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「放っておけないんだ」と仰るあなたを、私は放っておきます  作者: 秋月 もみじ


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第5話 あなたという人物に、お越しいただきたい


国境の駅舎は、両国の建築の真ん中にあるような造りをしていた。屋根の傾斜は祖国の様式、玄関の柱はヴァロワール風、待合室の腰板は祖国の樫の木で、天井の梁はヴァロワールの白木。子どもの頃、この駅舎を父と一度だけ通ったことを覚えていた。あの時は十二歳で、わたくしは「両方の国のお家みたいだ」と父に言って、父は笑って、髪を一度撫でてくださった。


馬車が止まる。御者が扉を開ける前に、駅舎の方から、ヴァロワールの礼服を纏った長身の人影が、ゆっくりと近づいてきた。


扉が開いて、わたくしが地面に足を下ろした時、その方はすでに、わたくしから三歩の位置で、ひと呼吸長い一礼をなさっていた。


「ジゼル・オルランド嬢、ようこそヴァロワール王国へ」


声は、思っていたよりも低かった。王宮の回廊では、お顔を遠くから拝見したことしかなかった。ご挨拶を交わしたことは、なかった。それでも、声を聞いた瞬間、二日前にマリーが伝えてくれた「お嬢様の通り道を空けるように」という言葉の主が、確かにこの方だった、と分かった。


「アルベリク殿下、お出迎え、誠にありがとう存じます」


殿下は、もう一度、礼を返してくださった。外交儀礼の礼の深さよりも、一拍だけ深かった。それは、儀礼から外れているとまでは言えない、けれど確かに二度繰り返された深さだった。


馬車の中で、わたくしと殿下は、向かい合って座った。殿下は、わたくしの方ではなく、馬車の窓の外を見ていらした。景色を見ているのではないように見えた。ただ、窓の方を見ていれば、こちらを直視せずに済む、というだけのお顔だった。


「ご旅程について、申し上げます」


殿下が視線を窓に置いたまま、口を開かれた。


「茶会は三日後でございます。それまで、ヴァロワール王宮にてご休息ください」


「殿下、ご差配のお手伝いが必要でしたら――」


「いいえ」


殿下の声は短かった。短く、しかし、固くはなかった。


「あなたは、賓客としてお招きいたしました。整える側ではなく、整えられる側として、三日お過ごしください」


殿下は、ようやくわたくしの方を見た。馬車の窓から差し込んだ午後の光が、殿下の瞳の、灰色がかった青の縁を半分だけ照らしていた。


「あなたが整えてこられたものを、わたくしどもが整える側に回ります。三日だけ、お預けくださいませ」


それだけ仰って、殿下はまた窓の方を見た。馬車の車輪の音が、揃った石畳を踏んでいく音に変わった。ヴァロワールに入った、という意味だった。


 


ヴァロワール王宮は、わたくしが想像していたよりも白かった。祖国の王宮は、灰色がかった石でできている。ヴァロワールは、白い大理石を惜しまずに使った造りだった。光の入り方が、廊下の半ばまで、奥行きとして届く。


通された客間は、王族用の翼にあった。普通の外交賓客には、もう一つ手前の翼が使われる、と昨日教えてくださった侍従が、扉の前で説明してくれた。


「アルベリク殿下のお指図で、こちらの翼にご用意いたしました」


侍従が扉を開ける。客間の卓の上に、薄紅色の小さな茶器一式が、すでに置かれていた。その横の小皿に、薄い焼き菓子が三枚、並んでいた。


わたくしは、卓のすぐ前で、半歩、足が止まった。茶器の縁の色合いと、焼き菓子の形と厚みに、見覚えがあった。


侍従が、わたくしの戸惑いを察したのか、告げた。


「茶葉は、オルランド領産の薔薇蜜茶でございます。焼き菓子は、王宮茶会で度々ご用意なさっていた、薄い焼き菓子の方を、と」


「……どなたから、お聞きになりましたの」


「貴国の王宮筆頭侍女、マルグリット様より、伺っております」


侍従は迷いのない声で続けた。


「マルグリット様は、こうおっしゃったと、わたくしどもの給仕長から聞き及んでおります。『ジゼル様を大切に思ってくださる方には、お伝えするべきです』と」


侍従はそれ以上、説明をなさらなかった。ただ、卓の上の小皿の位置を、ほんのわずかだけ整え直して、礼を取って、下がっていった。


わたくしは、扉が閉まる音が消えてから、卓の縁を、指で一度、撫でた。


マルグリットが、いつ、誰に、この話を伝えたのか。ヴァロワールの侍従が、マルグリットの言葉を、給仕長を経由して把握している。つまり、この情報は、ヴァロワール側で何段階かを経由して、客間まで運ばれてきたのだった。最初に、マルグリットに尋ねた方がいる、ということだった。


椅子に腰を下ろす。茶葉の香りが、湯気と一緒に立っていた。故郷の朝に淹れる、いつもの薔薇蜜茶の香りだった。ヴァロワールの白い客間に、その香りが立っていることが、なぜか少しだけ、不揃いに感じた。良い意味で、不揃いだった。


 


その日の夜、ヴァロワール王妃陛下にご挨拶を賜った。


陛下は、わたくしの母君と同じくらいの年頃の方だった。祖母君譲りだという薄翠色の瞳が、灯火の下で、静かに光っておられた。


「ジゼル嬢、お疲れではございませんか」


「いいえ、陛下、ご丁重なお出迎えに、心より感謝申し上げます」


「あなたのお噂は、二年前から、わたくしも伺っております」


陛下の声が、いつもの社交辞令の調子から、半歩だけ離れた。


「二年前のわたくしの即位記念茶会、あの席次表を整えたのが貴国の若い令嬢である、と、義弟から聞いた時のわたくしは、半分、信じていませんでしたの」


陛下は、わたくしのカップに、御自ら砂糖壺を差し向けてくださりながら、続けられた。


「義弟は、滅多に同じ話を二度しません。けれどあの茶会の後、義弟は、半年の間に三度、わたくしに同じ話をいたしました。三度目に、わたくし、ようやく信じましたわ」


陛下の声が、ほんの少しだけ、いたずらっぽくなった。砂糖壺の銀の縁が、灯火を反射していた。


わたくしは、何と申し上げてよいか分からなかった。


「陛下、わたくしは、ただ、貴国の大使様方とご家族の関係を、外務省の年鑑で確認して、お席を組ませていただいただけでございます」


「ええ。けれどあの席次は、年鑑だけで組めるものではございませんわよ」


陛下は、わたくしのカップを、もう一度、御手で押し進めてくださった。


「これは、義弟が選んだ茶葉ですか」


「……はい、陛下」


「では、義弟は、本気ですわね」


陛下はそれだけ仰って、ご自分の紅茶をほんの一口だけ、お運びになった。陛下の口元が、笑みの形になりかけて、すぐに整えられた。王族の女性は、その動作を、滅多にお見せにならないものだった。


 


三日後、ヴァロワールの春の茶会。


わたくしは、賓客席に座っていた。差配の席ではなく、ただの参列者として、座っているのは本当に久しぶりだった。ヴァロワールの茶会の式次第を、目で追うだけでよかった。席次の確認も、贈答の段取りも、楽団の音量調整も、誰かが整えてくださっていた。


整える側にいたわたくしを、別の誰かが、整える側として動いてくださっている。肩の力の抜き方を、半分、忘れていた。


茶会の中盤、楽団の合間に、アルベリク殿下がわたくしの席の隣に立たれた。殿下はわたくしの方を向かなかった。会場の中央の方を見たまま、低い声で仰った。


「ジゼル嬢」


「はい、殿下」


「わたくしは、あなたを、整える役割としてではなく、整える知性そのものを尊敬しております」


殿下の声は、会場の他の参列者の方々には、届かない高さに保たれていた。


「二年前、貴国の王妃陛下御即位記念茶会で、わたくしは、あなたが整えた席次表を見ました。あの席次は、ただ礼法に従っただけのものではなかった。それぞれの参列者の関係性、過去の対立、政治的距離、すべてを計算した上で『誰も傷つかず、誰も顔を潰されない』配置でした」


「殿下――」


「あれを、一人の人間が整えたのだと知って、わたくしは、あなたを尊敬しました」


殿下はそこで一度、言葉を切られた。切られた後、ご自分の右手の指を、軽く一度、組み直された。


「これは、本日、外交特使の立場で、貴客のお一人に申し上げる、賛辞でございます」


殿下は最後に、わたくしの方へちらりと視線を向けてくださった。それでも、わたくしの心臓は、一度、遅れた。殿下はもう一礼を加えて、ご自分の席へ戻っていかれた。足音は、最後まで控えめだった。


 


茶会が終わって、客間に戻る。


侍従が扉を閉めて、下がっていく音が、廊下の角で消えた。わたくしは卓の前に座って、長く息を吐いた。


「整える知性そのものを尊敬しております」――殿下のお言葉が、まだ耳の奥に形のまま残っていた。


四年間、わたくしはレオン殿下からも、ご家族からも、社交界の方々からも、「役に立つ」とは言われてきた。「気配りができる」「賢い」「よく見えている」とも言われてきた。けれど、「あなたという知性」と仰った方は、おられなかった。


鏡台の前に立つ。鏡の中の自分の頬に、手を当ててみた。少しだけ温かかった。次の瞬間、その手のひらが、自分でも気づかぬうちに、胸の前で握り直されていた。


「整える知性」を尊敬してくださる方は、わたくしが整えてきたから、わたくしを見つけてくださった。つまり、わたくしが整えていなければ、見つけてくださっただろうか。役割を、四年間、引き受けてきたわたくし。そのわたくしから役割を引き剥がした後に、何が残っているのか。


「あなた自身」と言われても、わたくしには、その「自身」の輪郭が、まだ自分でも見えていなかった。


鏡の中の女性は、四年間「分かってくれる婚約者」だった人だった。それを脱いだ後の、もう一段奥の輪郭が、まだ、薄かった。「整える知性」と仰ってくださる方の隣に、わたくしは立てるのだろうか。それとも、立てると思っているのは「整えてきたわたくし」だけで、「あなた自身のあなた」は、まだ、何にも返事をしていないのだろうか。


紅茶を、もう一杯、頼もうかと思って、結局頼まなかった。今夜は、自分の手で湯を沸かしたかった。ヴァロワールの客間には、小さな湯沸かしの一式が、卓の隅に置かれていた。賓客に、自分で湯を沸かす習慣のある方も、いらっしゃるからだろう。


わたくしは立って、その湯沸かしに、自分で水を入れた。四年ぶりに、自分で湯を沸かした。湯気が立つまでの時間が、思っていたよりも、長かった。


 


翌朝、祖国からの早馬が客間に届けられた。封筒は、王宮の急ぎの便用の、麻紐で十字に縛られたものだった。王妃陛下の私用紋ではなく、王宮事務局の通常紋。つまり、宮中の業務上の連絡という形で出されている書状だった。


封を開ける。王宮茶会、混乱。第一王子殿下の公務予定が、空白だらけ。ノエル様、宮中晩餐の差配を、自ら申し出ておられる。王妃陛下より、可能なら、ご帰国を。


短い文面だった。最後の添え書きは、王妃陛下の私的なご意向が、業務通達の形で書き添えられたのだ、と分かった。


「自ら申し出ておられる」というお言葉を、わたくしは二度読み直した。それから、湯気の立った紅茶を一口だけ飲んだ。今度は、冷める前に、飲んだ。

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