第7話 美味しい、という涙
第7話 美味しい、という涙
春の雨が静かに窓を叩いていた。
冬の鋭さを失った雨音はどこか柔らかく、ヴァルハルト公爵邸を薄い霧のように包み込んでいる。
厨房では朝から甘い香りが漂っていた。
炒った木の実の香ばしさ。
溶ける蜂蜜の匂い。
温めた牛乳の優しい甘さ。
鍋を混ぜながら、エルサはそっと目を伏せる。
「……これで、よかったでしょうか」
胡桃を細かく砕き、蜂蜜と一緒に煮込む。
最後に少しだけ塩を加える。
甘みを引き立てるためだ。
昔、厨房で働いていた老料理人が教えてくれた。
「甘いだけじゃ、人は飽きる。ほんの少しの塩が、幸せをちゃんと美味しくするんだ」
その言葉を、エルサは今でも覚えている。
鍋から立つ湯気は柔らかく、どこか懐かしい香りがした。
セドリックが静かに近づいてくる。
「出来ましたか」
「はい。でも……」
エルサは少し不安そうに鍋を見つめた。
「思い出の味って難しいですね」
「なぜです?」
「料理って、その時の気持ちまで一緒に残るでしょう?」
エルサは木匙を握りしめる。
「だから同じ材料を使っても、同じ味になるとは限らない気がして」
セドリックはしばらく黙っていた。
そして静かに頷く。
「……ですが奥様」
「はい?」
「旦那様は、きっと嬉しいと思います」
エルサは驚いたように目を瞬かせた。
その時だった。
厨房の扉が開く。
「……何をしている」
低い声。
振り返ると、ギルバートが立っていた。
黒い上着姿のまま、少し疲れた顔をしている。
けれど以前ほど冷たい目ではなかった。
厨房の料理人たちが慌てて頭を下げる。
「旦那様!」
「騒ぐな」
ギルバートの視線がエルサへ向く。
「また夜食か」
「今日は違います」
「……?」
エルサは少しだけ緊張した顔で器を差し出した。
「ギルバート様の、お母様の料理です」
一瞬。
空気が止まった。
ギルバートの瞳がゆっくり細まる。
「誰に聞いた」
「セドリックさんに」
「余計なことを」
低く吐き捨てる。
だがその声には、いつもの刺々しさがなかった。
エルサは器を両手で持ったまま、真っ直ぐ彼を見る。
「食べてほしかったんです」
「……なぜ」
「大切な思い出だからです」
その言葉に、ギルバートの喉がわずかに動く。
思い出。
そんなもの、もうずっと遠い場所に置いてきたと思っていた。
戦場で血の匂いに囲まれながら、人は簡単に死ぬのだと知った。
信じていた婚約者は、自分が遠征中に別の男と逃げた。
母はもういない。
温かな食卓も、優しい声も、全部過去に消えた。
だから忘れた。
忘れなければ、生きていけなかった。
なのに。
目の前の女は、勝手にそこへ触れてくる。
「……勝手な女だ」
掠れた声だった。
エルサは困ったように笑う。
「よく言われます」
以前と同じ返事。
だが今は、その声を聞くと妙に胸がざわつく。
ギルバートは器を受け取った。
温かい。
掌へじんわり熱が伝わる。
甘い香りが鼻先をくすぐった。
胡桃。
蜂蜜。
牛乳。
遠い昔、確かに嗅いだ匂い。
小さな頃、暖炉の前で母が笑っていた。
『ギル、熱いから気をつけてね』
『もっと蜂蜜入れて』
『ふふ、甘えん坊ね』
記憶が、不意に胸を刺した。
ギルバートは眉を寄せる。
こんなもの、思い出したくなかった。
なのに。
「……食べないんですか?」
エルサの声が優しい。
ギルバートは黙ったまま匙を口へ運ぶ。
その瞬間だった。
ふわり、と。
世界が変わった。
甘い。
優しい甘さだった。
蜂蜜の柔らかな甘味。
木の実の香ばしさ。
牛乳のまろやかさ。
ほんの少しの塩気。
全部が鮮明に舌へ広がる。
熱い。
甘い。
香ばしい。
美味しい。
次々と感覚が押し寄せた。
ギルバートの手が震える。
「……っ」
喉が詰まる。
視界が滲む。
ぽたり、と雫が器へ落ちた。
厨房が静まり返る。
エルサが息を呑む。
「ギルバート様……?」
ギルバートは自分の頬に触れた。
濡れている。
涙だった。
「……なんで」
掠れた声が零れる。
何年ぶりかわからなかった。
泣いたのは。
味がする。
ちゃんと、味がわかる。
ずっと灰色だった世界へ、急に色が戻ってきたみたいだった。
「……美味い」
震える声だった。
「……美味い……」
エルサの目が大きく揺れる。
次の瞬間、彼女は泣きそうな顔で笑った。
「よかった……!」
その顔を見た瞬間。
ギルバートの胸へ、鋭い痛みが走った。
思い出す。
床へ叩き落したスープ。
冷たい言葉。
『気味が悪い』
『二度とするな』
なのに彼女は諦めなかった。
傷ついても、笑っていた。
自分のために、料理を作り続けていた。
ギルバートは唇を噛む。
胸が苦しい。
今まで感じなかった感情が、一気に押し寄せてくる。
「……私は」
声が掠れる。
「お前を……」
酷く傷つけていた。
その言葉が喉で詰まる。
エルサは静かに首を振った。
「いいんです」
「よくない」
ギルバートは初めて、彼女を真っ直ぐ見た。
小さな身体。
細い指。
優しい目。
この人は、ずっと自分を温めようとしていたのだ。
凍りきった心を。
一人ぼっちだった食卓を。
「……なぜ」
ギルバートの声は震えていた。
「なぜ、そこまでできる」
エルサは少し考えて、それからふわりと笑う。
「だって、美味しいものを食べる時って、幸せでしょう?」
その瞬間。
ギルバートの胸の奥で、何かが崩れ落ちた。
長い間閉ざしていた扉が、ゆっくり開いていく。
厨房には温かな匂いが満ちていた。
甘くて、優しくて。
泣きたくなるほど、幸せな匂いだった。




