第6話 あなたに味わってほしいもの
第6話 あなたに味わってほしいもの
雪解けの雫が、軒先からぽたりぽたりと落ちていた。
長い冬が少しずつ終わりを告げ始めている。
けれどヴァルハルト公爵邸の朝は相変わらず早かった。
まだ空が薄青い頃、厨房ではすでに火が焚かれている。
ぱちぱちと薪の爆ぜる音。煮込み鍋から立ち上る白い湯気。焼きたてのパンの香ばしい匂い。
その真ん中で、エルサは真剣な顔をして胡桃を砕いていた。
「……もう少し細かい方がいいでしょうか」
すり鉢の中で木の実がごりごりと音を立てる。
横ではミレーユが不思議そうに覗き込んでいた。
「奥様、それ何作ってるんです?」
「ギルバート様の身体に良いものです」
「身体に?」
「はい。味覚って、疲れたり、栄養が足りなくなったりすると弱ってしまうことがあるんです」
エルサは手を止め、少し考えるように目を伏せた。
「昔、厨房の料理人さんに教わりました。亜鉛を含む食べ物がいいって」
「アエン?」
「貝とか、お肉とか、木の実とかですね」
ミレーユはぽかんと口を開ける。
「そんなことまで知ってるんですか……」
「食べることって、生きることですから」
エルサは柔らかく笑った。
その笑顔を見ると、不思議と厨房の空気まで温かくなる。
今では料理人たちも、彼女を追い出そうとはしなかった。
むしろ。
「奥様、ホタテ届きましたぜ」
「こっちの牛肉、赤身が良さそうですよ」
「胡麻なら倉庫にまだあります」
あれこれ世話を焼いてくる。
料理長ですら、最近は露骨に邪険にはしなくなっていた。
「……随分、懐かれましたね」
低い声がして振り返る。
セドリックだった。
老執事は厨房を見回し、わずかに口元を緩める。
以前は冷え切っていた場所だ。
必要最低限の会話しかなく、笑い声などほとんど聞こえなかった。
それが今では違う。
湯気の向こうで、誰かが笑っている。
エルサは少し照れたように笑った。
「皆さん優しいんです」
「奥様が変えたのですよ」
「え?」
「この屋敷を」
セドリックの声は静かだった。
エルサは困ったように首を振る。
「そんな大層なことじゃありません」
「旦那様も、最近は食事を残されなくなりました」
その言葉に、エルサの顔がぱっと明るくなる。
「本当ですか?」
「ええ。特に奥様の作ったものは」
胸の奥がじんわり熱くなった。
嬉しい。
ただそれだけで、こんなに幸せになれるなんて。
「今日は何を作るのです?」
「貝と木の実の煮込みです」
エルサは鍋へ視線を落とす。
「貝には亜鉛が多いでしょう? それに木の実も」
「……旦那様の味覚のためですか」
「はい」
迷いのない返事だった。
セドリックはしばらく彼女を見つめ、それから静かに息を吐いた。
「旦那様は、幸せになることを恐れておられるのです」
エルサの手が止まる。
「恐れて……?」
「幸せは失う。そう思っておられる」
厨房の火がぱちりと鳴った。
エルサは静かに鍋を混ぜる。
牛乳の甘い香り。
貝の旨味。
炒った胡麻の香ばしさ。
優しい匂いが立ち昇る。
「でも」
エルサはぽつりと言った。
「温かいものを食べてる時って、少しだけ安心できませんか?」
セドリックは答えなかった。
ただ、その横顔はどこか寂しそうだった。
夜。
ギルバートは執務室で眉間を押さえていた。
机には食べかけの夕食が並んでいる。
豪華な肉料理。
濃厚なソース。
高級ワイン。
だが食欲は湧かなかった。
舌に広がるのは、曖昧な苦みだけ。
「……まずい」
いや、味そのものがよくわからない。
最近は少しだけ温度や香りを感じる。
だが時折、妙な苦味が口へ残った。
何を食べても砂を噛むようだった。
その時。
扉が小さく叩かれる。
「入れ」
静かに開いた扉の向こうに、エルサが立っていた。
両手には小さな鍋。
湯気がふわふわ揺れている。
ギルバートは露骨に顔をしかめた。
「またか」
「またです」
エルサは少し笑う。
最近、彼女は時々こうして夜食を持ってくるようになっていた。
ギルバートは毎回断ろうとする。
だが気づけば食べてしまっている。
不本意だった。
「今日は何だ」
「貝と木の実の煮込みです」
「……奇妙な組み合わせだな」
「身体にいいんですよ」
エルサは器へよそいながら言う。
「味がわかりにくい時って、香りとか出汁が大事なんです。あと、少し酸味を入れたり」
「酸味?」
「はい。今日は少しだけレモンを使いました」
ふわり、と香りが広がる。
貝の旨味。
牛乳の甘い匂い。
炒った胡麻の香ばしさ。
そこへ柑橘の爽やかな香りが混じっていた。
ギルバートの腹が小さく鳴る。
エルサが笑いを堪える。
「笑うな」
「ごめんなさい」
差し出された器を、ギルバートは渋々受け取った。
温かい。
掌へ熱が染みる。
匙を口へ運ぶ。
とろり、とした舌触り。
その瞬間だった。
ふっと。
ほんのわずかに、塩味を感じた。
ギルバートの目が見開かれる。
「……これは」
「え?」
「少し……わかる」
エルサが息を呑む。
「本当ですか?」
「気のせいかもしれん」
「それでも嬉しいです」
エルサは本当に嬉しそうに笑った。
ギルバートはその顔から目を逸らす。
胸の奥が妙に落ち着かなかった。
「……お前は」
「はい?」
「なぜそこまで私に構う」
エルサは少し考えてから、小さく微笑んだ。
「幸せになってほしいからです」
その言葉に、ギルバートの指先が止まる。
幸せ。
そんなもの、自分には関係ないと思っていた。
戦場で人が死ぬのを見た。
信じた者に裏切られた。
愛すると失う。
だから最初から何も求めなければいい。
そうやって生きてきた。
なのに。
目の前の女は、当たり前みたいに「幸せになってほしい」と言う。
ギルバートは器を見つめた。
立ち昇る湯気。
柔らかな匂い。
身体の奥へ染み込む熱。
そして向かいで笑う、小さな公爵夫人。
胸のどこかが、じわりと軋んだ。
それが痛みなのか、別の何かなのか。
彼にはまだわからなかった。




