僕の字で
兄が手紙を書く場所に選んだのは、北の館の居間の、窓際の小さな書き物机だった。
夏でも、高原の夜は冷える。暖炉には、細い薪が少しだけ燃えていた。煙の出ない作りなのだと、大奥様が最初の晩に教えてくれた暖炉だった。
兄は、便箋を一枚広げて、ペンをインクに浸して、それきり、ペン先を紙の上に浮かせていた。
「母上に手紙を書くのは、初めてなんだ」
兄が、便箋を見たまま言った。
「父上には書いた。君にも書いた。でも母上には、一度も書いたことがない。いつも、同じ部屋にいたから」
私は、隣の椅子で、両手を膝の上に重ねていた。
王都の家では、家の手紙はみんな、兄の部屋で書かれていた。父と母が、兄の机に並んで、兄の寝台の横で。兄は手紙を書く人ではなく、手紙を書かれる部屋にいる人だった。
兄が、最初の一行を書いた。
それから、便箋を丸めた。
* * *
次の便箋も、何行か進んだところで丸められた。
その次は、半分まで書いたところで、兄がペンを置いた。
「これ、きつすぎるかな」
兄が、便箋を私のほうへ少し傾けた。
(読みたい)
読んで、ここはもう少し柔らかく、と言いたかった。母がどの言葉に傷つき、どの言葉なら聞き流すか、私は二十年かけて覚えてきた。兄より、たぶんよく知っている。
でも、それを言ったら、これは兄の手紙ではなくなる。
「口は出さない約束です」
兄は、目をぱちくりさせてから、吹き出した。
「そうだった。頼んだのは僕だった」
兄は、書きかけの便箋を丸めずに脇へ置いて、新しい一枚を広げた。今度は、ペンが止まらなかった。暖炉の薪がはぜる音と、ペン先が紙を引っかく音だけが、居間を満たしていた。
書き終えると、兄は便箋を私に差し出した。
「読んで。直さなくていいから」
* * *
母上へ
お手紙、読みました。
九月には帰りません。
十月の半ばに帰ります。日は、アンセルモ先生と相談して、僕が決めます。帰るときは、自分で帰ります。迎えはいりません。
僕の部屋の暖炉は、朝だけにしてください。窓は、開けておいてください。北では、窓を開けて眠っています。こちらへ来てから、大きな咳は一度も出ていません。
イネスの披露は、リオセコ家の大奥様が、十月の終わりと決めてくださいました。僕を理由に、延ばさないでください。僕はもう、誰かの何かを延ばす理由になりたくありません。
灰色の布は、毎朝、首に巻いています。かがり目で、母上の手だと分かりました。あったかいです。
マテオ
* * *
読み終えて、私は、最後の段落をもう一度読んだ。
灰色の布のことを、私は兄に言っていない。母に、言わなくていいと言われたから。兄は、柵のそばで布を受け取ったとき、かがり目を指でなぞっていた。あのとき、もう分かっていたのだ。
兄の字は、行の終わりにいくほど、右へ傾いていた。王都の部屋では、兄は書き物をするとき、いつも寝台の上で膝に板を載せていた。机に向かって書いている兄を、私は初めて見た。
「どう?」
「直すところは、ありません」
「言わない約束だろう」
「直すところがない、と言うのは、口を出したうちに入りません」
兄が笑った。私は、一つだけ聞いた。
「迎えはいりません、というのは」
「母上に迎えに来られたら、家の馬車に、膝掛けを三枚と、たぶんお医者をもう一人積んで来る。僕はそれに乗せられて、運ばれて帰ることになる」
兄は、便箋の上の自分の字を見下ろした。
「自分で決めた日に、自分で決めた馬車で帰りたいんだ。それだけ」
兄は、もう一枚、小さな紙を取った。今度は、迷わずに書いた。
父上へ
領地の帳簿を、北へ送ってください。跡継ぎとして、冬までに読んでおきたいと思います。数字を見るのは、血統表で慣れています。
マテオ
兄は母への便箋と父への紙を重ねて折り、封筒に入れて、封蝋を垂らした。家の印は、王都の父の書斎にある。兄は少し考えて、柔らかい蝋の上に、自分の親指を押しつけた。
「これで、僕からだって分かる」
* * *
封筒が、机の上に置かれていた。
私は、それを見ていた。
十二年、兄の言葉は、私が運んできた。市の木彫りの馬にも、蝋燭にも、御前馬術の蹄鉄にも、兄の「行ってきて」と「どうだった」がくっついていた。兄の行けない場所へ、兄の言葉を持っていき、帰りに、兄の聞きたいことを持って帰った。
この封筒は、私が運ばなくても、母のところへ着く。
(誇らしい)
本当に、そう思った。兄は、自分の字で、自分の決めたことを、母に言った。
(それから、少しだけ、寂しい)
それも、本当だった。
居間の戸が開いて、閣下が入ってきた。王家の一歳馬の厩から戻ったところらしく、上着の裾が、夜露で濡れている。兄の机の上の封筒に目をとめた。
「書いたのか」
「書きました」
「王家の厩の便が、明日の朝、王都へ発つ。宿場ごとに替え馬を出して走る便だ。それに乗せれば、普通の便より早く着く」
兄は、封筒を見下ろした。
「急がなくていいです」
そう言ってから、兄は顔を上げた。
「……いや、急いでください。母上が、九月の分まで、暖炉を焚いてしまう」
閣下は、封筒を受け取って、上着の内側にしまった。それから、私のほうを向いた。
「明日、町へ行く。北の市の日だ」




