第4話 空いた隣席と、ご招待状
封蝋を開く前に、もう一度、紋章を確かめた。葡萄の蔓を組んだ意匠の中央に、剣の影。子どもの頃、隣国の貴族年鑑を見せてくださった父が、「これはヴァロワール王家のものだ」と指で示してくださった図案だった。その時の父は、剣の影の意味を「守る者の家紋だ」と仰った。
指先で、蜜蝋の冷えた縁をなぞる。封筒の裏には、差出人の名前以外、何も書かれていなかった。
開いた中には、二つ折りの羊皮紙が一枚だけ。文字は、思っていたよりも丸みのある手蹟だった。
ヴァロワール王国の春の茶会へ、外交賓客として、ご招待申し上げます。役割ではなく、あなたという人物にお越しいただきたい。
それだけだった。詳細な日程や警護の手配は、別途、貴国の外務省を通じて正式書状にてお届けします、と短い追記が、文末に小さく添えられていた。ペン先のかすれが、文末の一字だけ僅かに薄かった。書き手が、最後に一度、迷ったのかもしれなかった。
わたくしは、羊皮紙を畳んで、机の引き出しの一番上に入れた。それから、もう一度、引き出しを少しだけ開けて、紙の縁を見た。中身を、まだ信じきれていなかった。
紅茶のカップに手を伸ばす。朝の薔薇蜜茶は、結局、また冷めていた。
婚約解消の正式発表は、その翌朝に出された。王宮の通達は、いつもより少しだけ早く配布された。社交界の貴婦人方の応接間に、ほぼ同時刻に通達の写しが届くように手配されていた。これも、王妃陛下のご配慮だったと思う。
オルランド邸には、その日、合計で十一通の手紙が届いた。差出人を確認しないと、見舞いなのか、慰めなのか、好奇心なのか、判別がつかない時もある。ただ、十一通のうち九通には、共通する言葉が添えられていた。「ジゼル様の本日のご機嫌を、お祈り申し上げます」。
ご機嫌を祈る、という言い回しは、社交界では特定の場面でしか使われない。「あなたが選ばれた決断を、わたくしは尊重します」という、貴婦人同士の遠回しな承認の合図だった。九通もそれを書いてくださった方がいたことを、わたくしは机の上で、しばらくぼんやり見ていた。
そのうち一通だけ、「ご機嫌を祈る」の前に、もう一言添えてあるものがあった。老侯爵夫人デルフィーヌ様からだった。
「先日、わたくしの扇の骨が、また一本、曲がりましたわ」
それだけ書いてあった。
夫人の扇の骨は、四年前にも一本曲がっていた。二年前にも一本曲がっていた。そして昨夜の夜会でも、夫人の扇は、わたくしと目が合った瞬間、ぱちりと閉じていた。夫人が何を仰りたいのか、わたくしは便箋を二度読み返して、ようやく半分くらい掴んだ。
返事は、夕方までに書こうと思った。
午後、もう一通、書状が届いた。
王宮からだった。封蝋は王妃陛下の私用紋。つまり、公務ではなく、私的な書状という意味だった。便箋には、陛下の手蹟で短く、こう書かれていた。
ジゼル、婚約は解消されましたが、王宮茶会の差配について、引き続き助言をお願いできませんか。あなたの四年間の蓄積を、わたくしは無駄にしたくないのです。実はわたくし、あなたが提出してきた四年分の差配記録を、すべて手元に保管しております。月ごとの綴り、贈答記録の写し、席次表の控え、外交席次の決定書まで。あれは、当家の社交史に残る記録です。ジゼルの好きなように、この依頼を受けるか、断るかをお決めなさい。これは王妃としての命令ではなく、わたくし個人からのお願いです。
便箋の縁を、一度だけ指で軽く整えた。陛下が「私個人として」とお書きになったそのお言葉を、わたくしは二度読み直した。
四年間、わたくしが提出してきた書類が、陛下の手元にすべて残っている。捨てられていなかった。書き直しを命じられたものさえ、原本と差し替え後の両方が保管されている、と陛下は仰っていた。書類が残っている、というだけのことだった。
それなのに、なぜか、もう一杯紅茶を飲みたくなった。冷めていない、淹れたての紅茶だった。呼び鈴を、いつもより強く鳴らした。
マリーが扉を開けた時、わたくしの目が、もう少し赤かったのかもしれない。マリーは、何も言わずに、新しい湯と茶葉の用意を告げて、すぐに下がっていった。下がる前に、ドレスの裾を整えながら一度だけ、わたくしの方を振り返った。
「お嬢様、本日のお出かけのお召し物は、深い緑のドレスでよろしゅうございますね」
「ええ、お願いね」
マリーは、軽く頭を下げて、下がっていった。
その夜、社交界初の夜会に、オルランド侯爵家として参列することになっていた。王宮主催ではなかった。ロワール侯爵夫人主催の、内輪の音楽夜会。招待は、婚約解消発表より前にいただいていた。キャンセルすれば、それも一つの声明になる。キャンセルしなければ、それも一つの声明になる。
母は、わたくしに、どちらでも構わないと仰った。わたくしは出ることにした。
ドレスは、いつもの淡い水色ではなく、深い緑のものを選んだ。婚約者の色を脱ぐ、というほど大げさな意図はなかった。ただ今夜の自分には、水色は少し軽すぎる気がした。
会場のロワール邸に、わたくしと母が到着した時、玄関広間にはすでに何組かの貴婦人方が立っていらした。ご挨拶の声が、わたくしへ集まる前に一度、ふっと止む瞬間があった。それから、いつもよりも丁寧な礼を、貴婦人方が一斉に下げてくださった。普段なら、わたくしの方から先に礼を取る位置の方々まで、半拍だけ早く頭を下げてくださっていた。
「ジゼル様、ようこそ」
ロワール夫人が、わたくしの手を取ってくださった。夫人の手は、いつもより、ぎゅっと強かった。
「本日は、お招きありがとう存じます」
「とんでもないことでございますわ。あなたのお席は、楽団の真正面、最も音が美しく届く場所にご用意してありますの」
夫人の声はいつもの社交辞令の調子だった。けれど、楽団の真正面、最良の席は、本来、その夜の主催者の親族か、王家の関係者にしか用意されない席だった。夫人がわたくしを、その席に座らせたいのだ、と分かった。
母が、わたくしの少し後ろで、扇を一度、開いて、すぐに閉じた。開いた時の、一拍だけの間が、わたくしには「お受けなさい」という意味だった。
「ありがとう存じます。お言葉に甘えて」
夫人が、目元を緩めた。
夜会の中盤、音楽の合間に、給仕の若い男が、わたくしの席の脇に立った。
「ジゼル様」
「ええ」
「ロワール家の使用人として、二点だけ、お伝えしてもよろしいでしょうか」
少し変わった声のかけ方だった。
「どうぞ」
「本日、第一王子殿下とブランシュ伯爵令嬢が、お並びでこちらにお越しになっておられます。広間奥の壁際の、二つ続きの椅子に、お座りでございます」
それは、夜会の中で、最も目立たない席の組み合わせだった。
「もう一つは」
給仕の若い男は、声を一段下げた。
「お二方がお見えになった時、ロワール夫人は、楽団の音を一段、上げるよう、指揮者に合図なさいました」
「……ありがとう」
「いいえ。本日、お席をご案内した者として、お伝えするべきと存じました」
若い給仕は腰を折って、下がっていった。
それは、社交界の作法ではなかった。けれど、社交界の作法を共有している人々が、自分たちの中だけで通じる合図を、わたくしに向けて使ってくれているのだ、と分かった。
音楽が、もう一段、ふくらんだ。わたくしは、楽団の真正面の席で、最も美しい音を、四年分の重さの代わりに、頬で受けていた。
休憩時間、わたくしは中庭に出た。
参列者の中には、レオン殿下とお話をしたい方も、ノエル様にご挨拶したい方も、おられたはずだった。けれど、中庭の小径を歩いていたわたくしのところに、若い侯爵夫人が一人、近づいてこられた。カミーユ侯爵夫人。わたくしより、二つ年下の方だった。
「ジゼル様、お一人にしてしまって、失礼いたします」
「いいえ、こちらこそ」
夫人は、わたくしの隣に半歩だけ並んで、低い声で仰った。
「ジゼル様、わたくし、本日の壁際の二つの椅子を、見てまいりました」
中庭の小径の脇に、白い小花が一房だけ咲いていた。カミーユ夫人は、その小花の方を見ながら、お話しになった。
「あの方は……ジゼル様のような方では、ございませんわよね」
夫人の声は、責めているのではなかった。ただ、確かめるような声だった。それから、自分の言い方が少し弱いと思ったのか、夫人はもう一度、言い直してくださった。
「四年間、王宮の場を整えていらしたのは、ジゼル様でした。皆さま、見ておりましたのよ」
わたくしは、すぐには答えなかった。夫人もすぐの返事を求めておられなかった。中庭の小花が、夜風で一度、揺れた。
「カミーユ様、本日は、ご一緒にお話しできて、嬉しゅう存じます」
それだけ申し上げた。
カミーユ夫人は満足そうに頷いて、また一礼して下がられた。夫人は、わたくしに同意を求めに来たのではなかった。ご自分が見たものを、わたくしに、見えていることを、伝えに来てくださっていた。
中庭の白い小花が、もう一度だけ揺れた。四年間、わたくしは、誰にも見られていないと、半分くらい信じていた。そのことを、今夜、修正しないといけないらしかった。
夜会から戻った翌日の、午後遅く。
机の上に、二通目のヴァロワール王家紋章の書状が置かれていた。封蝋は、昨日のものとほとんど同じだった。ただ、今度の封筒の裏には、短い書き添えがあった。
祖国にお越しの際、私自身が国境までお迎えに上がります。外交儀礼ではなく、私個人の希望として。
「私個人として」という言葉を、わたくしはここでも見ることになった。王妃陛下の便箋にも、同じ言葉があった。二人の方が半日のうちに、わたくしの机の上に、同じ言葉を、別々に置いていらした。
偶然だ、と思った。偶然のはずだ、と思った。それでも、わたくしはその封筒の表書きを、しばらく、引き出しに戻せなかった。
紅茶のカップに、もう一度、湯気が立った。今度こそ冷める前に、一口、飲んだ。




