名前を呼べば、朝が来る
東の丘へ続く搬送道は、道というより、斜面に残った古い傷だった。
かつて救護院から負傷者を運ぶために使われていたのだろう。
石の段は半分崩れ、木の根が踏み板を割り、朝露を含んだ草が足元に絡みついてくる。
空はまだ暗い。
けれど、真っ黒ではない。
東の端だけが、少しずつ薄くなっていた。
夜が、終わろうとしている。
俺たちは、その終わりかけの夜を、ほとんど這うように進んでいた。
先頭はダリオ。
剣は抜いていない。
けれど、いつでも抜ける。
時々足を止め、森の奥を見て、耳を澄ませる。
教会兵の足音はまだ遠くにある。
完全には撒けていない。
でも、白い救護院の回路が反応を散らしたおかげで、追跡の線は乱れている。
俺の右側にはアイリス。
肩を貸しているというより、壊れかけた荷台を無理やり固定しているみたいな支え方だった。
左側には、時々エリシアが手を貸す。
王女の手は、もう泥で汚れ切っていた。
それを気にする様子はない。
セラは少し後ろを歩いている。
中継石を両手で包むようにしながら、それでも自分の足で歩いていた。
ふらつくたび、エリシアが振り返る。
セラはそのたびに、小さく言う。
「大丈夫ではありません」
「ええ」
「でも、歩きます」
「ええ」
もう、二人だけの合図みたいになっていた。
俺は足を引きずりながら、息を吐く。
胸が痛い。
足も痛い。
腕も痛い。
痛くない場所を探す方が早い。
「アーデル、歩行機能、限界域」
「知ってる」
「休止を推奨」
「丘まで行くんだろ」
「はい」
「なら、休止は却下」
「矛盾」
「もう確認しなくていい」
「記録します」
「するな」
「しました」
「早いな」
アイリスは真顔だった。
いつも通りに見える。
でも、完全にいつも通りではない。
白い石板に浮かんだI.R.I.S.の文字。
処分判定、保留。
同期拒否。
対象名を優先。
あれを読んでから、アイリスの明滅は時々ずれる。
ほんの少し。
普通なら気づかないくらい。
でも、俺には見える。
壊れた道具の音が、一拍だけ遅れる時みたいに。
まだ動いている。
でも、どこかで何かが噛み合っていない。
俺は何も言わなかった。
言葉を入れる場所ではない。
アイリスは、言われたところで「該当記録、破損」と返すだけだ。
なら、今は歩く。
壊れている部分を見つけても、すぐに触ればいいとは限らない。
父さんも、そう言っていた。
いや。
言っていた気がする。
都合のいい記憶かもしれない。
でも、今はそれでいい。
斜面の途中で、ダリオが手を上げた。
全員が止まる。
遠くから、青い光が揺れていた。
魔導灯。
教会兵だ。
数は三つ。
いや、四つ。
こちらの斜面を直接追っているわけではない。
だが、谷の向こうを横切っている。
見つかれば終わりだ。
ダリオが低く言う。
「伏せろ」
エリシアがセラを押し下げる。
俺は伏せるというより、アイリスに引きずり倒された。
「痛っ」
「声量、低下推奨」
「今のはお前が悪い」
「転倒音は抑制しました」
「俺の関節音は?」
「許容範囲外」
「だろうな」
泥の匂いが近い。
朝露で濡れた草が頬に触れる。
冷たい。
谷の向こうで、教会兵の声がした。
「反応は散ったままだ」
「聖女様の中継石は?」
「分からん。白い反応が複数に分かれている」
「白?」
「神託盤にない色だ」
セラの指が、中継石を強く握った。
エリシアがその手に自分の手を重ねる。
白い反応。
神託盤にない色。
それはたぶん、完全な成功ではない。
でも、神託が知らない色を出せた。
それだけで、俺たちはまだ追われながらも、少しだけ外にいる。
教会兵たちは谷の向こうへ消えていった。
ダリオはしばらく待った。
風が変わる。
鳥の鳴き声が一つ。
そこでようやく、彼は小さく頷いた。
「進む」
俺たちはまた斜面を登り始めた。
足が重い。
手をつく。
石を掴む。
濡れた苔で滑る。
ダリオが上から手を伸ばす。
「掴め」
「自分で行ける」
「行けていない」
「正論が早い」
「掴め」
俺は仕方なく手を伸ばした。
ダリオの手は固い。
引き上げる力が強い。
訓練された兵士の手だ。
誘拐犯を捕まえるための手が、今は誘拐犯を引き上げている。
世の中、どうかしている。
いや、たぶん俺たちがどうかしている。
上に出る頃には、息が切れていた。
肺が熱い。
右足はもう、自分のものではないみたいだった。
それでも、丘の上に出た瞬間、風が変わった。
木々が途切れる。
視界が開ける。
東の空が見えた。
黒い森の向こう、細い金色の線が、地平に滲んでいる。
夜明けだ。
丘の上には、古い見晴らし台の跡があった。
丸い石の台座。
崩れた柱。
低い石壁。
その中央に、白い小さな石板が埋まっている。
救護院のものより小さい。
青い光はない。
白い光も、今はない。
ただ、朝露に濡れているだけだった。
アイリスが周囲を見た。
「教会都市の局所追跡範囲を離脱」
その言葉に、セラが小さく息を吐いた。
「本当に?」
「現時点では」
「現時点では、なのですね」
「はい」
「それでも、今は十分です」
セラはその場に座り込んだ。
崩れるようにではない。
自分で選んで、座った。
エリシアが隣に膝をつく。
「セラ」
「大丈夫ではありません」
「ええ」
「でも、ここまで来ました」
「ええ」
セラは中継石を見た。
石は、静かだった。
完全に光を失ったわけではない。
でも、青い呼び声は今、遠い。
彼女はそれを両手で包み、しばらく何も言わなかった。
ダリオは丘の西側に立つ。
森と谷を見下ろしている。
剣は収めたままだが、警戒は解いていない。
「しばらくは追いつかれない」
彼が言った。
「しばらく、か」
俺は石壁に背を預けて座り込んだ。
今度は完全に座り込んだ。
足が、もう動く気をなくしている。
アイリスが俺の前に立つ。
「アーデル、座位姿勢、安定」
「もう成功判定しなくていい」
「右足機能、要修復」
「できるのか」
「専門外です」
「だろうな」
「冷却、固定、休息が必要です」
「工具で直せないか」
「人間の足は工具ではありません」
「知ってる」
「ですが、破損物としては扱えます」
「それも嫌だな」
エリシアがこちらを見る。
「休みなさい。ここまで来たのだから」
「王女様もな」
「私は平気よ」
そう言った直後、エリシアの肩がわずかに落ちた。
セラがそれを見る。
「平気ではありません」
「……そうね」
エリシアは小さく息を吐いた。
「平気ではないわ」
セラが少しだけ笑う。
それから、俺たち全員を見た。
「皆さん、大丈夫ではありませんね」
「今さらだな」
俺が言うと、セラは頷いた。
「はい。今さらです」
その言葉に、丘の上の空気が少しだけ緩んだ。
夜の間に、何度も聞いた言葉。
大丈夫ではありません。
でも、歩きます。
それが、たぶんセラの祈りより強い言葉になっていた。
アイリスが白い小石板に近づいた。
見晴らし台の中央にあるそれだ。
指を伸ばす。
俺は反射的に言った。
「触って大丈夫か」
「攻撃性反応なし」
「不明じゃないのか」
「不明です」
「やっぱりな」
「ただし、触れる必要があります」
「お前、それ最近便利に使ってないか」
「必要な場合のみ使用しています」
アイリスの指が石板に触れる。
白い光が、ほんの少しだけ灯った。
セラの中継石も、かすかに応じる。
だが、青くはならない。
白いままだ。
石板に、かすれた古い文字が浮かぶ。
「例外エラー個体……隔離、完了」
「全体管理網への隠蔽、成功」
「個別波形……名前……維持を確認」
「次回エスケープまで、本ノードを待機状態に固定」
浮かび上がったその無機質なシステムコードを睨みつけた瞬間、俺は息を止めた。
ずっと大昔に、ここへ誰かを名前のまま逃がしきった、一人のバグの爪痕だった。
セラがゆっくり立ち上がった。
足元はふらついている。
エリシアが支えようとする。
セラは一度だけ首を横に振り、でもすぐにエリシアの手を取った。
拒んだのではない。
自分で選び直したのだ。
セラは白い石板の前に立った。
中継石を両手で包む。
「私は、セラです」
小さな声だった。
でも、丘の上にははっきり届いた。
「聖女です。でも、それだけではありません」
エリシアが黙って聞いている。
ダリオも、森を見たまま動かない。
アイリスの瞳は静かに明滅している。
「私は、人を救いたいです」
セラは言った。
「でも、私が消えることを、私の願いにしません」
朝日が、地平線から少しだけ顔を出した。
白い石板が淡く光る。
セラの中継石も、白く濁った光を返す。
「私は、名前を覚えていたいです」
その言葉で、アイリスの瞳が一度だけ止まった。
ほんの一瞬。
すぐに戻る。
セラは続けた。
「エリシアさん」
エリシアが頷く。
「ルカさん」
「おう」
「アイリスさん」
アイリスは少しだけ首を傾げた。
「呼称を確認」
「ダリオさん」
ダリオは背を向けたまま、短く言う。
「聞こえている」
セラは笑った。
泣いているのか、笑っているのか、少し分からなかった。
「私は、この名前を忘れません」
白い光が、丘の石板から細く伸びた。
大きくはない。
派手でもない。
ただ、朝露の上を這うように、淡い線が走る。
教会都市の方へ伸びるのではない。
神託碑へ戻るのでもない。
丘の上だけで、静かに輪を描く。
セラを中心に。
俺たちを囲むように。
アイリスが告げる。
「個別記録、安定。上位接続、未成立」
「分かりやすく」
俺が言う。
「セラは、今ここにいます」
セラが深く息を吸った。
それから、ゆっくり吐いた。
「はい」
その返事は、弱くなかった。
遠く、教会都市の鐘が鳴った。
一つ。
それから、間を置いてもう一つ。
追跡の鐘かもしれない。
儀式失敗の鐘かもしれない。
聖女消失の鐘かもしれない。
どれでもいい。
この丘には、もう届かなかった。
いや、音だけは届いていた。
でも、俺たちを動かす力にはならなかった。
エリシアが立ち上がる。
泥だらけの外套のまま、東の空を見る。
「ここで、一度区切りね」
「終わりか?」
俺が聞くと、エリシアは俺を見た。
「終わりではないわ」
「だよな」
「王都には戻れない。教会も追ってくる。神託の正体も分からない。アイリスの記録も壊れている。あなたの足も壊れている」
「最後だけ急に現実的だな」
「全部現実よ」
「王女様、厳しい」
「でも」
エリシアはセラを見る。
「セラはここにいる」
セラが頷く。
エリシアはアイリスを見る。
「アイリスは止まっていない」
アイリスは無表情で答える。
「稼働中です」
エリシアは俺を見る。
「あなたの工具袋も、空ではない」
俺は腰の工具袋に触れた。
かち、と小さく鳴る。
錆びた釘。
曲がった金具。
折れた留め輪。
清め布と祭服の紐で編み直した袋。
最後の針金はない。
欠けたナイフもない。
王都の屋根に落とした道具も、水路に置いてきた道具も戻らない。
でも、今鳴っている。
「まあな」
俺は言った。
「空じゃない」
ダリオが西側から戻ってきた。
「追手は谷で止まっている。白い反応を追えずに分散しているようだ」
「どれくらい休める?」
エリシアが聞く。
「長くはない。だが、今すぐ逃げる必要はない」
今すぐ逃げる必要はない。
それだけで、ほとんど奇跡みたいだった。
ダリオは少し迷ってから、エリシアの前に膝をついた。
「王女殿下」
「何」
「私は、ここで一度戻ります」
空気が止まった。
セラが驚いてダリオを見る。
「戻るのですか」
「ああ」
「でも」
「誰かが違う道へ足跡を残さなければ、追手はすぐにこちらへ来る」
ダリオは淡々としていた。
「それに、ラインハルト卿へ報告する必要がある。聖女様は生きている。王女殿下も生きている。ルカ・アーデルは……」
彼は俺を見た。
「要注意同行者として継続中」
「まだその扱いなのか」
「状況次第だと言った」
俺は笑いかけて、少しだけやめた。
ダリオは戻る。
追手の中へ。
王国と教会の間へ。
たぶん、楽な道じゃない。
エリシアが彼を見る。
「命令よ、ダリオ・ベルク」
「はい」
「戻って、ラインハルトに伝えなさい。私は誘拐されたのではない。私が選んだ」
「承知しました」
「セラも、消えたのではない。ここにいる」
「承知しました」
「そして、ルカは」
「王女誘拐犯」
「違うわ」
エリシアはきっぱり言った。
俺が少し驚く。
ダリオも顔を上げた。
エリシアは俺を見る。
「少なくとも、今は違う」
「今は、か」
「不満?」
「いや。かなり進歩した」
エリシアは少しだけ口元を上げた。
「ルカは、私たちの同行者よ」
アイリスが即座に言う。
「記録更新。アーデル、同行者」
「そこはルカじゃないのか」
「識別名はアーデルです」
「最後までそれか」
「現地呼称ルカも併記しています」
「地味に進歩してるな」
セラが笑った。
エリシアも、少しだけ笑った。
ダリオは立ち上がった。
「同行者か。なら、逃げるなよ」
「どっちの意味だよ」
「どちらでもある」
「便利だな、騎士」
「便利に使え」
彼はそう言って、背を向けた。
森へ戻る前に、セラが呼んだ。
「ダリオさん」
ダリオは止まった。
「何だ」
「名前を呼んでくれて、ありがとうございました」
「呼ばれたのは俺だ」
「それでも、です」
ダリオは少しだけ黙った。
それから、背を向けたまま言う。
「覚えておけ。忘れるな」
「はい」
「俺も、覚えておく」
それだけ言って、ダリオは森へ下りていった。
王都近衛騎士団の背中。
追手の背中ではない。
味方と言い切るには、まだ早い。
でも、名前を呼ばれた人間の背中だった。
その姿が木々の中に消えるまで、セラは見ていた。
風が吹く。
朝日が少し高くなる。
丘の白い石板の光は、もう消えている。
けれど、セラの中継石は静かだった。
エリシアが外套の泥を払う。
払ってもほとんど落ちない。
「これからどうする?」
俺が聞く。
エリシアは東を見た。
「まず、休める場所を探すわ。あなたの足を固定する。セラの中継石の状態を見る。アイリスの記録も……」
そこで、彼女は少しだけ言葉を止めた。
アイリスは何も言わない。
白い朝の光を受けて、銀髪だけがやけに綺麗に見える。
最高傑作。
未登録演算体。
I.R.I.S.
処分判定、保留。
対象名を優先。
そのどれも、まだ答えではない。
でも、消えなかった。
エリシアは言い直す。
「アイリスの記録は、無理に開けない」
アイリスの瞳が一度だけ明滅した。
「判断理由」
「壊れたものは、割れ方を見てから直すのでしょう」
エリシアは俺を見た。
「違う?」
俺は少し笑った。
「合ってる」
アイリスが俺を見る。
「アーデルの発言記録が流用されています」
「著作権料を取るか」
「低価値発言です」
「ひどいな」
セラが、丘の端に立った。
東の空を見ている。
朝日が、彼女の泥だらけの祭服を照らす。
白い服はもう白くない。
でも、不思議と、壇の上にいた時より人間らしかった。
「ルカさん」
「何だ」
「私は、まだ聖女ですか」
俺は答えに迷った。
エリシアも黙っている。
アイリスは、いつものように即答しなかった。
セラは自分で続けた。
「私は、聖女です。でも、セラです」
中継石を握る。
もう、震えていない。
「その両方を、私が決めたいです」
朝日が、完全に地平線から顔を出した。
森の影が短くなる。
夜の湿った空気が、少しずつ温かくなっていく。
アイリスが静かに言った。
「セラ、自己定義を確認」
セラは振り返る。
「登録しますか」
「はい」
アイリスは真顔のまま告げた。
「セラ。聖女。同行者。協力者。自己決定権保持。記録更新」
セラの目が潤んだ。
でも、泣かなかった。
「はい」
その「はい」は、大聖堂の壇で神託に返していたものとは違った。
誰かに使われる返事ではない。
自分で選んだ返事だった。
俺は工具袋を叩く。
かち、と鳴る。
「じゃあ、行くか」
エリシアが俺を見る。
「その足で?」
「歩けるとは言ってない」
「では?」
「行くとは言った」
「本当に面倒ね」
「今さらだな」
アイリスが俺の肩を支える。
「高難度物理支援を再開します」
「今度は首を絞めるなよ」
「学習済みです」
「信用していいのか」
「不明」
「最後まで不明か」
「はい」
セラが笑った。
エリシアも笑った。
ほんの少し。
本当にほんの少し。
でも、朝の丘にはそれで十分だった。
俺たちは東の丘から、さらに続く細い道を見た。
王都には戻れない。
教会にも戻れない。
神託の正体も分からない。
アイリスの過去も、父さんの言葉の意味も、まだ途中だ。
でも、この夜は越えた。
セラを壇から降ろした。
名前を削る神託から、名前を一つ取り戻した。
それだけで、今は十分だった。
アイリスが歩き出す前に、ぽつりと言った。
「作戦名の更新を提案」
「またか」
「夜明け前の逃亡作戦、終了。新規作戦名――」
「却下」
「まだ提示していません」
「聞くと嫌な予感がする」
「では、現状報告に変更します」
「それなら短く」
アイリスは朝日に照らされた丘を見た。
そして、いつもの無表情で言う。
「セラ、消失せず。エリシア、帰還せず。アーデル、歩行機能低下。アイリス、稼働中。同行者数、継続」
「最後、いい感じに締めようとして失敗したな」
「失敗ではありません。正確です」
「正確すぎるんだよ」
セラが中継石を握りしめて、小さく言った。
「でも、私は好きです」
アイリスがセラを見る。
「評価を記録しました」
「はい」
エリシアが一歩前へ出る。
泥だらけの外套を朝風が揺らした。
「行きましょう」
その声は王女だった。
でも、今は王城の中の王女ではない。
檻の外へ出た王女。
自分の言葉を誰にも取り上げさせない王女。
俺は工具袋の音を聞いた。
かち。
錆びた釘が鳴る。
曲がった金具が鳴る。
清め布と祭服の紐で編み直された袋が、腰で揺れる。
最後の針金はもうない。
でも、同行者はいる。
名前がある。
それなら。
まだ、直せるものはある。
俺たちは歩き出した。
どこへ向かうのか、まだ分からない。
正解なんて、まだどこにもない。
けれど、名前を呼べば、まだ迷子ではないのかもしれない。
朝日は、ゆっくりと森を照らしていく。
白い光の中、セラが一度だけ振り返った。
遠くの教会都市は、もう木々に隠れて見えない。
それでも彼女は、胸元の石を握り、静かに言った。
「私は、ここにいます」
誰に向けた言葉かは分からなかった。
神託にか。
教会にか。
自分自身にか。
それとも、名前を忘れないためにか。
アイリスの瞳が、隣で一度だけ明滅した。
「記録しました」
セラは笑った。
「覚えてください」
「記録と記憶の差異は、現在も検討中です」
「では、検討してください」
「了解」
俺は思わず笑った。
「旅の目的が増えたな」
エリシアが横目で見る。
「最初から増え続けているわ」
「王女、聖女、神託、アイリスの記録、俺の足」
「最後のは早めに解決しなさい」
「できたらしてる」
アイリスが言う。
「アーデルの足、修復優先度、中」
「低くないか?」
「世界規模問題と比較した結果です」
「比較するな」
セラがまた笑った。
エリシアも、今度は隠さず笑った。
朝の光の中で、その笑い声は小さく響いた。
世界はまだ何も解決していない。
神託はまだ空のどこかで人を数えている。
王都では、王女誘拐犯の名が掲げられているだろう。
教会では、聖女消失の神託が出ているかもしれない。
ラインハルトも、ダリオも、それぞれの場所で嘘にならない言葉を探している。
父さんが残した言葉も、まだ胸の奥で引っかかっている。
神託は神の声ではない。
構造を見れば分かる。
分かるなら、直せ。
俺は空を見上げた。
朝日が眩しい。
ひどく眩しい。
眠っていない目には、少し痛いくらいだった。
でも、夜よりはいい。
俺はアイリスに支えられながら、一歩を出した。
右足が悲鳴を上げる。
それでも、前へ出る。
エリシアが先を歩く。
セラがその隣を歩く。
アイリスが俺を支える。
工具袋が鳴る。
かち。
かち。
小さな音。
壊れかけの旅の始まりの音。
名前を呼べば、まだ迷子ではない。
たぶん、それは正解ではない。
でも、今の俺たちには十分な地図だった。
俺たちは朝の森へ進んだ。
神託が届かない白い光の中へ。
まだ、誰も消えていない。
それだけを頼りに。




