どもたちが集まった。
白瀬が地面に大きな図を描く。
「昨日、水が畑の方へ行ってしまったのは、溝の先に水の逃げ道がなかったからだ」
「じゃあ、溝ばもっと深くすればよかと?」
健太が尋ねる。
「それだけじゃ駄目だ。深くしたところで、最後に水がたまれば同じことになる」
白瀬は木の枝で線を引いた。
「まず、水が集まる場所を決める。そこから、畑を避けて少しずつ川へ流す」
「途中で泥の詰まったら?」
源太が尋ねた。
「いいところに気づいたな。だから、途中に泥をためて掃除できる場所も造る」
「泥ばためる場所?」
「ああ。水の流れを少し緩めれば、重い砂や泥は底に沈みやすい。そこを時々さらえばいい」
白瀬は、図の途中に小さな窪みを描いた。
「ただし、大雨の水まで全部ここにためるわけじゃない。あふれないよう、先へ流す道も必要だ」
健太が身を乗り出す。
「そいなら、おいの模型ば直せる!」
「そうだな。もう一度やってみるか?」
「やる!」
健太は勢いよく走り出した。
すると、長吉が手を挙げた。
「白瀬しゃん!」
「どうした?」
「水路ば造るなら、あっちの畑は通らんでほしか」
「分かってる。畑は避ける」
「そいと、雨の少なか時には田んぼに水の欲しかけん、今ある流れば勝手に変えんでほしか」
白瀬は目を見開いた。
「……そうだな」
長吉は農民の子だ。
水が多すぎる苦労も知っている。
だが、水が足りない苦労も、よく知っている。
「ありがとう、長吉。そこも考えないとな」
長吉は照れくさそうに笑った。
白瀬は、地面に描いた図を消し、もう一度描き直した。
そこへ源太が割り込む。
「白瀬しゃん、川の方も見てきたばい!」
「もう行ってきたのか?」
「うん。ガタ吉と一緒に!」
源太は、川の下流を指さした。
「昨日は水の増えとったけん、出口のあたりまで水位の上がっとった。そいけん、そこも見とった方がよか!」
「なるほど……」
水路を造れば、それで終わりではない。
川の水位が高くなれば、流れにくくなることもある。
白瀬は頷いた。
「よし。川の水が増えたときも、逆に戻ってこないか確かめよう」
今度は小春が手を挙げた。
「うちは、畑の持ち主のおじちゃんに話してくる!」
「小春、一人で行くのか?」
「うん! 昨日、怒っとらしたけん。ちゃんと説明せんば!」
そう言って走り出そうとする。
「待て待て! 俺も一緒に行く!」
白瀬が慌てて追いかけた。
その背中を見ながら、おたえが呟く。
「……何か、みんな勝手に動き始めたね」
澪が頷く。
「うむ。よいことじゃ」
ガタ吉も胸を張った。
「こいが仲間たい!」
◇
それから数日。
学び舎の予定地は、まるで祭りのような賑わいになった。
河童水工衆が、土砂で埋まった古い水路を調べる。
村人たちは、昔の水の流れを思い出しながら相談する。
大工たちは、建物の位置を少しだけ高い方へ移すため、杭を打ち直した。
そして子どもたちも、それぞれの仕事に取り組んだ。
「健太! そっちの溝、また詰まっとるばい!」
「分かっとる!」
健太は模型の横にしゃがみ込んでいた。
今度は、水路の曲がり角を緩やかにし、途中に小さな窪みを造っている。
源太が水を流す。
さらさら。
水は窪みを通り、先へ進んだ。
「おおっ!」
「まだたい!」
健太は首を振った。
「もっと水ば流して!」
「よかとね?」
「よか!」
ざばっ!
水が一気に流れ込む。
窪みの中で水面が揺れた。
細かな土が沈み、あふれた水が次の溝へ進む。
そして――。
「流れた!」
「やったばい!」
健太と源太が飛び上がった。
小春が拍手する。
長吉も笑顔になった。
「今度は家の倒れんやった!」
「当たり前たい!」
健太は誇らしげに胸を張った。
白瀬が近づいてくる。
「お、うまくいったか」
「白瀬しゃん! 見て!」
健太は、得意満面で水路を指さした。
白瀬はしばらく眺めてから、頷いた。
「いいな。昨日よりずっとよくなった」
「本当ね!?」
「ああ。ただ、これで完成じゃないぞ」
「……まだ何かあると?」
「本物の水路は、何年も使うからな。雨が降るたびに確かめて、悪いところがあれば直していくんだ」
健太は少し考えた。
そして、にやりと笑った。
「そいなら、何回でも直せばよかたい!」
「そういうこと!」
二人は顔を見合わせて笑った。
白瀬は、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
初めてこの村へ来た頃。
目の前の問題を解決するだけで、精いっぱいだった。
だが今は違う。
子どもたちが、自分で失敗し、自分で直そうとしている。
白瀬の知らないところでさえ、知恵は育ち始めていた。
◇
一方、現場の端では別の戦いが繰り広げられていた。
「……足らん」
おたえが呟いた。
目の前には、建築に必要な品を書き出した帳面がある。
柱。
梁。
板。
屋根に使う材料。
大工の手間賃。
運搬のための舟賃。
そこへ新しく、排水路を整えるための人手と道具が加わっていた。
「足らん、足らん、足らーん!」
おたえが頭を抱える。
千代が心配そうに覗き込んだ。
「おたえ。どうしたのですか?」
「銭たい!」
「お金?」
「そうたい! 水路ば造る分だけ、最初の見積もりより銭のかかると!」
千代は帳面を眺めた。
細かい数字が、びっしり並んでいる。
「……父上にお願いしては駄目なのですか?」
おたえは顔を上げた。
「千代様」
「はい」
「殿様の銭も、湧いて出てくるわけじゃなかとですよ」
「……え?」
「この学校に銭ば使えば、その分、ほかに使える銭の減るとです」
おたえは帳面を指さした。
「川ば直す銭もいる。田んぼば広げる銭もいる。海の仕事に使う銭もいる」
千代は黙って聞いていた。
「そいに、困っとる人ば助ける銭も残さんばならんとです」
千代が小さく頷く。
「……四面蔵、ですね」
「そうたい!」
おたえの顔が明るくなった。
「白瀬しゃんたちが考えた、田・川・海・人の四つの蔵たい!」
千代は、父が城で四面蔵について話していたことを思い出した。
何となく聞いていただけだった。
だが、今は違う。
銭の使い方一つで、村の暮らしが変わってしまう。
そのことが、少しずつ分かってきた。
「……では、どうすればよいのでしょう」
「そこが難しかと!」
おたえは、うんうんと唸った。
「必要なもんば減らしたら、学校が出来ん。ばってん、全部造ろうとしたら、銭が足らん!」
千代は帳面をじっと見つめた。
そして、ある場所を指さした。
「……おたえ」
「何ですか?」
「この棚は、今すぐ必要なのですか?」
「棚?」
「書物を置く棚です」
おたえは首を傾げた。
「そりゃ、欲しかばってん……」
「書物がまだ少ないのでしたら、最初は箱に入れておいてもよいのではありませんか?」
「…………」
おたえの動きが止まった。
千代は続ける。
「それに、この部屋の仕切りも……最初から全部造らなくてもよいのでは?」
おたえが、ぱちぱちと瞬きをした。
そして――。
「……そいばい!」
ばんっ!
帳面を叩いた。
「そいでよかたい!」
「ひゃっ!」
千代が驚いて肩を跳ねさせる。
おたえは一気に書きつけを始めた。
「棚は後回し! 仕切りも必要な分だけ! 道具も、今あるもんで使えるなら買わん!」
千代は嬉しそうに笑った。
「それなら、少しは減らせますか?」
「減らせる! きっと減らせるばい!」
おたえは千代の両手を握った。
「千代様、すごか!」
「そ、そんな……」
「うち、思いつかんやった!」
おたえは、にっと笑った。
「千代様、商いの才があるかもしれんね!」
千代の顔がぱっと明るくなる。
「本当ですか!?」
「本当たい!」
そのとき、おたえは気づいた。
千代が、少し寂しそうに自分を見ている。
「……どうしたとですか?」
「その……」
千代は、ためらいながら口を開いた。
「ここでは、私もみなさんと同じように学んでいるのでしょう?」
「はい」
「でしたら……千代様ではなく、千代と呼んでいただけませんか?」
おたえは目を丸くした。
領主の娘を呼び捨てにするなど、簡単にできることではない。
千代も、それは分かっている。
「もちろん、ほかの方がいるときは、今までどおりで構いません。でも……」
千代は、少し頬を染めた。
「二人だけのときくらい、友達のように話してみたいのです」
おたえは、しばらく黙った。
そして、そっと笑った。
「……なら、今だけたい」
「はい!」
「千代」
「……!」
「一緒に、帳面ばつけようか」
千代は、満面の笑みで頷いた。
「うん!」
二人は顔を見合わせた。
そして、どちらからともなく笑い出した。
身分も、育った場所も違う。
それでも、同じ帳面を覗き込み、同じことで悩み、同じように笑っている。
その小さな机の上に、二人だけの友情が、確かに生まれていた。
◇
排水路の見通しが立った頃。
諫早直孝が、再び建設予定地を訪れた。
知らせを受けた村人たちは、慌てて作業の手を止めた。
白瀬も頭を下げる。
「殿。申し訳ありません。当初の予定より手間が増えました」
「ふむ」
直孝は、整備途中の水路を眺めた。
「雨水のことで、ひと騒ぎあったそうじゃな」
「はい。危うく畑へ水を流すところでした」
「被害は?」
「幸い、ありません。ただ……」
白瀬は、一度言葉を切った。
「学び舎を守るために、ほかの人を困らせるところでした」
直孝は、静かに頷いた。
「ならば、気づいてよかったではないか」
「……はい」
「普請とは、そのようなものであろう。最初から何もかも見通せる者などおらぬ」
そう言って、直孝は周囲を見渡した。
村人が土を運んでいる。
河童たちが水路の泥をさらっている。
子どもたちも、忙しそうに走り回っている。
「それにしても……」
直孝は目を細めた。
「ずいぶんと賑やかな普請になったものじゃ」
「……そうですね」
白瀬が笑う。
そのときだった。
「殿様!」
元気な声が響いた。
おたえだった。
千代と並んで、こちらへ駆けてくる。
「おたえ、どうした?」
白瀬が尋ねる。
「銭のことたい!」
おたえは帳面を広げた。
「水路ば造る分、銭のかかるけん、ほかのもんば見直したとです!」
直孝が興味深そうに覗き込んだ。
「ほう。どれ」
おたえは、必死に説明した。
今すぐ必要なもの。
後からでもよいもの。
村にすでにあるもので代用できるもの。
そして、何よりも削ってはいけないもの。
「柱や梁は、ちゃんとしたもんば使わんば危なかです。そいと、水路も途中でやめたら意味のなか!」
「うむ」
「ばってん、棚やら仕切りやらは、後からでも造れるとです!」
直孝は、深く頷いた。
「なるほど。よく考えたのう」
おたえは胸を張った。
「千代様のおかげでもあるとです!」
「千代の?」
直孝は娘を見た。
千代は、少し照れくさそうに笑った。
「父上。私も、ほんの少しだけ考えました」
「ほう……」
直孝の表情が柔らかくなる。
「城で書物を読んでおるだけでは、学べぬこともあるようじゃな」
「はい!」
千代は元気よく頷いた。
その隣で、おたえも嬉しそうに笑っていた。
直孝は、しばらく二人を見つめていた。
そして白瀬へ向き直った。
「白瀬」
「はい」
「おぬしは、この学び舎で何を育てるつもりじゃ?」
突然の問いだった。
白瀬は少し考えた。
文字を教える。
算術を教える。
農業や治水の知恵を伝える。
それは確かに大切だ。
だが、本当に望んでいることは、その先にある。
「……人です」
「人、か」
「はい」
白瀬は、子どもたちを見渡した。
「俺が知らないことを長吉が知っています。健太が考えつく道具を、俺は思いつかないこともあります」
直孝は黙って聞いている。
「源太は海を知っている。小春は人と人をつなげられる。おたえは、俺より商いの勘が鋭い」
白瀬は笑った。
「みんなが自分の得意なことを伸ばせば、俺一人では造れないものが、きっと造れます」
直孝は静かに頷いた。
「……なるほどのう」
そして、まだ柱も立っていない土地を眺めた。
「銭は使えば減る。じゃが、人を育てるために使う銭は、百年先に実を結ぶというわけか」
白瀬は、はっと顔を上げた。
直孝は、穏やかな声で続けた。
「田を耕せば米が実る。人を育てれば、国が育つのじゃ」
白瀬の胸に、その言葉が深く響いた。
国を豊かにする。
米を増やし、魚を獲り、商いを広げる。
それだけではない。
人が育ち、その人がまた次の人を育てる。
そうして初めて、豊かさは次の世代へ受け継がれていく。
直孝は、傍らに立っていた茂敬へ向き直った。
「茂敬」
「はい、父上」
「よく見ておけ。人を育てるとは、こういうことじゃ」
茂敬は深く頭を下げた。
「はい」
そして、作業する村人たちへ目を向ける。
泥だらけの長吉。
模型を抱えた健太。
川から戻ってきた源太。
笑顔で人々に声を掛ける小春。
帳面を抱えるおたえと千代。
茂敬は、静かに口を開いた。
「父上。私は、城の中で多くのことを学んでまいりました」
「うむ」
「ですが、田のことも、川のことも、商いのことも、知らぬことばかりでございます」
茂敬は長吉を見た。
「この者たちと学べば、私も、もっと諫早を知ることができると思います」
直孝は息子を見つめた。
そして、満足そうに頷いた。
「……よい心掛けじゃ」
その直後。
「若殿様ぁ!」
長吉の声がした。
「そっちの縄、持ってもらってよかですか!」
家臣たちがぎょっとする。
しかし茂敬は、にっと笑った。
「うむ。任せよ!」
そして自ら泥の上へ足を踏み出した。
「わ、若殿様!」
家臣の声が響く。
白瀬は思わず吹き出した。
直孝も、呆れたように笑っていた。
「……まったく。誰に似たのやら」
その言葉に、奥方がいれば、きっとこう答えただろう。
あなた様でございましょう、と。
◇
それから、さらに日が過ぎた。
秋の空は高く、村を吹き抜ける風が少しずつ冷たくなっていった。
学び舎の予定地では、水路の整備が進んでいた。
水の出口を確保し、畑へ流れ込まないよう経路を変える。
古い流れをさらい、土砂のたまりやすい場所には、手入れをするための窪みを設けた。
水路を通す土地については、村人たちと何度も話し合った。
反対の声があれば、白瀬は足を運んだ。
誰か一人が我慢する形にはしたくなかった。
そうして迎えた、ある雨の日。
子どもたちは、そろって水路を見守っていた。
「来たばい!」
源太が叫ぶ。
雨水が地面を伝い、整えた溝へ入っていく。
最初は細い流れだった。
やがて、いくつもの水が合わさり、勢いを増した。
「健太!」
「分かっとる!」
健太は拳を握り締めた。
水は曲がり角へ差しかかる。
以前、模型が壊れた場所だ。
みんなが息を呑んだ。
水は、ゆっくりと曲がった。
そして、途中の窪みを通り――。
その先へ、流れ出た。
「……行った?」
小春が呟く。
源太が下流を確かめる。
「行った!」
「本当か!?」
「ちゃんと川の方へ流れよる!」
次の瞬間。
「やったあああっ!」
歓声が上がった。
健太が飛び跳ねる。
長吉が両手を上げた。
小春はおたえに抱きつき、千代も思わず手を叩く。
「出来たばい!」
「やった! やったあ!」
ガタ吉が水路から顔を出した。
「ひゃっほう! こいで学校ば建てられるたい!」
白瀬も、ほっと息をついた。
「……よし」
隣で澪が微笑む。
「白瀬」
「ん?」
「水が、笑っておるぞ」
白瀬は、水路を見つめた。
雨の中を流れる水。
何の変哲もない、小さな流れだ。
だが、その水は、誰かの畑を傷めることなく川へ向かっている。
水を無理やり押さえつけたわけではない。
水の行き先を、みんなで考えたのだ。
「……ああ」
白瀬は笑った。
「いい流れになったな」
澪も、嬉しそうに頷いた。
「うむ」
もちろん、これで終わりではない。
もっと強い雨が降れば、また直すところが見つかるかもしれない。
年月が過ぎれば、泥もたまるだろう。
だから、手入れを続けなければならない。
そのことを、子どもたちはもう知っている。
健太が、白瀬を見上げた。
「白瀬しゃん!」
「どうした?」
「また詰まったら、おいが直すけん!」
白瀬は笑った。
「頼んだぞ、健太」
それが、何よりも嬉しかった。
◇
そして、待ちに待った日がやって来た。
水学所の、最初の柱を立てる日である。
朝から村中の人々が集まっていた。
大工たちは材木を運び、縄を張り、柱を立てる支度を進めている。
その周囲を、子どもたちが落ち着かない様子で歩き回っていた。
「まだね!?」
健太が尋ねる。
「まだじゃ!」
棟梁が答える。
「もうよか?」
「まだじゃと言うとろう!」
「いつになったらよかと!?」
「おぬしが黙ったらじゃ!」
周囲から笑いが起こった。
少し離れたところでは、源太が材木を運んできた舟の話をしている。
「川の水が高か時は、無理して舟ば出さん方がよかと。荷を傷めたら元も子もなかけん」
大人の漁師が感心して頷いた。
「源太も、すっかり一人前の口ば利くごとなったのう」
「口だけじゃなかばい!」
源太が笑う。
その横では、小春が忙しそうに走り回っていた。
「お茶はこちらたい! お昼の握り飯も用意しとるけん!」
大工たちへ声を掛け、村人へ礼を言い、足りない道具を探しに行く。
誰に言われるでもなく、人と人の間をつないでいた。
おたえは帳面を抱え、千代と並んでいる。
「今日使った縄は、こっちに書いて……」
「はい!」
「その板は、まだ余っとるけん、捨てたらいかんよ!」
「はい!」
二人は、すっかり息が合っていた。
長吉は、建物の脇に造る小さな畑の場所を確かめていた。
「ここなら日当たりもよか。土ば入れ替えれば、いろんな作物ば育てられるたい」
茂敬が隣で頷く。
「私も、植えるものを考えてみたい」
「そいなら、若殿様にも教えます!」
「頼むぞ」
二人は笑い合った。
白瀬は、その光景を眺めていた。
みんな、本当に変わった。
数年前まで、ただ目の前の暮らしに追われていた子どもたちだ。
だが今は違う。
自分の得意なことがあり、やりたいことがあり、そのために学ぼうとしている。
「……白瀬」
澪が隣に立った。
「ん?」
「嬉しそうじゃな」
「ああ」
白瀬は笑った。
「こんなに大勢で学校を造ることになるなんて、思ってもみなかった」
「ふふっ」
「何だよ?」
「いや。おぬしは、いつもそうじゃ」
「そう?」
「最初は小さなことを始める。水を流す道を造り、田を増やし、子らに文字を教える」
澪は、子どもたちを見つめた。
「気がつけば、皆が集まっておる」
白瀬は、少し照れくさくなった。
「……俺一人じゃ、何もできないからな」
「うむ」
澪は、当然のように頷いた。
「だから、妾たちがおるのじゃ」
白瀬は澪を見た。
澪は、まっすぐに笑っていた。
「……そうだな」
白瀬も、笑った。
◇
「皆の者!」
棟梁の声が響いた。
「いよいよ、最初の柱を立てるぞ!」
人々が集まる。
諫早直孝と奥方、茂敬、千代も並んだ。
棟梁が、太い柱を指さす。
「この柱が、学び舎の最初の一本となる。長く、この地に立ち続けるよう、皆で力を合わせるぞ!」
「おおっ!」
村人たちの声が上がった。
白瀬は、柱にそっと手を置いた。
木の香りがした。
まだ新しい、まっすぐな柱だった。
その表面には、大工がつけた墨の線が残っている。
白瀬は、ふと思いついた。
「なあ、みんな」
子どもたちが振り向く。
「せっかくだ。この学校で何をしたいか、聞かせてくれないか?」
「何ばしたかか?」
「ああ。何でもいい。これから先、やってみたいことだ」
最初に手を挙げたのは長吉だった。
「おいは!」
長吉は、大きく息を吸った。
「みんなが腹いっぱい米ば食べられる田んぼば造りたか!」
拍手が起こる。
長吉は照れくさそうに笑った。
次に健太が手を挙げる。
「おいは、誰でも使える便利な道具ば造る!」
「また水浸しにするなよ!」
源太がからかう。
「もうせん!」
「本当かぁ?」
「……多分!」
笑い声が弾けた。
源太は胸を張った。
「おいは、もっと魚ば獲れる海にしたか! ばってん、獲りすぎて魚のいなくなったら困るけん、そこも考える!」
「よか心掛けじゃ!」
ガタ吉が嬉しそうに頷いた。
小春は両手を広げる。
「うちは、遠か国の人とも話せるごとなりたか!」
「唐の言葉だけじゃ足りんのか?」
白瀬が尋ねる。
「足りん!」
小春は、きっぱり言い切った。
「もっともっと、いろんな人と話したか! そいで、諫早のよかところば、いっぱい教えてやると!」
白瀬は笑った。
「そりゃ大仕事だな」
「任せとかんね!」
おたえは、ふふんと鼻を鳴らした。
「うちは、諫早の品物ば日本中に売る!」
「おおっ!」
「そいで、村の人たちが困らんごと、もっともっと商いば広げると!」
千代が、嬉しそうに拍手した。
そして、少し遠慮がちに手を挙げた。
「……私も、よろしいですか?」
「もちろん!」
白瀬が頷く。
千代は、少し考えた。
「私は……歌を学びたいです」
意外な答えに、皆が振り向いた。
「歌?」
「はい」
千代は頷いた。
「知らない土地の歌を覚えて、いろいろな人と一緒に歌ってみたいのです」
小春が笑った。
「よかねえ!」
「歌なら、お祭りでも歌えるばい!」
源太も頷いた。
すると、おたえが、ぽんと手を打った。
「そいなら!」
千代の方へ身を乗り出す。
「長崎の明美姉ちゃんに会わせてやらんば!」
「明美……?」
「歌の上手か人たい! 長崎の明謝楼の娘さんで、前に諫早にも来とらしたとよ!」
千代の目が輝いた。
「その方は、そんなに歌がお上手なのですか?」
「もう、ものすごかと!」
おたえは胸を張った。
「うちも最初に聞いたとき、びっくりしたばい!」
「……会ってみたいです」
千代が、小さく呟いた。
おたえはにっこり笑った。
「いつか一緒に長崎へ行こうね!」
「はい!」
千代は、嬉しそうに頷いた。
その小さな約束が、やがて長崎の歌姫と諫早の姫君を結ぶことになるなど、このときは誰も知らなかった。
白瀬は、最後に澪へ目を向けた。
「澪は?」
「妾か?」
「ああ」
澪は、しばらく考えた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「妾は……この土地の者たちが、水を怖がるだけではなく、水と共に生きていけるようになればよい」
皆が静かに耳を傾ける。
「雨も、川も、海も、決して人の敵ではない。されど、侮れば命を奪う」
澪は、白瀬を見た。
「水の声を聞き、人が知恵を尽くせば、共に生きる道は見つかるはずじゃ」
白瀬は、深く頷いた。
「……そうだな」
澪が微笑む。
「白瀬の夢は、何じゃ?」
「俺?」
「うむ。皆には聞いておきながら、自分は何も申さぬつもりか?」
子どもたちが一斉に声を上げた。
「そうたい!」
「白瀬しゃんの夢も聞きたか!」
「先生の夢は何ね!?」
白瀬は困ったように頭をかいた。
「そうだなあ……」
みんなの顔を見渡す。
長吉。
健太。
源太。
小春。
おたえ。
千代。
ガタ吉。
澪。
そして、この土地で出会った、数え切れないほどの人々。
白瀬は、ゆっくりと口を開いた。
「俺は、みんなが自分たちの力で未来を造れるようになってほしい」
子どもたちが静かになった。
「俺が知らないことも、これからきっと出てくる。俺にはできないことを、みんなならできるかもしれない」
白瀬は、立ち上がったばかりの柱を見つめた。
「だから、ここで学んでほしい。失敗してもいい。何度でも考えて、何度でも挑戦してほしい」
そして、少しだけ笑った。
「……いつか俺がいなくなっても、この場所で、みんなが誰かに教えられるようになってくれたら嬉しいな」
そのとき。
澪の表情が、わずかに変わった。
――いなくなる?
白瀬の言葉が、胸に引っかかった。
だが、周囲の子どもたちは気づかない。
「おいら、ずっと勉強するばい!」
「うちも!」
「そいで、もっとすごか諫早にする!」
元気な声が響く。
白瀬は、嬉しそうに頷いた。
「……ああ。頼んだぞ」
棟梁が、再び声を張り上げた。
「よし! 柱を立てるぞ!」
縄が引かれた。
大工たちが息を合わせる。
大きな柱が、ゆっくりと起き上がる。
「せーのっ!」
「おおおおっ!」
木槌の音が響いた。
柱が、まっすぐに立った。
秋空へ向かって。
青く、高い空へ向かって。
最初の一本が、確かに立った。
「やったあああっ!」
子どもたちの歓声が響き渡った。
長吉が飛び跳ねる。
健太が拳を突き上げる。
源太が大笑いする。
小春は千代の手を取り、おたえも一緒になって喜んでいた。
ガタ吉は、なぜか両手に団子を持っている。
「めでたか! こいは祝いの団子たい!」
「お前、いつの間に!」
「こげんめでたか日に、団子のなかとは許されんばい!」
白瀬が呆れる。
澪が笑う。
直孝も、奥方も、茂敬も、楽しそうにその光景を眺めていた。
たった一本の柱。
まだ屋根もない。
壁もない。
教室もない。
けれど、その場所には、確かに何かが生まれていた。
田を育てる者。
道具を作る者。
海を守る者。
人と人をつなぐ者。
商いを広げる者。
歌を届けようとする者。
そして、次の時代を担う者たち。
それぞれの夢が、一本の柱の下に集まっていた。
◇
その日の夕方。
人々が帰り始めた頃、おたえと千代は、まだ帳面を開いていた。
「今日の日付は……ここたい」
「はい」
「そいで、最初の柱が立った、と」
千代は筆を持ち、慎重に文字を書いた。
まだ、あまり上手ではない。
何度か筆を止め、形を確かめながら書いていく。
ところが――。
「あっ!」
筆先から墨が落ちた。
ぽたり。
紙に、小さな黒い染みができた。
「……どうしよう」
千代が泣きそうな顔になる。
おたえは、ひょいと覗き込んだ。
「ああ、そいくらいならよかよか!」
「でも、汚してしまいました……」
「間違うたら、直せばよかと!」
おたえは笑った。
「白瀬しゃんも、いつもそう言いよるやろ?」
千代は、墨の染みを見つめた。
そして、そっと微笑んだ。
「……はい」
二人は、また筆を動かし始めた。
その帳面には、今日の出来事が書き残された。
誰が何を運んだのか。
どんな失敗をしたのか。
どうやって水路を直したのか。
最初の柱が立ったとき、どれほど嬉しかったのか。
つたない文字と、小さな墨の染み。
それは、まだ誰も知らない未来へ続く、最初の記録だった。
やがてこの学び舎では、子どもたちが自ら学びを記すようになる。
そして、その知恵を次の者へ伝えるための書物が作られていく。
だが、それはもう少し先の話。
今はただ、二人の少女が、笑い合いながら筆を動かしていた。
◇
夕暮れ。
建設予定地に、静けさが戻っていた。
立ち上がった一本の柱が、長い影を落としている。
白瀬は、屋敷になる場所に張られた縄を眺めていた。
その隣に、澪が立つ。
「白瀬」
「ん?」
「ここが、おぬしの部屋か?」
「ああ、そうらしい」
白瀬は縄の内側を指さした。
「この辺りが俺の居間で、向こうが寝間になる予定だって」
「ふむ……」
澪は、隣の縄へ目を移した。
「では、こちらは?」
「澪の部屋だな」
「…………」
しばし沈黙。
「……近すぎぬか?」
白瀬は、不思議そうに首を傾げた。
「廊下を挟んでるし、問題ないだろ?」
「そういうことではない!」
澪は、ぷいっと横を向いた。
白瀬はますます分からなくなる。
「何だよ。嫌なら、もう少し離してもらうか?」
「……嫌とは申しておらぬ」
「え?」
「何でもない!」
澪は、少しだけ頬を赤くした。
白瀬は頭をかいた。
どうにも、澪の考えていることは難しい。
水の流れなら、ある程度は読めるようになった。
だが、澪の心の流れとなると、さっぱりだった。
しばらくして。
澪が、静かに口を開いた。
「……白瀬」
「ん?」
「先ほど、妙なことを申したな」
「妙なこと?」
「いつか、おぬしがいなくなっても……と」
白瀬の動きが止まった。
夕風が、二人の間を吹き抜ける。
「……ああ」
白瀬は、ゆっくりと柱を見上げた。
いつか、現代へ帰る日が来るかもしれない。
いや、帰らなければならないのかもしれない。
ここで出会った人々。
ともに苦労し、笑い合ってきた仲間たち。
そのすべてを、この時代に残して。
そんな考えが、ふと頭をよぎることがある。
だが、今はまだ答えが出ない。
「……もしもの話だよ」
白瀬は笑おうとした。
「俺だって、いつまでも元気でいられるとは限らないしさ」
澪は、何も言わなかった。
ただ、白瀬を見つめていた。
「……白瀬」
「ん?」
「妾は、水の流れを見ることができる」
「ああ」
「されど、人の心までは見えぬ」
白瀬は、澪へ顔を向けた。
澪は、まっすぐに見返していた。
「おぬしが何を考えておるのか、妾には分からぬこともある」
「……澪」
「じゃが」
澪は、ほんの少しだけ微笑んだ。
「今は、ここにおるのであろう?」
白瀬は、しばらく黙った。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……ああ。ここにいるよ」
「ならば、それでよい」
澪は、ふっと肩の力を抜いた。
「まだ屋敷も出来ておらぬ。学び舎も、柱が一本立っただけじゃ」
「そうだな」
「おぬしには、やるべきことが山ほどある」
「……ああ」
すると澪は、手にしていた包みを差し出した。
「ほれ」
「ん?」
「食べるのじゃ」
包みを開くと、握り飯が二つ入っていた。
白瀬は目を丸くした。
「……これ、俺に?」
「ほかに誰がおる」
「いや、でも……」
「昼餉もろくに食べておらなんだろう」
図星だった。
工事のことで頭がいっぱいになり、昼はほとんど食べていなかった。
「……よく分かったな」
「当たり前じゃ」
澪は、少しだけ胸を張った。
「妾を誰だと思うておる」
白瀬は笑った。
「水守様、かな?」
「ふふっ。よく分かっておるではないか」
白瀬は握り飯を受け取った。
「ありがとう、澪」
澪は、わずかに目を細めた。
「……礼などいらぬ。さっさと食べるのじゃ」
白瀬は、一口かじった。
米の甘みが、口いっぱいに広がった。
「……うまい」
「そうか」
「ああ。うまいよ」
澪は、嬉しそうに微笑んだ。
二人は、並んで柱を見上げた。
まだ、屋根も壁もない。
けれど、いつかここに家が建つ。
朝になれば子どもたちが集まり、文字を読み、道具を作り、笑い声が響くだろう。
その奥で、白瀬と澪が暮らしている。
そんな未来が、少しだけ見えた気がした。
そのときだった。
「おおーい!」
遠くから、聞き慣れた声が響いた。
「白瀬ぇ! 澪ぉ!」
ガタ吉だった。
何やら両手を振りながら走ってくる。
「二人で何ば食いよっとね!」
「握り飯だよ」
「おいの分は!?」
「ない!」
「なんでねぇぇぇ!」
ガタ吉の悲鳴が、夕暮れの野原に響き渡った。
白瀬は腹を抱えて笑った。
澪も、声を上げて笑った。
そしてガタ吉は、二人の間へ割り込むと、ふてくされた顔で座り込んだ。
「……団子なら持っとるけど」
「持ってるのかよ!」
「こいはこい、そいはそいたい!」
また、笑い声が弾けた。
一本の柱。
三人の仲間。
そして、そこに集まる大勢の人々。
四百年の時を越えて、この土地へやって来た白瀬は思う。
未来とは、誰か一人が造るものではない。
誰かが考え、誰かが支え、誰かが失敗し、また誰かが立ち上がる。
そうして、少しずつ形になっていくものなのだ。
見上げれば、秋の空。
そこには、一番星が輝き始めていた。
まだ小さな光だった。
けれど、確かにそこにある。
白瀬は、そっと呟いた。
「……さあ、次は屋根だな」
澪が笑う。
「うむ。雨に濡れぬ学び舎を造らねばのう」
ガタ吉が勢いよく立ち上がった。
「そいなら、団子ば食べて元気つけんば!」
「結局、団子かよ!」
三人の笑い声が、秋の風に乗って広がっていく。
この日、諫早に立ったのは、たった一本の柱だった。
けれど、その柱の下には、数え切れないほどの夢が集まっていた。
田を耕す者も。
海へ出る者も。
道具を作る者も。
商いをする者も。
歌を届ける者も。
そして、これから生まれてくる子どもたちも。
いつの日か、ここで学び、ここから旅立っていく。
人が育てば、国が育つ。
その言葉が、本当の意味を持つ日が来ることを、今はまだ誰も知らない。
そして――。
この一本の柱が、三年後、どれほど賑やかな場所の一部になっているのか。
白瀬も、澪も、まだ知らなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
今回の主役は、一本の柱と、そこに集まったみんなの夢でした。
失敗から学ぶ健太、土地を知る長吉、商いを通じて友情を深めるおたえと千代。
白瀬が教えてきた子どもたちが、今度は自分の知恵で未来を造り始めています。
「田を耕せば米が実る。人を育てれば、国が育つのじゃ」
直孝のこの言葉は、これからの諫早を象徴するものになると思います。
さて、ようやく立った一本目の柱。
三年後、この場所はどんな学び舎になっているのでしょうか?
そして、同じ屋敷で暮らすことになる白瀬と澪の関係は……?
次回、成長した仲間たちとの再会をお楽しみに!
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