離乳の柵
その朝、放牧場の柵が、一枚増えていた。
丘のふもとの、母馬と仔馬の群れのいる草地。その隣に、新しく杭を打って、横木を渡した囲いができている。二つの囲いの間は、柵一枚だけだった。
「今日から、乳離れです」
アランサさんが、肩に縄の束をかけて言った。
「春に生まれた子たちを、こっちの囲いへ移します。母馬は、向こうに残します」
「柵一枚で、いいんですか」
私が聞くと、アランサさんはうなずいた。
「急に離すと、どっちも鳴いて、走り回って、柵にぶつかって怪我をするんです。見えてるところにいれば、そのうち平気になります。最初の何日かは、うるさいですけど」
兄は、いつもの柵のそばに立っていた。首に母の灰色の布を巻いて、手には、北の館の図書室から持ち出したらしい、分厚い本を抱えている。
* * *
仔馬を移すのは、思っていたより静かな仕事だった。
アランサさんは仔馬を追わない。母馬の首に縄を掛けて、ゆっくり歩かせる。仔馬は母馬についてくる。新しい囲いの戸の前で、母馬だけを外へ出し、仔馬だけが中に残る。それを、一頭ずつ繰り返す。
「マテオ様、そこの戸を押さえててください。そこなら風上ですから」
アランサさんが、振り向きもせずに言った。
兄は、本を柵の杭の上に置いて、言われた戸に飛びついた。母馬が出ていくあいだ、横木の戸を押さえて、仔馬が鼻先を出したら少しだけ押し戻す。それだけの役目だった。
それだけの役目を、兄は、生まれて初めて言いつけられたような顔でやっていた。
途中で閣下が、王家の一歳馬の厩のほうから馬で下りてきた。囲いの様子を見て、私に縄を一本差し出した。
「君も、引くか」
「私が?」
「あの青毛の母馬は、一番大人しい」
私は縄を受け取った。母馬の首に縄を掛けるのは、アランサさんがやってくれた。私は、縄の端を持って、母馬の肩の横を歩いた。母馬は、私の歩く速さに合わせて、黙ってついてきた。その後ろを、小さな青毛の仔がついてきた。新しい囲いの戸のところで、兄が仔馬の鼻先をそっと押し戻し、母馬だけが戸の外へ出た。外へ出たところで、母馬は一度だけ振り返って、戸の向こうの仔を見た。
私は、縄を握ったまま、少しのあいだ立ち止まった。母馬が、もう一度歩き出すまで。
仔馬を何頭か移し終えたところで、兄が杭の上の本を開いた。
「本によれば、乳離れは生まれて四か月から六か月」
兄は、母馬の腹の下にもぐりこんでいる、まだ小さな栗毛の仔を指さした。
「あの子も、そろそろだろう。春の初めに生まれたって、男爵が言ってた」
アランサさんは、縄を巻き取りながら、そちらを見もしなかった。
「あの子は、まだ母馬の腹の下で寝てます」
「でも、月で数えれば」
「本は、あの子を見てません」
兄は、口をつぐんだ。それから、本を閉じて、嬉しそうな顔をした。
(また負けた顔だ)
北へ来てから、私は兄のこの顔を何度も見ている。王都の部屋で、兄が血統の話で言い負かされたことは一度もなかった。言い負かす相手が、部屋にいなかったから。
* * *
昼が近くなるころ、柵の向こうとこちらで、鳴き声が始まった。
移された仔馬たちが、柵に沿って行ったり来たりしながら、高い声で鳴く。向こうの囲いの母馬たちが、低い声で返す。最初は一頭、それから次々に。放牧場じゅうが、呼ぶ声と返す声でいっぱいになった。
ちりん、と、小さな音がした。
兄の上着の釦に、小さな鈴が結んであった。北の町の市で、兄が初めて自分で選んで買ったという、手綱に付ける鈴。兄が柵から離れて歩き出すと、また、ちりん、と鳴った。
「お兄様、それは」
「これで、僕がどこにいるか分かる」
兄は、アランサさんのほうへ顎をしゃくった。
「毎朝、僕を探して走り回らなくて済むだろう。鳴ったほうを見ればいい」
アランサさんは、仔馬の囲いの戸を閉めながら、振り向きもせずに言った。
「鈴で、風向きは分かりません」
「風向きは、君が見ればいい」
「私は仔馬を見てるんです」
兄は、ちりん、と鳴らして、風上のほうへ一歩動いた。アランサさんは、戸の掛け金を確かめていた。
けれど、それから昼まで、兄が動いて鈴が鳴るたびに、アランサさんは、そちらへ顔を向けた。仔馬を見ながら、何度も。
兄は、知らん顔をしていた。たぶん、知っていて。
* * *
私は、柵のそばに一人で残って、移されたばかりの仔馬を見ていた。
鹿毛の牡の仔だった。柵の角に鼻を押しつけて、ずっと鳴いている。向こうの囲いでは、その母馬が、草を食んでいた。頭は下げたまま、耳だけが、こちらの柵のほうを向いている。
仔馬が鳴くと、母馬の耳が動く。母馬は来ない。仔馬も、柵は越えられない。
私は、長いあいだ、その耳を見ていた。
夕方になると、鳴き声は少し間遠になった。鹿毛の仔は、柵の角から離れて、ほかの仔馬と並んで草に首を下ろした。母馬の耳は、それでも、ときどきこちらを向いた。
* * *
その晩、北の館の私の部屋の戸が、小さく叩かれた。
戸を開けると、兄が立っていた。上着を脱いで、鈴は手のひらの上に載せている。鳴らないように、握っているのだと分かった。
「イネス」
兄は、少し言いにくそうにした。
「母上に、返事を書く」
私は、黙ってうなずいた。
「隣にいてくれる? 口は、出さなくていいから」




