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第3話 床に散ったスープ

第3話 床に散ったスープ


 その日、公爵邸は朝から妙に騒がしかった。


 廊下を行き交う使用人たちの足音は慌ただしく、空気まで張り詰めている。


「書類を至急、西棟へ!」


「医師はまだ来ないの!?」


「旦那様がお倒れになったのよ!」


 エルサは階段の途中で立ち止まった。


「ギルバート様が……?」


 胸がざわつく。


 通り過ぎようとした若いメイドを呼び止めると、彼女は困ったように声を潜めた。


「昨夜からお休みになっていなくて……。執務室で倒れられたそうです」


「お熱は?」


「かなり高いとか……」


 エルサは思わず唇を噛んだ。


 この数日、ギルバートはほとんど屋敷へ戻っていなかった。


 帰宅しても深夜。


 朝にはまた出ていく。


 まともに食事も摂っていないと、厨房の隅で使用人たちが話していた。


「旦那様は食べなくても平気だから」


「どうせ味しないんだし」


 そんな言葉を聞くたび、エルサの胸は苦しくなった。


 味がわからないから食べない。


 食べないから弱る。


 弱るからさらに何も感じられなくなる。


 まるで、自分を罰するような生き方だった。


 エルサはぎゅっとエプロンを握る。


「……何か、作らなきゃ」


 厨房へ入ると、料理人たちは大鍋をかき回しながら忙しなく動いていた。


 肉の焼ける匂い。


 香辛料の刺激。


 だが、その空気に温かさはない。


 ただ作業として料理が並べられているだけだった。


「すみません」


 エルサが声をかけると、料理長が露骨に眉をひそめた。


「何でしょう、奥様」


「ギルバート様へ、消化のいいものを作りたいのですが」


「必要ありません」


 ぴしゃりと言われる。


「旦那様のお食事は我々が管理しております」


「ですが、お身体が弱っている時は温かなスープが――」


「味がしない方にですか?」


 料理長は鼻で笑った。


「無意味でしょう」


 その瞬間、エルサの胸に小さな痛みが走った。


 味がしないから、温かなものも必要ない。


 そんなふうに言われている気がした。


 けれどエルサは下を向かなかった。


「それでも、身体は温まります」


「……はあ」


「少しだけでも楽になるかもしれません」


 料理長は呆れたように肩を竦めた。


「好きになさればいい。ただし、旦那様は口にされないでしょうが」


 厨房の隅を貸し与えられ、エルサは小さく頭を下げた。


「ありがとうございます」


 残り野菜を刻む。


 人参。


 玉ねぎ。


 硬くなった根菜。


 鶏ガラを弱火で煮込み、灰汁を丁寧に取る。


 ぐつぐつ、と静かな音が鳴る。


 そこへタイムとローズマリーを加えると、柔らかな香りが立ち上った。


 エルサは木匙でゆっくり混ぜながら、小さく目を細める。


「……温かい」


 湯気が頬を撫でる。


 この瞬間が好きだった。


 誰かのために料理を作っている時間。


 それだけで、自分がここにいてもいい気がするから。


 セドリックが静かに近づいてくる。


「奥様」


「はい」


「旦那様は今、とても機嫌が悪うございます」


 老執事の声は低かった。


「医師にも当たり散らしておられる」


「そうですか……」


「ですので、無理はなさらぬ方が」


 エルサは鍋を見つめた。


 優しい匂いがする。


 冷えた身体を包むような香り。


「でも、お辛い時ほど温かなものが必要です」


 セドリックは黙り込んだ。


 この屋敷では、旦那様を気遣う者など長くいなかった。


 皆、恐れていたからだ。


 だがこの少女だけは違う。


 拒絶されてもなお、相手を案じている。


 それが老執事には、不思議で仕方なかった。


 一時間後。


 エルサは銀盆へスープを乗せ、ギルバートの部屋へ向かった。


 湯気が静かに揺れている。


 扉の前で深呼吸する。


 怖くないと言えば嘘になる。


 けれど放っておけなかった。


 こんな寒い日に、一人で熱に苦しんでいるなんて。


 コンコン、と扉を叩く。


「……誰だ」


 低く掠れた声。


「エルサです」


「入れ」


 部屋へ入ると、重たい薬の匂いが鼻をついた。


 カーテンは閉ざされ、室内は薄暗い。


 ギルバートはソファへ乱暴に腰掛け、片手で額を押さえていた。


 黒髪は乱れ、顔色は悪い。


 いつもの威圧感が薄れて見えた。


「何の用だ」


 苛立った声。


 エルサは静かに盆を置く。


「スープを作りました」


 ギルバートの眉間に皺が寄る。


「……は?」


「薬草を少し入れています。身体が温まりますので」


 湯気がふわりと広がる。


 鶏の旨味。


 野菜の甘い香り。


 優しく染み込む匂いだった。


 だがギルバートの表情はみるみる険しくなる。


「誰がこんなものを持ってこいと言った」


「お辛そうでしたから」


「余計なことをするな」


 低い声が部屋を震わせる。


 エルサは小さく肩を揺らした。


 それでも微笑む。


「少しだけでも召し上がってください」


「……気味が悪い」


 空気が凍った。


 ギルバートの目は冷え切っていた。


「なぜそこまでする」


「え……?」


「愛されもしない相手に媚びて何になる」


「媚びてなんか――」


「なら何だ」


 怒気が滲む。


「同情か? 哀れんでいるのか?」


「違います!」


 思わず声が大きくなる。


 エルサは胸の前で手を握った。


「私はただ……あなたに少しでも元気になってほしくて……」


「やめろ」


 次の瞬間だった。


 ガシャンッ!


 ギルバートがスープ皿を払い落とした。


 白い皿が床へ叩きつけられ、砕け散る。


 黄金色のスープが飛び散った。


 熱い雫がエルサの頬へかかる。


 静寂。


 湯気だけがゆらゆら揺れていた。


 ギルバートは荒い息を吐いている。


「……出ていけ」


 低い声。


「二度とこんな真似をするな」


 エルサはしばらく動けなかった。


 胸の奥がじんじん痛む。


 悲しい。


 すごく悲しい。


 でもそれ以上に。


 ギルバートの目が、とても苦しそうだった。


「……申し訳ありません」


 エルサはしゃがみ込み、静かに破片を拾い始めた。


 指先へ熱いスープが染みる。


 床に広がる匂いが切なかった。


 せっかく温かかったのに。


 ギルバートはその姿を見て、なぜか眉をひそめる。


「……何をしている」


「お掃除を」


「使用人を呼べ」


「すぐ終わりますから」


 エルサは割れた皿を一つずつ拾う。


 その横顔は泣いていなかった。


 責めてもいなかった。


 ただ静かに片付けている。


 それがギルバートには妙に苛立たしかった。


「……馬鹿な女だ」


 吐き捨てるような声。


 だがエルサは小さく笑った。


「よく言われます」


 その笑顔が、胸を刺した。


 ギルバートは顔を背ける。


 エルサは最後の破片を拾い上げると、静かに立ち上がった。


「おやすみなさいませ、旦那様」


 扉が閉まる。


 部屋に静寂が戻る。


 ギルバートは舌打ちした。


 胸の奥が妙にざわつく。


 床にはまだ、薬草の香りが残っていた。


 温かくて、優しくて。


 ひどく鬱陶しい匂いだった。



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