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第8話 ようやく見つけた居場所

第8話 ようやく見つけた居場所


 春の陽射しが、公爵邸の窓からやわらかく差し込んでいた。


 長い冬を越えた庭では、小さな白い花が咲き始めている。


 厨房には朝から賑やかな声が響いていた。


「パン焼き上がったぞ!」


「こっちのスープ味見してくれ!」


「ミレーユ、それ焦げる!」


「わあっ!?」


 慌てる声に、どっと笑いが起こる。


 エルサは思わず吹き出した。


「ふふ……」


 以前なら考えられない光景だった。


 冷え切っていた厨房には今、温かな匂いと笑い声がある。


 焼きたてのパンの香り。


 煮込み料理の湯気。


 甘い果実酒の匂い。


 誰かが笑って、誰かが「美味しい」と言う。


 それだけで、こんなにも場所は変わるのだ。


「奥様!」


 ミレーユが頬を赤くしながら駆け寄ってくる。


「見てください、ちゃんと膨らみました!」


 差し出されたのは、少し不格好な丸パンだった。


 焼き色は uneven だが、ふわりと香ばしい匂いがする。


「すごいです!」


「ほ、本当ですか!?」


「はい、とっても美味しそう」


 ミレーユは嬉しそうに顔を輝かせた。


 そこへ低い声が落ちる。


「朝から騒がしいな」


 厨房が一瞬静まり返る。


 入口にはギルバートが立っていた。


 黒い上着姿のまま、腕を組んでこちらを見ている。


 だが以前のような冷たい威圧感は薄れていた。


 料理人たちも、もう怯えた顔はしない。


「旦那様、おはようございます!」


「おはようございます」


 次々と声が飛ぶ。


 ギルバートはわずかに眉を寄せた。


「……お前たち、随分図々しくなったな」


「奥様のせいですよ!」


「ミレーユ」


 料理長が慌てて窘める。


 だがギルバートは怒らなかった。


 代わりに、小さく鼻を鳴らす。


「そのパンは何だ」


「ミレーユが初めて一人で焼いたんです」


 エルサが嬉しそうに言うと、ギルバートはパンを見下ろした。


「……不格好だな」


「うっ」


「だが悪くない匂いだ」


 ミレーユの顔がぱっと明るくなる。


「ほ、本当ですか!?」


「嘘を言ってどうする」


 ぶっきらぼうに答える姿に、厨房の空気がふっと緩んだ。


 エルサはその横顔を見つめる。


 最近のギルバートは、よく厨房へ来るようになった。


 相変わらず言葉は不器用だ。


 けれど以前のような氷の冷たさはない。


 食事をするとき、少しだけ表情が柔らかくなる。


 誰かが笑っていると、静かにその輪の中にいる。


 それがエルサには嬉しかった。


「……エルサ」


 不意に名を呼ばれる。


 以前は「お前」ばかりだったのに。


 その変化だけで胸が熱くなる。


「はい」


「少し来い」


 ギルバートはそれだけ言って厨房を出ていく。


 エルサは慌てて後を追った。


 廊下には春風が吹き込み、白いカーテンを揺らしていた。


「どうかされましたか?」


 ギルバートはしばらく黙って歩いていたが、やがて中庭で足を止めた。


 淡い陽射しが黒髪へ落ちる。


 横顔はどこか緊張しているようだった。


「……謝らなければならない」


 低い声。


 エルサは目を瞬かせる。


「最初にお前へ言ったことだ」


 ギルバートの拳がゆっくり握られる。


『君を愛することはない』


 あの日の言葉が蘇る。


 冷たい部屋。


 冬の雨。


 凍った瞳。


 ギルバートは苦しそうに目を伏せた。


「私は、お前を傷つけた」


「ギルバート様……」


「スープを捨てたことも、全部覚えている」


 掠れた声だった。


「なのにお前は、ずっと笑っていた」


 エルサは静かに彼を見る。


 ギルバートは真っ直ぐこちらを見返した。


 その瞳には、もう冷たい氷はなかった。


「……エルサ」


「はい」


「私は、お前と本当の夫婦になりたい」


 春風が吹き抜ける。


 花びらがふわりと舞った。


 エルサは息を呑む。


 胸の奥が熱くて苦しくて、涙が出そうだった。


「嫌なら断ってくれて構わない」


 ギルバートは苦笑する。


「私は随分酷い男だったからな」


「……そんなことありません」


「ある」


「でも」


 エルサは小さく笑った。


「今のギルバート様、ちゃんと温かいです」


 その瞬間。


 ギルバートの表情が崩れる。


 まるで泣きそうな顔だった。


 彼はそっとエルサの頬へ触れる。


 大きな手は少し震えていた。


「……ありがとう」


 低い声が優しかった。


 エルサは頬を染めながら、小さく目を閉じる。


 ようやく。


 ようやくここが、自分の居場所になれた気がした。


 だが、その幸せは長く続かなかった。


 昼過ぎ。


 公爵邸の玄関ホールへ、怒鳴り声が響く。


「エルサを返していただきたい!」


 エルサの肩がびくりと揺れた。


 聞き慣れた声だった。


 リーベルト男爵。


 実の父だ。


 隣には母と姉クラリスまでいる。


 派手な衣装に身を包み、まるで社交界へ出るような顔をしていた。


 ギルバートの目が冷たく細まる。


「何の用だ」


「何の用とは何だ!」


 男爵は鼻息荒く叫ぶ。


「この娘は元々、我が家の者ですぞ!」


 エルサの身体が強張る。


 昔からそうだった。


 父はいつも怒鳴る。


 逆らえば叩かれる。


「エルサ、帰りますよ」


 母が冷たく言った。


「え……」


「あなたには別の縁談があるの」


 クラリスが扇で口元を隠しながら笑う。


「公爵夫人なんて、地味なあなたには荷が重かったでしょう?」


 エルサの顔が青ざめる。


 ギルバートが一歩前へ出た。


「エルサは私の妻だ」


「形だけでしょう?」


 男爵は嘲るように笑う。


「どうせ愛されてもいない娘です。代わりにクラリスを――」


「黙れ」


 低い声だった。


 空気が震える。


 ギルバートの瞳には、かつて戦場で“氷の英雄”と恐れられた冷気が宿っていた。


 男爵が息を呑む。


 だがその時。


 エルサがそっとギルバートの袖を掴んだ。


「……ギルバート様」


 震える声。


 その顔を見た瞬間、ギルバートの胸が嫌な音を立てた。


 怯えている。


 昔からずっと、こうして傷つけられてきた顔だった。


「少しだけ、話をしてきます」


「エルサ」


「大丈夫です」


 彼女は無理に笑った。


 けれどその笑顔は、泣きそうに揺れていた。


 ギルバートは instinctively 手を伸ばしかける。


 だがその前に、男爵がエルサの腕を乱暴に掴んだ。


「行くぞ」


「っ……」


 エルサの小さな身体が揺れる。


 ギルバートの胸の奥で、何かが激しく軋んだ。


 玄関の扉が閉まる。


 春の陽射しが消える。


 静まり返ったホールに、エルサの残した温かな香りだけが、かすかに残っていた。



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