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「放っておけないんだ」と仰るあなたを、私は放っておきます  作者: 秋月 もみじ


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第6話 席次表の間違い


国境から王都までの帰りの馬車は、出立の時よりも揺れが大きかった。整え直された街道を選ばずに、二駅分ほど近道を通ったらしい、と御者が後から教えてくれた。


「お嬢様、王宮からのお迎えが、急ぎだとのお話でしたので」


「ありがとう、急いでくださって」


窓の外を、見覚えのある祖国の街路樹が、いつもより速く流れていく。


帰国の翌朝、わたくしは半時間早く、王宮の私室棟に向かった。王妃陛下の私室は、廊下を一段、空気が静かにする場所だった。今朝も、いつもと同じ重さの扉が、半開きで待っていた。


「ジゼル、お入りなさい」


陛下のお声は、いつもより少しだけお疲れがにじんでおられた。紅茶を御自ら淹れてくださる動作が、ほんの僅か、いつもの半呼吸だけ遅かった。


「陛下、ご無沙汰しております。お早いお呼び立てに、感謝申し上げます」


「いいえ。お疲れのところを、本当に、申し訳ないわね」


陛下はご自分の紅茶を一口運ばれた後で、卓の上に一枚の便箋を滑らせた。


「今日、午後の宮中晩餐の差配を、ノエル嬢が、自ら、申し出ました」


陛下のお声は平らだった。


「彼女からの書状です。読んでも差し支えありませんよ」


便箋を、わたくしの方へ寄せてくださる。差出人の手蹟は、丸みと角の混じった、若い令嬢の典型的な書き方だった。インクは、上等な貴族用のもの。


「陛下、僭越ではございますが、本日の宮中晩餐の差配は、わたくしにお任せくださいませ。レオン殿下の隣に立つお仕事を、わたくしも、少しずつ、勉強させていただきとう存じます」


最後の「とう存じます」の終わりのところで、ペン先が一度、紙の上で迷っていた。


「ノエル嬢からは、二度、書状をいただきました」


陛下は、便箋の隅を、指で軽く整え直された。


「一度目は、わたくしから『よく考えてからお返事を』とお伝えしました。二度目が、これです」


陛下は、わたくしの方をまっすぐにご覧になった。


「わたくしは、彼女に、こうお伝えしました。『あなたが望むなら、お任せします。ただし、責任はあなたが負うことになります』と」


陛下のお声は、いつもの陛下の声よりも、ほんの一段重かった。


「ジゼル、わたくしは、本日の差配に、介入はいたしません。あなたにも、介入は求めません。あなたは、わたくしの助言役として、今日は賓客席にお座りください。差配ではなく、賓客として。彼女が、自ら立とうとしている、その立ち方を、わたくしも、見届けなければなりません」


陛下のお顔は、王妃のお顔だった。半分は、四年間、息子に三度話して退けられた母のお顔でもあった。


わたくしは、長く、紅茶のカップを両手で包んだままにしていた。


「承知いたしました」


それだけ申し上げた。


陛下のお顔が、ほんの少しほどけた。


「ありがとう、ジゼル」


陛下が、わたくしに「ありがとう」と仰ることは、四年間で、片手で数えられるほどしかなかった。


 


私室を辞してから、わたくしは午前の二時間を、王宮の小さな図書室で過ごした。帰国直後で、本来は屋敷で休むべき時間だった。けれど、屋敷に戻ってしまえば、晩餐の差配のことが、嫌でも頭に浮かびそうだった。


図書室には、わたくしが四年間、毎月のように借りてきた、外交年鑑の最新刷が、配架されていた。借りずに、ただ、いつもの書架の場所だけ、確認した。四年分の借り出し票には、わたくしの名前が毎月、規則正しく並んでいた。それをわたくしは、半分だけ眺めて、書架の前を離れた。


 


午後、宮中晩餐の控えの間。


賓客席として、わたくしの席が用意されていた。席次表の写しが、卓の上に、薄い紙で配られている。


最初に席次表に目を落とした時、視線が、二度、戻った。


ヴァロワール王国外交特使、ベルナール大使閣下の席が、下座に配置されていた。外交席の慣例では、隣国の王族派遣大使の席は、王族席のすぐ近くと決まっている。これは、社交ではなく、外交礼法の問題だった。下座に配置することは、明確な礼法違反だった。


席次表を、もう一度、最初から確認する。他の席は、概ね正しく配置されていた。若い令嬢が、年鑑だけで組めば、こうなるだろう、という配置だった。ただ、外交席の一席だけ、明らかに、外し方を間違えておられた。


「ジゼル嬢」


低い声が、わたくしの真後ろから落ちた。振り返ると、ヴァロワールの礼服を纏ったアルベリク殿下が、賓客席の通路に立っておられた。殿下は、外交特使として、本日の晩餐に正式参列なさることになっていた。殿下の手元には、薄い紙の席次表の写しが、すでに握られていた。


「殿下、お早うございます」


「席次表、ご覧になりましたね」


「はい」


「ベルナール卿には、わたくしから、本日朝、お伝えしてございます」


殿下は、それだけ仰った。


「退席なさる、ということでございますか」


「ええ。手順は、すべて、礼法の枠内で。ご心配なさいませんよう」


殿下はそこで、初めて目線をわたくしに合わせられた。合わせて、すぐにお外しになった。それだけ仰って、殿下はご自分の席へ移動なさった。席に着く所作も、いつも通りだった。


 


晩餐開始の鐘が鳴った。参列者が席に着く。


ノエル様が、王族席の手前で、ようやく姿を見せた。普段、晩餐の差配は、開始の一時間前には会場に入っているものだった。ノエル様は、開始五分前に、ようやく現れた。


王妃陛下が、ご自分の席から、一度だけ、ノエル様の方をご覧になった。何も仰らなかった。ノエル様は、その視線に、半分だけ気づいて、半分だけ気づかなかったような顔で、上座へ進まれた。


「皆さま、本日はようこそお越しくださいました」


ノエル様のご挨拶が始まる。その瞬間、ベルナール大使が、ご自分の席で、立ち上がった。ベルナール卿は、表情を変えなかった。動作は、外交儀礼の退席の正式手順そのものだった。椅子の角度を整え、ナプキンを左手で軽く折り直し、テーブルに対して半歩下がって、ひと呼吸長い一礼を取られた。それから、退席なさった。


会場の空気が、半秒だけ、止まった。


楽団の音は止まらなかった。給仕の手も止まらなかった。ただ、参列者全員の視線が、ベルナール大使の空いた席に集まり、それから、ノエル様の方に動いた。ノエル様の手元の杯が、半分、傾きかけた。


「あの、皆さま、お続けくださいませ」


ノエル様のお声が、無理に上げられたことが、わたくしの席まではっきり届いた。


レオン殿下が、慌てて立ち上がって、ベルナール大使を追いかけるように、会場の扉の方へ向かわれた。扉のところで、王宮事務局の長が、レオン殿下に、低い声で何かを告げた。ベルナール大使は、すでに王宮の外に出ておられた。正式な退席の手順が完了した後では、追いかけても、戻ってはいただけなかった。外交礼法とは、そういう仕組みだった。


レオン殿下は、扉の前で何かを言いかけて、結局、何も言わずに、会場に戻られた。戻って、ノエル様の隣の席に、もう一度、腰を下ろされた。ノエル様は、震える指で、杯を支えておられた。


晩餐は、続けられた。楽団の音だけが、いつもより、よく聞こえた。


 


晩餐の中盤、アルベリク殿下が、ご自分の席から立たれた。会場の中央へ歩み出て、レオン殿下の正面で、礼を取られた。


「レオン殿下、外交特使として、一点、本日の正式記録に残させていただきたい事項がございます」


殿下のお声は、会場全体に届く高さだった。参列者全員が、二度目の静寂に入った。


「本日の席次表、ならびに本日のベルナール大使の席の配置につきまして、整え手のお名前を、両国の公式記録に、明示で残させていただきとう存じます」


レオン殿下が、半秒、言葉を探された。ノエル様の手から、杯が、卓の上に小さく置かれた音がした。


「わたくしが、整えました」


ノエル様の声は、いつもよりずっと小さかった。


「ブランシュ伯爵令嬢、ノエル様」


アルベリク殿下は、ノエル様の方へ、視線を向けてくださった。その視線は、責めるものではなかった。むしろ、丁寧に、ノエル様のお名前を、確認しただけだった。


「では、ブランシュ伯爵令嬢ノエル様のお名前を、本日の外交礼法違反の責任者として、両国の公式記録に、明示で残させていただきます」


会場の貴婦人方の扇が、何本か、同時に、ぱちりと閉じた。


ノエル様は何も仰らなかった。ただ、両手を、卓の下で、組んでおられた。レオン殿下は、ノエル様の方を、見ようとして、見られなかった。


王妃陛下は、ご自分の席で、紅茶のカップを少しも揺らさずに、お持ちになっていた。陛下のお顔は、わたくしの席から半分しか見えなかった。見えた半分は、王妃のお顔だった。見えなかった半分は、母のお顔だったのかもしれない。


 


晩餐の終わり際、アルベリク殿下がわたくしの隣の席に、ゆっくりと立たれた。ご自分の席は、わたくしの席から二つ離れていた。それなのに、退席の挨拶のために、わざわざ、わたくしの席の隣を経由してくださった。


殿下は、わたくしの方は見ずに、会場の中央を見ながら、低い声で仰った。


「ジゼル嬢、お疲れになっていらっしゃるかと存じます。本日のご退席後、お部屋にお戻りになりましたら、ご休息くださいませ」


わたくしは、自分が疲れた顔をしていないつもりだった。


殿下は、もう一礼を加えて、退席なさった。殿下の上着の裾が、わたくしの椅子の脇を一度、軽く撫でて、過ぎていった。


 


晩餐から戻った客間で、わたくしは卓の前に長く座っていた。紅茶は、また冷めていた。冷めたまま、しばらく、飲まなかった。


殿下が、わたくしを「役割としてではなく」と仰ってくださった夜が、まだ頭の中で続いていた。二日前のヴァロワールの茶会で、殿下は「整える知性そのものを尊敬しております」と仰った。それは、わたくしが整え手だったから、見つけてくださった言葉でもあった。もし、わたくしが整えなかったら、殿下は、わたくしを見つけてくださっただろうか。「あなた自身」と「あなたが整えたもの」を、わたくしはまだ、切り分けられていなかった。


今夜の晩餐で、殿下はわたくしを「お疲れになっていらっしゃる方」として扱ってくださった。整えていない、ただ座っているだけのわたくしを、見てくださった。それは確かに、「あなた自身」を見てくださる動作だった。


それでも、まだ、わたくしの中の輪郭は薄かった。殿下が「私個人として」と仰ったわけではなかった。外交特使としての、お気遣いの範囲だった。そう思いたい自分と、そう思いたくない自分が、卓の前で、少しずつ、別の方向を見ていた。


紅茶を、ようやく一口、運んだ。冷めていた。それでも、一口、飲んだ。冷めた紅茶を、最後まで飲み切るのは、四年間でずいぶん慣れていた。ただ、今夜は、冷めた一口が、四年前とは少しだけ違う味がした。


 


晩餐から五日が経った朝。


王妃陛下から、急ぎの召喚状が届いた。封蝋は、私用紋ではなかった。公務用の紋だった。


ジゼル・オルランド侯爵令嬢へ。来週の宮中晩餐の差配を、正式に依頼します。王妃クロディーヌ。


それと、もう一通。王宮事務局から、定型書状が、同日付で届けられた。ブランシュ伯爵家への王宮主催茶会・夜会の招待状の発送を、当面、見合わせる旨の業務通達だった。


加えて、もう一枚の通達が、その下にあった。来週末、王宮主催の貴婦人茶会を予定通り開催する旨。これは事案発生の前に、すでに招待状を発送済みであり、王妃陛下のご判断で予定通り開催することになった、とのこと。差配については、別途、ご指示があるとのことだった。

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