第2話 冷たい食卓
第2話 冷たい食卓
朝の鐘が七つ鳴った頃、エルサは薄い毛布から静かに身を起こした。
吐く息が白い。
窓辺にはうっすらと霜が張りつき、灰色の空からは細かな雪が舞っていた。
「……寒いですね」
小さく呟いて、自分で少し笑う。
昨夜通されたこの部屋は、公爵夫人の部屋とは思えないほど質素だった。家具は最低限で、暖炉にも火は入っていない。
けれど、リーベルト家の屋根裏部屋よりはずっと立派だ。
そう思えば十分だった。
エルサは簡素なドレスへ着替え、髪をまとめる。鏡に映る自分は相変わらず地味だった。蜂蜜色の髪も、少し垂れた目元も、社交界で称賛されるような華やかさはない。
姉のクラリスなら、この屋敷でもすぐに人々を魅了しただろう。
だが自分は違う。
だからせめて、迷惑だけはかけないようにしよう。
そう思いながら廊下へ出ると、すれ違ったメイドがぴたりと動きを止めた。
「あ……」
若いメイドは露骨に困惑した顔をしたあと、慌てて頭を下げる。
「お、おはようございます」
「おはようございます」
エルサが微笑むと、メイドはなぜか気まずそうに視線を逸らした。
そのまま逃げるように去っていく。
冷たい空気だけが残った。
エルサは少し首を傾げる。
嫌われている、というより。
どう接していいかわからない、という空気だった。
階下の食堂へ向かうと、長いテーブルの上には銀食器が整然と並んでいた。
だが席についても、誰も料理を運んでこない。
使用人たちは遠巻きに立っているだけだ。
エルサは静かに待った。
一分。
五分。
十分。
やがて一人のメイドが無愛想に皿を置いた。
硬くなった黒パン一つ。
冷えた薄いスープ。
それだけだった。
メイドは目も合わせない。
「……ありがとう」
エルサが言うと、メイドは驚いたような顔をして去っていった。
エルサはスープを口へ運ぶ。
冷たい。
塩気もほとんどない。
けれど彼女は文句を言わなかった。
食べられるだけ幸せだ。
そう思うのは、幼い頃からの癖だった。
だがその時、食堂の奥から低い声が響いた。
「旦那様のお食事をお持ちしました」
視線を向けると、数人の使用人が豪華な料理を運んでいる。
焼きたての白パン。
肉のロースト。
湯気を立てる濃厚なシチュー。
香辛料の香りがふわりと広がり、エルサの腹が小さく鳴った。
だが料理はそのまま別室へ消えていく。
公爵はいつも一人で食事をするらしい。
エルサは少しだけ寂しそうに目を伏せた。
こんなに美味しそうなのに。
一人で食べるのは、きっと味気ない。
「奥様、お食事はお済みですか」
振り返ると、老執事セドリックが立っていた。
白髪混じりの髪をきっちり撫でつけ、背筋を真っ直ぐ伸ばしている。
「はい。とても美味しかったです」
セドリックの片眉がわずかに動いた。
どう見ても美味しい食事ではなかったからだ。
だがエルサは本気で言っているらしい。
「……そうですか」
「ギルバート様は、いつもお一人で?」
「旦那様は他人との食事を好まれません」
「そうなのですね」
エルサは少しだけ悲しそうに微笑んだ。
「寂しいですね」
セドリックは答えなかった。
いや、答えられなかった。
この屋敷で“寂しい”という感情を口にした人間を、彼は何年も見ていなかったからだ。
昼過ぎ。
エルサは屋敷の裏庭へ出ていた。
雪の残る庭は静かで、白い息だけが空へ溶けていく。
だが片隅には、小さな薬草畑が残っていた。
「あ……タイム」
エルサの目が少し輝く。
「ローズマリーも……」
指先で葉を擦ると、爽やかな香りがふわりと広がった。
懐かしい匂いだった。
昔、厨房の隅でこっそり料理を覚えた頃を思い出す。
エルサは静かに籠へ薬草を摘み始めた。
その時だった。
「何をしている」
低い声。
振り返ると、料理長らしい男が立っていた。
恰幅の良い中年男で、眉間に深い皺を寄せている。
「申し訳ありません。少し薬草を……」
「勝手なことをされては困る」
「……はい」
「厨房への立ち入りも許可されていない」
冷たい口調だった。
「奥様だからといって特別扱いはできませんので」
エルサは小さく頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
男は鼻を鳴らして去っていく。
雪を踏む音だけが残った。
エルサはしばらく立ち尽くしていたが、やがて小さく息を吐いた。
「困らせてしまいましたね……」
けれど、捨てられた薬草まで放置するのはもったいない。
エルサは周囲を見回し、誰もいないのを確認すると、そっと落ちていた野菜くずを拾い始めた。
少し傷んだ人参。
芯に近いキャベツ。
硬いパンの端。
工夫すれば、十分スープになる。
日が落ちる頃。
使用人たちが休憩へ向かった隙に、エルサは小さな厨房の隅を借りた。
鍋へ水を張る。
野菜を刻む音が静かな厨房に響く。
とん、とん、とん。
包丁を握ると、不思議と心が落ち着いた。
ローズマリーを加える。
じわりと香りが立つ。
小さな鍋から立ち上る湯気は、冷え切った厨房の空気をほんの少しだけ柔らかくした。
「いい匂い……」
エルサは小さく笑った。
野菜くずのスープ。
贅沢とは程遠い。
けれど丁寧に煮込めば、ちゃんと人を温められる。
木匙でそっと味を見る。
薄い。
でも優しい味だった。
その時。
「……何をしておられるのです」
背後から声がした。
驚いて振り返ると、セドリックが立っていた。
エルサは慌てて頭を下げる。
「も、申し訳ありません! 勝手に厨房を……」
「叱っているわけではありません」
老執事は静かに鍋を見つめた。
立ち上る湯気。
薬草の香り。
温かな匂い。
この屋敷では、随分久しく感じていなかった空気だった。
「それを、どうなさるおつもりで」
「え?」
「そのスープです」
エルサは少し恥ずかしそうに笑った。
「捨てられる食材がもったいなくて……。あと、もしよかったら、夜食にしようかなと」
「ご自分のために?」
するとエルサは首を振った。
「ギルバート様、お忙しそうでしたから」
セドリックの目がわずかに見開かれる。
「温かいものを飲むと、少し楽になりますので」
静かな声だった。
押しつけがましさは欠片もない。
ただ本当に、相手の体を案じている声だった。
セドリックはしばらく黙っていたが、やがてぽつりと呟いた。
「旦那様は、味覚を失っておられます」
エルサの目が大きく揺れる。
「……え」
「何を食べても味がしないそうです」
鍋の湯気がゆらゆらと揺れた。
エルサはそっとスープを見つめる。
こんなにも温かな匂いがするのに。
何も感じられないなんて。
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
「……それは、とても寂しいですね」
その言葉に、セドリックはゆっくり目を閉じた。
外では雪が静かに降り続いていた。




