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「お兄様は外に出られないのに」と母が言うので、兄へのお土産に公爵閣下を連れて帰りました【連載版】  作者: みれいぬ


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断られた家のお茶会

 北から帰った翌朝、兄の部屋の窓は、まだ開いていた。


 私は、朝食の前に、それを確かめに行った。夜のうちに母が閉めていたら、開けるつもりだった。兄にそう頼まれている。けれど窓は開いたままで、カーテンが、朝の風にゆっくり膨らんでは戻っていた。暖炉には、灰しかなかった。


 母は、その部屋にいた。


 窓から一番遠い、暖炉の前の椅子に座って、膝に、厚い帳面を開いて載せていた。夏の終わりなのに、肩には毛織りの肩掛けを掛けている。私が戸口に立つと、母は顔を上げた。


「ちょうどよかったわ。いらっしゃい」


 兄のいない部屋で、母に呼ばれるのは初めてだった。


* * *


 母の膝の上の帳面は、仕立て屋の見本帳だった。布の切れ端が、頁ごとに何枚も縫いつけてある。母は、その中の一枚を指で押さえていた。


「披露のドレスは、これにしようと思うの」


 暗い紫だった。鉛を溶かしたような、光の当たり方で灰色にも見える紫。母の指の下で、布の目が細かく光っていた。


「襟は高く。袖は手首まで。昼の披露ですもの、肩を出すことはないわ」


「……はい」


「それから」


 母は見本帳を閉じて、膝の上で両手を重ねた。


「披露の席では、皆様に、春からずいぶん良くなりまして、と申し上げます。あなたも、そのつもりでいて」


 私は、すぐには意味が取れなかった。


 良くなりまして。


 何が、と聞きかけて、分かった。


(病弱? 私が?)


 御前馬術の厩の通路で、閣下にそう言われた日から、春が終わり、夏も終わりかけている。父は書き直しの手紙を四通書いた。王都じゅうが、蹄鉄のお嬢様の話で笑った。私は北の高原まで旅をして、馬に乗って、速歩もできるようになった。


(まだ?)


 母の中では、私はまだ、病弱な娘のままだった。病弱だった娘が、春から少しずつ良くなった、ということにすれば、母がこの三年、茶会のたびに言ってきた言葉は、嘘にならずに済む。


「お母様」


 私は、戸口から一歩、部屋の中へ入った。


「私は、治ったことにはできません」


「イネス」


「一度も病気になっておりませんので」


 母の重ねた手が、少しだけ固くなった。


「皆様が、何とおっしゃっているか、知らないから言えるのよ」


「存じません。でも、何とおっしゃっていても、私は熱ひとつ出しておりません。治ったことにするには、先に病気にならないといけません」


 母は、私の顔を見た。それから、窓のほうを見た。開いた窓から、通りの物売りの声が入ってきた。


「皆様の前で、お母様を嘘つきにするつもり?」


 私は、答えなかった。


 嘘をついたのは、私ではない。その言葉は喉のところまで来ていたけれど、私はそれを口に出すかわりに、母の膝の上の、閉じた見本帳を見ていた。


 私が黙っていると、母は見本帳をもう一度開いて、紫の布の端を指でなぞった。


「とにかく、ドレスはこれで頼んでおきます。あなたは、何でも着るでしょう」


* * *


 戸口のほうで、床板が鳴った。


 振り向くと、父が廊下に立っていた。朝の手紙を何通か手に持っている。いつから聞いていたのだろう。


 父は、母を見て、私を見て、それから見本帳を見た。何か言うかと思った。


 父は黙って、手紙を手に、階段のほうへ去った。足音が、一階の書斎のほうへ遠ざかった。


 春までの父なら、ここで母の隣に座って、母の言うとおりだ、と言っただろう。今朝の父は、それを言わずに行ってしまった。それが何なのかは、私にはまだ分からなかった。


* * *


 その晩、自分の部屋の窓辺で、私は棚の物を並べ直した。


 鹿革の手袋。北の小川の石。薄い青のリボン。


 リボンを手に取って、明かりにかざしてみた。夜明けの丘で見た空の色が、蝋燭の光で、少しだけ黄色く見えた。


 それから、母の見本帳の、あの暗い紫の切れ端を思い出して、その隣にこのリボンを置いてみるところを考えた。


(似合わない)


 紫と青が、ではない。紫の襟の高いドレスを着て、春からずいぶん良くなりまして、と頭を下げる私に、このリボンは、きっと似合わない。


 考えているうちに、なんだか可笑しくなって、私は一人で笑った。北で、私は笑うのが上手くなったのかもしれない。


* * *


 翌朝、ピラールが、銀の盆に一通の封書を載せて部屋に来た。


「お嬢様に、でございます」


「お父様に、ではなくて?」


「お嬢様に、でございます」


 ピラールは、同じことを繰り返して、盆を差し出した。


 厚い紙の封筒だった。宛名には、イネス・ベラルデ様、とだけ書いてあった。父の名も、母の名も、兄の名も、添えられていなかった。私一人の名前に宛てた招待状を、私は生まれて初めて受け取った。


 封を切ると、昼のお茶の会の招きだった。隅に、丸い若い字で、蹄鉄のお話をぜひ聞かせてくださいませ、と書き添えてあった。


 招きの終わりに、差出人の名が並んでいた。


 サルセド子爵夫人。そして、その娘のロサリア。


(サルセド)


 私は、招待状を持ったまま、しばらく動けなかった。


 断られた、二つ目の家の名前だった。


* * *


「笑いものにするために、呼んだのよ」


 サルセド家の招待状を見せると、母はそう言った。夕食の席だった。


「サルセド卿は、二年前に、うちがお断りした方よ。その家が、わざわざあなた一人を呼ぶなんて。皆様の前で、病弱だった娘がどんな顔をしているか、見せ物にするつもりなのよ」


 私は、招待状を膝の上に置いたまま、黙っていた。


 母の言うことが、まるで外れているとは思わなかった。断られた家が、断った家の娘を呼ぶ。私が向こうの立場でも、どんな娘か、一度は見てみたいと思う。


「お断りの返事を書きなさい。体調がすぐれないので、と」


(また、それ)


 私が口を開く前に、父がフォークを置いた。


「昼の茶会なら」


 父は、皿を見たまま言った。


「ピラールを付けて行けばいい」


 食堂が、静かになった。


 母は、父の顔を見た。父は、それ以上何も言わずに、ワインの杯に手を伸ばした。母の前で、父が私の外出を通したのは、初めてだった。兄の頼みでもないのに。


 母は、ナプキンを畳んで、席を立った。何も言わずに、食堂を出ていった。


* * *


 九月の初めの昼、私はピラールと、サルセド家の門をくぐった。


 着ていったのは、色の褪せた若草色の昼のドレスだった。私の外出着は、それしかない。けれど髪には、北の町で買った薄い青のリボンを結んだ。結ぶとき、ピラールが何も言わずに、結び目を少し直してくれた。


 サルセド家の客間は、南向きで明るかった。白い茶器と、焼き菓子の皿と、若い令嬢が何人か。私が入っていくと、話し声がぴたりと止んで、全員の目がこちらを向いた。


(来た)


 見せ物になる、と母は言った。たぶん、そのとおりなのだろう。病弱で臥せっていたはずの、蹄鉄のお嬢様。皆が見たいのは、それだ。


 女主人のサルセド子爵夫人は、ふっくらとした、おっとりした方だった。私の手を取って、ようこそ、と言ってくださった。それから、隣に立っていた若い令嬢を前へ押し出した。


「娘のロサリアです。この子が、どうしてもお呼びしたいと申しまして」


 栗色の髪を高く結った、私より少し年下の人だった。目が大きくて、その目が、まっすぐ私を見ていた。


「ロサリア・サルセドです。単刀直入に伺ってもよろしいかしら」


「はい」


「本当に、公爵閣下を、お兄様へのお土産に連れて帰ったの?」


 客間じゅうが、息を詰めるのが分かった。


 私は、少し考えた。嘘をつく理由は、どこにもなかった。


「はい。兄が、今までで一番の土産だと申しました」


* * *


 一拍おいて、誰かが噴き出した。


 それが、端の席の令嬢だったか、ロサリア様だったか、確かめる間もなかった。気がつくと、客間じゅうが笑っていた。扇で口元を隠す人もいたけれど、扇の陰の笑い声は、母の茶会の笑い声とは違って、ちゃんと声になっていた。


「蹄鉄を、片手で提げて歩いていらしたって、本当?」


「蹄鉄は、片手で持てます。林檎二つくらいの重さですので」


「泥だらけだったって」


「厩の土が付いておりました。手袋は、だめにしました」


「病弱じゃないなら、どうして今まで、どこにもいらっしゃらなかったの?」


 その問いだけは、少し間があいた。誰も笑わなかった。


 私は、両手を膝に重ねた。


「兄が、胸を悪くしておりまして。家の者は、皆、兄の部屋におりました。私は、兄の行けない所へ行って、お土産を持って帰る係でした」


「係」


 ロサリア様が、繰り返した。


「はい。十二年、務めました」


 客間が、また笑った。今度は、さっきより柔らかい笑い方だった。隣の席の令嬢が、「係って」と小さく言って、肩を震わせていた。


 私は、自分の顔が熱くなるのを感じた。それから、気づいた。


 私は、笑われていなかった。私は、皆と一緒に笑っていた。


* * *


 お茶が冷めかけたころ、客間の戸が開いて、近衛の制服の人が入ってきた。


 背が高くて、陽気そうな顔をしている。サルセド子爵夫人が「まあ、ホアキン」と言い、ロサリア様が「お兄様、遅い」と言った。


 その人は、まっすぐ私の前に来て、片手を胸に当てた。


「ホアキン・サルセドです。病弱ゆえで断られた男です、どうも」


 客間が、どっと沸いた。私は、どう返していいか分からずに立ち上がりかけて、ピラールに袖を引かれた。


「その節は」


「いや、謝らないでください。断られて正解でした」


 サルセド卿は、からからと笑った。


「御前馬術の日、俺は厩の通路の口で警護に立ってたんです。泥の蹄鉄を提げて出てこられたのを、見ましたよ。ずいぶん元気な病人だと思いました」


 サルセド卿は、そこで声を低くした。


「それより、あのとき閣下が、通路の奥からあなたの背中を見送っていた顔。俺は閣下とは北の牧場からの付き合いですが、あんな顔は初めて見た。俺には、閣下にあんな顔をさせるのは無理です。だから、正解」


「あんな顔、とは」


「それは、閣下に聞いてください。俺が言ったって言わないでくださいよ」


* * *


 帰り際、玄関の広間で、ロサリア様が私の袖をそっと引いた。ほかの令嬢たちは、もう馬車のほうへ出ていた。


「一つだけ、お耳に入れておきたいの」


 ロサリア様は、声を落とした。


「メンドーサ伯爵夫人が、あちこちのお茶会で言って回っていらっしゃるの。病弱でなかったのなら、何か人前に出せない訳があって、隠されていたのでしょう、って。それから、公爵閣下は厩の娘に引っかけられたのよ、って」


 私は、言葉に詰まった。


「披露の日には、皆、それを確かめに来るわ。だから、先にあなたを見ておきたかったの」


 ロサリア様は、私の髪のリボンを見て、にっと笑った。サルセド卿と同じ笑い方だった。


「見た分は、わたくしが言って回るから」


* * *


 帰りの馬車の中で、私は、今日のことを兄に書こうと思った。


 ロサリア様の大きな目。客間じゅうの笑い声。サルセド卿の「どうも」。兄が聞いたら、きっと喜ぶ。


 頭の中で、手紙の書き出しを考えはじめて、そこで考えが止まった。


 これは、兄の分のお土産ではなかった。兄の行けない場所へ、兄の代わりに行ったのではない。私が、私の名前で呼ばれて、私の分を楽しんできたのだ。


(誰の分でもない、私の楽しかった分)


 それでも、兄には書こうと思った。土産としてではなく、ただ、話したいから。


* * *


 家に戻って、自分の部屋の戸を開けると、窓のそばに人台が立っていた。


 仕立て屋が、仮縫いのドレスを着せて置いていったのだった。


 見本帳で見た、あの暗い紫だった。高い襟。手首までの袖。


 夕方の光の中で、それは、部屋の中に誰かが黙って立っているように見えた。

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