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「放っておけないんだ」と仰るあなたを、私は放っておきます  作者: 秋月 もみじ


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第3話 「分かっていたからこそ、降りるのです」


レオン様――そう呼んできたお名前を、本日からは「殿下」とお呼びすることに、わたくしは決めた。最後の婚約者としての作法ではなく、最初の他人としての礼節として。


応接間の扉が開かれて、レオン殿下が入っていらした。二十分早い到着だった。普段は王宮の外で誰かを待たせない方だから、今日は逆に、ご自分が待つことに耐えられなかったのだろう、と思った。殿下の上着の裾が、馬車から降りた時の風に乱れたまま、整えられていなかった。


「ジゼル」


殿下はわたくしを見て、椅子に座る前に名を呼ばれた。ソファの正面に立ったまま、両手の指を一度だけ組み直された。


「殿下、まずはお座りくださいませ」


母が声をかけた。母はわたくしの左の椅子に既に腰を下ろしていた。普段、客人とわたくしの会話に同席することは少ない方だった。けれど今日は、何も問わずに、ただそこに座っておられた。


殿下は一度頷いて、向かいのソファに腰を下ろされた。帯剣はなさっていなかった。お一人で来られたのも珍しいことだった。


メイドが紅茶を運んでくる。今日のオルランド邸のお茶は、ダージリンだった。マリーが選んだのだと思う。母とわたくしの好みではなく、客人のための茶葉だった。


殿下は、紅茶のカップに手を伸ばさなかった。代わりに、両手を膝の上で組んだまま、口を開いた。


「ジゼル、昨夜のことは誤解だ」


声が、ほんの少しだけ早かった。


「ノエルとは、本当に兄妹のようなものなんだ。君に対する気持ちとは、別のものだ。何度も同じことを頼んでしまったのは、僕がよくなかった。けれど、君なら分かってくれると思っていた。四年も一緒にいて、君はいつだって、僕の意図を理解してくれていただろう」


殿下はわたくしの目を見て話しておられた。


四年間、何度も見たお顔だった。困った時、ノエル様のことを切り出す時、王太子としての公務でわたくしの差配を頼む時――殿下はいつもこの同じ表情をなさった。申し訳なさそうで、けれど、最終的にはわたくしが頷いてくれるだろうと、半分以上信じている顔だった。


わたくしは、紅茶のカップを左手の指先で支えた。口元には運ばなかった。冷ましてしまわないために、ではなかった。ただ今日は、この紅茶を最後まで飲み干す気がしなかった。


「殿下」


声が、自分でも驚くほど静かだった。


「分かっていたからこそ、降りるのです」


殿下のお顔から、いくつかの言葉が続けて落ちかけて、止まった。


「それ以上、わたくしから申し上げることはございません」


短い言葉だった。四年分の何かを、説明しないで終わらせるためには、これくらいの短さが要った。


殿下は、まだ言葉を探しておられた。


「ジゼル、待ってくれ。もう一度、最初から――」


その時だった。


隣の母が、一度、軽く息を整える音がした。母が、けれど、はっきりと口を開いた。


「殿下、お一つだけ、母として申し上げてもよろしいでしょうか」


殿下は、母の方へ視線を移された。普段の母なら、客人の前でこういう間合いの取り方はなさらない。それが、わたくしにも分かった。


「過去四年間、王宮主催の公式夜会は、三十二回ございました」


母の声は穏やかだった。けれど、紅茶のカップを支えるご自分の指が、僅かに震えていらした。


「娘が、婚約者として殿下のお隣に立てたのは、五回でございます。明確に『譲ってくれ』と仰ったのは、娘から聞いた限り三度。残りの二十四回、娘が会場に着いた時には、すでにノエル様が殿下のお隣に座っておられたそうでございます。殿下は『先に来ていたから』と仰り、娘は『分かりました』と申し上げる――それが、わたくしどもの四年でございました」


母は一度だけ、わたくしの方を見た。それから、もう一度、殿下に視線を戻された。


「お母さまも、四年間、ずっと数えておりました」


その言葉だけ、母はわたくしに向けて、半分だけ落とされた。


応接間の柱時計が、ひとつ、刻みを進めた。殿下の手元の紅茶は、一度も口に運ばれないまま、湯気を細くしていた。


殿下のお顔から、ゆっくりと血の気が引いていく。それは、何かを否定しようとして言葉を集めて、その言葉が一度も口に届かないうちに、別の場所で散らばっていく時の顔だった。


「……それは」


「殿下」


わたくしは、もう一度、紅茶のカップを置いた。


「お引き取りくださいませ。本日のわたくしは、もう殿下の婚約者ではございません」


殿下は、立ち上がろうとして、一度、ソファの肘掛けに手を置かれた。立ち上がる前に、もう一度だけ、わたくしの名を呼ばれかけて、呼ばなかった。


帰り際、殿下は応接間の入り口で、一度、わたくしの方を振り返られた。何かを言いかけて、結局、軽く頭を下げただけで出ていかれた。頭の下げ方が、王太子候補としてのものではなく、ただの二十四歳の青年の、不器用な下げ方だった。


馬車寄せから車輪の音が遠ざかってから、応接間の中で、母が長く息を吐いた。


「ジゼル」


「お母さま」


「ご立派でしたよ」


母の手が、わたくしの手の甲を一度だけ覆った。


「お母さまこそ」


母はわたくしの言葉に、笑うように口元を緩めて、それから視線をご自分の紅茶に落とされた。紅茶は、母の分だけが、もう半分ほど減っていた。


「お母さま、いつから数えていらしたの」


「最初の夜会から、よ。婚約発表の夜のあなたが、五日後にこっそり泣いていたのを、わたくし、見てしまったから」


わたくしは何も言わなかった。四年前のあの夜の自分を、母がずっと数として持っていてくれたことが、頬の奥のどこかで温かった。


母は、立ち上がって、わたくしの肩を一度、軽く撫でた。


「夕食までは、お部屋でお休みなさい」


「はい」


母が応接間を出ていく時の、ドレスの裾の音が、いつもより軽かった。


 


自室に戻って、書き物机の前に座る。


机の上に、朝、書き上げた謁見申請書の控えの写しと、婚約契約書第七条の写しが、まだ並んだままだった。その横に、午後遅くに届いた一通の手紙が、新しく置かれていた。


封蝋が、見慣れない紋章だった。葡萄の蔓を組んだ意匠の中央に、剣の影が浮かんでいる。隣国ヴァロワール王国の、王家紋章だった。差出人の名は、表書きの右下に、細い手蹟で書かれていた。アルベリク・ヴァロワール。


わたくしは封蝋に指を置く前に、一度、紅茶のカップを引き寄せた。朝、マリーが淹れて、わたくしが冷ましてしまった、薄い薔薇蜜茶だった。今度こそは、冷める前に飲もうと思った。


それから、封蝋に指を置いた。

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