1話
第一話 悪役令嬢は、断罪されて死んだ
シャンデリアの光が、磨き上げられた大理石の床に落ちていた。
王立学園の卒業舞踏会。貴族の子息令嬢たちが最後に集う夜であり、多くの者にとっては、次の立場を確かめ合う場でもある。誰が誰と踊るのか。誰が王太子の隣に立つのか。誰が笑い、誰が置いていかれるのか。
その中心に立っていたのは、公爵令嬢リリアナ・ヴァレンシュタインだった。
銀糸を編み込んだような淡い髪。白い首元を飾る真珠。深い青のドレスは、夜空を切り取ったように美しい。背筋はまっすぐ伸び、指先の角度ひとつまで乱れがない。
誰もが彼女を見ていた。
けれど、その視線に憧れはなかった。
「リリアナ・ヴァレンシュタイン」
広間のざわめきを断ち切るように、王太子エドワードの声が響いた。
金の髪を持つ若き王太子は、階段の上からリリアナを見下ろしていた。その隣には、白いドレスをまとった少女が立っている。
聖女ミリア。
数年前、神殿に見いだされた奇跡の少女。清らかな癒やしの力を持ち、誰にでも優しく、王都の民からも貴族からも愛される存在。
彼女は今、エドワードの背に隠れるようにして、目元を潤ませていた。
リリアナは視線を上げた。
「何でしょう、殿下」
その声に震えはない。
広間の者たちは息をひそめた。誰もが、今から起こることを予感しているようだった。
エドワードは一歩前へ出た。
「この場をもって、お前との婚約を破棄する」
ざわめきが広がった。
婦人たちは扇の奥で目を見開き、若い令嬢たちは声にならない悲鳴を漏らす。楽団の音はとうに止まっていた。広間に残ったのは、息遣いと衣擦れの音だけだった。
リリアナは少しだけ首を傾けた。
「理由をうかがっても?」
「しらばっくれるな」
エドワードの声に怒りがにじむ。
「お前は聖女ミリアに数々の嫌がらせを行った。彼女のドレスを裂き、階段から突き落とし、部屋に忍び込み、王宮の帳簿まで盗み見た。さらには禁じられた地下礼拝堂にまで足を踏み入れたそうだな」
広間の視線が、一斉にリリアナへ突き刺さった。
ドレスを裂いた。
階段から突き落とした。
部屋に忍び込んだ。
帳簿を盗み見た。
地下礼拝堂に入った。
どれも令嬢の行いとしてはあまりに醜く、そして公爵家の娘としてはあまりに重い罪だった。
ミリアが小さく震えた。
「リリアナ様……私は、ただ、殿下や皆さまと仲良くしたかっただけなのです」
その声は細く、痛々しかった。
近くにいた令嬢がミリアの肩を抱く。
「聖女様、おかわいそうに」
「まさか公爵令嬢ともあろう方が、そこまで……」
「以前から怖い方だとは思っていたけれど」
ささやきが広がっていく。
リリアナは、ひとつひとつの声を聞いていた。聞こえていないふりなどしなかった。けれど、どの言葉にも眉ひとつ動かさなかった。
エドワードはリリアナをにらみつける。
「何か申し開きはあるか」
その問いに、広間の誰もが耳を澄ませた。
リリアナが泣き崩れるのを待っている者もいた。
言い訳を始めるのを待っている者もいた。
公爵家の力を盾に、無様に怒鳴るのを期待している者もいた。
リリアナは静かに息を吸った。
そして、微笑んだ。
「ええ。すべて、わたくしがやりましたわ」
広間から音が消えた。
エドワードでさえ、一瞬言葉を失った。
リリアナは続ける。
「聖女様のドレスを裂いたのも、階段から落としたのも、お部屋に入ったのも、帳簿を見たのも、地下礼拝堂へ入ったのも。すべて、わたくしです」
ミリアが唇を押さえる。
「そんな……」
その声を聞いた瞬間、エドワードの顔が怒りで染まった。
「認めるのだな」
「はい」
「なぜだ」
「気に入らなかったからですわ」
リリアナは淡々と答えた。
「どなたにも愛され、どなたにも許され、どなたの記憶にも美しく残る聖女様が。わたくしには、少しばかり目障りでしたの」
広間の空気が冷えた。
それはあまりにも悪役めいた言葉だった。高慢で、冷たく、救いようがない。
ミリアは涙をこぼした。
「リリアナ様……私は、あなたを嫌ったことなど一度もありません」
「それは素晴らしいことですわね」
リリアナは、ミリアを見た。
「嫌う必要がないほど、あなたは満たされていらっしゃるのでしょう」
「リリアナ!」
エドワードが怒鳴った。
「まだ彼女を傷つけるか!」
「傷つける?」
リリアナはゆっくりと瞬きをした。
「聖女様は、傷つくのですか?」
その言葉は、小さかった。
だが、ミリアの肩がかすかに揺れた。
誰もそれに気づかなかった。王太子も、令嬢たちも、騎士たちも。リリアナだけが、その一瞬を見ていた。
エドワードは腰の剣に手をかけた。
「もういい。お前の罪は明らかだ。公爵家にはすでに確認を取っている。ヴァレンシュタイン公も、お前をかばうつもりはない」
リリアナの目が、ほんのわずかに細くなった。
父は来ない。
そう知っていた顔だった。
「そうですか」
「お前の身柄はこの場で拘束する。王家への不敬、聖女への害意、禁域への侵入。もはや婚約破棄だけでは済まされぬ」
近衛騎士が二人、リリアナの左右に近づいた。
公爵令嬢の手首に触れることをためらうように、一瞬だけ動きが止まる。
リリアナは自ら手を差し出した。
「どうぞ」
騎士の片方が顔を伏せる。
細い手首に、銀の拘束具がかけられた。
冷たい金属の音が広間に響く。
それでようやく、誰かが小さく息を吐いた。舞踏会は完全に終わった。祝福の場は、悪女の断罪の場になった。
リリアナは連れていかれる前に、一度だけ振り返った。
視線の先には、聖女ミリアがいる。
ミリアは涙を流しながら、両手を胸の前で握っていた。痛ましげな顔。慈悲深い瞳。誰が見ても、被害者そのものだった。
リリアナはその顔を見て、静かに笑った。
その笑みは、勝ち誇ったものではない。
怒りでも、悲しみでもない。
どこか、長く待っていたものがようやく来たと知った者の顔だった。
だが、それを理解できる者は誰もいなかった。
リリアナは広間を出た。
背後で、誰かがミリアを慰める声が聞こえた。
「聖女様、もう大丈夫です」
「怖かったでしょう」
「悪女は裁かれます」
リリアナは足を止めなかった。
石造りの廊下は舞踏会の熱から遠く、夜の冷たさを抱えていた。窓の外では、王都の灯がちらちらと揺れている。
騎士たちは無言だった。
その沈黙が、リリアナには少しだけおかしかった。
誰も彼女に問いかけない。
どうしてそんなことをしたのか。
本当にすべて認めるのか。
何か事情があったのではないか。
誰も聞かない。
悪役令嬢には理由など必要ないのだろう。
地下牢の扉が開けられた。
冷えた空気と湿った匂いが流れ出す。壁には古い染みがあり、床には薄く水がたまっていた。貴族の令嬢が一晩を過ごすには、あまりにも粗末な場所だった。
リリアナは中へ入った。
拘束具を外され、扉が閉められる。
鉄格子の向こうで、騎士の足音が遠ざかっていった。
ひとりになると、リリアナは壁際の寝台に腰を下ろした。薄い毛布は湿っていて、座っただけで冷たさが染みてくる。
それでも、彼女は姿勢を崩さなかった。
舞踏会でそうしていたように、背筋を伸ばし、手を膝の上に重ねる。
しばらくして、足音が近づいてきた。
軽い足音だった。
騎士ではない。
侍女でもない。
リリアナは顔を上げた。
鉄格子の向こうに、聖女ミリアが立っていた。
白いドレスは舞踏会のままだった。涙の跡が頬に残っている。けれど、近くで見ると、その瞳は不思議なほど澄んでいた。
「リリアナ様」
ミリアは悲しげに呼んだ。
「お休みになれませんか?」
「このような場所で眠れるほど、たくましく育ってはおりませんの」
「そうですよね」
ミリアは胸の前で指を組んだ。
「私、どうしてもお話ししたくて。明日の朝には、もう……」
言葉の途中で、ミリアは目を伏せた。
まるでリリアナの死を悼んでいるようだった。
リリアナは黙っていた。
ミリアは鉄格子に近づく。
「リリアナ様。最後に、何か言い残すことはありますか?」
優しい声だった。
聖女にふさわしい、柔らかく清らかな声。
リリアナはその声を聞きながら、少しだけ首を傾けた。
「ありますわ」
「なんでしょう?」
ミリアの瞳が濡れている。
リリアナは立ち上がり、鉄格子の前まで歩いた。
二人の距離は近い。
手を伸ばせば、互いの指先が触れるほどに。
リリアナはミリアの顔を見つめた。
その美しい目。
白い頬。
かすかに震える唇。
誰もが守りたくなる聖女。
誰も疑わない少女。
リリアナは、ほほ笑んだ。
「あなた、ずいぶんお腹が空いているのね」
ミリアの涙が、一瞬だけ止まった。
その一瞬だけ、聖女の顔から悲しみが消えた。
次に浮かんだものを、リリアナは見逃さなかった。ほんのわずかな驚き。隠しきれない不快感。そして、薄い笑み。
けれど、それもすぐに消えた。
「……リリアナ様は、最後まで意地悪なのですね」
「そう見えますか」
「ええ」
ミリアは悲しげにうなずいた。
「でも、私はあなたを許します」
「それはどうも」
「神は、きっとあなたの魂にも救いをくださいます」
リリアナは何も答えなかった。
ミリアはしばらく彼女を見つめていたが、やがて小さく会釈した。
「さようなら、リリアナ様」
「ええ」
リリアナは静かに返した。
「さようなら、聖女様」
ミリアの足音が遠ざかる。
地下牢には、また冷たい静けさが戻った。
リリアナは寝台に腰を下ろした。今度は背筋を伸ばすのをやめ、壁に背を預ける。
石の冷たさが、肩越しに伝わってくる。
窓はない。
夜がどれほど進んだのかは分からなかった。
けれど、リリアナは目を閉じなかった。
眠るには、少しだけ惜しい夜だった。
翌朝、王都の広場には大勢の民が集まっていた。
悪役令嬢の処刑。
その噂は一晩で広がっていた。聖女を傷つけ、王太子を欺き、禁じられた場所に踏み入った公爵令嬢。美しい顔の裏で悪意を隠していた女。誰もが、そう語っていた。
処刑台の周りには騎士が並び、王家の旗が風に揺れていた。
空は嫌になるほど晴れている。
リリアナは黒い外套をかけられ、処刑台へ上がった。
手首は縛られている。髪飾りは外され、長い髪が背に流れていた。昨夜までの華やかなドレスではなく、簡素な白い服を着せられている。
それでも、彼女は美しかった。
そのことが、民衆の憎しみを余計に煽った。
「聖女様を苦しめた悪女め!」
「公爵家の恥さらし!」
「殿下を裏切った女!」
声が飛ぶ。
石は投げられなかった。騎士が止めていたからだ。もし誰も止めなければ、きっと彼女の白い服は泥と血で汚れていただろう。
リリアナは何も言わない。
処刑台の正面には、王太子エドワードがいた。
その隣にはミリアがいる。
エドワードは硬い顔をしていた。正義を果たす者の顔。国のため、聖女のため、未来のために悪を裁く王太子の顔。
けれど、その拳は強く握られていた。
ミリアは目元を押さえている。泣いているのだろう。民衆はその姿を見て、さらにリリアナを憎んだ。
処刑人が斧を持って立つ。
司祭が罪状を読み上げた。
リリアナ・ヴァレンシュタイン。
王太子殿下の婚約者でありながら、嫉妬により聖女ミリアを害した罪。
王宮の機密に触れた罪。
禁域へ侵入した罪。
王家と神殿の信頼を踏みにじった罪。
読み上げられるたびに、民衆の声が大きくなった。
リリアナはそれを聞いていた。
自分の罪が、正しく並べられていくのを。
事実だけなら、どれも間違っていない。
だから彼女は反論しなかった。
司祭が最後に言う。
「何か、言い残すことはあるか」
広場が静まり返った。
エドワードがリリアナを見る。
ほんの一瞬、彼の目に迷いが浮かんだ。
リリアナはその迷いを見た。
そして、少しだけ笑った。
「殿下」
エドワードの肩が揺れる。
「どうか、お幸せに」
それは、恨み言ではなかった。
許しでもない。
ただ、かつて婚約者だった相手へ向ける、最後の礼のような言葉だった。
エドワードは唇を動かした。
だが、何も言わなかった。
言えなかったのかもしれない。
リリアナはもう彼を見なかった。
視線を横へ移す。
聖女ミリアがいた。
ミリアは涙を流している。頬を伝う涙は朝の光を受けて、宝石のように輝いていた。
美しい涙だった。
誰もが彼女を信じる理由が、リリアナにはよく分かった。
リリアナはミリアを見つめた。
ミリアもまた、涙の向こうからリリアナを見ていた。
ほんの一瞬。
本当に、まばたきほどの一瞬。
ミリアの口元が動いた。
笑ったように見えた。
リリアナも、ほほ笑み返した。
処刑人が斧を持ち上げる。
広場の空気が止まる。
鳥の声が、遠くで聞こえた。
リリアナは目を閉じなかった。
最後まで、聖女を見ていた。
刃が落ちる。
その日、悪役令嬢リリアナ・ヴァレンシュタインは死んだ。
王太子は悪を裁いた。
聖女は涙を流した。
民衆は正義が果たされたと信じた。
誰もが、それで物語は終わったのだと思った。
3話ぐらいの予定になりますが
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