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古代AI少女と始める異世界救済旅 〜知識は神話級なのに、常識だけが致命的に足りない〜  作者: 磯辺


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29/30

夜明け前の救護院

 眠れるはずがなかった。


 旧救護院跡の奥の部屋は、かろうじて雨風を防げるだけの石の箱だった。


 天井は低く、壁にはひびが走り、床には昔の寝台の跡だけが黒く残っている。


 薬草を吊るしていた金具は錆び、割れた水差しの破片が隅に転がっていた。


 外では、ダリオが入口の闇に立っている。


 剣は抜いていない。


 けれど、いつでも抜ける位置に手がある。


 王都近衛騎士団の第三分隊。


 ダリオ・ベルク。


 ついさっきまで名前も知らなかった男が、今は俺たちの命綱みたいに入口を塞いでいた。


 変な話だ。


 王女誘拐犯の逃亡先で、近衛騎士に見張りを任せている。


 まともな物語なら、たぶんここで捕まっている。


 俺は壁にもたれて座っていた。


 右足は、もう痛いというより、熱を持った木片を膝の内側に突っ込まれているみたいだった。


 右腕も重い。


 工具袋は腰にある。


 中身は、錆びた釘、曲がった金具、折れた留め輪、古い布切れ。


 その程度。


 でも、指先で袋に触れると、小さく音がする。


 かち。


 かつての工具袋の音とは違う。


 でも、今はその音で十分だった。


 エリシアはセラの隣に座っている。


 外套の泥は乾きかけ、裾が重たそうに固まっていた。


 王女の服装ではない。


 逃亡者の服装でも、正直ひどい。


 それでも、背筋だけは崩れていなかった。


 セラは両手で中継石を包み込んでいる。


 眠ってはいない。


 ただ、目を閉じている。


 胸元の石は時々、弱く白く濁った光を返した。


 青ではない。


 完全な白でもない。


 迷っている光。


 アイリスは白い石板の前に立ったままだった。


 さっきから一歩も動いていない。


 旧式記録盤。


 個別救護記録。


 個別名呼称による安定化。


 救護担当記録。


 I.R.I.S.


 文字はもう消えている。


 それなのに、アイリスの瞳は、消えた文字をまだ読んでいるみたいに動かない。


「アイリス」


 俺は小さく呼んだ。


 アイリスは返事をしない。


 青い瞳が、白い石板を映している。


 網膜の奥の文字列は、もう暴れてはいなかった。


 ただ、規則性が少しだけずれている。


 まばたきに似た明滅の間隔が、いつものアイリスと違った。


「最高傑作」


 もう一度呼ぶ。


 今度は、ほんの少しだけ瞳が動いた。


「呼称を確認。私は古代文明の最高傑作です」


「それが返ってくるなら、動いてるな」


「稼働中です」


「さっきの記録」


「該当記録、破損」


 即答だった。


 速すぎた。


「詳細照合、失敗」


「まだ何も聞いてない」


「予測応答です」


「便利だな」


「はい」


 その「はい」は、いつもの自慢げな「はい」ではなかった。


 平らすぎる。


 俺は石板を見る。


 白い表面には、もう何も浮かんでいない。


 ただ、古い傷だけが残っている。


 俺の目には、それが無理やり削られた文字の跡みたいに見えた。


 触れば、少しは分かるかもしれない。


 でも、今は触れない。


 アイリスがそこに立っているからだ。


「アーデル」


 アイリスが言った。


「休息を継続してください」


「無理だな」


「右足機能の回復には休息が必要です」


「分かってる」


「では、休息してください」


「眠れって言われて眠れたら、人間はもっと高性能だ」


「低性能を確認」


「言うと思った」


 エリシアがこちらを見た。


「静かに。セラが休めないわ」


「休めてるのか?」


 セラは目を閉じたまま言った。


「大丈夫ではありません」


「聞こえてた」


「でも、少しだけ楽です」


 彼女は中継石を握り直す。


「青い声が遠いです。名前を思い浮かべると、遠くなります」


 エリシアの手が、セラの手に重なる。


「誰の名前を?」


 セラは少しだけ目を開けた。


「今は、皆さんの名前を順番に」


「私も?」


 入口からダリオの声がした。


 こっちを向いてはいない。


 森を見たまま、声だけ投げた。


 セラは小さく頷いた。


「はい。ダリオさんも」


「余計な負担をかけるな」


「負担ではありません」


「……そうか」


 それだけ言って、ダリオはまた黙った。


 入口の向こうはまだ暗い。


 夜明けには少し早い。


 森の奥から、時々、遠い足音が聞こえる。


 教会兵はまだ探している。


 神官も。


 たぶん、王都側にも知らせが飛んでいる。


 王女、聖女、外部個体アーデル、未登録演算体。


 それに、今は近衛騎士ダリオ。


 全員、神託の外へ落ちかけている。


「アイリス」


 エリシアが言った。


「第三案は、ここで組める?」


 アイリスは白い石板から目を離さない。


「必要情報が不足しています」


「不足しているものは?」


「中継石の制御構造。旧救護院記録の続き。個別名呼称による安定化の成功条件。聖女セラの救済意思と記憶損耗の関係。上位接続の遮断方法」


「多いわね」


「はい」


「何から始めるべき?」


 アイリスは、そこでようやくエリシアを見た。


「聖女セラの中継石から直接出力を読む必要があります」


 セラの肩が小さく動いた。


 エリシアの声が硬くなる。


「危険は?」


「あります」


「どの程度」


「中継石が上位接続を再開する可能性」


「却下」


 エリシアは即答した。


 アイリスも即答する。


「では第三案の構築は困難です」


「安全な方法を出しなさい」


「安全な方法はありません」


 エリシアが唇を引き結ぶ。


 部屋の空気が少し重くなった。


 セラがゆっくり目を開ける。


「やります」


「セラ」


「私は、やります」


 声は小さい。


 けれど、今度は揺れていなかった。


「怖いです。でも、逃げ続けても、誰かが私の代わりに使われるかもしれません」


 エリシアが言葉を飲み込んだ。


「私を使わない方法を探すなら、私の中継石を見なければいけないのですよね」


 アイリスが頷く。


「はい」


「なら、見てください」


 セラは中継石から手を離した。


 胸元の石が、弱く光る。


 青ではなく、白く濁った光。


「ただし」


 セラはアイリスを見る。


「私が戻されそうになったら、名前を呼んでください」


 アイリスの瞳が明滅した。


「誰の名前を」


「私の名前です」


 セラは静かに言った。


「私は、セラです」


 アイリスが止まる。


 ほんの一瞬。


「了解。対象名、セラ」


 エリシアが眉を上げる。


「対象?」


「訂正。セラ」


「よろしい」


 ダリオが入口から低く言った。


「長くはできない。森の東側に灯りが見えた。まだ距離はあるが、捜索範囲が広がっている」


「どのくらい?」


 俺が聞く。


「早ければ十分。遅くても半刻」


「十分か」


 俺は右足を見る。


「長いようで短いな」


「お前が動けるならな」


「動けないな」


「なら短い」


「言い方」


 アイリスがこちらを見る。


「アーデルは座位維持」


「俺だけ役割が座ることになってないか」


「右足機能を考慮すると最適です」


「悔しいくらい反論できない」


 俺は工具袋を膝の上に置いた。


 中身を出す。


 錆びた釘。


 曲がった金具。


 折れた留め輪。


 古い布切れ。


 白い石板の前に、そんなガラクタを並べる。


 エリシアが怪訝そうに見る。


「何をするの?」


「中継石を見るんだろ。なら、何かあった時に止めるものがいる」


「それで止められるの?」


「分からない」


「分からないのね」


「でも、何もないよりはましだ」


 セラが微笑んだ。


「まだ工具ではないけれど、使えば工具になるのですね」


「覚えたな」


「はい」


 アイリスが中継石の前に立つ。


 セラは石板の前に膝をついた。


 エリシアがその隣に座る。


 ダリオは入口。


 俺は壁際。


 動けない。


 でも、見える。


 白い石板。


 セラの中継石。


 アイリスの瞳。


 この三つの光が、暗い部屋の中でかすかに揺れていた。


「測定を開始します」


 アイリスの指が中継石に触れた。


 青い光が走った。


 セラの体がびくりと震える。


 エリシアがすぐに手を握る。


「セラ」


「大丈夫ではありません」


「ええ」


「でも、続けます」


「ええ」


 アイリスの瞳に文字列が走る。


「中継石内、上位接続経路を確認。現在、閉鎖状態。ただし、外部からの探索波が周期的に接触」


「それが呼ばれている感じか」


「推定一致」


 アイリスは続ける。


「記憶損耗層を確認」


 セラの顔が白くなる。


「記憶……」


「祈祷時の出力補助として、短期記憶、感情記録、個人識別記録が部分的に消費されています」


 エリシアの手に力が入った。


「個人識別記録?」


「誰を救ったか。誰に祈ったか。誰と会ったか。セラ自身が覚えていた名前に関する記録」


 部屋が冷えたような気がした。


 名前を削っていた。


 神託は。


 セラの祈りから、名前を削っていた。


 俺は工具袋の布を握る。


 かすかな金属音が鳴った。


 セラの唇が震える。


「だから、私は……」


 言葉は続かなかった。


 エリシアが彼女の手を握ったまま、低く言う。


「続けられる?」


 セラはしばらく黙っていた。


 やがて、小さく頷いた。


「はい」


 アイリスは中継石から指を離さない。


「個別名呼称時、記憶損耗層への接続が一時的に低下。救済意思の出力先が、集団ではなく個別対象へ分散したためと思われます」


「つまり、名前を呼ぶと削られにくい」


 俺が言うと、アイリスは頷いた。


「可能性があります」


「じゃあ、それを使えば」


「不足」


「何が」


「名前を呼ぶだけでは、出力を維持できません。接続回避には有効ですが、救済出力の代替回路としては不完全」


「なら、何が必要なの」


 エリシアが問う。


 アイリスの瞳が、白い石板へ向く。


「記録盤の続き」


 白い石板は黙っている。


 文字は出ない。


 アイリスが触れても、セラが触れても、さっき以上の記録は浮かばなかった。


 俺は壁に手をつく。


 古い魔力の流れ。


 白い石板の裏。


 床下。


 壁の奥。


 何かが詰まっている。


 水路の弁ほどはっきりしない。


 でも、流れがそこで止まっている。


「石板じゃない」


 俺は言った。


 全員が俺を見る。


「壁だ」


 アイリスの瞳が動く。


「どの壁ですか」


「石板の裏。いや、奥の壁。そこだけ流れが止まってる」


 エリシアが立ち上がる。


「隠し部屋?」


「たぶん。でも開ける仕組みじゃない。埋まってる」


 ダリオが入口から目だけを動かす。


「崩す音は出せない」


「分かってる」


 俺は工具袋を見る。


 錆びた釘。


 曲がった金具。


 折れた留め輪。


 足りない。


 どう考えても足りない。


 でも、見る。


 壁のひび。


 白い石板の下の継ぎ目。


 薬草を吊るしていた錆びた金具。


 床の割れ。


「上の金具」


 俺は顎で示した。


「薬草を吊るすやつ。あれ、抜けるか」


 ダリオが入口から離れかける。


 俺は手で止めた。


「入口は見てろ。エリシア、届くか」


「やってみるわ」


 エリシアが立ち上がり、壁の金具に手をかける。


 泥だらけの外套が揺れる。


 王女が廃病院の壁から錆びた金具を引き抜こうとしている。


 もう、何を見ても驚かなくなってきた。


「固いわ」


「左右に揺らせ。引くんじゃなくて、壁の割れ目を広げる感じで」


 エリシアが言われた通りに動かす。


 ぎ、と小さな音。


 ダリオが入口で外を睨む。


 セラは息を止める。


 アイリスがエリシアの手元を見る。


「力の方向、三度左へ」


「こう?」


「はい」


 金具が抜けた。


 大きな音は出ない。


 エリシアがそれを俺に渡す。


 俺は受け取って、白い石板の下の細い隙間へ差し込んだ。


 右手は使いにくい。


 左手で押す。


 曲がった金具を支点に、折れた留め輪を噛ませる。


 錆びた釘で角度を作る。


 まともな工具なら一瞬だ。


 でも、今はこれしかない。


 親父の声が、また指先に残る。


 まともな道具がある時だけ直せる奴は、ただの使い手だ。


 俺は息を吐いた。


「エリシア、押せ」


「どこを?」


「石板の左下。軽くでいい。強く押すな。割れる」


「分かったわ」


「セラ、白い光が出たら石に触れろ。でも青くなったら離せ」


「はい」


「アイリス、流れが戻ったら読め」


「了解」


「ダリオ」


「入口は見ている」


「助かる」


「礼は後にしろ」


 俺は金具を捻った。


 石板の奥で、小さな音がした。


 こつ。


 中で何かが外れる。


 エリシアが左下を押す。


 白い石板が、ほんの少しだけ沈んだ。


 セラの中継石が、淡く光る。


 青ではない。


 白だ。


「今だ」


 セラが石に触れる。


 アイリスの瞳が明滅する。


 白い石板に、文字が浮かんだ。


 さっきより細い。


 消えかけている。


 けれど、読める。


 アイリスが読む。


「個別名呼称による安定化、成功条件」

「一、対象者の名前を記録すること」

「二、救済意思を集団出力へ接続しないこと」

「三、救護担当演算体が個別回路を維持すること」


 アイリスの声が、そこで止まった。


 白い石板が明滅する。


 さらに下に、文字が浮かぶ。


「担当演算体、I.R.I.S.」

「備考。全体管理系統との同期拒否」

「備考。対象名を優先」

「備考。処分判定、保留」


 文字はそこで崩れた。


 白い光が消える。


 石板は沈黙した。


 誰もすぐには動けなかった。


 アイリスの瞳が完全に停止している。


 明滅の規則性を失い、網膜の奥で青い文字列がエラーを吐き散らして激しく震えていた。


 さっきの石板の裏ログ。


 同期拒否。


 処分判定、保留。


 あの冷たいシステムコードと、全く同じ壊れ方をしていた。


 セラが、かすかに息を呑む。


 アイリスは石板から一歩下がり、平らすぎる声で言った。


「記録の信頼性、低。旧式記録盤の損傷率、高。参照不可領域、多数。該当情報の正確性は保証されません」


 俺は工具袋の中で、錆びた釘を握った。


 それは説明というより、逃げだった。


 数字に押し込む。


 信頼性を下げる。


 損傷率を上げる。


 そうすれば、見なかったことにできる。


 できるわけがないのに。


 セラが静かに言った。


「でも、名前がありました」


 アイリスの瞳がセラを見る。


「はい」


「I.R.I.S.と」


「はい」


「それは、あなたですか」


 部屋の空気が固まった。


 エリシアが止めない。


 俺も止めない。


 聞いてはいけない問いかもしれない。


 でも、セラはもう聞いていた。


 アイリスは、少しだけ首を傾げた。


「照合失敗」


「そうですか」


「はい」


「でも、私はそう思いました」


 セラは中継石を握った。


「あなたは、昔から誰かの名前を呼ぼうとしていたのかもしれません」


 アイリスの瞳の奥で、青い文字列が一瞬だけ崩れた。


「該当記録、破損」


「はい」


「照合失敗」


「はい」


「断定不能」


「はい」


 セラは頷いた。


「だから、断定はしません」


 優しい。


 でも、逃がさない。


 セラの言葉は、そういう形をしていた。


 ダリオが入口から短く言った。


「灯りが近い」


 全員が我に返る。


 森の向こうに、青い魔導灯が揺れている。


 教会兵だ。


 数は分からない。


 少なくとも、さっきより近い。


「何分?」


 エリシアが聞く。


「五分はない」


 ダリオが答える。


「ここにいれば見つかる」


「逃げ道は?」


 アイリスが即座に答える。


「救護院裏手に旧搬出口。崩落あり。ただし、低身長者または負傷者の通過は困難」


「負傷者って俺だよな」


「はい」


「はっきり言うな」


「事実です」


 俺は立ち上がろうとした。


 無理だった。


 膝が笑うどころか、立つことを拒否した。


 エリシアが支える。


 アイリスも支える。


 ダリオが入口から戻ってきた。


「俺が担ぐ」


「却下」


「却下する権利はない」


「人間の尊厳は?」


「後で拾え」


「雑だな、騎士」


 ダリオは本気で担ぎ上げようとした。


 その時、セラが白い石板を見た。


「待ってください」


 全員が止まる。


「ここで、第三案を使えませんか」


「ここで?」


 俺が聞く。


「はい」


 セラは中継石を握る。


「この救護院は、個別名呼称で人を安定させていた場所なのですよね」


 アイリスが答える。


「記録上は、その可能性があります」


「なら、ここでなら、私の中継石を神託ではなく救護院の回路に繋げられるかもしれません」


 アイリスの瞳が、鋭く明滅した。


「危険です」


「はい」


「失敗すれば、上位接続に位置が送信されます」


「はい」


「強制回収の可能性」


「あります」


「記憶損耗の可能性」


「あります」


「セラ」


 エリシアの声が震えた。


「それは、あなたを使うことにならない?」


 セラは少しだけ俯いた。


 でも、すぐに顔を上げる。


「私が決めるなら、使われるのとは違います」


 その言葉に、誰もすぐには返せなかった。


「私は、戻りません。消えたくもありません。でも、ただ逃げるだけで、誰かの名前が消されるのも嫌です」


 中継石が白く光る。


「ここで一度だけ、試したいです」


 アイリスはセラを見た。


 長い沈黙ではない。


 でも、いつもの即答よりは長かった。


「条件を指定します」


「はい」


「接続時間、十秒以内」


「はい」


「名前を失いそうになった場合、即時停止」


「はい」


「セラ自身が停止を要求した場合、最優先で切断」


「はい」


 アイリスは最後に言った。


「私は、セラを消費対象に登録しません」


 セラの目が揺れた。


「はい」


 エリシアが深く息を吐いた。


「なら、私も手伝うわ」


「王女様」


「あなたが決めたなら、私はその言葉を途中で取り上げない」


 セラは頷いた。


 俺は壁にもたれながら、白い石板を見た。


 旧救護院。


 個別名呼称。


 I.R.I.S.


 ここが世界のバグを直す答えかどうかなんて、俺には分からない。


 だが、この夜を食い破って全員で生きて抜けるための、一回限りの無茶な橋だ。


 やるしかない。


「俺は何をする」


 アイリスがこちらを見る。


「白い石板の固定を維持してください」


「また固定か」


「はい」


「俺、最近ずっと何か押さえてないか」


「適性があります」


「嬉しくない」


 俺は曲がった金具と錆びた釘を白い石板の下へ噛ませた。


 エリシアがセラの手を握る。


 アイリスが中継石に触れる。


 ダリオが入口に立ち、剣を抜いた。


 今度は抜いた。


 青い魔導灯が、もう入口近くまで来ている。


 時間はない。


「開始」


 アイリスが言った。


 セラが目を閉じる。


 白い石板が光る。


 中継石が白く濁る。


 そして、青い光がその奥から食い破るように伸びた。


 セラの体が震える。


「セラ!」


 エリシアが叫びかける。


 セラは目を閉じたまま、必死に声を出した。


「エリシアさん」


 白い光が少し戻る。


「ルカさん」


 俺の指先の金具が熱を持つ。


「アイリスさん」


 アイリスの瞳が白い石板を映す。


「ダリオさん」


 入口で、ダリオの剣が青い魔導灯の光を受けて鈍く光った。


 セラは最後に、自分の胸元を握り締めた。


「セラ」


 その瞬間、白い石板から細い光の線が伸びた。


 部屋の床を走り、壁をなぞり、崩れた旧救護院の外へ広がる。


 青ではない。


 白い。


 弱い。


 でも、確かに広がる。


 外から教会兵の声がした。


「反応が――」


「消えた?」


「いや、違う。分散している!」


「どこだ!」


 白い光は、救護院跡のあちこちへ小さく散った。


 井戸の跡。


 壊れた寝台。


 崩れた壁。


 昔、誰かが寝ていた場所。


 誰かが名前を呼ばれていた場所。


 そこへ、細く、細く。


 青い追跡の線が、迷う。


 セラの中継石は白く光ったまま、青に戻らない。


 アイリスが叫ぶのではなく、冷たく告げた。


「十秒。切断」


 彼女は中継石から手を離した。


 俺は金具を外す。


 白い石板の光が落ちる。


 セラの体が崩れた。


 エリシアが抱き止める。


「セラ!」


「大丈夫では……ありません」


 セラは息を切らしながら、かすかに笑った。


「でも、私は……ここにいます」


 エリシアの目が潤む。


 でも、泣かなかった。


 ダリオが入口から叫ぶ。


「今だ! 裏へ!」


 外の教会兵は混乱している。


 位置を見失っている。


 今しかない。


 アイリスが俺を支える。


 ダリオが片腕で俺を半ば担ぐ。


「担ぐぞ」


「尊厳」


「後で拾え」


「さっきも聞いた!」


 エリシアがセラを支える。


 セラはふらつきながらも、自分の足を出した。


 旧救護院の裏手。


 崩れた搬出口。


 大人一人がやっと通れる隙間。


 ダリオが先に瓦礫を蹴り退ける。


 大きな音は出せない。


 でも、今は外の混乱が隠してくれる。


 俺たちは一人ずつそこを抜けた。


 セラは最後に、白い石板のある部屋を振り返った。


 アイリスも振り返った。


 白い石板はもう光っていない。


 でも、確かにそこにあった。


「アイリスさん」


 セラが言った。


「私は、今の記録を覚えています」


 アイリスは一瞬だけ、セラを見た。


「記録形式、確認不能」


「それでも、覚えています」


「了解」


 短い返事。


 それだけだった。


 でも、アイリスの瞳の明滅は、さっきより少しだけ規則を取り戻していた。


 外へ出る。


 東の空が、ほんの少しだけ白んでいた。


 夜明け前。


 森の奥に、細い山道が続いている。


 アイリスが顔を上げた。


「前方、旧救護院の搬送道。神託網との接続、極低」


「行き先は?」


「東の丘。旧見晴らし台。現在地から、負傷者速度で約一時間」


「一時間……」


 俺は笑いそうになった。


 遠い。


 だが、遠すぎるほどではない。


 エリシアが朝焼け前の空を見る。


「そこまで行けば?」


 アイリスが答える。


「教会都市の局所追跡範囲を抜けます」


 セラが胸元の中継石を握る。


「そこまで行けば、一度、終われますか」


 誰も、すぐには答えなかった。


 終われる。


 何が。


 逃亡が。


 聖女の役割が。


 神託との戦いが。


 そんなもの、全部は終わらない。


 でも。


 この夜は、終われるかもしれない。


 俺は工具袋を握った。


 かち、と鳴る。


「行こう」


 エリシアが頷く。


 セラも頷く。


 ダリオが剣を収める。


 アイリスが俺の肩を支える。


「アーデル、同行者数、継続」


「知ってる」


「工具残数、微増」


「知ってる」


「第三案、仮成立」


 俺は少しだけ息を吐いた。


「それは、知りたかった」


 アイリスは無表情で頷いた。


「記録しました」


「それはしていい」


 東の空が、さらに薄くなる。


 夜が終わりかけていた。


 俺たちは旧救護院を背に、搬送道へ足を踏み出した。


 次の丘で、この逃亡に一度だけ区切りをつける。


 ただ、今は。


 セラが消えていない。


 エリシアが戻っていない。


 アイリスが止まっていない。


 俺の工具袋も、空ではない。


 それだけで、十分だった。


 夜明け前の道を、俺たちは東へ進んだ。

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