3話
第三話 聖女の中で、悪役令嬢は微笑む
聖女ミリアは、痛みを知らなかった。
正確には、痛むふりなら知っていた。
階段から落ちたとき、腕の骨が折れたように曲がった。けれど痛みはなかった。骨はすぐに戻った。血も流れなかった。だからミリアは、床に倒れたまま、痛みに耐える人間の顔をまねた。
それは簡単だった。
人間は分かりやすい。
怖いと震える。
悲しいと泣く。
愛されたいと笑う。
疑われたくないと、誰よりも清らかな顔をする。
聖女という器は、とても都合がよかった。
誰も疑わない。
誰も責めない。
たとえ少し不自然なことがあっても、周囲の者が勝手に理由を作ってくれる。
ミリア様はお疲れなのだ。
ミリア様はお優しすぎるのだ。
ミリア様を疑うなんて、心が汚れている。
だからミリアは、長いあいだ飢えることがなかった。
王宮は豊かな食卓だった。
名前。
約束。
秘密。
悔恨。
愛情。
後悔。
幼い日の思い出。
人間たちは、きらきらしたものをいくつも抱えている。そして、それを奪われても気づかない。忘れたことすら忘れて、同じ顔で笑っている。
ミリアは、それが好きだった。
食べた記憶は、甘かった。
侍女が大切にしていた命日の記憶。
騎士が妹のために菓子を買った記憶。
王太子が幼い婚約者へ白い花を差し出した記憶。
どれも小さく、柔らかく、温かかった。
人間は、それを宝物と呼ぶらしい。
ミリアには、食べ物でしかなかった。
ただひとり、リリアナ・ヴァレンシュタインだけが邪魔だった。
最初は、ただの高慢な公爵令嬢だと思っていた。
背筋がまっすぐで、声が冷たく、いつも正しい場所に正しい顔で立っている女。王太子の隣にいるにはふさわしいが、人から愛されるには少し硬すぎる。
そう思っていた。
けれど、違った。
リリアナだけが、こちらを見ていた。
聖女の涙ではなく、その奥を。
言葉ではなく、飲み込んだものを。
笑顔ではなく、笑う前のわずかな空白を。
気味が悪かった。
そして、腹が立った。
ドレスを裂かれた日、リリアナは見た。背中に残った古い印を。
階段から落とされた日、リリアナは見た。曲がった骨が戻るところを。
部屋に入られた日、リリアナは水晶に触れた。食べ残した記憶の欠片に。
地下礼拝堂へ行った日、リリアナは知った。
自分を縛る方法を。
だから、処刑が決まった夜、ミリアは牢へ向かった。
食べなければならない。
リリアナの中にあるものを、残さず食べなければならない。
あの女が何を知ったのか。
誰に伝えたのか。
どこまでたどり着いたのか。
確かめる必要があった。
そして、消す必要があった。
鉄格子の向こうで、リリアナは待っていた。
その姿を見て、ミリアは少しだけ笑いそうになった。
公爵令嬢。
王太子の婚約者。
美しく、正しく、誰よりも気高くあろうとした女。
それが今は、湿った牢の中にいる。
明日には首を落とされる。
なんてあっけない。
人間の誇りなど、少し評判を汚せば簡単に崩れる。誰かの記憶をいくつか食べ、好意を少し傾ければ、それだけで世界は形を変える。
ミリアは悲しげな顔を作った。
「最後に、何か言い残すことはありますか?」
リリアナは鉄格子の向こうから、まっすぐこちらを見た。
死を前にした人間の目ではなかった。
諦めでも、恐怖でも、怒りでもない。
ミリアが嫌いな目だった。
そしてリリアナは、言った。
「あなた、ずいぶんお腹が空いているのね」
その瞬間、ミリアは自分の顔が崩れたことを知った。
一瞬だけ。
本当に、一瞬だけ。
だが、リリアナは見逃さなかった。
ミリアはすぐに聖女の顔へ戻った。
許しの言葉を口にした。
悲しみの涙を浮かべた。
神の救いを語った。
けれど、腹の底では決めていた。
食べる。
この女を、残さず。
牢を去る前、ミリアは鉄格子越しに指を伸ばした。
リリアナの指先に、ほんの少しだけ触れる。
その一瞬で十分だった。
記憶の味が流れ込む。
まずは冷たい怒り。
次に、母の声。
昔々、この国には、人を食べる魔物がいました。
ミリアは内心で笑った。
昔話。
封じられた魔物。
毒となる記憶。
なるほど、そこまで知っていたのか。
ならば、なおさら食べ尽くさなければならない。
リリアナの記憶は深かった。
母の寝室。
雨の音。
暖炉の火。
白い花。
王子の幼い声。
侍女の約束。
騎士の妹。
水晶に閉じた声。
地下礼拝堂の石碑。
古い文字。
魔物の真名。
甘い。
重い。
苦い。
熱い。
ミリアは夢中で食べた。
リリアナの中には、恐怖があった。怒りがあった。後悔もあった。けれど、その奥には奇妙なほど静かな意志があった。
それすら、飲み込んだ。
食べれば終わる。
リリアナ・ヴァレンシュタインという女は、明日肉体を失い、今夜記憶を失う。
誰にも残らない。
そう思っていた。
翌朝、リリアナは処刑された。
首が落ちた瞬間、広場は歓声に包まれた。
ミリアは涙を流した。
泣くのは得意だった。
王太子エドワードが隣で拳を握っている。苦しそうな顔をしている。迷いがあるのだろう。けれど、その迷いが何から来るのか、彼にはもう分からない。
ミリアはそっと目元を押さえた。
哀れな王子。
大切なものを忘れたまま、正義を果たしたつもりでいる。
その滑稽さに、笑わないでいるのは少し難しかった。
処刑が終わり、王宮へ戻ったあとも、ミリアは聖女として振る舞った。
王太子を慰め、神官に祈り、貴族たちの同情を受け取った。
誰もが言った。
「聖女様はお優しい」
「ご自分を傷つけた相手のために涙を流されるなんて」
「リリアナ様も、最後に聖女様の慈悲を知ったことでしょう」
ミリアはうなずき、涙を浮かべ、疲れたふりをして自室へ戻った。
扉が閉まった。
白い部屋。
花の香り。
鏡台。
神殿から贈られた聖典。
いつもと同じ部屋だった。
ミリアは寝台に腰を下ろし、ようやく笑った。
「終わったわ」
そう言った瞬間、腹の奥が痛んだ。
初めての感覚だった。
ミリアは笑みを止める。
痛み。
これが痛みなのか。
人間がよく顔をゆがめる、あれ。
腹の奥で、何かがほどけていた。
食べた記憶のはずだった。
リリアナの記憶。
もう自分の中に取り込んだもの。
それが、勝手に動いている。
雨の音が聞こえた。
部屋の中に雨など降っていない。
それなのに、窓を叩く雨粒の音が耳の奥で響く。
暖炉の火が見えた。
白い花の匂いがした。
誰かの声がした。
覚えておきなさい、リリアナ。
ミリアは胸を押さえた。
「何……?」
次の瞬間、頭の中に古い文字が浮かんだ。
記憶を喰らうものは、記憶によって縛られる。
ミリアは立ち上がろうとして、膝をついた。
喉の奥から、知らない声が上がる。
侍女の声。
騎士の声。
下働きの声。
名前を奪われた者たちの声。
私の名前は。
妹が待っている。
お嬢様、今年も白い花を。
帰りたい。
覚えていて。
忘れないで。
「黙りなさい」
ミリアは低く言った。
けれど声は止まらない。
それどころか、リリアナの記憶の奥に沈められていたものが、ひとつずつ目を覚ましていく。
母の昔話。
地下礼拝堂の文言。
魔物の真名。
憎しみ。
祈り。
そして、リリアナ自身。
鏡台の前に、いつの間にか立っていた。
ミリアは鏡を見た。
映っているのは、聖女ミリアだった。
白い髪。
澄んだ瞳。
清らかな顔。
だが、その鏡の中の女が、ミリアより先に笑った。
「ようやく、静かになりましたわね」
ミリアは息を止めた。
自分の口は動いていない。
なのに、鏡の中の女が喋っている。
その声は、リリアナのものだった。
「出ていきなさい」
ミリアは鏡に向かって叫んだ。
「これは私の体よ!」
鏡の中の聖女は、ゆっくりと首を傾けた。
リリアナがよくしていた仕草だった。
「おかしなことを言いますのね」
鏡の中の女が、優雅に笑う。
「あなたが、わたくしを食べたのでしょう?」
ミリアの喉が引きつった。
「そんなはずがない。私は食べた。あなたの記憶を、全部、私のものにした!」
「ええ。ですから」
鏡の中のリリアナは、静かに言った。
「わたくしは今、あなたの中にいるのですわ」
痛みが強くなる。
ミリアは頭を抱えた。
食べた記憶が逆流している。今まで奪ってきたものが、ミリアの中で暴れ始めていた。
名前を失った者たちが、自分の名を思い出す。
約束を奪われた者たちが、誰と何を約束したのか思い出す。
忘れたことすら忘れていた者たちが、忘れた痛みを取り戻す。
ミリアの中にため込まれた記憶が、リリアナを中心に束ねられていく。
毒。
それは刃ではなかった。
炎でもない。
リリアナ・ヴァレンシュタインという女が抱えた記憶そのものだった。
母の教え。
消えた者たちの声。
王子との約束。
聖女への憎しみ。
魔物の真名。
すべてが絡まり合い、ミリアの内側を縛っていく。
「やめなさい!」
ミリアは叫んだ。
「私は聖女よ! 皆が私を愛している! 誰もあなたなんて覚えていない!」
「そうですわね」
リリアナの声は穏やかだった。
「誰も、わたくしを信じませんでした」
「なら、あなたの負けよ!」
「いいえ」
鏡の中の聖女が、口元をゆるめる。
「だから、勝てたのです」
ミリアは言葉を失った。
「わたくしが弁明すれば、あなたは警戒した。逃げれば、追わなかった。誰かに助けを求めれば、その方の記憶を食べた。けれど、悪女として断罪され、誰にも信じられず、明日には死ぬ女なら」
リリアナは、まるで舞踏会で礼をするような声で言った。
「あなたは、安心して食べに来るでしょう?」
ミリアは後ずさった。
だが、ここは自分の体の中だ。逃げる場所などない。
「あなたは……最初から……」
「ええ」
「死ぬつもりで?」
「処刑されるつもりではありましたわ」
「狂っている」
「そうかもしれません」
リリアナは否定しなかった。
その声が、ミリアには何より恐ろしかった。
善人なら揺さぶれる。
聖人なら汚せる。
正義の人間なら、犠牲を責めれば崩れる。
だがリリアナは、自分が正しいだけの人間だとは思っていなかった。
国を救うため。
奪われた記憶を返すため。
母の教えに背いてでも、誰かを止めるため。
そして。
自分からすべてを奪った魔物に、同じ痛みを返すため。
その全部を抱えて、リリアナはここに来ていた。
「嫌……」
ミリアの声がかすれた。
「私は消えない。私はずっと食べてきた。何人も、何十人も、何百人も。私は忘れない。私は奪う側なの」
「ええ」
リリアナが言う。
「では今度は、奪われる側を覚えなさい」
その瞬間、ミリアの中で何かが裂けた。
記憶が光になってあふれ出す。
王宮の地下で、水晶が次々に割れた。
閉じ込められていた声が解き放たれる。
眠っていた下働きが、自分の名前を叫んで目を覚ました。
妹の存在を忘れていた騎士が、膝から崩れ落ちた。
エマは白い花を抱えて泣いた。
神官たちは、地下礼拝堂で何を隠してきたのか思い出した。
そして王太子エドワードは、自室で胸を押さえた。
白い花。
庭で泣いていた少女。
泣いていません、と言い張った赤い目。
雨のせいです、とすました顔。
今日は晴れているぞ、と笑った自分。
スノウベル。
リリアナ。
エドワードは息をのんだ。
忘れていた。
忘れていたことすら、忘れていた。
そして、自分が何をしたのか思い出した。
「リリアナ……」
その名を呼んだとき、王子の声は震えていた。
聖女ミリアの部屋では、白い花瓶が倒れていた。
ミリアは床にうずくまり、爪で床をかいていた。
「返して……私の体を返して……!」
鏡の中の聖女は、もうミリアの真似をしていなかった。
背筋を伸ばし、静かに立っている。
その姿は、たしかにリリアナだった。
「返す?」
リリアナは言った。
「あなたは、返したことがありまして?」
「私は魔物よ! 人間とは違う!」
「ええ。ですから、遠慮はいりませんわね」
その言葉は、あまりにも冷たかった。
ミリアは初めて、リリアナを悪役令嬢だと思った。
人間たちが呼んでいたような、嫉妬に狂った悪女ではない。
もっと静かで、もっと深く、もっと恐ろしいもの。
自分を犠牲にして国を救う女。
同時に、自分を奪った者を許さない女。
その二つが、同じ顔で笑っている。
「リリアナ……あなたは……」
ミリアの声が薄くなる。
「英雄にでも、なるつもり……?」
リリアナは少し黙った。
それから、鏡の中で微笑んだ。
「誰も覚えていない英雄に、何の意味がありますの?」
ミリアの姿が崩れていく。
声が遠ざかる。
最後に残ったのは、飢えだった。
もっと食べたい。
もっと奪いたい。
消えたくない。
その飢えすら、リリアナの記憶の中に沈んでいった。
夜が明けた。
王宮は混乱の中にあった。
忘れていた者たちが、次々に思い出したからだ。
消えた下働き。
隠された地下礼拝堂。
聖女の部屋にあった水晶。
リリアナが何を調べていたのか。
自分たちが何を見落としたのか。
けれど、一番大きな混乱は、聖女ミリアが部屋から出てきた瞬間に起こった。
白いドレス。
白い髪。
清らかな顔。
見た目は何も変わらない。
だが、歩き方が違った。
背筋の伸ばし方。
視線の置き方。
指先の動き。
すべてが、死んだはずの公爵令嬢を思わせた。
廊下にいた侍女が、小さく悲鳴を上げた。
「リリアナ様……?」
聖女は振り返った。
その顔で、その声で、静かに言う。
「おはようございます」
侍女は泣き崩れた。
王太子エドワードが駆けつけたのは、そのすぐ後だった。
彼は寝間着に上着を羽織っただけの姿だった。王太子としてはありえないほど乱れていた。髪も整っていない。目元は赤い。
聖女の姿をした女の前で、彼は足を止めた。
言葉が出ないようだった。
長い沈黙のあと、エドワードはかすれた声で言った。
「リリアナ……なのか」
聖女は、彼を見た。
その瞳はミリアのものだった。
けれど、そこに浮かんでいる冷静さは、間違いなくリリアナのものだった。
「さあ」
彼女は微笑んだ。
「どちらでしょう」
エドワードの顔がゆがむ。
「俺は……俺は、君を……」
「処刑なさいましたわね」
静かな声だった。
責めるでもなく、慰めるでもなく、ただ事実を置くような言い方だった。
エドワードは膝をついた。
「すまない」
周囲の者たちが息をのむ。
王太子が、聖女の前で膝をついている。
けれど、彼が謝っている相手は聖女ではない。
「すまなかった、リリアナ。俺は、忘れていた。君との約束も、君がどんな人間だったかも、全部……」
「ええ」
「君は、国を救ったのか」
聖女は少しだけ目を細めた。
「おそらくは」
「おそらく?」
「奪われた記憶は戻りました。地下に閉じ込められていた方々も助かるでしょう。王家と神殿が隠していたものも、明るみに出ます。魔物ミリアは、もう人の記憶を食べません」
エドワードは顔を上げた。
「なら、君は英雄だ」
その言葉に、廊下の空気が揺れた。
英雄。
誰もが、そう呼びたかったのかもしれない。
処刑してしまった罪を、少しでも軽くするために。
信じなかった自分を、許す理由を見つけるために。
死んだはずの公爵令嬢が戻ってきたという恐ろしさから、目をそらすために。
聖女は、小さく笑った。
「英雄」
口の中で転がすように、その言葉を繰り返す。
「綺麗な言葉ですわね」
「違うのか?」
「わたくしは、聖女の体を奪いました」
誰も声を出さなかった。
エドワードの顔が固まる。
「ミリアは魔物だった」
「ええ」
「なら……」
「なら、奪ってもよい?」
聖女の声はやわらかかった。
それなのに、廊下にいた誰もが背筋を冷たくした。
エドワードは答えられなかった。
聖女は続ける。
「魔物でした。人を食べていました。多くの者から大切な記憶を奪いました。消えて当然の存在だったのでしょう」
「それは……そうだ」
「では、わたくしは?」
エドワードは息を止めた。
「わたくしは、リリアナ・ヴァレンシュタインなのでしょうか。それとも、聖女ミリアの体を奪った何かなのでしょうか」
誰も答えない。
答えられるはずがない。
聖女の姿をした女は、王太子を見下ろしていた。
「殿下」
「……何だ」
「わたくしが戻ってきたと思いますか?」
エドワードは、泣きそうな顔で言った。
「戻ってきてくれ」
それは答えではなかった。
願いだった。
聖女は、少しだけ寂しそうに笑った。
「戻る場所など、もうありませんわ」
王太子は言葉を失った。
「リリアナ・ヴァレンシュタインは、昨日死にました。大勢の前で、王家の名のもとに、正しく裁かれた悪女として」
「やめてくれ」
「やめません」
初めて、彼女の声に刃が混じった。
「皆が望んだ結末です。殿下も、民も、貴族も、神殿も。悪女が死ねば、すべて終わると信じた」
エドワードは肩を震わせていた。
「知らなかったんだ」
「ええ。忘れていらしたのですもの」
「ミリアに奪われていた」
「それも事実ですわ」
聖女は静かにうなずいた。
「けれど、わたくしを信じなかったことも、また事実です」
廊下は静まり返っていた。
誰もが目を伏せる。
エマは泣いていた。
騎士は唇を噛んでいた。
神官たちは青ざめていた。
聖女は、彼らを責めなかった。
ただ、許しもしなかった。
エドワードが、絞り出すように言う。
「これから、どうするつもりだ」
聖女は廊下の先を見た。
その先には、王宮の中心へ続く階段がある。
さらにその奥には、王座の間がある。
「この国を、正しく作り直します」
その言葉に、誰もすぐには反応できなかった。
救いの言葉にも聞こえた。
宣戦布告にも聞こえた。
エドワードは立ち上がろうとして、ふらついた。
「君が……王家を裁くのか」
「必要なら」
「神殿も?」
「当然です」
「俺もか」
聖女は、ようやく王太子を見た。
「殿下が、ご自分を裁かれる必要のない方だとお思いなら」
エドワードは何も言えなかった。
聖女は彼の横を通り過ぎる。
そのとき、エドワードが小さく呼んだ。
「リリアナ」
彼女は足を止めた。
「君は、本当にリリアナなのか」
少しの沈黙。
それから聖女は振り返らずに答えた。
「その名で呼ぶ方は、もうおりませんわ」
歩き出す。
廊下にいた者たちが、道を開けた。
誰も彼女を止めなかった。
止められなかった。
聖女ミリアは、誰からも愛された存在だった。
リリアナ・ヴァレンシュタインは、誰からも信じられず死んだ悪役令嬢だった。
その二人がひとつになったものが、今、王宮の廊下を歩いている。
人々はひざまずいた。
救われたからか。
恐ろしかったからか。
それは、誰にも分からなかった。
数日後、王都には新しい知らせが広がった。
聖女ミリアが、王宮に巣食っていた魔を祓った。
処刑された公爵令嬢リリアナの罪には、隠された事情があった。
王家と神殿は調査に入る。
消えていた者たちは保護された。
失われた記憶は戻りつつある。
民衆は安堵した。
聖女様が救ってくださったのだと、誰かが言った。
別の誰かが、それは違う、リリアナ様が命をかけたのだと言った。
だが、その声は大きくならなかった。
なぜなら、聖女ミリアは生きている。
リリアナ・ヴァレンシュタインは死んでいる。
人は、目に見えるものを信じる。
そして王宮では、聖女ミリアが王家と神殿の不正を次々に明るみに出していた。
彼女の判断は正しかった。
彼女の命令は早かった。
彼女は、奪われた者に名を返し、隠した者に罰を与え、黙っていた者に責任を問うた。
誰も反論できなかった。
聖女だから。
国を救ったから。
そして何より、彼女の目があまりにも冷たかったから。
夜。
聖女は、かつてミリアの部屋だった場所にひとりで立っていた。
鏡の前。
白い髪。
白い肌。
清らかな瞳。
どこから見ても、そこにいるのは聖女ミリアだった。
けれど、鏡を見つめる目だけは違う。
「お母様」
彼女は小さくつぶやいた。
「わたくしは、約束を破りました」
答える声はない。
母はもういない。
リリアナを止める者も、叱る者も、抱きしめる者もいない。
「誰かを救うために、自分を捨ててはいけないと。そう言われましたのに」
鏡の中の聖女は、静かに微笑んだ。
「でも、お母様」
その笑みは、美しかった。
聖女のように。
悪役令嬢のように。
「わたくし、自分だけを捨てたつもりはありませんの」
窓の外では、王都の灯が揺れている。
救われた国。
記憶を取り戻した人々。
罪を暴かれる王家と神殿。
そして、もう誰も疑わない聖女。
彼女は鏡に手を伸ばした。
冷たい指先が、鏡面に触れる。
その奥で、一瞬だけ、ミリアのような影が揺れた気がした。
怯えているのか。
怒っているのか。
それとも、まだ消えていないのか。
聖女は目を細めた。
「静かになさい」
影は消えた。
それが本当にミリアだったのか、ただの光の揺らぎだったのかは分からない。
聖女は振り返り、机の上に置かれた白い花を見た。
スノウベル。
冬の終わりに咲く、小さな花。
エドワードが届けさせたものだった。
彼はまだ、毎日謝罪の手紙を送ってくる。
聖女はその手紙を読んでいない。
捨ててもいない。
ただ、開かないまま積み上げている。
「お幸せに、と申し上げたのに」
彼女は小さく笑った。
「不器用な方」
その声は、たしかにリリアナだった。
だが、その笑みが誰のものなのかは、もう誰にも分からない。
翌朝、聖女ミリアは王座の間に立った。
王と神官長、貴族たち、騎士たちが集められている。
誰もが彼女を見ていた。
かつて王宮の広間で、悪役令嬢リリアナを見ていたときと同じように。
けれど、今その視線にあるのは憎しみではない。
畏れだった。
聖女はゆっくりと口を開いた。
「忘れていたことを、思い出しましょう」
その一言で、王座の間の空気が変わった。
誰も逃げられない。
誰も忘れたふりはできない。
聖女は微笑んだ。
清らかに。
優雅に。
残酷に。
こうして王国は救われた。
けれどその日から、誰も聖女ミリアを疑わなくなった。




