北の八年【アルバロ視点】
背筋の伸びた娘になった。
夜明けの丘から戻った朝、イネスはカネラから下りて、玄関の前に立っていた。泣いた後なのに、膝が笑っていなかった。乗せてもらう馬の上で泣いて、下りた地面の上で、まっすぐ立っていた。
王都の御前馬術の厩の通路で見たときも、立ち方のいい娘だと思った。泥の付いた蹄鉄を提げて、男ばかりの通路を平気な顔で歩いていった。けれどあのときの背筋は、兄のために伸びていた。兄の土産を落とさないように。
今朝の背筋は、何のために伸びていたのか。私にはまだ分からない。分からないが、見ていて飽きない。
* * *
居間を出て、上着の内側の封筒に手を当てた。
封蝋の上に、親指の跡がある。家の印を持たない跡継ぎが、自分の指で封をした手紙だ。明日の朝、厩の便の者に渡す。宿場ごとに替え馬を出す便なら、母君の暖炉が九月の分まで燃える前に着く。
廊下の先の、母の部屋の戸が開いていた。
「アルバロ。いらっしゃい」
母は、部屋着の上に肩掛けを巻いて、窓際の椅子にいた。膝の上に、牧場の帳面を広げている。差配の男爵から上がってくる、仔馬の目方と食べた量の帳面だ。母は、北へ移ってから、毎晩それを読んでいる。
「マテオ殿は、書いたの?」
「書きました」
「そう」
母は帳面を閉じた。それから、私の顔を見て、少し笑った。
「ピラールから聞いたわ。街道の市のこと」
私は、何も言わなかった。言わないほうがいいと、経験で知っている。
「リボンの屋台の前で、日が傾くまで、黙って待っていたんですって。あなたが。腕を組んで」
「待っていただけです」
「あの子は、並んだリボンを端から一つずつ手に取っては戻して、とうとう何も選べなかったそうよ。ピラールは、樽に腰かけて、それを全部見ていたの」
母は、ピラールと気が合うらしい。北の館へ着いた日から、二人は台所の脇で何度も茶を飲んでいる。
* * *
「あなたも、そうだったわね」
母が言った。
「十八でここへ来たとき。何がしたいの、と聞いたら、父上に言われたので、と答えたわ」
私は、窓の外を見た。夜の放牧場は暗い。丘の稜線だけが、星の明かりで分かる。
十八の夏、私は父に言われて北へ来た。自分で選んだことではなかった。最初の一年は、厩の掃除と、仔馬の目方を量ることしかしなかった。何がしたいかと聞かれても、答えられなかった。
答えられるようになったのは、いつだったか。
ある冬の夜、難産の牝馬に一晩付いていて、明け方に仔が立ったのを見た。そのとき、ここにいたい、と思った。誰に言われたわけでもないのに。二十六で王都へ戻るまで、私は北にいた。
その先のことは、母とも話したことがない。話すつもりも、今はない。
「明日は、市の日よ」
母が言った。
「連れていくと言ったのでしょう。それは、いいわ。でも、あの子が選ぶまで、口を出さないこと」
「出したことはありません」
「黙って待つのも、口を出すうちよ」
母は、肩掛けの端を指でつまんだ。
「腕を組むのを、おやめなさい。腕を組んで横に立たれたら、急かされている気がするものよ。あなたは馬にはそうしないでしょう。仔馬が寄ってくるまで、柵にもたれて、よそを見ている」
私は、自分が腕を組んでいたことに気づいて、腕を下ろした。
母は、それを見て、満足そうにうなずいた。
* * *
「それから」
母は、まだ言うことがあるらしかった。
「あの子の乗馬用の手袋。手の大きさを見て作らせたって、手紙に書いてきたでしょう」
「書きました」
「どうやって、手の大きさを見たの」
「蹄鉄を渡したときに」
「渡したときに?」
「蹄鉄を握った指の長さと、手のひらの幅を見ました。馬の蹄を見るのと同じです」
母は、少し黙った。それから、こらえきれないように吹き出した。
「あなた、それを、あの子に言ってはだめよ」
「なぜです」
「馬の蹄と同じ、のところを」
私は、耳が熱くなるのを感じた。母は、また笑った。
* * *
自分の部屋へ戻る廊下で、夜明けの丘のことを考えた。
兄上の「だから、君を連れてきた」で、イネスは泣いた。声は立てなかった。手綱を握ったまま、頬が濡れていた。私は、何も言わずに馬を寄せた。言うべき言葉を、私は持っていなかった。
仔馬が寄ってくるときと同じだと思った。こちらから手を出すと、逃げる。黙って、そばにいる。向こうが、自分で寄ってくるまで。
イネスは、何でも兄の分にして持って帰ってきた。自分の分を選ぶのは、たぶん、柵を一枚越えるより難しい。
明日は、腕を組まずに待とう。
* * *
翌朝、イネスは乗馬服ではなく、町へ出る外出着で階段を下りてきた。
片手に、小さな財布を握っていた。誰かに持たせるのではなく、自分の手に。
「おはようございます、閣下」
「財布は、自分で持つのか」
「はい。父が、旅の小遣いを持たせてくれましたので。今日は、自分で払います」
財布の紐を、手綱と同じ握り方で握っていた。指の長さも、手のひらの幅も、蹄鉄を渡した日と変わらない。変わったのは、握っている物のほうだった。
私は、腕を組まなかった。




