自分の分を、持って帰る
北の町は、川のほとりにあった。
北の館から、馬車で半日。石の橋を渡ると、広場いっぱいに屋台が並んでいて、羊毛と、焼いた栗と、革の匂いがした。王都の市より小さくて、声が大きい。売り手がみんな、高原の言葉の訛りで、品物の名前を歌うように呼んでいる。
「お嬢様、お財布は」
馬車を降りるとき、ピラールが手を出した。いつもの、預かります、の手だった。
「今日は、自分で持っています」
ピラールは、出した手を引っこめて、それから、何か言いたそうに口元を緩めた。閣下は、馬を広場の端の杭につないでから、私たちの少し後ろについた。腕は組んでいなかった。
私は、決めて来ていた。
今日は、兄の分を探さない。
* * *
決めて来たのに、屋台をいくつも過ぎないうちに、足が止まった。
馬具屋だった。
軒先に、手綱と鞍敷きと、真鍮の金具がずらりと吊るしてある。棚の端に、小さな鈴が一列に並んでいた。兄の上着の釦に結んである鈴と、同じ形の。
(ここだ)
兄が動かなくなって、アランサさんに置いていかれかけた店。兄が、生まれて初めて、自分で選んで物を買った店。
私は、鈴の列を見ていた。兄なら、この中のどれを選ぶか。兄はもう、選んだのだ。
気がつくと、私は笑っていた。
「お嬢様?」
「何でもないの」
私は、馬具屋の前を離れた。後ろで、閣下の足音が、少し遅れてついてきた。
* * *
リボンと布の屋台は、広場の真ん中の、噴水のそばにあった。
街道の市と同じように、色が並んでいた。巻いたリボンが、棚の上に何十も。赤、黄、緑、紫、茶。売り手のおかみさんが、日に焼けた太い腕で、次々に巻きを広げて見せてくれる。
私は、棚の前に立った。
街道の市のときは、ここで、頭の中に色が浮かんだ。母の選ぶ暗い色。仕立て屋の勧めた若草色。母の好きな臙脂。兄の好きな、ネーベの白と厩の焦げ茶。どれも誰かの色で、どれも私の色ではなかった。
今日は、何も浮かんでこなかった。
頭の中が、静かだった。目の前にあるのは、ただの色だった。誰の色でもない、棚の上の、巻かれたリボン。
私は、右から順に見ていった。
赤ではない。黄でもない。緑の中に、北の草の色に近いのがあって、少し迷った。それから、その隣の巻きに、手が伸びた。
薄い青だった。
空の色に近い。けれど、昼の空ほど濃くない。白に近いけれど、白ではない。
どこかで見た色だと思った。どこで見たのかは、指で巻きを持ち上げたときに分かった。
夜明けの丘の上。アランサさんが角灯を消して、暗いと思っていたあたりが、ぼんやりと見えはじめたとき。東の空の端の、夜の青が、白に変わる手前の色。
群れが駆け下りる前の。私が泣く前の。
「なぜ、その色だ」
閣下の声がした。すぐ後ろではなく、少し離れた噴水の縁のあたりから。私が振り向くと、閣下は噴水の縁にもたれて、よそを見るような顔で、こちらを見ていた。
「丘の上で見た空の色です」
私は、巻きを持ったまま言った。
「夜が明ける前の。群れが下りてくる前の。お兄様の土産を、受け取る前に見た色です」
閣下は、噴水の縁にもたれたまま、動かなかった。
「これは、兄の分ではありません」
言ってから、自分の声が少し震えているのに気づいた。
「私が見た色です。私が、自分の目で」
* * *
「これを、ください」
おかみさんが、髪に結ぶのにちょうどいい長さを、巻きから測って切ってくれた。
私は、財布を開けた。父が旅の小遣いとして持たせてくれた銀貨と銅貨が、少しだけ入っている。おかみさんの言った値は、思っていたより安かった。私は銅貨を数えて、自分の手で渡した。
自分の分を、自分で払ったのは、初めてだった。市の木彫りの馬のときは、ピラールの手から小遣いが出た。蹄鉄は、もらい物だった。手袋も、石も。
「お包みしましょうか、お嬢さん」
「いいえ」
私は、切ってもらったリボンを、手のひらに載せた。
「持って帰ります。このまま」
おかみさんは、高原の訛りで、何か嬉しそうなことを言った。言葉の半分は分からなかったけれど、嬉しそうなことは分かった。
振り向くと、ピラールが、屋台の陰で鼻をすすっていた。
「ピラール?」
「埃でございます。北の埃は、目にしみますので」
* * *
閣下は、帰り道、馬車の脇を馬で行きながら、一度だけ窓に馬を寄せた。
「君が選んだ」
それだけ言った。似合う、とも、いい色だ、とも言わなかった。私は、そのほうが嬉しかった。似合うかどうかより、私が選んだことのほうが、今日は大事だった。
北の館に着いて、馬車を降りるとき、閣下が手を貸してくれた。
手袋の上から、私の手を取った。踏み段を下りて、地面に足が着いても、閣下はすぐには手を離さなかった。私も、離さなかった。
リボンは、もう片方の手に握っていた。
* * *
王都へ発つ朝、兄は柵のそばにいなかった。
北の館の門の前で、馬車の支度ができるのを待っていると、館の中から、ちりん、ちりん、と鈴の音が近づいてきた。振り向くと、兄が玄関の石段を下りてくるところだった。手すりには、一度も手を置かなかった。
「見送りくらい、自分の足でするよ」
兄は、門の前まで歩いてきて、少し息を整えた。首には母の灰色の布、上着の釦には鈴。日に焼けた頬は、王都を出た朝の兄とは、別の人のようだった。
「十月に、自分で帰る」
兄は言った。
「君は先に帰って、僕の部屋の窓を開けておいて。母上が閉めたら、また開けて」
「それは、口を出したうちに入りませんか」
「窓を開けるのは、手を出したうちだ。口じゃない」
兄は、自分で言って笑った。
* * *
アランサさんは、仔馬の囲いのほうから、竿を持ったまま走ってきた。革の前掛けに、朝露で濡れた草の切れ端が付いていた。
王都の令嬢の見送りなら、膝を曲げて、道中のご無事を、と言うところだ。アランサさんは、そういう作法を知らないのか、知っていてしないのか、まっすぐ私の前に立った。
「また来てください」
「はい」
「今度は、跨いで乗る練習をしましょう。横鞍より、ずっと遠くまで行けますから」
私は、少し考えてから答えた。
「母が、聞いたら倒れます」
「じゃあ、お母様のいないところで」
アランサさんは、真顔で言った。兄が後ろで、また鈴を鳴らした。アランサさんは、そちらを見ずに、竿の先で兄のいるほうを指した。
「マテオ様、そこ、風下です」
大奥様は、門の内側で、閣下に何か書きつけた紙を渡していた。
「名簿の写しよ。ベラルデ伯爵に、あなたから渡してちょうだい」
それから、私のほうを向いた。
「九月の終わりに、わたくしも王都へ参ります。披露の支度は、わたくしの家の仕事よ。あなたは何も心配しないで、乗るのだけ続けていらっしゃい」
* * *
帰りの道は、来たときより短く感じた。
高原が少しずつ下りになり、窓の外の空が、だんだん狭くなっていく。私は、膝の上で薄い青のリボンを握っていた。包ませなかったので、端が少しよれている。
来たときは、窓の外の何もかもを、兄に話すために覚えようとしていた。帰り道の私は、何も覚えようとしていなかった。見たものは、見たままでよかった。
来るときに泊まった宿の町を通ったのは、ちょうど市の立つ夕方だった。
来たときに、日が傾くまで立ち尽くしたリボンの屋台が、同じ場所に出ていた。同じおかみさんが、同じように巻きを広げている。
閣下が、馬を馬車の窓に寄せた。
「寄るか」
私は、膝の上の手を、窓のほうへ少し上げた。よれた薄い青の端が、指の間からのぞいていた。
「いいえ。もう、持っています」
閣下は、うなずいて、馬を前へ出した。向かいに座ったピラールが、外の景色を眺めるふりで、小さく咳払いをした。
* * *
王都の家に着いたのは、八月の終わりの、日が傾くころだった。
母は、玄関の広間に出ていた。
母は、私を見る前に、私の後ろの馬車の中を見た。中にいたのはピラールだけで、ピラールは鞄を抱えて降りてきた。母は、それを確かめてから、私を見た。
「お帰りなさい」
「戻りました、お母様」
それだけだった。母は、兄のことを一言も尋ねなかった。尋ねるまでもなく、もう知っているのだと分かった。兄の手紙は、王家の厩の便で、私たちより先に着いているはずだった。
閣下は、門の前で馬を下りて、出てきた父に、大奥様の紙を渡した。
「母からです。披露の名簿の写しを」
父は、それを受け取って、黙って上着の内側にしまった。
二階へ上がると、兄の部屋の戸が開いていた。
暖炉の火は落ちていた。窓が、開いていた。夏の終わりの夕方の風が、カーテンを揺らしていた。
私は、戸口に立って、それを見た。母が閉めたのなら、開けに行くつもりだった。開けに行かなくてよかった。
* * *
自分の部屋の窓辺に、私は荷を解く前にリボンを置いた。
鹿革の手袋。北の小川の石。その隣に、薄い青のリボン。
手袋は閣下からもらった。石は兄から届いた。リボンだけが、私が自分の目で選んで、自分の手で払ったものだった。
三つ目だった。
数えたのは、それきりにした。数えなくても、窓辺を見れば分かった。
* * *
夕食の後、父が、食堂のテーブルの上で、大奥様の紙を広げた。
披露の招待客の名簿の写しだった。父は眼鏡をかけて、上から順に読んでいった。王家の厩の方々、リオセコ家の親戚、父の知っている家の名、知らない家の名。
途中で、父の目が止まった。
「サルセド子爵家」
私は、息をのんだ。近衛のサルセド卿。閣下の友人で、二年前の春に、父から「病弱ゆえ」の断りを受け取った人の家。
「エスコバル子爵家」
三年前の秋の、一つ目の家。
「メンドーサ伯爵家」
母が、持っていたカップを受け皿に戻した。かちん、と小さな音がした。
母の頬が、白くなった。
「この方たちを、呼ぶのですか」
父は、名簿から目を上げなかった。
「呼ぶのは、リオセコ家だ」
お読みいただきありがとうございます。北の夜明けの丘で、兄は妹を「持って帰れない土産」のところへ連れていき、イネスは初めて自分の色を一つ選びました。ここで第2章が完結です。次のお話から、王都の秋の第3章です。このお話は、第3章で完結します。完結まで、毎日更新します。ここまで楽しんでいただけたら、ブックマークと、下の☆での評価で応援していただけると嬉しいです。




