第1話 君を愛することはない
第1話 君を愛することはない
冬の雨が、ヴァルハルト公爵邸の窓を静かに叩いていた。
高い天井。黒檀の柱。冷え切った大理石の床。廊下には暖炉がいくつもあるというのに、不思議なほどこの屋敷には温もりがなかった。
エルサは、ぎゅっと指先を握りしめた。
白い手袋の下で、指が冷えている。
けれど震えているのは寒さのせいだけではなかった。
「奥様、こちらです」
年老いた執事が無表情に扉を開く。
重厚な扉の向こうは、公爵の私室だった。
ほの暗い部屋の奥で、一人の男が窓辺に立っている。
銀灰色の髪。
広い背中。
軍服のように隙なく整った黒い衣服。
アルヴェイン王国最強の英雄。
ギルバート・フォン・ヴァルハルト公爵。
だがその姿には、華やかな婚礼の余韻など欠片もなかった。
執事が静かに頭を下げる。
「旦那様、奥様をお連れしました」
「ああ」
低い声だった。
冷たい、冬の鉄のような声。
扉が閉まる。
静寂。
雨音だけが遠く響いている。
エルサは小さく息を吸った。
今日からこの人が夫になる。
そう思って胸を高鳴らせるほど、夢見がちな少女ではもうなかった。
リーベルト男爵家の次女として生まれてから二十年。エルサはずっと“いらない子”として生きてきた。
姉のクラリスは美しかった。
社交界の花と呼ばれ、両親の自慢だった。
だがエルサは地味で、不器用で、愛想も悪いと言われ続けた。
華やかなドレスは姉に。
温かな部屋も姉に。
エルサに与えられたのは、冷たい屋根裏部屋と、使用人のような仕事だけだった。
それでも料理だけは好きだった。
煮込み鍋から立つ湯気も、焼きたてのパンの香りも、誰かが「美味しい」と笑う瞬間も。
それだけは、エルサにとって世界で一番幸せなものだった。
「座れ」
ギルバートが振り返りもせずに言った。
「はい」
エルサは静かにソファへ腰掛けた。
革張りのソファは冷たかった。
まるでこの屋敷そのもののようだ、とエルサは思う。
やがてギルバートが振り返った。
息を呑むほど整った顔立ちだった。
けれど、その瞳には何の熱もない。
凍った湖の底を見ているような目だった。
「先に言っておく」
低い声が部屋に落ちる。
「君を愛することはない」
エルサは静かに瞬きをした。
やはり。
そういう言葉が来る気はしていた。
ギルバートは王国でも有名だった。冷徹公爵。氷の英雄。戦場では鬼神のように敵を屠り、社交界では誰にも心を開かない男。
政略結婚を嫌っているという噂も聞いていた。
「この結婚は契約だ。後継ぎが必要になれば協力はしてもらう。だが、それ以上を期待するな」
淡々とした口調だった。
まるで書類を読むように感情がない。
「君も理解して嫁いできたはずだ」
普通の令嬢なら泣いただろう。
あるいは怒ったかもしれない。
だがエルサは、胸の奥に小さな痛みを感じながらも、不思議と絶望はしなかった。
この人はきっと、最初からこういう人ではなかったのだ。
そう思った。
こんなにも冷たい目をするまでに、どれほど孤独だったのだろう。
エルサはそっと微笑んだ。
「わかっています」
ギルバートの眉がわずかに動く。
「それでも私は、あなたを愛します」
その瞬間。
部屋の空気が凍りついた。
ギルバートの目が鋭く細まる。
「……は?」
「愛されないことには慣れていますので」
エルサは静かに言った。
「ですから、どうかお気になさらないでください」
「……気味の悪い女だな」
吐き捨てる声。
だがエルサは俯かなかった。
ギルバートは苛立ったようにネクタイを緩める。
「何が目的だ」
「目的、ですか?」
「公爵夫人の地位か。金か。社交界か」
エルサは少し考えてから、小さく首を振った。
「温かい食卓です」
「……何?」
「みんなで美味しいものを食べる時間が、私は好きなんです」
ギルバートは完全に黙った。
理解不能なものを見る目だった。
やがて彼は冷笑した。
「くだらん」
その声には、奇妙な苛立ちが滲んでいた。
「そんな綺麗事を信じているのか」
「はい」
「人は裏切る。愛情など一番当てにならん」
「そうかもしれません」
エルサは素直に頷いた。
「でも、美味しいものを食べている時だけは、少しだけ優しくなれる気がするんです」
沈黙。
雨音だけが静かに響いていた。
ギルバートはしばらくエルサを見下ろしていたが、やがて興味を失ったように背を向けた。
「好きにしろ」
「はい」
「ただし期待するな。私は君に何も返さん」
その言葉は冷たかった。
けれどエルサは、ほんの少しだけ安心した。
この人は、最初から拒絶してくれる。
だから期待して傷つくこともない。
「失礼します」
エルサが立ち上がると、ギルバートがふと口を開いた。
「……なぜ笑える」
「え?」
「愛されないと言われて、なぜそんな顔ができる」
エルサは少し困ったように笑った。
「たぶん、慣れているからです」
その瞬間。
ギルバートの眉がわずかに寄った。
ほんの一瞬だけ。
痛みのようなものが、その瞳を過った気がした。
だが次の瞬間には消えていた。
「下がれ」
「はい。おやすみなさいませ、旦那様」
エルサは頭を下げ、部屋を出た。
廊下は静かだった。
遠くで時計の針が鳴っている。
エルサは小さく息を吐く。
胸は少し痛かった。
それでも不思議と涙は出なかった。
扉の向こうには、冷たい孤独を抱えた人がいる。
あの人はきっと、温かいスープの味も、焼きたてのパンの匂いも、誰かと囲む食卓の幸せも、全部忘れてしまったのだ。
なら。
いつか思い出してもらえたらいい。
エルサはそっと窓の外を見た。
冬の雨はまだ降り続いていた。




