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古代AI少女と始める異世界救済旅 〜知識は神話級なのに、常識だけが致命的に足りない〜  作者: 磯辺


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28/30

名前を呼べば、まだ迷子ではない

 森の奥へ進むほど、教会都市の鐘は遠くなった。


 けれど、消えたわけではない。


 風が向きを変えるたび、白い塔の方から、かすかに鐘の音が流れてくる。


 一つ。


 また一つ。


 俺たちを追っているのは人間だけじゃない。


 鐘も。


 神託も。


 あの青い光も。


 全部が、まだ背中に張りついている。


 廃道はさらに細くなっていた。


 石畳はほとんど残っていない。


 地面から斜めに沈んだ石柱が、木の根に飲まれている。


 かつて巡礼者が歩いた道。


 今は、泥と枝と虫の声しかない。


 エリシアが先頭を歩いている。


 白かった外套はもう灰色に近い。


 泥で重くなった裾を片手で押さえ、もう片方の手でセラの腕を支えている。


 セラは黙って歩いていた。


 さっき、名前で中継石の光をずらしたせいだろう。


 顔色は悪い。


 でも、目は伏せていない。


 胸元の中継石を隠すこともしない。


 それが今の彼女の、精いっぱいの意地に見えた。


 俺は相変わらず、アイリスに支えられている。


 右足はもう歩くたびに文句を言うどころか、無言で反乱を起こしている。


 痛いというより、体重を乗せるたびに足の奥が空になる感じがする。


 工具袋は、腰で小さく鳴った。


 かち。


 錆びた釘。


 曲がった金具。


 折れた留め輪。


 さっき拾ったガラクタたち。


 音は頼りない。


 でも、何も鳴らなかった時よりはましだ。


「アーデル、右足機能、さらに低下」


「知ってる」


「転倒予測、上昇」


「知ってる」


「提案。搬送」


「却下」


「では、肩部固定を強化します」


「痛いからやめろ」


「転倒よりは軽微です」


「その比較やめろ」


 アイリスが俺の肩を掴む力を少し強くした。


 やっぱり痛い。


 でも、転ばない。


 腹立つくらい正しい。


 若い近衛騎士が後ろを警戒している。


 彼はさっきから、一定の距離を保って歩いていた。


 近すぎず。


 遠すぎず。


 足音も小さい。


 さっき錆びた釘を使って石板を落とした時の動きもそうだったが、やはり訓練された兵士だ。


 名前も知らないまま、だんだん信用してしまうのは、少し嫌だった。


「おい」


 俺は振り返らずに呼んだ。


 近衛騎士が短く答える。


「何だ」


「名前、聞いてなかったな」


「今さらか」


「今さらだ」


 彼は少しだけ黙った。


 その間にも、後ろの森を見ている。


「ダリオ」


「ダリオ?」


「ダリオ・ベルク。王都近衛騎士団、第三分隊」


「じゃあ、ダリオ」


「馴れ馴れしい」


「名前聞いた意味がないだろ」


「逃げるなよ、ルカ・アーデル」


「こっちも馴れ馴れしいな」


「捕虜の名前は覚える」


「俺は捕虜なのか同行者なのか、はっきりしてくれ」


「状況次第だ」


「便利だな、騎士」


 エリシアが振り返る。


「ダリオ。今は彼を捕虜として扱う余裕はないわ」


「承知しています。王女殿下」


「では?」


「要注意同行者として扱います」


「格下げなのか格上げなのか分からない」


 セラが小さく笑った。


 その笑いで、少しだけ空気が緩む。


 けれど、すぐにアイリスが顔を上げた。


「前方、魔力反応」


 全員の足が止まる。


 俺は反射的に工具袋へ手を入れた。


 錆びた釘に指が触れる。


「神託か?」


「微弱。神託碑本体ではありません。古い巡礼標識、または補助灯の残骸」


「危険?」


「不明」


「それ、最近多いな」


「不明なものは不明です」


「正しいけど嫌だ」


 エリシアが前方を見る。


 木々の間に、小さな石の柱が立っていた。


 腰ほどの高さ。


 上部に丸いくぼみがある。


 そこに青白い石がはまっていた。


 光は弱い。


 ほとんど消えかけている。


 それでも、神託の青に似ていた。


 セラの中継石が、かすかに反応する。


 セラが胸元を押さえた。


「呼ばれている感じが、少し強くなりました」


 エリシアがすぐにセラの前に立つ。


「近づかない方がいいわね」


 アイリスが石柱を見る。


「旧式巡礼標識。現在の神託網とは接続が薄いですが、中継石に反応しています」


「通れないのか」


「通れます。ただし、セラの中継石が反応を返す可能性があります」


「返すと?」


「追跡者に位置を拾われます」


「最悪だな」


「はい」


 ダリオが周囲を見回した。


「迂回できるか」


 アイリスが首を振る。


「左は沢。右は斜面崩落。迂回には時間がかかります」


「じゃあ壊すか」


 俺が言うと、エリシアに睨まれた。


「何でも壊せばいいと思わないで」


「アイリスの影響だ」


「責任転嫁を確認」


「お前が言うな」


 アイリスは石柱を見たまま言う。


「破壊すると反応が拡散します。推奨しません」


「じゃあ、反応させずに通る」


「方法は一つ」


 アイリスの青い瞳が、セラを見る。


 セラもそれを理解したらしい。


 胸元の石を握る。


「名前、ですか」


「はい」


「でも、さっきは偶然かもしれません」


「検証が必要です」


 セラの顔が少し青くなる。


 エリシアが低く言う。


「ここで試すの?」


「避けて通れないなら、試すしかありません」


 アイリスの声は冷たい。


 だが、急かしてはいない。


 セラを使い捨てる声ではなかった。


 セラは深く息を吸った。


「やります」


「セラ」


 エリシアが呼ぶ。


 セラは頷いた。


「大丈夫ではありません。でも、やります」


 その言い方は、もう彼女の足場になっていた。


 怖い。


 でもやる。


 それを言葉にできるだけで、人は少し前へ進めるらしい。


 アイリスが石柱の前に立つ。


「条件を指定します。中継石が反応したら、大勢を思わないでください。目の前の一人を思ってください」


「はい」


「名前を声にする必要はありません。思考だけでも反応する可能性があります」


「声にした方が、私は迷わない気がします」


「なら、発声を許可します」


「許可されるのですね」


「はい」


 セラは少しだけ笑った。


 それから石柱へ一歩近づく。


 中継石が青く光った。


 石柱の青い石も、呼応するように瞬いた。


 俺は息を止めた。


 ダリオが剣の柄に手を置く。


 エリシアがセラの横に立つ。


 アイリスの瞳が細かく明滅する。


 セラは胸元の石を両手で握った。


 そして、小さく言う。


「エリシアさん」


 青い光が、少し白く濁る。


 石柱の光が揺れた。


 まだ消えない。


 セラは目を閉じる。


「ルカさん」


 白い濁りが広がる。


 青い線が、石柱の中でほどけるように薄くなる。


「アイリスさん」


 最後に、セラは少しだけ迷った。


 そして、目を開けて振り返る。


「ダリオさん」


 ダリオがわずかに目を見開いた。


 石柱の青い光が、かすかに白く散った。


 中継石の反応が弱まる。


 森の中に、虫の声が戻った。


 アイリスが言う。


「通過可能」


 セラはほっと息を吐いた。


 ダリオはまだ固まっている。


「……俺もか」


 セラが頷く。


「はい。今、一緒にいますから」


 ダリオは目をそらした。


「余計なことを」


「すみません」


「謝るな」


 その声は、怒っているというより、困っているように聞こえた。


 俺は少し笑った。


「よかったな、要注意同行者が増えて」


「黙れ、王女誘拐犯」


「名前で呼ばないのか」


「調子に乗るな」


 エリシアが石柱の横を通り抜ける。


「急ぐわよ。今ので完全に安全になったわけではないでしょう」


 アイリスが頷く。


「はい。反応は抑制されましたが、上位接続への残響は不明」


「不明ばっかりね」


「未知が多い環境です」


「分かっているわ」


 俺たちは石柱を抜けた。


 セラが最後にその青白い石を振り返る。


 もう光はほとんどない。


 彼女は中継石に触れて、少しだけ呟いた。


「私は、ここにいます」


 それは、祈りではなかった。


 確認だった。


 俺たちは廃道をさらに進んだ。


 やがて、木々の向こうに低い石壁が見えた。


 アイリスが言っていた小規模集落跡だろう。


 家はほとんど崩れている。


 屋根はなく、壁だけが月明かりに白く浮かんでいた。


 井戸の跡。


 倒れた柵。


 石のかまど。


 人が住んでいた痕跡だけが、泥と苔の中に残っている。


 エリシアが周囲を見渡す。


「ここで休める?」


 ダリオが答える。


「追手をやり過ごすには悪くない。だが、火は使えない」


「使うものもない」


 俺は壊れた家の壁に手をついた。


 石は冷たい。


 古い。


 でも、内側にかすかな魔力の流れがある。


 ここはただの集落跡じゃない。


 巡礼者の休憩所にしては、壁の構造が妙に厚い。


「アイリス」


「確認中」


 アイリスは崩れた壁に触れた。


 青い瞳が小さく光る。


「旧救護院跡」


「救護院?」


 セラが反応した。


 その声には、教会で聞き慣れた言葉への緊張が混じっている。


 アイリスは続ける。


「巡礼者、負傷者、魔力欠乏者の一時収容施設。現在は放棄。神託網との接続は……薄いです」


「教会の施設なのか」


「後世に教会が利用した形跡があります。ただし、基礎構造は古い」


 俺は壁を見る。


 古い。


 教会より古い。


 神託碑より古いのかもしれない。


 エリシアが崩れた入口へ近づく。


「中を確認しましょう」


「待て」


 ダリオが先に立つ。


「俺が見る」


 彼は剣を抜かず、腰を低くして中へ入った。


 しばらくして戻ってくる。


「誰もいない。奥に部屋が二つ。片方は崩れている。もう片方は使える」


「罠は?」


「見える範囲ではない」


 アイリスが補足する。


「微弱な残存術式あり。ただし、攻撃性は検出されません」


「その言い方は逆に怖い」


 俺は言いながら、崩れた入口をくぐった。


 足が痛い。


 壁に手をつく。


 中は暗かった。


 屋根の半分は落ちているが、奥の部屋だけは石天井が残っている。


 床には古い寝台の跡。


 壁には薬草を吊るすための金具。


 水差しの割れた破片。


 それから、壁の隅に小さな神託盤のようなものがあった。


 ただし、青くない。


 白い石板。


 表面には、文字がほとんど消えかけている。


 セラがその前で立ち止まる。


「これは……」


 アイリスが近づく。


「旧式記録盤。神託碑の派生ではありません」


「読めるか?」


「損傷が激しいです」


「読めないってことか」


「一部可能」


 アイリスの指が白い石板に触れる。


 光は弱い。


 青ではなく、白に近い。


 さっきセラの中継石がずれた時の光に、少し似ていた。


 石板に、途切れ途切れの文字が浮かぶ。


 アイリスが読む。


「個別……救護……記録」


 全員が黙った。


 個別。


 その言葉だけで、空気が変わる。


 アイリスはさらに読み上げる。


「氏名……欠損」

「症状……魔力枯渇」

「処置……集団祈祷ではなく、個別名呼称による安定化」

「成功率……」


 そこで文字が途切れた。


 石板が弱く明滅する。


 セラが一歩近づいた。


「個別名呼称……」


 アイリスは石板を見つめたまま、動かない。


「記録層、部分欠損」


「でも、今の」


 エリシアが低く言った。


「セラがさっきやったことと、似ているわね」


 アイリスは答えない。


 いつものように即座に説明しない。


 ただ、青い瞳の奥で、細かい文字列が走っていた。


 俺はその横顔を見る。


「アイリス?」


「照合中」


「何と」


「不明」


 不明。


 その言葉の出方が、少しだけ違った。


 外部環境の不明ではない。


 自分の中にあるはずのものが、読めない時の不明。


 セラが石板に手を伸ばしかける。


 エリシアが止めようとしたが、セラは首を横に振った。


「大丈夫ではありません。でも、触れたいです」


 誰も止めなかった。


 セラの指が白い石板に触れる。


 中継石がかすかに光った。


 青ではない。


 白に近い、弱い光。


 石板の文字が、もう一度だけ浮かぶ。


 個別名呼称による安定化。


 その下に、かすれた文字。


 救護担当記録。


 I.R.I.S.


 アイリスの瞳が、完全に止まった。


 水の音もない。


 鐘も聞こえない。


 森の虫の声だけが、遠くで鳴っている。


 俺は息を詰めた。


 エリシアも、セラも、ダリオも動かない。


 石板の白い光はすぐに消えた。


 けれど、その文字だけは、目の奥に焼きついた。


 I.R.I.S.


 アイリスは、ゆっくり手を離した。


「該当記録、破損。詳細照合、失敗」


 一ミリの揺らぎもない、いつも通りの無機質な合成音声だった。


 だからこそ、俺の目には、彼女の網膜の奥で青い文字列がエラーを吐き散らし、明滅の規則性を完全にロストして激しく震えているファクトだけが、酷く鮮明に見えていた。


 誰も、言葉を足さなかった。


 アイリスは石板から一歩下がり、唐突に言った。


「休息を推奨します。アーデルの右足機能、危険域。セラの中継石反応、低下後の不安定状態。エリシアの魔力疲労、継続」


 エリシアが、外套のフードを少しだけ直した。


「……名前、ね。よろしいわ」


 入口の闇の中、外の森をじっと睨みつけていたダリオが、剣の柄を握ったまま無言で一度だけ、短く顎を引いた。


 五分だけならやり過ごせる。


 そういう、プロの兵士の判断だった。


 少しだけ空気が戻った。


 だが、完全には戻らない。


 白い石板。


 個別名呼称。


 I.R.I.S.


 それは、この逃亡の終着点ではない。


 もっと深い場所へ続く扉だ。


 でも今は、扉の前で寝るしかない。


 俺は奥の壁に背を預けて座り込んだ。


 右足が限界だった。


 工具袋が腰で鳴る。


 かち。


 その音を聞いて、セラが近くに座る。


「ルカさん」


「何だ」


「ここで、少しなら休めますか」


「たぶんな」


「よかったです」


 セラはそう言って、胸元の中継石を両手で包んだ。


 エリシアが隣に座る。


 ダリオは入口近くで見張りに立つ。


 アイリスは白い石板の前から離れず、ただじっと見ていた。


 俺は声をかけようとして、やめた。


 今、下手に触ると折れそうなものがある。


 壊れたものは、すぐに直せばいいとは限らない。


 まず、どこが割れているのか見ないといけない。


 俺は目を閉じた。


 眠れるかは分からない。


 追手はまだいる。


 神託もまだ探している。


 第三案も、まだ仮説にすぎない。


 でも、この夜を越えなければ、次の朝は来ない。


 白い石板が、闇の中でかすかに光った。


 アイリスの青い瞳が、それを映している。


 セラが小さく呟いた。


「名前を呼べば、まだ迷子ではないのかもしれません」


 俺は目を閉じたまま言った。


「そうだな」


 アイリスは答えなかった。


 けれど、白い石板の前で、その瞳が一度だけ静かに明滅した。

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