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『海から百万石 ~江戸時代に転移した国交省の土木職員、水守と河童と有明海の大干拓に挑む~』  作者: 天手古まい


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第五十三普請 殿様、教室へ来る

殿様が、まさかの授業参観!?

長吉の家の納屋に、領主・諫早直孝がやって来ます。

さらに若殿の妹・千代も初登場!

身分も育ちも違う子どもたちが、同じ場所で学び、笑い、夢を語る。

そして、白瀬たちの新たな国づくりが動き始めます。

 寛永三年(一六二六年)、秋。


 諫早の田んぼが黄金色に染まり、刈り取られた稲の香りが村を包んでいた。


 五年前には泥と水ばかりだった土地にも、今では人の背丈ほどの稲束が積まれている。


 川には魚が戻り、舟が行き交い、村のあちこちから子どもたちの笑い声が聞こえるようになった。


 そして今、その笑い声が最も大きく響く場所がある。


 長吉の家の納屋だ。


「せんせーっ! おいの場所がなか!」


「こら健太! そがん道具ば広げたら、みんな座れんたい!」


「待て待て! その木の棒は折るな! 昨日やっと削ったんだぞ!」


 朝から大騒ぎである。


 三十二歳になった白瀬湊一は、額に手を当てた。


「……学校って、こんなに騒がしかったっけ?」


「おぬしのいた時代の学び舎も、そうであったのか?」


 隣で澪が首を傾げる。


「いや、もうちょっと静かだったような……」


「ならば、おぬしの教え方が悪いのじゃな」


「そこは否定してくれよ」


「事実じゃ」


 澪は涼しい顔で言い切った。


 その足元では、ガタ吉が団子を頬張っている。


「もぐもぐ……おいは、よか学校と思うばい」


「お前、最近ずっと団子食ってないか?」


「勉強には腹ごしらえが大事たい!」


「勉強してから言え!」


 納屋に笑い声が広がった。


     ◇


 数日前、小春が水路へ落ちた。


 増えた生徒たちのために場所を広げようとしていた矢先の出来事だった。


 幸い、小春は若殿の諫早茂敬に助けられ、大事には至らなかった。


 その茂敬は、帰り際に父である領主・諫早直孝へ、この学び場の様子を伝えると約束していた。


 ただ、白瀬はその言葉を、若殿なりの気遣いだと思っていた。


 まさか、本当に殿様がやって来るとは。


「白瀬殿!」


 納屋の入口から、家老の声が飛び込んできた。


「殿がお越しになる!」


「……はい?」


「ただいま、こちらへ向かっておられる!」


「誰が?」


「殿じゃ!」


「……どこの?」


「諫早の殿に決まっておろう!」


 白瀬は数秒、固まった。


 そして――。


「みんなぁぁ! 片付けろぉぉ!」


 納屋がひっくり返った。


「健太! その妙な道具をしまえ!」


「妙な道具じゃなか! 新しか水門の仕組みたい!」


「長吉! 土のついた鍬を外に!」


「今から畑に持っていくとこやったとに!」


「源太! その魚は何だ!」


「今日の授業で使うとたい!」


「生魚を教室に持ち込むなぁ!」


 大混乱である。


 そんな中、澪だけが落ち着いていた。


「白瀬」


「何だ!」


「少しは落ち着かぬか」


「無理だろ! 突然、社長どころか国のトップが視察に来るようなもんだぞ!」


「しゃちょう?」


「こっちの話!」


 澪は小さくため息をついた。


「おぬしは、いつも通りにしておればよい」


「だから、そのいつも通りが問題なんだって!」


「ふふ。ならば、普段からもう少し立派に振る舞うことじゃな」


「今それ言う!?」


 ガタ吉が笑い転げた。


     ◇


 やがて、納屋の前に人影が現れた。


 領主・諫早直孝。


 その後ろには若殿の茂敬。


 そして、数名の家臣と侍女が続く。


 だが、白瀬の目は、その中にいる一人の少女に留まった。


 年の頃は十二歳ほど。


 淡い紅色の小袖に、丁寧に結われた髪。


 小さな顔には、いかにも育ちの良さそうな気品が漂っている。


 しかし。


 その瞳だけは、まるで祭りの日の子どものように輝いていた。


「兄上! あれが学校ですか!」


「千代、静かにせぬか」


「だって兄上、もっと立派な建物だと思っておりました!」


「だから、まだ正式な学舎ではないと話したであろう」


「まあ! 本当に納屋なのですね!」


 少女は目を丸くした。


 茂敬が困ったように笑う。


「白瀬殿。妹の千代です」


「は、初めまして!」


 白瀬は慌てて頭を下げた。


 諫早千代。


 直孝の娘であり、十八歳になった若殿・茂敬の妹である。


「あなたが白瀬先生?」


「ええ、まあ……一応」


「兄上から聞きました!」


 千代は一歩近づいた。


「百姓の子にも、漁師の子にも、算術や文字を教えているのでしょう?」


「はい」


「それに、川の流れまで教えるとか!」


「それも、まあ」


「では、わたくしも学べますか?」


「……へ?」


 白瀬が顔を上げる。


 後ろで家臣の一人が咳払いした。


「千代様。そのようなことは――」


「なぜです?」


「姫君が百姓の子らに交じって学ぶなど……」


「でも、兄上は学ばれたのでしょう?」


「それは……」


「わたくしも知りたいのです」


 千代は真剣だった。


 直孝が口を開く。


「白瀬」


「はい!」


「いつも通りの授業を見せてもらおう」


「……よろしいのですか?」


「飾り立てたものなど、見ても仕方あるまい」


 その言葉に、白瀬は背筋を伸ばした。


「承知しました」


 そして振り返る。


「みんな! 今日は特別な授業だ!」


「えええっ!」


「殿様も一緒に勉強してもらう!」


「何じゃと!?」


 今度は家臣たちが声を上げた。


 直孝が、にやりと笑った。


「面白い。わしにも分からぬことがあるやもしれぬな」


     ◇


「では、今日の問題です」


 白瀬は木の板を持ち上げた。


 そこには、まだ不揃いながらも、はっきりと文字が書かれていた。


 白瀬自身が、家老から教わりながら覚えた文字である。


 五年前は、古い書状ひとつ満足に読めなかった。


 今でも難しい文書には苦戦する。


 それでも、少しずつ。


 この時代の文字を、自分の手で書けるようになっていた。


「川の水が増えたとき、田んぼを守るにはどうすればいい?」


「水門ば閉める!」


 健太が勢いよく手を上げた。


「よし。じゃあ、閉めたらどうなる?」


「水が入ってこん!」


「全部の水門を閉めたら?」


「……あれ?」


 長吉が腕を組んだ。


「田んぼに降った雨も、出ていかれんごとなるばい」


「その通り!」


 白瀬は嬉しくなって、思わず手を叩いた。


「じゃあ、どうする?」


「逃がす道ば作る!」


 源太が言った。


「どこへ?」


「川たい!」


「でも、川の水がいっぱいだったら?」


「……うーん」


 子どもたちが考え込む。


 そこへ澪が進み出た。


「ならば、実際に見てみるがよい」


 彼女は土を盛った木箱を持ってきた。


 箱の中には、小さな田んぼと川が作られている。


 健太と長吉が、数日前からこつこつ作っていた模型だった。


「おおっ!」


 直孝が身を乗り出した。


「これは面白いものじゃな」


「こちらが田んぼ、こちらが川です」


 健太が得意げに説明する。


「ここんところに、小さか水門ばつけとるとです!」


 細い竹を組み合わせた、手のひらほどの水門。


 健太が竹の板を動かすと、水の通り道が開いたり閉じたりする。


「ほう……」


 家老まで感心したように覗き込んだ。


 澪が柄杓を手に取る。


「では、雨を降らせるぞ」


 少しずつ水を注ぐ。


 土の上を細い流れが走った。


 田んぼに水がたまり、川へ落ちてゆく。


「これくらいなら大丈夫だね」


 白瀬が言う。


「では、大雨じゃ」


 澪が水の量を増やした。


 模型の川が急に膨れ上がる。


「わあっ!」


 子どもたちが声を上げた。


 健太が慌てて水門を閉める。


 すると今度は、田んぼ側に水がたまり始めた。


「閉めても駄目やん!」


「そいなら開けんば!」


「川の水が戻ってくるばい!」


 口々に意見が飛ぶ。


 直孝は、そのやり取りを黙って見ていた。


 やがて、一人の少年がぽつりと言った。


「……水ば、ためとく場所があればよかとに」


 長吉だった。


 白瀬が振り向く。


「どういうこと?」


「田んぼに全部入れんで、少しだけ別の場所に逃がせば……」


「おお!」


 白瀬は思わず笑顔になった。


「それだ!」


 健太がすぐに動いた。


「なら、ここんところば掘ればよか!」


「待て待て、そこを掘ったら堤が崩れる!」


「じゃあ、こっち!」


「そこならいい!」


 源太が小石で流れを導く。


 おたえが木札を持ってきた。


「こっちに水ばためるなら、どれくらいの広さが要るか数えんばね!」


 小春が笑った。


「じゃあ、うちは人ば集めてくる役たい!」


「模型の中に人を集めてどうするんだよ!」


 白瀬の突っ込みに、納屋が笑いに包まれた。


 だが。


「……なるほど」


 直孝だけは、真剣な顔をしていた。


「水を防ぐだけではない。逃がす場所を用意するのか」


「はい」


 白瀬は答えた。


「ただし、ためる場所にも限りがあります。大雨だけでなく、潮が満ちたときの川の高さも考えないといけません」


「なるほどな」


「だから、ひとつの仕組みに頼り切らず、いくつもの逃げ道を考えるんです」


 直孝は再び模型を見下ろした。


「この小さな箱の中に、我が領の普請があるとはな」


 白瀬は首を振った。


「いえ、殿」


「うむ?」


「これは、子どもたちが考えたものです」


 静かな声だった。


「私は、答えを教えたわけじゃありません。考えるための材料を渡しただけです」


 直孝が子どもたちへ目を向ける。


 泥だらけの手。


 不揃いな木の板。


 真剣な眼差し。


 そこには、武士の子も、百姓の子も、漁師の子もなかった。


 ただ、ひとつの問題を解こうとする者たちがいた。


     ◇


「面白い!」


 突然、千代が声を上げた。


「わたくしにも、やらせてください!」


 侍女が慌てる。


「千代様! お召し物が汚れます!」


「洗えばよいでしょう?」


「そういう問題ではございません!」


 千代は構わず模型へ近づいた。


「これは、どうやって動かすの?」


 健太が目を丸くした。


「こいば引くとたい」


「こう?」


「違う違う! そがん強う引いたら折れる!」


「まあ!」


 ぱきっ。


 竹の小さな留め具が外れた。


 納屋が静まり返った。


「……あ」


 千代が固まる。


 健太は壊れた部品を見つめた。


 そして。


「ああああっ! おいが昨日、夜までかかって作ったとにぃ!」


「ご、ごめんなさい!」


「千代様!」


 侍女が青ざめた。


 家臣たちも顔を強張らせる。


 しかし千代は、まっすぐ健太を見ていた。


「本当に、ごめんなさい。直せますか?」


「……直せるばってん」


「なら、わたくしも手伝います」


「え?」


「壊したのはわたくしですもの」


 健太はぽかんと口を開けた。


 直孝が目を細める。


 白瀬は少しだけ、胸が温かくなった。


「じゃあ、健太。直し方を教えてあげて」


「……よかと?」


「もちろん」


 健太は千代へ竹の部品を渡した。


「ここば押さえとってくれんね」


「こう?」


「そうたい。今度は優しゅう!」


「はい!」


 姫君と、村の発明好きの少年。


 二人が小さな竹の水門を覗き込む。


 その光景を、茂敬は微笑んで見ていた。


     ◇


「ねえ、あなた!」


 修理が終わったところで、千代が小春に声をかけた。


「はい?」


「あなたが小春さん?」


「そうたい。……あっ、そうでございます!」


 慌てて言い直す小春に、千代はくすりと笑った。


「普通に話してくださいな」


「え、よかとですか?」


「はい。それに、兄上から聞きました」


 千代は少し声を落とした。


「水路へ落ちたのでしょう?」


「ああ……」


 小春は苦笑した。


「うち、ちょっと調子に乗ってしもうて」


「怖くなかったの?」


「怖かったばい」


 意外な答えに、千代は目を瞬かせた。


「……怖かったの?」


「当たり前たい。水に引っ張られて、足がつかんごとなって……」


 小春はそこで言葉を切った。


 ほんの一瞬、あのときの冷たさが蘇った。


「でも、兄上が助けたのでしょう?」


「うん」


 小春が茂敬を見る。


 若殿は少し気まずそうに視線を逸らした。


「……助けてもろうたと」


「まあ!」


 千代は嬉しそうに手を叩いた。


「では、兄上は本当にお役に立ったのですね!」


「千代!」


 茂敬が慌てる。


「兄上ったら、お城ではいつも偉そうにしているのですもの」


「偉そうとは何だ!」


「ふふふ!」


 小春も笑い出した。


 その笑顔を見て、千代はふと尋ねた。


「小春さんは、ここで何を学んでいるの?」


「いろいろたい。文字も、数も、川のことも。でも、うちが一番知りたかとは……」


「何?」


「遠か国の人たちのこと」


 千代の瞳が大きくなった。


「遠い国?」


「うん。長崎には唐の人もおるし、海の向こうから来る人もおる。うち、もっと話せるごとなりたかと」


「言葉が違うのでしょう?」


「違うたい。だけん、覚えたかとよ」


「どうして?」


「だって、言葉が分からんままじゃ、もったいなかやろ?」


 小春はにっこり笑った。


「どがん面白か人かも、何ば考えとるかも、聞いてみらんと分からんけん!」


 千代はしばらく黙っていた。


 城の中には、たくさんの人がいる。


 家臣も、侍女も、先生も。


 けれど、これほど嬉しそうに、まだ出会っていない人のことを話す者はいなかった。


「……素敵」


「ん?」


「小春さん、素敵です!」


「ええっ!?」


「わたくしも、遠い国の人とお話ししてみたい!」


「なら、一緒に覚えようたい!」


「本当に!?」


「うちもまだ、ちょびっとしか分からんばってんね!」


 二人が笑い合う。


 その様子を見ていた茂敬は、安堵したように息を吐いた。


 少し離れた場所で、直孝が呟く。


「……城の外には、千代の知らぬ世界があるのだな」


     ◇


「ちょっと待たんね!」


 そこへ、もう一人の少女が割って入った。


 おたえである。


 十七歳になった彼女は、今では諫早と長崎を行き来する商いの中心人物だ。


 小さな頃の勢いはそのままに、帳面と銭を扱う手だけが、すっかり商人らしくなっていた。


「千代様、せっかく来たとやけん、うちの授業も受けていかんね!」


「あなたは?」


「おたえたい!」


「ああ! 兄上から聞きました。長崎で商いをしている娘さんですね!」


「そうたい!」


 おたえは胸を張った。


「そいじゃ、問題!」


 木札を三枚並べる。


「十文で仕入れた干魚ば、十二文で売ったとするたい」


「はい」


「舟賃に二文かかったら、儲けはいくら?」


「……二文の儲けから二文を払うのですから、零文です」


「正解!」


 おたえがにやりと笑う。


「じゃあ、縄代に一文かかったら?」


「……一文の損です!」


「大正解!」


 千代が楽しそうに笑った。


「面白い!」


「商いは面白かばい。ばってん、数ば間違えたら大変たい」


「わたくし、城の帳面なら見たことがあります」


「ほう?」


「でも、売れた銭がそのまま儲けになるわけではないのですね」


 おたえの表情が変わった。


「……千代様、飲み込みの早かね」


「そうでしょうか?」


「そうたい! うちが最初に商いば始めたときは――」


 おたえは、ふと口をつぐんだ。


 初めての商い。


 売れ残った魚。


 強気に売り始めたはずが、思うようにいかず、悔しくて仕方なかった日。


 そのとき、村のみんなが陰で応援してくれていたことを、今では知っている。


「……うちも、よう失敗したとよ」


「おたえさんも?」


「失敗ばっかりたい!」


 おたえは笑った。


「だけん、帳面ばつけると。何で失敗したか、忘れんために」


 千代は木札を見つめた。


「……失敗も、学びになるのですね」


「そがんことたい」


 おたえは満足そうに頷いた。


 そして、少しだけ声を落とす。


「千代様」


「はい?」


「うち、正直に言うと、お城の姫様はもっと……こう、近寄りがたか人かと思っとった」


「まあ」


 千代は目を丸くした。


「わたくしも、商いをする娘さんはもっと怖い方かと思っていました」


「怖か!?」


「だって、兄上が『長崎の大人たちとも堂々と渡り合う娘だ』と」


「若殿様ぁ!」


 おたえが振り向く。


 茂敬は顔を背けた。


「……褒めたつもりだったのだが」


「そいは褒め言葉たい!」


 おたえが胸を張り直す。


 千代が吹き出した。


「ふふっ!」


「何ね?」


「おたえさん、面白い方!」


「千代様も、なかなかたい!」


 二人は顔を見合わせた。


 身分も、育った場所も違う。


 五つの歳の差もある。


 けれど、同じ木札を囲んでいる間だけは、そんな違いを忘れてしまいそうだった。


 千代は少しためらってから尋ねた。


「……また、教えてくださる?」


 おたえは、ぱっと笑った。


「もちろんたい!」


     ◇


 授業が終わる頃には、納屋の中はすっかり賑やかになっていた。


 ところが。


 ぽつ。


 ぽつぽつ。


「あ……」


 誰かが天井を見上げた。


 雨である。


 次の瞬間。


 ぽたり。


 木札の上に水滴が落ちた。


「うわっ!」


 子どもたちが慌てて道具を動かす。


 長吉が桶を持ってきた。


 健太は水門の模型を抱え込む。


 源太は魚を入れた籠を雨の当たらない場所へ運んだ。


「またか……」


 白瀬は天井を見上げた。


 春には、教えた文字が雨に流された。


 夏になって生徒が増え、納屋はますます手狭になった。


 秋になっても、この問題だけは解決していない。


 屋根を直しても、別の場所から雨が漏る。


 風が吹けば木札が飛ぶ。


 農繁期には、家族の手伝いがある子は授業に来られない。


 そして何より。


 ここは、長吉の家の納屋なのだ。


 いつまでも借り続けてよい場所ではない。


「……申し訳ありません、殿」


 白瀬が頭を下げた。


「見苦しいところをお見せしました」


 直孝は答えなかった。


 ただ、静かに雨漏りする天井を見つめていた。


 やがて、千代が口を開く。


「父上」


「何じゃ?」


「なぜ、学校には屋根がないのですか?」


「屋根はあるぞ」


「でも、雨が入ってきます」


「……そうじゃな」


「城の蔵は雨が入りません」


「うむ」


「父上のお部屋にも入りません」


「そうじゃ」


 千代は真剣な顔で言った。


「なのに、みんなが学ぶ場所には、雨が入るのですね」


 納屋が静かになった。


 千代は続けた。


「わたくし、今日、とても楽しかったのです」


 その声は、少し震えていた。


「小春さんから遠い国のお話を聞きました。おたえさんから商いを教わりました。健太さんには、水門の直し方も」


 千代は両手を見つめた。


 白く細い指に、ほんの少し土がついていた。


「城の先生方からも、たくさんのことを教わります。でも、今日知ったことは、どれも初めてでした」


 そして父を見上げる。


「明日も、ここへ来たいです」


 直孝は黙っていた。


「でも、雨が降ったら、みんなは学べないのでしょう?」


 その問いに、誰も答えられなかった。


     ◇


「白瀬」


 直孝が口を開いた。


「お前は、この学び場をどうしたい?」


 白瀬は顔を上げた。


「……もっと広くしたいです」


「広く?」


「はい。子どもだけでなく、大人も来られる場所に」


 白瀬は、納屋に集まった顔を見渡した。


「字を覚えれば、手紙が読めます」


「うむ」


「算術を覚えれば、商売や年貢の計算ができます」


「そうじゃな」


「水の流れを知れば、田んぼを守れる。土のことを知れば、もっと作物を育てられる」


 長吉が頷いた。


 健太が模型を抱き締める。


 源太は、いつになく真剣な顔をしていた。


「それから……」


 白瀬は一度、言葉を止めた。


「知らないことを、怖がらない場所にしたいんです」


「怖がらない?」


「はい」


 白瀬は千代を見た。


「姫様でも、百姓の子でも、知らないことはあります」


 続いて、おたえを見る。


「商いに詳しい人もいれば、川に詳しい人もいる」


 澪を見る。


「水の声を聞ける人もいます」


「……白瀬」


 澪が小さく笑った。


「水の声は、誰にでも聞こえるものではないぞ」


「だから、澪に教えてもらうんだろ?」


「ふふ。そうじゃな」


 白瀬は直孝に向き直った。


「知っている人が、知らない人に教える。そして、教えた人も、また誰かから学ぶ」


 ゆっくりと言葉を重ねた。


「そういう場所を作りたいんです」


 直孝は、しばらく考え込んだ。


 そして尋ねた。


「身分の違う者が、同じところで学ぶということか」


「はい」


「それを快く思わぬ者もおろう」


「……分かっています」


 白瀬は答えた。


「でも、殿」


「何じゃ」


「洪水は、身分を選びません」


 納屋の空気が変わった。


「田んぼが水につかれば、百姓が困る。舟が沈めば、漁師が困る。商いが止まれば、城の暮らしにも響きます」


 直孝は黙って聞いていた。


「だったら、みんなで知恵を持ち寄ったほうが、ずっと強いはずです」


 白瀬は小さく笑った。


「五年前、私はこの土地のことを何も知りませんでした」


 泥の干潟。


 荒れた川。


 水害に怯える村。


 最初に出会った澪。


 団子に釣られたガタ吉。


 ともに汗を流した村人たち。


 そして。


 二度と帰ってこない、二人の仲間。


「……それでも、ここまで来られました」


 白瀬は続けた。


「一人じゃなかったからです」


 直孝が目を細める。


「なるほどな」


 そして、静かに頷いた。


「学ぶということも、普請なのだな」


「……はい」


「川を直し、田を拓き、道を通す。その先に、人を育てる普請がある」


 白瀬は深く頭を下げた。


「その通りです」


     ◇


「では、聞こう」


 直孝が座り直した。


「新しい学び舎を建てるとして、どうする?」


「え?」


「場所は? 材木は? 銭は?」


 突然の問いだった。


 白瀬は口を開きかけたが、すぐには答えられなかった。


 直孝は続けた。


「子らに教える者の暮らしはどうする。紙や筆は誰が用意する。田畑の仕事を休んで学ぶ者の家は、誰が支える?」


「……」


「建物だけ立派でも、人が集まらねば意味があるまい」


 白瀬は唇を結んだ。


 その通りだった。


 学校を建てれば終わりではない。


 通えること。


 学び続けられること。


 教える側も暮らしていけること。


 それがなければ、いずれ建物だけが残る。


「……殿」


 白瀬が口を開こうとした、そのとき。


「ちょっと待ってください!」


 おたえだった。


「おたえ?」


「白瀬しゃん。ここは、うちにも考えさせて!」


 彼女は帳面を開いた。


「殿様。うち、まだ全部は分からんばってん……」


「申してみよ」


「四面蔵の『人の蔵』。あれを使う道があると思うとです」


 四面蔵。


 田・川・海・人。


 領内の富を、ただ積み上げるのではなく、それぞれの暮らしと未来へ循環させる仕組み。


 商売で得た銭も、村の力として蓄えるようになっていた。


「ばってん、全部ば使うとは違うと思うとです」


 おたえは、真剣だった。


「田も川も海も、手入れせんばならんけん。学校だけに銭ば使うわけにはいかん」


 直孝が頷く。


「その通りじゃ」


「だけん、何にいくら使うか、ちゃんと決めんば!」


 おたえは木札を並べた。


「材木、屋根、机、紙、筆……」


「教える人の食い扶持も」


 白瀬が付け加える。


「そいも!」


「それと、通えない子のことも考えないとね」


 小春が言った。


「家の仕事で来られん子もおるけん。時間ば分けて教えるとか!」


「なら、朝と夕方に分ければよか!」


 長吉が提案する。


「田植えの時期は、昼に来られん子もおるけん!」


「漁師の子も、潮の具合で変わるばい!」


 源太も続く。


 話が次々と広がっていった。


 その様子を見ながら、直孝は家老に目を向けた。


「……どう思う?」


 家老は少し考えた。


「まだ、粗い案にございます」


「そうじゃな」


「されど……」


 家老は子どもたちを見た。


「自ら、学ぶための道を考えております」


 直孝は頷いた。


「そこが大事じゃ」


     ◇


「白瀬」


「はい」


「学び舎を建てよう」


 その一言に、白瀬は息を止めた。


「……え?」


「聞こえなんだか?」


「い、いえ!」


「納屋では狭かろう。雨漏りもする。新しく建てるがよい」


「ほ、本当に……?」


「ただし」


 直孝が指を立てた。


「領民に無理な負担をかけてはならぬ」


「はい!」


「土地は城で用意しよう。材木も、使えるものを確かめさせる。必要な銭は、勘定方と相談せよ」


「……ありがとうございます!」


「礼にはまだ早い」


 直孝は口元を緩めた。


「建てると決めることと、建て上げることは違う。お前たちが、これから考えねばならぬのだぞ」


「はい!」


 白瀬は力強く頷いた。


 そのときだった。


「父上!」


 千代が手を上げた。


「わたくしも、そこで学んでよいですか?」


 家臣たちが息を呑む。


 直孝は娘を見つめた。


「千代」


「はい」


「城で学ぶべきことも、山ほどあるぞ」


「存じております」


「ここへ来れば、泥にも触れる。思い通りにならぬこともあろう」


「はい!」


「それでも学びたいか」


 千代は迷わず答えた。


「はい!」


 そして、にっこり笑う。


「今日、皆さんに教わって、まだ知らないことがたくさんあると分かりました!」


 直孝は思わず笑った。


「はっはっは!」


 大きな笑い声だった。


「よかろう。ただし、城での務めも怠るでないぞ」


「はい、父上!」


「それに、まずは学び舎が出来ねばな」


「では、早く建ててくださいませ!」


「こら、千代!」


 茂敬がたしなめる。


 だが、その声にも笑いが混じっていた。


     ◇


「ところで、白瀬」


 直孝が、ふと何かを思い出したように言った。


「お前は今も、仕事場と住まいを行き来しておるな?」


「はい」


「夜中に川を見に行くことも多いと聞く」


「……まあ、仕事柄」


「ならば、新しい学び舎には、お前の住まいも併せて設けよう」


「……はい?」


「学び舎兼、白瀬の屋敷じゃ」


「…………え?」


 白瀬は二度、聞き返した。


「記録や道具を置く場所も要る。夜間に水の異変があれば、すぐに動けるほうがよかろう」


「そ、それは確かに……」


「澪も、お前とともに水を見ておるのであろう?」


「はい」


「ならば、水守のための部屋も用意せねばな」


「えっ」


 今度は澪が声を上げた。


 直孝は平然と続ける。


「互いの仕事場が近いほうが便利じゃろう」


「……殿」


 澪の頬が、ほんの少し赤くなった。


「わらわは、まだ住むなどと申しておらぬぞ」


「ほう?」


「部屋を用意されるのはありがたいが……その……」


 珍しく、澪が言葉に詰まる。


 その様子を見て、白瀬まで妙に意識してしまった。


「いや、別に、俺はいいんだけど……」


「白瀬!」


「はい!」


「言い方というものがあろう!」


「だから、仕事場としてならって意味だよ!」


 ガタ吉がにやにやしている。


「ほほーう」


「何だよ!」


「白瀬と澪の新しか屋敷たい」


「違う!」


「まだ何も言うとらんばい」


「顔が言ってる!」


 納屋が再び笑いに包まれた。


 直孝は、そんな二人を見ながら、楽しそうに目を細めた。


「……この話を奥にも聞かせねばな」


「殿!?」


 白瀬は、なぜか嫌な予感がした。


 領主の奥方が、この話を聞いて黙っているはずがない。


 それだけは、五年の付き合いで分かっていた。


     ◇


 夕方。


 雨が上がった。


 西の空に薄い茜色が広がり、濡れた稲穂が柔らかな光を返している。


 領主一行が帰ったあとも、子どもたちは興奮していた。


「学校が出来るとばい!」


「屋根のある学校たい!」


「広か机も置けるとかな!」


「道具ば置く部屋も欲しか!」


「魚ば持ってきてもよかところも!」


「源太、それは別の場所にしような」


 白瀬が苦笑する。


 長吉は畑のことを話し、健太は新しい道具置き場の計画を始めた。


 小春は、遠い国の言葉を学ぶための場所が欲しいと言った。


 おたえは、もう建物にかかる銭の計算を始めている。


 その輪から少し離れたところで、千代が空を見上げていた。


「千代様?」


 声をかけたのは、おたえだった。


「どうしたと?」


「……おたえさん」


 千代は少しためらった。


「わたくし、もうひとつ、学びたいことがあるのです」


「何ね?」


「……歌です」


「歌?」


「はい」


 千代は恥ずかしそうに微笑んだ。


「昔から、歌うことが好きなのです。でも、お城では、人前で好きなように歌うことなど、なかなかできません」


「へえ……」


「笑わないでくださいね?」


「笑わんよ」


 おたえは隣に腰を下ろした。


「どがん歌ば歌うと?」


「季節の歌や、昔から伝わる歌です」


「そいなら、いつか聞かせてくれんね!」


「……よろしいの?」


「もちろんたい!」


 千代は嬉しそうに笑った。


「おたえさんは、歌はお好き?」


「うち? 歌うより銭ば数えるほうが得意たい!」


「まあ!」


 二人が笑う。


 しばらくして、おたえが思い出したように言った。


「そういえば、長崎には、そりゃあ歌の上手か娘さんがおるとよ」


「長崎に?」


「うん。歌声ひとつで、みんな足ば止めてしまうごたる人たい」


 千代の瞳が輝いた。


「……そんな方が?」


「いつか会えたらよかね」


「はい!」


 千代は胸の前で小さく手を合わせた。


「いつか、お会いしてみたいです」


 その願いが、後に長崎の歌姫・明美との出会いへつながることを、このときの二人はまだ知らない。


 おたえは立ち上がり、手を差し出した。


「ほら、千代様。みんなのところへ戻ろうたい」


 千代は、その手を見つめた。


 城では、手を差し出されるときは、たいてい侍女に導かれるときだった。


 けれど今、目の前にあるのは。


 商いで日に焼け、帳面と荷物を扱って少し硬くなった、五つ年上の少女の手。


 千代はそっと握った。


「……おたえさん」


「何ね?」


「また、一緒に勉強してくださいね」


「もちろんたい!」


 二人は笑い合った。


 まだ出会ったばかり。


 けれど、その日の小さな約束は、千代にとって城の外で初めて見つけた、大切な宝物になり始めていた。


     ◇


 夕暮れの納屋。


 白瀬は一人、木の板に向かっていた。


 そこには、家老に教わった文字で、ゆっくりと書きつけた言葉がある。


『水学所』


「……水学所、か」


 背後から澪の声がした。


「うん」


 白瀬は振り向いた。


「水のことだけじゃないけどね。土も、算術も、文字も、商いも」


「ならば、なぜ水なのじゃ?」


「全部、水につながってると思うからさ」


 白瀬は笑った。


「田んぼも、漁も、商いも、人の暮らしも。水がなければ始まらない」


 澪は木の板を見つめた。


「……そうじゃな」


「それに」


「うむ?」


「俺がこの世界で最初に教わったのは、水のことだったから」


 澪の瞳が、静かに揺れた。


「……誰に教わったのじゃ?」


 白瀬はわざと考えるふりをした。


「さあ、誰だったかな」


「白瀬」


「ちょっと口が悪くて、すぐ怒って、でも水のことなら誰より詳しい先生」


「……おぬし」


「俺の、一番最初の先生だよ」


 澪はしばらく黙っていた。


 やがて、ふいっと顔を背ける。


「……くだらぬことを」


「え?」


「そのようなことを言う暇があれば、さっさと片付けるがよい」


「照れてる?」


「照れておらぬ!」


 いつもより少し大きな声だった。


 白瀬は笑った。


 澪も、ほんの少しだけ笑った。


 外では、子どもたちがまだ騒いでいる。


 新しい学校に何を置くか。


 誰が何を教えるか。


 どんなことを学びたいか。


 夢は次から次へと膨らんでいた。


 白瀬は、木の板をもう一度見つめた。


 五年前。


 この土地に来たばかりの自分は、どうやって水を流すかばかり考えていた。


 けれど、今は違う。


 水を流せば、田ができる。


 田ができれば、米が実る。


 米が実れば、人が集まる。


 人が集まれば、商いが始まる。


 そして。


 人が学べば、次の時代を作ることができる。


「……なあ、澪」


「何じゃ?」


「これ、きっと大きな普請になるぞ」


「そうじゃろうな」


「堤を造るより、大変かもしれない」


「ふふ」


 澪が笑った。


「ならば、また皆で造ればよい」


「……そうだな」


 白瀬は頷いた。


 そのとき。


「白瀬しゃーん!」


 納屋の外から、健太の声がした。


「何だー?」


「新しか学校の図面、描いてよか!?」


「いいぞー!」


「おいの道具部屋、こがん大きゅうしてよか!?」


「大きすぎるだろ!」


「じゃあ、二階建てにするばい!」


「待て待て待て!」


 また大騒ぎになった。


 そこへ長吉の声も重なる。


「畑も欲しか!」


「うちは帳面の部屋!」


「うちは外国の言葉ば習うところ!」


「おいは魚ば干す場所!」


「だから源太! 学校で魚を干すなぁ!」


 ガタ吉まで叫んだ。


「おいの団子蔵も忘れんなー!」


「それは絶対いらん!」


 笑い声が、夕暮れの村に広がっていった。


     ◇


 その夜。


 諫早城では、直孝が家老と向かい合っていた。


 机の上には、一枚の簡単な見取り図がある。


 川から少し離れた、増水の危険が少ない土地。


 子どもたちが集まる学び舎。


 記録や道具を納める部屋。


 そして、白瀬の住まい。


「……本当に、お造りになりますか」


 家老が尋ねた。


「うむ」


「しかし、学び舎にこれほどの銭をかけるのは、家中でも異論が出ましょう」


「分かっておる」


 直孝は静かに答えた。


「じゃが、今日わしは見た」


「何をでございますか?」


「百姓の子が、水の流れを説いた」


「……」


「漁師の子が、川と海を語った」


「……はい」


「商いの娘が、銭の使い道を考えた」


 直孝は笑った。


「そして、わしの娘が、その者たちから学びたいと申した」


 家老は目を伏せた。


 直孝は窓の外へ目を向ける。


 城下の向こう。


 夕闇に包まれた田畑。


 五年前にはなかった豊かさが、そこに広がっている。


「……白瀬は、いつも妙なことを言う」


「左様でございますな」


「川を治めれば田ができる。田を拓けば国が豊かになる。だが、今日はその先を見せられた」


「その先……」


「人じゃ」


 直孝は、はっきりと言った。


「この国を豊かにするのは、最後には人なのだ」


 そして、見取り図の端に筆を走らせた。


『水学所』


 まだ建物もない。


 柱一本、立っていない。


 それでも。


 そこには確かに、新しい国づくりの始まりがあった。


「家老」


「はっ」


「明日、白瀬を呼べ」


「承知いたしました」


「場所を見に行く。大工も、勘定方も、関わる者を集めよ」


 直孝は笑った。


「今度の普請は、少々賑やかになりそうじゃ」


 家老も、つられて笑った。


「……まことに」


 こうして、諫早に新たな普請が始まろうとしていた。


 海から土地を生み出した者たちが、次に造ろうとするもの。


 それは、未来を造る人を育てる場所。


 後に多くの若者たちが巣立ってゆく、諫早水学所の第一歩であった。


 そして、この小さな学び舎から始まる物語が、四百年後の未来にまで届くことを――。


 まだ、誰も知らなかった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます!

田を拓き、川を治め、海と向き合ってきた白瀬たち。

今度の普請は、なんと「学校」です!

今回登場した千代とおたえの出会いも、これからの物語にとって大切な一歩となります。

そして、ついに動き始めた「諫早水学所」構想。

四百年後の未来に、彼らは何を残せるのでしょうか。

次回、第五十四普請では、いよいよ新しい学び舎づくりが始まります!

面白かった、続きが気になると思っていただけましたら、評価やブックマークで応援いただけると嬉しいです!

次回もお楽しみに!

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