第9話 君のいない食卓
第9話 君のいない食卓
エルサがいなくなって三日が経っていた。
ヴァルハルト公爵邸は、まるで冬へ逆戻りしたようだった。
廊下は静かで、厨房から笑い声は消えている。
以前と同じはずなのに、何かが決定的に違った。
暖炉には火が入っている。
窓から春の陽射しも差し込んでいる。
それなのに寒い。
どうしようもなく寒かった。
「旦那様、お食事をお持ちしました」
セドリックの声が食堂へ響く。
長いテーブルには豪華な料理が並んでいた。
香草をまぶした仔羊のロースト。
魚介のスープ。
焼きたての白パン。
高級ワイン。
どれも一流の料理人が作った完璧な食事だった。
だが。
ギルバートはナイフを持ったまま動かなかった。
静かすぎる。
食堂が。
以前はエルサがいた。
『今日は少し塩を控えめにしたんです』
『焼きたてですよ』
『温かいうちにどうぞ』
あの柔らかな声が、どこにもない。
「……旦那様?」
セドリックが不安そうに呼ぶ。
ギルバートは無言でスープを口へ運んだ。
濃厚な旨味。
香辛料。
丁寧な味付け。
確かに味はする。
完全に味覚は戻っている。
なのに。
「……まずい」
ぽつりと零れた声に、セドリックが目を見開く。
「そのようなはずは」
「違う」
ギルバートはゆっくり目を閉じた。
「味はする」
だが美味しくない。
胸が空っぽだった。
食事が、ただの作業に戻っている。
エルサがいないだけで。
たったそれだけで。
「……旦那様」
「下げろ」
「しかし」
「食欲がない」
セドリックは何か言いかけ、そして静かに頭を下げた。
食器の触れ合う音だけが虚しく響く。
ギルバートは椅子へ深く座り込み、額を押さえた。
頭の奥が重い。
いや。
苦しいのは胸だった。
なぜ、あの時止めなかった。
どうしてエルサを一人で行かせた。
彼女は怯えていた。
笑っていたのに、泣きそうだった。
なのに自分は。
「……馬鹿だ」
低い声が静かな食堂へ落ちる。
エルサが来る前の自分なら、こんな感情は抱かなかった。
一人で食事をして、一人で眠り、一人で生きる。
それでいいと思っていた。
誰かと関われば失う。
だから最初から求めなければいい。
そうやって閉ざしてきた。
なのに彼女は。
勝手に暖炉へ火を灯すみたいに、この屋敷を温めてしまった。
焼きたてのパンの匂い。
夜中の出汁茶漬け。
厨房の笑い声。
自分へ向けられる柔らかな眼差し。
『温かいものを食べると、人は少し幸せになれます』
エルサの声が蘇る。
胸の奥がぎり、と痛んだ。
「……幸せ」
その言葉を口にした瞬間、ギルバートははっと顔を上げた。
今、ようやく理解した。
美味しかったのは料理だけじゃない。
幸せだったのだ。
彼女と食卓を囲む時間が。
誰かが自分を待っている空間が。
「美味しい」と笑い合う時間が。
「……私は」
掠れた声が震える。
「彼女といる時間が、幸せだったのか」
その事実が胸を殴った。
あまりにも遅かった。
ギルバートは拳を強く握る。
エルサは今、あの家にいる。
冷たい実家に。
彼女を“役立たず”と呼び続けた人間たちの元に。
ぞわり、と嫌な想像が胸を掠めた。
食事はちゃんと摂れているか。
泣いていないか。
また一人で我慢していないか。
ギルバートは勢いよく立ち上がる。
椅子が大きな音を立てた。
その時だった。
ぱたぱたと足音が近づく。
「旦那様!」
ミレーユだった。
息を切らしながら駆け込んでくる。
「何だ」
「リーベルト家の使用人から話を聞きました!」
彼女の顔は青ざめていた。
「奥様、部屋へ閉じ込められてるって……!」
空気が凍る。
ギルバートの瞳から一瞬で熱が消えた。
「……何だと」
「食事もほとんど与えられてないって……! 奥様、ずっと逆らわないから……!」
ギルバートの中で、何かが切れた。
低い殺気が食堂へ満ちる。
セドリックですら息を呑んだ。
戦場で何千もの兵を震え上がらせた“氷の英雄”の気配だった。
「馬を出せ」
低い声。
それだけで空気が震える。
「旦那様」
「今すぐだ」
ミレーユが涙目で叫ぶ。
「私も行きます!」
「お前は留守番だ」
「でも!」
「エルサが戻ってきた時、温かい食事を出してやれ」
その言葉に、ミレーユの目からぽろりと涙が零れた。
「……はいっ」
ギルバートは黒い外套を羽織る。
胸の奥が激しく疼いていた。
怖かった。
もし彼女が傷ついていたら。
もし自分を嫌いになっていたら。
あれほど酷いことをした自分を。
それでもエルサは、笑ってくれるだろうか。
「旦那様」
セドリックが静かに頭を下げる。
「奥様を、お願いいたします」
ギルバートは短く頷いた。
扉が大きく開かれる。
春の夜風が吹き込んだ。
冷たいはずなのに、不思議ともう寒くなかった。
向かう場所がある。
帰ってきてほしい人がいる。
それだけで、心の奥に火が灯る。
ギルバートは馬へ飛び乗った。
夜の闇を裂くように、駆け出す。
胸の中には、ただ一つの想いだけがあった。
――エルサに会いたい。
もう一度、あの笑顔を見たい。
温かな食卓へ、帰ってきてほしい。




