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第4話 おこげの香り

第4話 おこげの香り


 夜半を過ぎた公爵邸は、墓所のように静かだった。


 廊下に並ぶ燭台の火は小さく、長い影が床へ落ちている。窓の外では冬の風が木々を鳴らし、遠くで雪混じりの雨が石畳を叩いていた。


 ギルバートは書類から顔を上げ、深く息を吐いた。


 机の上には未処理の報告書が山積みになっている。


 軍備の確認。


 領地の税収。


 国境付近の魔獣被害。


 どれも急ぎの案件だった。


 だが頭が鈍く重い。


 熱は下がったものの、身体の奥に鉛を流し込まれたような怠さが残っていた。


「……くそ」


 こめかみを押さえる。


 窓の外は真っ暗だ。


 どれだけ時間が経ったのかもわからない。


 夕食は運ばれてきていたが、ほとんど手をつけていない。


 どうせ味などしない。


 噛むことすら億劫だった。


 その時だった。


 ふわり、と。


 どこか香ばしい匂いが漂ってきた。


 ギルバートの眉がぴくりと動く。


「……何だ」


 焦げた醤油のような匂い。


 炭火に近い香ばしさ。


 それでいて不思議と優しい。


 鼻先をくすぐるその匂いは、静かな屋敷の中で妙に鮮明だった。


 ギルバートはゆっくり立ち上がる。


 気づけば足が動いていた。


 長い廊下を進む。


 近づくほど匂いは濃くなる。


 そして厨房前まで来た時、かすかな声が聞こえた。


「……もう少しでしょうか」


 女の声だった。


 扉の隙間から、暖かな灯りが漏れている。


 ギルバートは眉をひそめながら扉を押し開けた。


 ぱちり、と薪が爆ぜる音。


 そこは昼間とは別世界だった。


 大鍋の並ぶ広い厨房の隅で、小さな火が赤く揺れている。


 エルサはしゃがみ込み、小さな網の上で丸い何かを焼いていた。


「あ……」


 彼女は驚いたように顔を上げる。


「ギルバート様」


「何をしている」


 低い声。


 だが以前ほど刺々しくはなかった。


 エルサは少し困ったように笑う。


「夜食です」


「夜食?」


「余ったご飯がありましたので」


 網の上では、こんがり焼けた丸い米の塊がじゅうじゅう音を立てていた。


 表面には薄く醤油が塗られているのか、香ばしい匂いが漂っている。


 その横には湯気を立てる小鍋。


 鰹と昆布の出汁の香りが、柔らかく空気へ溶け込んでいた。


 ギルバートの腹が、小さく鳴る。


 沈黙。


 エルサがぱちぱち瞬きをする。


 ギルバートは露骨に顔をしかめた。


「……聞かなかったことにしろ」


「ふふ」


「笑うな」


「申し訳ありません」


 エルサは肩を揺らしながら、小さな器を取り出した。


「よろしければ召し上がりますか?」


「断る」


 即答だった。


 だがその瞬間、再び腹が鳴った。


 しかも今度はさっきより大きい。


 厨房の静けさの中で、やけにはっきり響いた。


 エルサは必死に笑いを堪えている。


 ギルバートは額を押さえた。


「……最悪だ」


「お仕事、お忙しかったのですね」


「余計な詮索はするな」


「では詮索ではなく心配にします」


「何が違う」


「気持ちです」


 意味がわからん、とギルバートは吐き捨てた。


 だがエルサは全く怯えない。


 彼女は焼き上がったそれを椀へ入れると、熱い出汁を注いだ。


 じゅわっ、と香ばしい音が立つ。


 湯気がふわりと立ち昇った。


 焼けた米の匂い。


 出汁の優しい香り。


 細かく刻んだ薬味の青い匂い。


 冬の冷えた空気の中で、それは妙に温かそうに見えた。


「どうぞ」


 差し出された椀を、ギルバートは睨む。


「……毒でも入っているのか」


「入っていたら私も食べません」


 エルサは自分の椀を見せた。


 確かに同じものだった。


 ギルバートはしばらく無言だったが、やがて諦めたように椀を受け取る。


 掌へじんわり熱が伝わる。


 その感覚に、わずかに眉が寄った。


 温かい。


 ただそれだけのことなのに、妙に違和感があった。


「冷めますよ」


「……わかっている」


 渋々、匙で出汁を口へ運ぶ。


 その瞬間。


 ふわり、と何かが胸へ落ちた。


 熱。


 柔らかな熱だった。


 喉を通り、冷え切った身体の奥へ染み込んでいく。


「……あ」


 思わず声が漏れる。


 味は、まだよくわからない。


 だが。


 温かい。


 本当に久しぶりに、そう感じた。


 ギルバートは目を見開いたまま固まっていた。


 エルサが不安そうに覗き込む。


「お口に合いませんでしたか?」


「……いや」


 言葉が詰まる。


 胸の奥が妙にざわついていた。


 湯気が視界をぼやけさせる。


「……温かい」


 掠れた声だった。


 エルサの目が大きく開かれる。


「え……?」


「熱いとか冷たいとか、そういう感覚はあった。だが……」


 ギルバートは椀を見つめた。


 立ち上る湯気。


 香ばしい匂い。


 指先へ伝わる熱。


「こんなふうに感じたのは、久しぶりだ」


 エルサは息を呑んだあと、花が咲くように笑った。


「よかった……!」


 その笑顔に、ギルバートはなぜか目を逸らした。


「大袈裟だ」


「でも嬉しいです」


「……お前は変な女だな」


「よく言われます」


 以前と同じ返事。


 だが今夜は、なぜか少しだけ違って聞こえた。


 ギルバートは再び茶漬けを口へ運ぶ。


 焼けた米の香ばしさ。


 優しい出汁。


 薬味の爽やかな香り。


 味は曖昧だ。


 それでも身体の奥が少しずつ解けていくようだった。


 気づけば、匙が止まらない。


 エルサは向かいで静かに微笑んでいる。


 その顔を見ていると、奇妙に落ち着かなかった。


「……お前は」


「はい?」


「なぜそこまで笑える」


 エルサは少し考え、それから小さく湯気へ目を細めた。


「温かいものを食べている時は、幸せだからです」


 薪がぱちりと爆ぜる。


 ギルバートは何も答えなかった。


 ただ、胸の奥に小さな熱が灯った気がした。


 それが何なのか、彼にはまだわからなかった。



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