2話
第二話 昔々、記憶を食べる魔物がいました
昔々、この国には、人を食べる魔物がいました。
母がその話をしてくれたのは、リリアナがまだ七つの頃だった。雨の夜で、窓の外では庭木が黒く揺れていた。暖炉の火は赤く、部屋の中だけが世界から切り離されたように温かかった。
寝台の上で膝を抱えたリリアナは、母の声を聞いていた。
「人を食べる魔物なのに、血は流れないのですか?」
「流れません」
母は、リリアナの髪を指で梳きながら答えた。
「肉も食べません。骨も残しません。その魔物が食べるのは、記憶です」
「記憶?」
「ええ。名前、約束、大切な人の顔、悲しかった日の涙、嬉しかった日の匂い。そういうものを、ひとつずつ食べてしまうのです」
リリアナは顔をしかめた。
「それは、死ぬより怖いです」
「そうね」
母は静かにうなずいた。
「でも、本当に怖いのはそこではありません」
「まだ怖いところがあるのですか?」
「あります。記憶を食べられた者は、自分が何を失ったのかも忘れてしまうのです」
リリアナは息をのんだ。
部屋の外で、雨粒が窓を叩いている。暖炉の火がはぜる音さえ、そのときだけ遠く感じた。
「では、何を盗まれたか分からないのですね」
「ええ」
「誰かが教えてくれたら?」
「その誰かの記憶も、食べられてしまえば同じです」
「では、誰も気づけません」
「だから恐ろしいのです」
母の手は温かかった。
けれど、その話は少しも温かくなかった。
「一番怖い魔物は、牙を見せて襲ってくるものではありません。優しい顔で近づいて、あなたの大切なものを、あなたに気づかれないまま奪っていくものです」
幼いリリアナは、毛布を握りしめた。
「その魔物は、どうやって倒すのですか?」
母の手が止まった。
ほんのわずかな沈黙だった。
けれどリリアナは、それを覚えている。
「倒せません」
「倒せないのですか?」
「肉体を斬っても、魔物は死にません。火で焼いても、水に沈めても、また誰かの記憶の中に逃げてしまう。人の思い出を渡り歩くものだから、普通の剣では届かないのです」
リリアナはしばらく考え込んだ。
それから、母を見上げた。
「では、ずっと負けるしかないのですか?」
「いいえ。封じる方法ならあります」
「封じる?」
「魔物は記憶を食べることで、姿を保ちます。ならば、食べたものが毒になればよいのです」
母は小さく声を落とした。
「強すぎる記憶。重すぎる感情。魔物の本当の名を刻んだ記憶。それらを食べると、魔物は自分と他人の境目を失います。食べたはずの記憶に、内側から縛られるのです」
「それなら、その毒を食べさせればいいのですね」
リリアナが言うと、母の表情がかすかに曇った。
「簡単に言ってはいけません」
「なぜですか?」
「毒になる記憶を差し出す者は、己を失います」
母の声は、いつもより低かった。
「記憶は、その人自身です。大切なものをすべて抱えた記憶を差し出すということは、自分を差し出すのと同じなのです」
リリアナは黙った。
七つの子どもには、まだ分からないことが多かった。けれど、母がこの話をただの寝物語として語っていないことだけは分かった。
「お母様」
「なあに」
「その魔物は、今もいるのですか?」
母は少しだけ笑った。
「昔話ですよ」
「昔話でも、いないとは言っていません」
母は困ったように眉を下げた。
「リリアナは賢い子ね」
「褒めてごまかしています」
「そうね」
母は、リリアナの額に口づけた。
「では、覚えておきなさい。もしも誰かが、皆からあまりにも好かれすぎているとき。誰もその人を疑わず、悪いところを思い出せないとき。大切な約束が、ひとつずつ消えていくとき」
リリアナは、母の言葉を待った。
「その人を、少しだけ遠くから見なさい」
「近づいてはいけないのですか?」
「近づいてはいけません」
母ははっきりと言った。
「自分だけは大丈夫だと思ってはいけません。誰かを救うために自分を捨てようなどと、考えてはいけません」
リリアナは小さくうなずいた。
「はい、お母様」
そのときは、そう答えた。
本当に分かっていたわけではない。
ただ、母が悲しそうな顔をしたから、うなずいたのだ。
それから八年が過ぎた。
リリアナ・ヴァレンシュタインは、公爵令嬢として育った。
礼儀作法、王国史、神学、舞踏、語学、領地経営。学ぶべきことは山ほどあった。彼女はそれを、ひとつずつ身につけた。
王太子エドワードとの婚約も、その頃には正式なものになっていた。
エドワードは明るく、まっすぐな少年だった。少し短気で、感情を隠すのが下手で、それでも間違ったことを嫌う人だった。
幼い頃、庭園で迷ったリリアナに、エドワードは白い花をくれた。
「泣くな。王太子妃になるなら、これくらいで迷っていては駄目だ」
「泣いていません」
「目が赤い」
「雨のせいです」
「今日は晴れているぞ」
そんなやり取りをしたことがある。
その花の名は、スノウベル。
冬の終わりに咲く、小さな白い花だった。
リリアナはその名を覚えていた。
エドワードも、覚えているはずだった。
聖女ミリアが王都に現れたのは、リリアナが十五になった春だった。
神殿が彼女を見いだした。貧しい村に生まれ、癒やしの力を持ち、病に倒れた子どもを救った少女。清らかで、謙虚で、誰にでも優しく微笑む娘。
王都はすぐにミリアを愛した。
彼女が神殿の階段を降りるだけで、人々は花を投げた。彼女が祈れば、病人は安心して眠った。彼女が微笑めば、貴族たちは争いをやめた。
その評判は、王宮にも届いた。
エドワードがミリアに会うのも、自然な流れだった。
「素晴らしい方だ、リリアナ」
ある日、王宮の庭で、エドワードはそう言った。
「ミリアは本当に優しい。あれほど清らかな人間を、俺は見たことがない」
「そうですか」
「君も会えば分かる」
「ええ。楽しみにしております」
リリアナはそう答えた。
別に嫉妬はしていなかった。
王太子が聖女を重んじるのは当然だ。王家と神殿の関係は、国を支える柱のひとつだった。婚約者として、リリアナがそこに口を挟む理由はない。
最初に違和感を覚えたのは、ミリアが王宮に通うようになって三月ほど経った頃だった。
リリアナの侍女であるエマが、約束を忘れた。
その日、エマはリリアナの母の命日に供える花を用意するはずだった。毎年欠かしたことのない小さな習慣だ。リリアナが言わなくても、エマは必ず白い花を選んでいた。
けれど、その年だけ花がなかった。
「申し訳ございません、お嬢様。私、そのようなお約束をしておりましたでしょうか」
エマは本当に困った顔をしていた。
怠けたわけではない。忘れたふりをしているわけでもない。
ただ、そこだけが抜け落ちている。
「いいのです」
リリアナはそう言った。
人は忘れる。
そう思おうとした。
けれど、その日の午後、リリアナはエマが神殿の廊下でミリアと話していたことを知った。
次の違和感は、騎士だった。
王宮警備の若い騎士が、妹のために菓子を買って帰るのだと、以前リリアナに笑って話したことがある。病弱な妹で、甘いものが好きなのだと。
だが、数日後に同じ話を振ると、騎士は首を傾げた。
「妹、でございますか?」
「違いましたか?」
「いえ、私には弟しかおりませんが」
隣にいた同僚の騎士も、そうだとうなずいた。
リリアナはそこで、笑えなかった。
騎士はその前日、ミリアの護衛についていた。
三つ目は、エドワードだった。
王宮の庭で、リリアナは白い花を見つけた。
「懐かしいですわね」
彼女がそう言うと、エドワードは不思議そうに振り返った。
「何がだ?」
「スノウベルです。殿下が昔、わたくしにくださいました」
「俺が?」
「ええ。庭で迷ったわたくしに」
エドワードは少し考え、それから笑った。
「そんなことがあったか? 君は昔からしっかりしていたから、迷う姿など想像できないな」
悪気のない声だった。
リリアナは、足元から冷たいものが上がってくるのを感じた。
「そうですわね。わたくしの勘違いかもしれません」
「珍しいな。君が勘違いなど」
そのとき、庭の向こうからミリアが歩いてきた。
エドワードの顔が明るくなる。
リリアナは、幼い夜に聞いた母の声を思い出した。
誰かが、皆からあまりにも好かれすぎているとき。
誰もその人を疑わず、悪いところを思い出せないとき。
大切な約束が、ひとつずつ消えていくとき。
その人を、少しだけ遠くから見なさい。
だからリリアナは、遠くから見た。
聖女ミリアは、完璧だった。
完璧すぎた。
彼女は怒らない。
人を責めない。
失敗しても愛される。
誰かが彼女を疑おうとすると、周囲が先に怒る。
ミリア本人が何かをする前に、周りが彼女を守るのだ。
それが一番、気味が悪かった。
リリアナは調べ始めた。
最初は、ミリアの身辺だけだった。どこの村で生まれたのか。神殿に保護される前、誰と暮らしていたのか。癒やしの力はいつから現れたのか。
記録はきれいに揃っていた。
きれいすぎるほどに。
生まれた村には、ミリアを幼い頃から知る者が少なかった。名を覚えている者はいる。顔を覚えている者もいる。けれど、誰も彼女の具体的な思い出を語れない。
優しい子だった。
清らかな子だった。
神に愛された子だった。
そればかりだった。
まるで、誰かが後から同じ言葉を入れたように。
リリアナは次に、王宮の出入り記録を調べた。
ミリアと会った直後に、王宮から姿を消した下働きがいた。神殿へ移ったと記録されているが、神殿にはいない。病で故郷へ帰ったと書かれた侍女もいたが、その故郷には帰っていない。
帳簿には、不自然な支出もあった。
地下礼拝堂の修繕費。
禁じられたはずの場所に、定期的に金が流れている。しかも、王家の承認印が押されていた。
王家が知らないはずはなかった。
それでも誰も問題にしない。
リリアナは、何度も調査をやめようとした。
母の言葉を思い出したからだ。
近づいてはいけません。
自分だけは大丈夫だと思ってはいけません。
誰かを救うために自分を捨てようなどと、考えてはいけません。
けれど、そのたびに誰かが何かを忘れた。
エマはリリアナの母の命日を忘れたままだった。
若い騎士は、妹の名を最後まで思い出せなかった。
エドワードは、白い花の約束を笑って流した。
忘れられたものは、誰かにとって大切なはずだった。
それを、なかったことにされる。
リリアナはそれが許せなかった。
だから、手を汚した。
最初はドレスだった。
王宮主催の茶会の日、ミリアは背中の開いた白いドレスを着ていた。神殿の刺繍が施された、清らかな衣装だった。
リリアナは紅茶をこぼしたふりをして近づき、謝罪の動きにまぎれて、ミリアの背の布を裂いた。
悲鳴が上がった。
ミリアは震え、周囲の令嬢たちはリリアナを責めた。
その一瞬だけ、リリアナは見た。
ミリアの肩甲骨の下に、黒い小さな紋様が浮かんでいた。
花にも、傷にも見える。
けれどリリアナは、それを昔話の挿絵で見たことがあった。
記憶を食べる魔物の印。
次は階段だった。
夜会の後、リリアナは人の少ない廊下でミリアを呼び止めた。
「少し、お話しできますか」
「もちろんです、リリアナ様」
ミリアは微笑んだ。
誰が見ても聖女の笑みだった。
リリアナはミリアの腕を取り、階段の縁へ誘導した。ほんの少し力を入れれば、足元は崩れる。
押した。
ミリアの体が落ちた。
叫び声。走ってくる足音。リリアナを責める声。
ミリアは階段下で倒れていた。
その腕は奇妙な方向に曲がっていた。人間なら、折れているはずだった。
けれど次の瞬間、衣の下で骨が戻る音がした。
ミリアは涙を浮かべ、痛みに耐える顔をした。
誰も気づかなかった。
ただひとり、リリアナだけが見ていた。
リリアナは悪女になっていった。
ミリアの部屋に忍び込んだ。
そこには、花の香りが満ちていた。白い寝台。祈りの道具。神殿から贈られた聖典。どれも清らかで、整っていた。
けれど衣装箱の底に、小さな水晶が隠されていた。
その中には、薄い光が揺れていた。
リリアナが指先で触れると、知らない声が頭の奥に流れ込んだ。
私の名前は。
妹が待っている。
お嬢様、今年も白い花を。
帰りたい。
覚えていて。
忘れないで。
リリアナはすぐに手を離した。
息が荒くなっていた。
水晶の中には、食べ残された記憶が入っていた。
奪われた人々の欠片。
ミリアはそれを保管していたのだ。
食べたものを、飾るように。
リリアナは吐き気をこらえ、水晶を戻した。今奪えば、ミリアに気づかれる。証拠を出しても、おそらく誰も信じない。
信じないどころか、忘れる。
彼女は王宮の帳簿を盗み見た。
地下礼拝堂への支出を追い、古い修繕記録を探した。王家が何を隠したのか。神殿がなぜミリアを恐れず迎え入れたのか。
答えは、王宮の奥にあった。
禁じられた地下礼拝堂。
かつて魔物を封じた場所。
そこへ入るには、王家の許しが必要だった。リリアナにはない。だから夜、鍵を盗み、見張りの巡回を避けて忍び込んだ。
階段は長かった。
地上の光が遠ざかるにつれ、空気は湿り、冷たくなっていく。壁には古い文字が刻まれていた。神への祈りではない。警告だった。
忘れるな。
名を失うな。
食われる前に、思い出せ。
地下礼拝堂の奥には、割れた石碑があった。
リリアナはランプを近づけ、刻まれた文字を読んだ。
古語だった。母から習ったものよりさらに古い。ところどころ欠けていたが、意味は拾えた。
記憶を喰らうものは、記憶によって縛られる。
されど、毒となる記憶を差し出す者は、己を失う。
リリアナは指で文字をなぞった。
毒となる記憶。
昔話ではなかった。
本当にあった。
本当に封じられていた。
そして、おそらく本当に戻ってきている。
石碑の下には、さらに細かい文字が続いていた。
食らうものの真名は、器に宿らず。
食われし者の奥に沈めよ。
名と憎悪と祈りを重ね、境を崩せ。
さすれば、喰らうものは己を忘れる。
リリアナは何度も読んだ。
意味は分かった。
分かってしまった。
魔物を封じるには、外から斬るのではない。祈りで消すのでもない。
食べさせるのだ。
魔物が欲しがるものを。
逃げられないほど強いものを。
食べた瞬間、自分と相手の境目が崩れるほどの記憶を。
リリアナはランプを持つ手に力を込めた。
母の声がよみがえる。
誰かを救うために自分を捨てようなどと、考えてはいけません。
「ごめんなさい、お母様」
声は、地下の冷たい空気に吸われた。
リリアナは笑わなかった。
泣きもしなかった。
ただ、石碑の文字をもう一度なぞった。
その指先は震えていない。
「失うものなら、もう決まっていますわ」
その夜から、リリアナは本当の準備を始めた。
母から聞いた昔話を、一字一句忘れないように書き起こした。
地下礼拝堂で読んだ古い文言を、何度も暗唱した。
ミリアの背にあった紋様を思い出し、その形と真名を結びつけた。
水晶に触れたとき流れ込んだ声を、忘れないように胸の奥へ沈めた。
エマの白い花。
騎士の妹。
王子のスノウベル。
消えた下働き。
名前を奪われた者たち。
そして、自分の怒り。
憎しみ。
恐怖。
それらをひとつに束ねた。
誰かに相談することはできなかった。
父に言えば止められる。
王子に言えば、ミリアに近づいて終わる。
神殿に言えば、誰が味方で誰が忘れているのか分からない。
だからリリアナは、ひとりで悪女になった。
ドレスを裂いた悪女。
階段から突き落とした悪女。
部屋に忍び込んだ悪女。
帳簿を盗んだ悪女。
禁じられた地下礼拝堂に入った悪女。
周囲がそう呼ぶたびに、ミリアはリリアナを警戒した。
そして同時に、欲しがった。
自分の正体に気づいた人間。
自分の真名に近づいた人間。
自分を憎んでいる人間。
記憶を食べる魔物が、それを放っておくはずがない。
リリアナはそれを知っていた。
卒業舞踏会の日。
王太子エドワードが、広間の中央でリリアナを断罪した。
彼女はすべてを認めた。
言い訳をすれば、計画はずれる。
無実を訴えれば、ミリアは用心する。
逃げようとすれば、記憶を食べられる前に殺されるかもしれない。
だから、悪役令嬢らしく笑った。
そして牢の中で、聖女を待った。
白いドレスの裾が、鉄格子の向こうに見えたとき。
リリアナは思った。
やはり来た。
ミリアは優しい声で問いかけた。
「最後に、何か言い残すことはありますか?」
リリアナは鉄格子越しに、聖女の顔を見た。
その瞳の奥にある飢えを、今ならはっきりと見つけられる。
だから言った。
「あなた、ずいぶんお腹が空いているのね」
ミリアの涙が止まった。
ほんの一瞬だけ。
それで十分だった。
リリアナは、自分が間違っていなかったことを知った。
翌朝、彼女は処刑された。
首が落ちるその瞬間まで、リリアナは聖女を見ていた。
悪役令嬢は死んだ。
王子は悪を裁いた。
聖女は涙を流した。
民衆は正義を信じた。
そして夜。
聖女ミリアは、はじめて腹の奥に痛みを覚えた。




