聖女を使わない第三案
夜の廃道は、思っていたより長かった。
いや。
たぶん、普通に歩ける足なら、そこまで長くはない。
俺の右足が終わっているだけだ。
木の根を越えるたび、膝裏がじくりと痛む。
泥を踏むたび、足首がぐらつく。
アイリスに肩を借りていなければ、三歩に一回は転んでいた。
「アーデル、歩行効率がさらに低下しています」
「知ってる」
「提案。休止」
「追手は?」
「接近中」
「じゃあ休止できないだろ」
「矛盾を確認」
「確認するな。俺が一番感じてる」
アイリスは俺の肩を支え直した。
支え方は相変わらず雑だ。
けれど、落とさない。
それだけで十分だった。
前を歩くエリシアが、枝を避けながら振り返る。
「無駄口を叩けるなら、まだ歩けるわね」
「王女様、基準が厳しい」
「逃亡者の基準よ」
「その言葉、そろそろ禁止にしないか」
「便利だから嫌よ」
セラが少しだけ笑った。
笑った直後、胸元の中継石に手を当てる。
その癖はまだ消えていない。
石は弱く青く光っている。
大聖堂にいた時ほど強くはない。
でも、完全には沈黙していなかった。
セラの指が、石の表面をなぞる。
「まだ、呼ばれている気がします」
その声で、全員の足が少しだけ遅くなった。
エリシアがセラを見る。
「痛むの?」
「痛みではありません」
セラは言葉を探すように、少し目を伏せた。
「遠くで、誰かが私の名前ではないものを呼んでいる感じです」
名前ではないもの。
聖女個体。
出力。
回収。
そういう青白い文字が頭に浮かぶ。
俺は思わず、森の奥を見た。
神託碑なんて見えない。
だけど、あの声が木々の間から伸びてきているような気がした。
「アイリス」
「確認中」
アイリスはセラの胸元を見る。
「中継石の反応、微弱に継続。局所神託網からは離脱。ただし、上位接続からの探索波が周期的に届いています」
「つまり?」
「完全には逃げ切っていません」
「だよな」
セラの肩が小さく震えた。
エリシアがすぐ隣に立つ。
「繋がせないわ」
セラは頷く。
「はい」
けれど、その返事は少し弱い。
怖いのだ。
戻りたくない。
でも、自分が逃げれば救われない人がいる。
その二つが、まだ彼女の中でぶつかっている。
俺は足を止めた。
止めたというより、これ以上足が前に出なかった。
「少しだけ止まる」
エリシアが目を細める。
「本当に少しだけよ」
「ああ」
若い近衛騎士が周囲を確認する。
ラインハルトが残していった若い騎士。
まだ名前は聞いていない。
彼はずっと無言で後ろを警戒していた。
「足音は遠い。だが、長くは止まれない」
「分かってる」
俺は近くの倒れた石に腰を下ろした。
座った瞬間、体が自分の重さを思い出したみたいに沈む。
息が漏れた。
工具袋が腰で小さく鳴る。
錆びた釘。
曲がった金具。
折れた留め輪。
さっき拾ったばかりのガラクタ。
昔の工具袋の音とは違う。
でも、鳴る。
それだけで少し落ち着いた。
セラがその音を聞いていた。
「その袋、さっきより音がしますね」
「少し増えたからな」
「工具ですか」
「まだ工具じゃない」
俺は錆びた釘を一本取り出した。
「でも、使えば工具になる」
セラはじっとそれを見る。
泥だらけの聖女が、錆びた釘を真剣に見ている。
変な光景だ。
でも、今の俺たちには似合っていた。
「私も」
セラが小さく言った。
「まだ、聖女ではない何かに、なれるのでしょうか」
エリシアが何か言いかけた。
けれど、止めた。
アイリスも何も言わなかった。
俺は錆びた釘を工具袋へ戻す。
「なれるかどうかは知らない」
セラが俺を見る。
「でも、聖女としてしか使えないって決めたのは、神託と教会だろ」
「はい」
「なら、他の使い方を探せばいい」
セラは少し目を見開いた。
「使い方……ですか」
「ああ」
言ってから、少し乱暴だったかと思った。
けれど、セラは嫌そうな顔をしなかった。
むしろ、何かを考える顔になった。
「私は、工具なのですか」
「違う」
エリシアが即座に言った。
強い声だった。
セラがびくっとする。
エリシアは少し息を吐いてから、言い直す。
「あなたは道具ではないわ」
「はい」
「でも、自分の力をどう使うかは、あなたが決めていい」
セラはエリシアを見つめた。
エリシアは視線をそらさない。
王女としてではなく、檻の外へ出た一人として。
その言葉を言っていた。
アイリスの瞳が明滅する。
「定義変更。聖女セラは消費対象ではなく、自己決定権を持つ協力者」
セラがアイリスを見る。
「協力者」
「はい」
「それは、同行者とは違うのですか」
「役割が増えます」
「役割……」
アイリスは淡々と続ける。
「第三案の構築には、セラ自身の出力情報が必要です。聖女セラを消費せず、救済出力を維持する代替回路を構築するには、現在の中継石の反応、祈りの波形、記憶損耗の発生条件を特定する必要があります」
「つまり、私が必要なのですね」
「はい」
アイリスは少しも飾らない。
「セラが必要です」
その言い方は冷たい。
でも、セラはその言葉を聞いて、小さく息を吸った。
聖女が必要。
ではなく。
セラが必要。
たぶん、それだけで違った。
セラは胸元の中継石を握る。
「分かりました」
声はまだ震えている。
でも、さっきより真っ直ぐだった。
「私のことを、調べてください」
俺は眉をひそめた。
「ここでか?」
「はい」
「追手が来てるんだぞ」
「でも、逃げているだけでは、また捕まります」
セラは俺を見る。
「私を使わない第三案を作るには、私が逃げるだけでは足りないのですよね」
俺は答えられなかった。
その通りだった。
ただ守って逃げるだけなら、いつか行き止まりになる。
神託は速い。
教会は広い。
王国も追ってくる。
こっちには怪我人と、王女と、聖女と、常識の壊れた古代AIしかいない。
そのうえ俺の工具袋は、錆びた釘で喜ぶところまで落ちている。
逃げるだけでは、負ける。
エリシアがゆっくり頷いた。
「セラの言う通りね」
「王女様まで」
「今、必要なのは逃げる先だけではないわ。逃げながら、次に何をするかを決めることよ」
若い近衛騎士が後ろを見る。
「なら手短にしろ。足音が少し近い」
俺は舌打ちした。
「アイリス、どれくらいで調べられる」
「簡易測定なら三十秒」
「危険は?」
「中継石の反応が上がります」
「駄目だろ」
「制御可能範囲内です」
「お前の制御可能は信用していいのか?」
「不明」
「そこは嘘でも信用してくださいって言え」
「虚偽報告は非推奨です」
「だよな」
セラが少し笑った。
笑ってから、息を整える。
「やります」
エリシアが彼女の肩に手を置く。
「無理はしないで」
「はい。無理はしません」
セラは一度目を閉じた。
「大丈夫でもありません」
「ええ」
「でも、やります」
「ええ」
アイリスがセラの前に立つ。
月明かりが、二人の間に落ちる。
銀髪の古代AI。
泥だらけの聖女。
どちらも、神託の文字の中では人間扱いされていない。
片方は未登録演算体。
片方は聖女個体。
でも今、森の廃道で向かい合っているのは、アイリスとセラだった。
「測定を開始します」
アイリスの瞳が光る。
セラの中継石が、淡く反応した。
青い光が胸元からにじむ。
セラの指が震える。
エリシアがその手を握った。
「呼ばれている感じは?」
アイリスが問う。
「少し、強くなりました」
「声の方向」
「後ろ……いえ、上です」
「上位接続反応と一致」
アイリスの声は冷静だ。
「痛み」
「ありません」
「記憶の欠落感」
「まだ、ありません」
「祈りたい衝動」
セラの眉がわずかに動いた。
「あります」
エリシアの手に力が入る。
セラは目を閉じたまま続ける。
「誰かが、助けてと言っている気がします。私が祈れば届くと、思ってしまいます」
「それは神託からの命令ですか」
「分かりません」
「セラ自身の意思ですか」
セラは答えられなかった。
その沈黙が、痛かった。
助けたいという願いまで、神託に利用されている。
どこまでが自分なのか、分からなくされている。
エリシアが低く言った。
「セラ」
「はい」
「分からないなら、分からないでいいわ」
セラの唇が震える。
「はい」
アイリスの瞳がさらに細かく明滅した。
「祈り衝動の発生と中継石反応に同期を確認。感情波形を起点に、出力経路が開きます」
「感情を使ってるのか」
俺は思わず言った。
アイリスは頷く。
「はい。救済意思を出力起点として利用しています」
エリシアの顔が険しくなる。
「最悪ね」
「効率的です」
「最悪だと言ったのよ」
「両立します」
アイリスの返答は冷たい。
でも、その冷たさが逆にきつかった。
神託は、セラの優しさを燃料にしている。
祈りたいという気持ち。
助けたいという願い。
それを利用して、接続を開く。
完全な嘘だったら、もっと楽だった。
でも、セラが人を救いたいのは、本当だ。
だから厄介だ。
「停止していいか」
俺は聞いた。
アイリスがセラを見る。
「セラ、測定を停止しますか」
セラは目を閉じたまま、少しだけ首を横に振った。
「もう少しだけ」
「心拍上昇」
「もう少しだけ」
「恐怖反応、上昇」
「もう少しだけ」
アイリスが一瞬だけ黙る。
エリシアがセラの手を握り締めた。
「無理はしないと言ったでしょう」
「はい」
「今のは、無理ではないの?」
セラはゆっくり目を開けた。
目尻に涙が浮かんでいる。
でも、声ははっきりしていた。
「無理です」
「なら止めるわ」
「でも、分かりました」
アイリスの瞳が止まる。
「何をですか」
セラは胸元の石を押さえた。
「祈りたいと思った瞬間、石が熱くなります。でも、誰かの顔を思い浮かべた時は、少しだけ熱がずれます」
「誰かの顔」
「はい」
セラはエリシアを見た。
それから俺を見る。
最後にアイリスを見る。
「大勢ではなく、一人を思うと、少しだけ違います」
アイリスの瞳が、今までで一番速く明滅した。
「個別対象指定による出力分散」
「分かりやすく」
俺が言う。
「セラが『みんな』を救おうとすると、神託に接続されます」
アイリスは言った。
「ですが、『誰か一人』を思った時、出力の形がずれます」
俺は息を呑んだ。
一人。
名前。
個別救済。
アイリスの本来の命令。
目の前の一人を見捨てるな。
そこに、何かが繋がる。
でも、まだ答え合わせには早い。
俺は言葉を飲み込んだ。
エリシアがセラを見る。
「つまり、神託の大きな流れから外せる可能性があるのね」
「可能性があります」
アイリスが答える。
「第三案の仮説を更新。聖女セラの救済意思を、集団出力ではなく個別対象へ分割することで、消費量を下げられる可能性」
「消費量を下げる……」
セラは呟いた。
「それなら、私は消えずに祈れるのですか」
「不明」
アイリスは即答した。
「ただし、ゼロとは記録されていません」
セラは深く息を吐いた。
エリシアも目を閉じる。
俺は工具袋を握った。
錆びた釘が、袋の底で小さく鳴る。
第三案。
まだ完成じゃない。
でも、初めて形が見えた。
聖女を使わない。
でも、セラの願いを捨てない。
その間の、細い道。
「測定終了」
アイリスが言った。
中継石の光が弱まる。
セラの体がふらついた。
エリシアが支える。
「セラ」
「大丈夫ではありません」
「ええ」
「でも、分かりました」
「ええ」
近衛騎士が低く言う。
「足音が近い」
全員の空気が変わった。
森の向こう。
枝を踏む音。
今度ははっきり聞こえる。
二人ではない。
もっと多い。
教会兵か。
神官か。
それとも、近衛騎士団も混ざっているのか。
分からない。
アイリスが顔を上げる。
「追跡者、複数。距離、およそ百二十メートル」
「近いな」
「非常に」
「逃げるぞ」
俺は立ち上がろうとして、右足に力を入れた。
痛みで膝が折れる。
アイリスが支える。
近衛騎士も腕を掴む。
「お前は本当に逃げる気があるのか」
「気はある。足がない」
「足はある」
「機能がない」
「会話する余裕はあるな」
「それで判断するな」
エリシアが森の奥を見る。
「廃道の先は?」
アイリスが答える。
「旧巡礼者の休憩所跡。現在位置から北東へ二百メートル。石壁あり。短時間なら隠れられます」
「行くわ」
セラがふらつきながらも頷く。
「行けます」
エリシアが支える。
「怖い?」
「怖いです」
「なら、行けるわね」
「はい」
俺は少し笑いそうになった。
この二人の会話も、だいぶおかしくなってきた。
でも、それでいい。
俺たちはまた歩き出す。
いや、逃げ出す。
走れない。
足音を殺しながら、急ぐ。
森の中を進む。
枝が顔に当たる。
泥が跳ねる。
工具袋が腰で鳴る。
かち。
かち。
さっきより音が大きい気がして、手で押さえる。
でも、その音は嫌じゃなかった。
錆びた釘でも、ある。
曲がった金具でも、ある。
拾えるものはある。
なら、まだ何かできる。
背後から声がした。
「こっちだ!」
「足跡がある!」
近い。
近衛騎士が振り返る。
「見つかった」
「早いな」
「足跡を完全には消せていない」
「俺が引きずられてるからな」
「否定はしない」
「してくれ」
アイリスが言う。
「前方、休憩所跡」
木々の間に、石壁が見えた。
崩れた小さな建物。
屋根はない。
壁だけが残っている。
そこに隠れるには、追手を一度やり過ごす必要がある。
エリシアがセラを連れて中へ入る。
俺も入ろうとする。
その時、足元の石を踏み損ねた。
右足が滑る。
体が横に倒れる。
「っ!」
声が出る前に、アイリスが俺の襟ではなく、背中の布を掴んだ。
今度は首が絞まらない。
少しだけ進歩している。
「姿勢崩壊を防止」
「背中は助かる」
「学習しました」
「偉い」
「もっと敬ってください」
「今じゃない」
近衛騎士が俺を石壁の影へ押し込む。
全員が息を殺した。
追手の足音が近づく。
枝が折れる音。
鎧ではない。
革靴。
複数。
教会兵だ。
「反応はこのあたりだ」
「聖女様は本当にこちらへ?」
「神官長の命令だ。王女殿下と誘拐犯を捕らえろ」
「聖女様は?」
「保護対象だ。抵抗するなら拘束も許可されている」
セラの指が震えた。
エリシアがその手を握る。
俺は工具袋に手を入れた。
錆びた釘。
曲がった金具。
何に使える。
何ができる。
足音は石壁の向こう。
近い。
声を出せば終わり。
動いても終わり。
俺は息を止めたまま、壁の隙間を見る。
崩れた石。
苔。
古い魔導線。
切れている。
でも、まだ少し魔力が残っている。
休憩所跡。
巡礼者用。
なら、昔は小さな灯りくらいあったはずだ。
俺はアイリスを見る。
アイリスも同じ場所を見ていた。
「触るなと言ったばかりです」
小声だった。
「今は?」
「触る必要があります」
「だよな」
エリシアが目だけでこちらを見る。
何をする気か、と言っている。
「追跡者、複数。距離、およそ百二十メートル」
アイリスの声が、ほとんど息に近い音で落ちた。
近衛騎士が、音もなく剣の柄に手をかける。
石壁の隙間から、森の奥を睨む。
「ここで迎撃する。お前たちは奥へ走れ」
「待て、抜くな。足音が多すぎる」
俺は壁にもたれたまま、工具袋から拾ったばかりの錆びた釘を一本取り出した。
指先で重さを確かめる。
曲がる。
指に刺さる。
でも、使える。
俺はそれを、近衛騎士の足元へ放った。
「あそこの傾いた石板の、上から二番目の古い留め具を見ろ。錆びて浮いてる。そこにその釘をぶち込んで、抉れ。反対側へ石板が落ちる」
近衛騎士は、足元の錆びた釘を一瞬だけ見た。
次の瞬間には、音もなく壁際へ跳んでいた。
迷いはなかった。
プロの動きだった。
親父が言っていた。
まともな道具がある時だけ直せる奴は、ただの使い手だ。
壊れているなら、今あるもので直せ。
近衛騎士が石板の隙間に釘をねじ込み、強引に抉る。
ぱき、と乾いた音。
固定が外れた。
石板が、反対側へ倒れる。
がらん、と大きな音がした。
追手の足音がそちらへ向く。
「何だ!」
「小屋の反対だ!」
二人の足音が、音のした方へ走る。
今だ。
エリシアが手で合図する。
全員が石壁の影から抜け出す。
俺は立てない。
アイリスと近衛騎士に引き上げられる。
痛みで声が出そうになる。
セラが俺の口元に手を伸ばしかけて、慌てて引っ込めた。
叫ぶな、ということだろう。
俺は頷く。
声は出さない。
息だけで進む。
休憩所跡の裏から、廃道のさらに奥へ。
足音が背後で交差する。
追手は石板の音を調べている。
数秒の差。
それだけで、俺たちは森の濃い影へ滑り込んだ。
走れない。
でも、止まれない。
石壁の影から抜けた先は、低い茂みに囲まれた細い道だった。
月明かりがほとんど届かず、足元の泥だけが黒く光っている。
エリシアがセラを抱えるように進む。
若い近衛騎士が後ろを振り返る。
アイリスが俺の腕を支え、俺は右足を引きずった。
背後で、教会兵の声が近づいては離れる。
「こっちじゃない!」
「いや、音は向こうだった!」
「聖女様の反応は?」
「消えた。いや、薄い。分からん!」
分からない。
その言葉だけが、今は救いだった。
やがて、俺たちは崩れた石壁の裏側に滑り込んだ。
古い休憩所の外壁が、ちょうど森の影と重なっている。
全員が、息を殺した。
教会兵の足音が、石壁の向こうを横切る。
枝を踏む音。
低い話し声。
青い魔導灯の光が、割れた石の隙間から細く差し込む。
セラの中継石が、かすかに青く光った。
教会兵の一人が足を止める。
「……今、光ったぞ」
全員の息が止まった。
エリシアがセラの胸元を外套で隠す。
でも、遅い。
魔導灯の光が、こちらへ向く。
教会兵が一歩踏み出した。
「そこに――」
その瞬間、セラが目を閉じた。
中継石を両手で握る。
祈ったのではない。
大勢の救いを願ったのでもない。
ただ、ほんの小さな声で、目の前の一人の名を紡いだ。
「エリシアさん」
中継石の光が、青から、わずかに白くずれた。
兵が驚愕に目を細める。
「今の反応は……」
セラは目を開けない。
さらに強く石を握りしめ、残る二つの名を、間を置かずに重ねた。
「ルカさん。アイリスさん」
オラクルシステムの青い神託の色が、ばきん、と内側から割れるように白く濁り、か細い光となって霧散していく。
セラは最後に、自分の胸元を押さえたまま、震える声で言った。
「私は、ここにいます」
光が小さく収まる。
教会兵は、反応を見失ったように首を振った。
「……気のせいか」
茂みの方から別の兵が叫ぶ。
「こっちだ! 光った!」
残っていた兵もそちらへ走る。
足音が離れていく。
誰も動かなかった。
完全に遠ざかるまで。
虫の声が戻るまで。
誰も、息をしたことに気づかないくらい、静かにしていた。
やがて、エリシアがセラの手を握ったまま、囁いた。
「今の」
セラは目を開けた。
顔は青い。
でも、倒れていない。
「名前を、思い浮かべました」
アイリスの瞳が、静かに明滅する。
「新規記録。個別名指定による接続回避。第三案の核として登録」
セラの唇が震えた。
「私、今、繋がりませんでしたか」
「はい」
アイリスはセラを見る。
「セラは、接続されませんでした」
セラは中継石を握ったまま、涙をこぼした。
声は出さなかった。
泣く余裕なんてない。
でも、涙だけは落ちた。
エリシアがその肩を抱く。
俺は工具袋を握った。
錆びた釘がまだ指先にある。
曲がった金具もある。
第三案は、まだ完成じゃない。
でも、今。
セラは初めて、神託に引き戻されずに、自分の祈りを使った。
たった三つの名前で。
俺たちは追手をやり過ごした。
遠くで教会兵の足音がまだ迷っている。
時間はない。
俺は立ち上がる。
今度は、少しだけ足が前に出た。
「行くぞ」
エリシアが頷く。
セラも頷く。
アイリスが俺を支える。
近衛騎士が後ろを警戒する。
石壁の影から抜け出す時、セラが小さく言った。
「ルカさん」
「何だ」
「名前って、すごいんですね」
俺は少しだけ笑った。
「今さらだな」
「はい」
セラも、少しだけ笑った。
「今さらでした」
俺たちは廃道のさらに奥へ進んだ。
追手はまだいる。
神託もまだ探している。
王国も教会も、たぶんこれから本気で動く。
でも、第三案は見えた。
聖女を使わない。
セラを消費しない。
名前で、出力をずらす。
たったそれだけの細い道。
けれど、細い道なら俺たち向きだ。
壊れた水路も。
崩れた小屋も。
泥だらけの廃道も。
まともな道なんて、最初から歩いていない。
俺は工具袋の中の錆びた釘の音を聞きながら、森の奥へ進んだ。
かち、と、小さく鳴る。
今度の音は、少しだけ頼もしかった。




