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第5話 あなたの好きだった味

第5話 あなたの好きだった味


 朝の厨房には、焼きたてのパンの匂いが満ちていた。


 ぱちぱちと薪が爆ぜる音。大鍋の煮える音。忙しなく動く料理人たちの声。以前は冷たく感じていたその場所も、最近は少しだけ空気が変わっていた。


「そこの野菜、早く運べ!」


「はいはい、今やってる!」


「焦がすなよ!」


 怒鳴り声の合間に、くすくすと笑う声まで混じる。


 エルサは厨房の隅で、小さく目を細めた。


 最初は誰も口をきいてくれなかった。


 視線すら向けてもらえなかった。


 けれど今は違う。


 露骨な敵意は減り、挨拶を返してくれる人も増えた。


 理由はきっと、あの夜だ。


 ギルバートが初めて「温かい」と呟いた夜。


 あれから数日、ギルバートは時折、深夜の厨房へ現れるようになった。


「……また茶漬けか」


 不機嫌そうに言いながら、結局全部食べる。


 味はまだ戻っていないらしい。


 けれど温度や香りは少しずつ感じるようになっていた。


 エルサは嬉しかった。


 だからもっと、彼に食べてもらいたかった。


 もっと、幸せを感じてもらいたかった。


「奥様」


 低い声に振り返る。


 セドリックだった。


「おはようございます」


「随分早いですね」


「パン生地を発酵させていました」


 エルサは粉だらけの手を見せて笑う。


 セドリックは少しだけ目を細めた。


「旦那様は本日も執務室へ籠もっておられます」


「朝食は?」


「ほとんど召し上がっておりません」


 エルサの眉が下がる。


「やっぱり……」


 彼女は小さく考え込んだ。


 ギルバートは少しずつ変わっている。


 だがまだ食事を“楽しむ”ところまではいっていない。


 何かが足りない。


 そう思った。


「セドリックさん」


「はい」


「ギルバート様って、小さい頃はどんなものがお好きだったんですか?」


 老執事の動きが止まる。


「……どうしてそのようなことを」


「人って、懐かしい味を食べると安心するでしょう?」


 エルサは柔らかく笑った。


「だから、思い出の味なら少し違うかなって」


 セドリックはしばらく黙っていた。


 窓の外では白い雪が静かに降っている。


 やがて彼は、小さく息を吐いた。


「旦那様が幼い頃、奥様――つまりお母上がよく作っておられた料理があります」


「お母様の……」


「木の実の煮込みです」


「木の実?」


「ええ。砕いた木の実と蜂蜜、牛乳を使った古い郷土料理です。戦場へ行かれる前までは、よく召し上がっておられました」


 ギルバートの母。


 彼女はギルバートが十五の時に病で亡くなったと聞いている。


 エルサは胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。


「食べたら、思い出してくださるでしょうか」


「……どうでしょうな」


 セドリックの目が少しだけ遠くなる。


「旦那様は奥様が亡くなられてから、ほとんど笑わなくなられました」


 その声には長年の痛みが滲んでいた。


 エルサは静かに頷く。


「作ってみます」


「簡単な料理ではありませんぞ」


「はい。でも、食べてほしいんです」


 セドリックはその横顔を見つめた。


 どうしてこの少女は、ここまで誰かのために動けるのだろう。


 見返りもないのに。


 傷つけられてもなお。


 不思議な人だ、と老執事は思った。


 昼過ぎ。


 エルサは市場へ出ていた。


 冬の市場は寒い。


 白い息が行き交い、人々は厚手の外套へ身を包んでいる。


 焼き栗の香り。


 燻製肉の匂い。


 威勢のいい商人の声。


 エルサは露店を覗き込みながら、小さく目を輝かせた。


「これ……胡桃ですね」


「おうよ! 今年は出来がいいぞ!」


「こちらもください」


 木の実を選びながら、エルサは少し楽しくなっていた。


 誰かの好きなものを探す時間は、どうしてこんなに温かいのだろう。


 ギルバートはきっと知らない。


 誰かが自分のために料理を考える幸せを。


 帰宅した頃には、空が茜色に染まっていた。


 厨房へ戻ると、若いメイドが慌てて近づいてくる。


「ちょ、ちょっと!」


「はい?」


「その……危ないです!」


「え?」


 次の瞬間だった。


 ぐらり、と大鍋が傾く。


 熱湯が床へ零れそうになる。


 エルサが咄嗟に手を伸ばしたその時、メイドが彼女を引き寄せた。


「危ないって言ったでしょう!」


 熱湯が床へ散る。


 じゅうっと白い湯気が上がった。


 エルサは目を丸くする。


「ありがとうございます……!」


「べ、別に!」


 赤毛のメイドはぷいっと顔を逸らした。


 以前、食堂で無視していた少女だった。


 エルサは柔らかく笑う。


「優しいんですね」


「ち、違います! 仕事増えるの嫌なだけです!」


 顔を真っ赤にして怒鳴る。


 厨房の料理人たちが吹き出した。


「ミレーユ、お前わかりやすすぎるだろ!」


「うるさい!」


 わいわいと笑い声が広がる。


 その空気に、エルサは少し驚いた。


 この厨房で、こんな笑い声を聞く日が来るなんて。


 その夜。


 エルサは木の実を丁寧にすり潰していた。


 胡桃、アーモンド、少しの蜂蜜。


 牛乳を弱火で煮込み、ゆっくり混ぜる。


 甘く香ばしい匂いが漂う。


「いい匂い……」


 ミレーユが思わず呟いた。


「味見しますか?」


「えっ」


「熱いので気をつけてくださいね」


 差し出された匙を、ミレーユは恐る恐る口へ運ぶ。


 次の瞬間、目を見開いた。


「……おいしい」


 ぽつりと零れた声。


 優しい甘さだった。


 冬の夜に毛布へ包まれたみたいな味。


 エルサは嬉しそうに笑う。


「よかった」


 ミレーユはなぜか胸が熱くなる。


 この人は、誰かが美味しいと言うだけで、こんな顔をするのか。


 その時だった。


「何をしている」


 低い声。


 振り返ると、ギルバートが立っていた。


 黒い外套姿のまま、こちらを見ている。


 ミレーユは慌てて頭を下げた。


「だ、旦那様!」


 ギルバートの視線が鍋へ向く。


「……また妙なものを作っているな」


 エルサは少し笑った。


「ギルバート様の好きだった味です」


 一瞬。


 ギルバートの表情が止まる。


「……誰に聞いた」


「セドリックさんに」


「余計なことを」


 低く吐き捨てる声。


 だが以前ほど鋭くない。


 エルサは器へ木の実の煮込みをよそう。


「少しだけでもいかがですか?」


 ギルバートは黙ったまま器を見つめる。


 甘い香りがする。


 懐かしいような、遠い記憶を揺らす匂い。


 胸の奥が妙にざわついた。


 その時だった。


「……奥様」


 小さな声。


 エルサが振り返る。


 ミレーユは頬を赤くしながら俯いていた。


「その、私……お手伝いします」


 厨房が静まり返る。


 エルサの目が大きく開かれる。


「……はい」


 ふわり、と彼女は笑った。


 その笑顔を見た瞬間、ミレーユはなぜか泣きそうになった。


 冷え切っていた厨房に、今夜も温かな匂いが満ちていた。



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