第10話 「あなたが整えた茶会を、私は忘れません」
明け方、わたくしは、机の前で、まだペンを握っていた。
書き始めた便箋は、三枚目に入っていた。一枚目は、四年間のお礼を、書きすぎた。二枚目は、自分の輪郭の話を、説明しすぎた。三枚目は、半分まで書いて、また止まった。
書いた言葉を、口に出してみる。口に出すと、半分はわたくしの輪郭に合って、半分は合わなかった。合わない半分を、消して、もう一度、書く。そんなことを、夜のうちに、十数度、繰り返した。
窓の外が、白み始めた頃。ようやく、最後の言葉を書き終えた。書き終えてみると、便箋の上半分しか、使っていなかった。四年間のお礼も、輪郭の話も、整え手の話も、何も入っていなかった。ただ、ひと息で言える短さだった。それで、十分のように、思えた。
便箋を畳んで、机の上に置く。封蝋はしなかった。殿下にお渡しするのは、口頭でいいと思った。封蝋した手紙は、わたくしが二日前まで、王宮事務局へ毎月送っていた、整え手としての作法だった。本日のわたくしは、整え手としてではなく、ご自分の輪郭で、殿下の前に立つつもりだった。
紅茶のカップを、最後にもう一杯、頼んだ。マリーが、湯気の立ったカップを運んでくる。
「お嬢様」
マリーの目が、いつもより、優しかった。
「本日は、お早いお出かけでございますね」
「ええ」
「ドレスは、深い緑のものを、ご用意してございます。よろしゅうございますか」
四日前、ロワール侯爵夫人の夜会で着た、深い緑のドレスだった。
「ありがとう、マリー」
マリーは、頭を下げて、下がっていった。下がる前に、もう一度、わたくしの方を、振り返った。何か、仰りたそうな目だった。結局、何も、仰らなかった。四年間、わたくしの侍女として、マリーが、何を見てきたか――それを、わたくしは、本日、初めて、半分だけ、知ったような気がした。
王宮の中庭。朝の光は、藍色から、薄水色へ変わっていた。四月の終わりの薔薇の蕾が、昨日よりも、半分ほど開いていた。
白い長椅子の前に、アルベリク殿下が、お立ちになっていた。昨日と、同じ場所だった。ヴァロワール王国王弟の徽章を、本日も、襟元にお付けになっていた。
「ジゼル嬢、お越しくださり、ありがとう存じます」
殿下は、深く、一礼をなさった。
「殿下、本日も、お時間を頂戴いたしまして、誠にありがとう存じます」
わたくしは、長椅子の片側に腰を下ろした。殿下は、もう片側の端に、お座りになった。二人の間の距離は、昨日と、同じだった。殿下は、ご自分で、その距離を、もう一度、お選びになった。
「殿下」
声が、ほんの少しだけ震えた。それは、悪い震えでは、なかった。
「わたくし、昨夜、一晩、考えました」
「はい」
「怖かったのです」
わたくしは、ご自分の両手を、膝の上で、軽く組んだ。
「レオン殿下に、四年間、『分かってくれる』と仰っていただいて、わたくしの輪郭は、随分、薄くなっておりました。『あなた自身』を選んでくださる方の隣に、立つ資格が、わたくしには、まだ、ある気がしませんでした。けれど、と、思い直しました。怖い、と思っている時点で、わたくしは、もう、『役割』を、半歩、抜け出している、と」
殿下は、わたくしの方をご覧になった。何も、お遮りにならなかった。
「『分かってくれる』と仰る方の前で、わたくしは、一度も、怖がったことが、ございませんでした。怖がる余裕も、なかったのかもしれません。本日、わたくしは、殿下のお申し出に、怖がっている。それは、わたくしが、整え手としてではなく、わたくし自身として、ご返事を、お考えになっている、ということでございます」
「殿下が、先日、別室で、『私個人として』と仰ってくださいました。あの夜から、わたくしの中で、『あなた自身』の輪郭が、少しずつ、戻ってまいりました。まだ、完全には、戻っておりません。ですけれど、輪郭を、ご一緒に、お探しくださる方の隣で、あれば、わたくしも、わたくしの輪郭を、見つけられる、かもしれません」
わたくしは、長椅子の上で、殿下の方を、ご覧した。
「殿下のお申し出を、お受けいたします」
中庭の薔薇の蕾の一つが、朝の光の中で、ようやく、半分、開きかけていた。
殿下は、長く、お黙りになった。それから、ご自分の右手を、ご自分の左手の手首に、軽くお当てになった。ご自分の脈を、お確かめになっているような所作だった。
「ジゼル嬢」
殿下のお声は、低かった。
「ありがとう存じます」
それだけ、仰った。それ以上、お言葉を、お重ねにならなかった。
殿下は、立ち上がられた。長椅子から、わたくしの方へ、半歩、近づかれた。それから、もう半歩、近づこうとして、お止めになった。殿下は、ご自分の上着の袖を、軽く、お整えになった。それから、もう一度、礼を取られた。
「これからは、『あなたが整える』ことも、『あなた自身』も、わたくしの隣で、両方が、在ることを、お約束いたします。役割としてではなく、あなた自身として、隣にいてください」
殿下のお声は、いつもの低さに、戻っていた。
「殿下」
「はい」
「お顔を、お上げくださいませ」
殿下は、ゆっくりと、頭を上げてくださった。灯火の角度ではないのに、殿下のお顔の耳の縁が、僅かに、紅かった。朝の風が、中庭の薔薇の蕾を、一度、揺らした。
二人とも、しばらく、長椅子の前で、立っていた。何か、申し上げなければ、と思ったけれど、何も、申し上げなかった。殿下も、何も、仰らなかった。朝の光が、薔薇の生垣の向こうから、ゆっくりと、わたくしたちの足元に、伸びてきた。
両王家の正式承認の手続きが、本日から、進み始めた。
王妃クロディーヌ陛下が、ヴァロワール国王陛下に、正式書状をお出しになる。ヴァロワール国王陛下が、返書をお送りになる。両王家の事務局が、わたくしの嫁ぎ先の身分、領地の引継ぎ、王宮の侍女頭補佐の引継ぎ、四年分の差配記録の取り扱い――それらを、一つひとつ、整えていく。
わたくしは、本日から、当面、王宮の助言役として、王宮事務局の脇の小部屋を、お借りすることになった。
ノエル様は、ご家族と、領地へお戻りになった。ブランシュ伯爵が、本日朝、王宮事務局に、当面の領地待機を、ご自分から、お申し出になった、と聞いた。
レオン殿下は、王太子候補のお部屋の半分を、お引き払いになって、王宮の客棟の一室に、お移りになった。本日から、四年分の差配記録を、一冊ずつ、お読みになる、と仰っていた。最初の一冊は、わたくしの婚約発表夜会の月の綴り、だった、と、後で王妃陛下から伺った。
王妃陛下は、わたくしと殿下の婚約発表を、初夏に、両王家連名で、お発表になる予定だった。連名の発表は、両王家史上、二度目、とのことだった。最初の一度は、二百年前。ヴァロワール王国の侯爵令嬢が、ファルドーニュ王国の王弟妃に、嫁がれた時。今度の二度目は、ファルドーニュ王国の侯爵令嬢が、ヴァロワール王国の王弟妃に、嫁ぐ時。二百年の間に、両国の関係が、整い直された、ということなのかもしれなかった。
婚約発表が、初夏の両王家連名で、行われた。王宮の中庭の薔薇は、五月のうちに、満開を迎えた。夏の盛りには、領地の引継ぎが、終わった。そして、夏の終わりの、出立の朝。
両国の国境の駅舎の前で、母と、王妃陛下が、わたくしをお見送りくださった。
母は、わたくしの手を、両手で包んでくださった。
「お母さま」
「ジゼル」
母は、それだけ仰って、わたくしの髪を、もう一度、お撫でになった。四年前、婚約発表の夜会の後、わたくしが部屋で隠れて泣いていた、あの時と、同じ撫で方だった。
「四年と数ヶ月、お母さま、ずっと、数えておりました。本日まで、数えました。これからは、数えなくて、よろしいですわね」
「はい、お母さま」
王妃陛下が、一歩、お進みになって、わたくしの前にお立ちになった。
「ジゼル」
「はい、陛下」
「あなたは、貴国の宝でした」
陛下のお声は、四年前、わたくしの婚約発表の翌週、ご自分の私室で、初めてわたくしを王宮茶会の助言役として、お呼びくださった時のお声と、ほぼ、同じ低さだった。
「ヴァロワール王国でも、あなたの整える力が、両国を、繋いでくれると、信じています」
陛下は、ご自分の懐から、一冊の薄い本を、お取り出しになった。革表紙の、見覚えのある角の擦れ。四年分の差配記録の、最後の一冊だった。直近の三ヶ月、王宮事務局に提出してきた、わたくしの最後の月次綴りだった。
「これは、あなたが、お持ちなさい」
「陛下――」
「同じ綴りの、正式な写しは、王宮事務局に、保管しております。これは、原本でございますが、もう、貴国の社交史上の役目は、お終えになりました。あなたが、新しい国で、新しい記録を、お整えになる、最初の参考に、お持ちくださいませ」
陛下のお手から、革表紙の重さが、わたくしの両手に、移った。四年間、毎月、わたくしが整え続けた、最後の重さだった。
「陛下、誠に、ありがとう存じます」
声が、震えた。
陛下は、わたくしの肩を、一度だけ、軽くお撫でになった。それから、半歩、お下がりになった。
国境の駅舎の向こうから、ヴァロワール王国の礼服を纏ったアルベリク殿下が、ゆっくりと、お歩きになっていた。殿下の手元には、小さな木の箱を、お持ちになっていた。
殿下は、わたくしの前で、立ち止まられた。深く、一礼をなさった。それから、その木の箱を、両手で、わたくしの方へ、お差し出しになった。
「ジゼル嬢」
「殿下」
「これを、お受け取りいただきとう存じます」
殿下は、木の箱の蓋を、お開きになった。中には、一枚の、二つ折りにされた、薄い紙が入っていた。
開く。二年前の、ヴァロワール王国の王妃陛下御即位記念茶会の、席次表の、原本写しだった。わたくしが、二年前に整えたものだった。参列者の名簿の、それぞれの隣に、わたくしの細かな筆跡で、書き込みが入っていた。外交上の対立履歴、過去の婚姻関係、政治的距離、好み――それらを、わたくしが、整え手としての参考に、欄外に書き込んでいた、あの席次表だった。
「これを、二年間、わたくしの執務室の壁に、お貼りしておりました」
殿下のお声は、いつもより、低かった。
「あなたが整えたものが、わたくしを貴国に通うたびに、支えてくれておりました。あなたが整えた茶会を、わたくしは、忘れません」
殿下は、もう一度、礼を取られた。
「これからは、あなたが整える茶会の、隣の席に、座らせていただきます」
わたくしは、席次表を両手で包んだ。二年前のわたくしの欄外の書き込みが、本日まで、薄らがずに、残っていた。
「殿下、わたくしも、忘れません」
声が、震えた。
「殿下が、わたくしを、『役割』としてではなく、『知性そのもの』として、見てくださったことを」
殿下のお顔がほどけた。灯火の角度ではない、朝の光の中で、ほどけた。
母が、半歩、お下がりになった。王妃陛下も、半歩、お下がりになった。二人が、わたくしの背中を、軽く押してくださっている、ように感じた。
わたくしは、馬車の方へ、歩き始めた。殿下は、わたくしの半歩、後ろを、お歩きになっていた。
馬車に乗り込む時、殿下が、ご自分の手を、わたくしの肘の脇に、軽くお添えくださった。その手は、四年間、誰もわたくしに、添えてこなかった種類の、お添え方だった。
馬車の中で、わたくしは、革表紙の最後の綴りと、二年前の席次表の写しを、両膝の上に、並べて置いた。過去四年分の記録と、二年前の一日の記録。それが、本日からのわたくしの、新しい出発の重さだった。
馬車が動き出した。国境の駅舎の屋根が、窓の外で、ゆっくりと、後ろに流れていった。両国の建築の、混じり合った屋根の傾斜が、子どもの頃、父と一度通った時のままだった。「両方の国のお家みたいだ」――十二歳のわたくしが仰ったあの言葉を、本日、もう一度、わたくしは、ご自分のお家の屋根として、見ることになった。
ヴァロワール王宮、半月後。
来月の、春の追加茶会の差配の、最初の依頼が、ヴァロワール王妃陛下から、わたくしのもとへ、届いた。
「ジゼル妃殿下」
侍女が、わたくしを、その呼び方で、お呼びになる。最初の数日は、振り返るのに、半呼吸、遅れた。半月目に、ようやく、自然に、振り返れるようになった。
「ジゼル妃殿下、明日の差配のお打ち合わせ、王妃陛下が、お待ちでございます」
「ありがとう、すぐ参ります」
王妃陛下の私室に、参上する。席次表の図面が、卓の上に、すでにお引きになっていた。
「ジゼル妃殿下、本日は、お一つだけ、お願いがございますの」
王妃陛下は、わたくしの隣に、お座りになった。
「来月の春の追加茶会、わたくし、あなたに、全権を、お任せしようと思いますの」
「陛下、本当に、よろしいのですか」
「ええ、ジゼル妃殿下のお好きなように、整えてくださいませ」
陛下のお声は、朝の中庭の光のような、軽さがあった。
わたくしは、卓の上の図面を、しばらく、お見させていただいた。ヴァロワール王国の、伝統的な席次の配列だった。
一つだけ、わたくしの目に止まる箇所があった。ヴァロワール王国の外交大使、ベルナール卿の隣の席。そこは、慣例上、年配の貴族の方の指定席に、なっていた。わたくしは、そこに、新しいご提案を、お入れすることにいたしました。
「陛下、お一つだけ、ご提案させていただいてもよろしいでしょうか」
「もちろん、どうぞ」
「ベルナール卿の隣のお席を、若手のヴァロワール王国見習い文官のための、研修席として、恒常化させていただけますでしょうか。これからの外交を担う者に、見せる席が、必要かと存じます」
陛下は、半秒、考えられた。それから、頷かれた。
「ジゼル妃殿下のご提案、わたくしは、お受けいたしますわ。ベルナール卿は、本日のジゼル様の研修席のご提案を、誰よりも歓迎しておられましたよ」
陛下のお声には、ほんの僅か、感心の縁が混じっていた。
「貴方の整える力は、貴方が整えるたびに、わたくしどもを、少しずつ、高めてくださいますね」
わたくしは、深く一礼をして、図面の上に、新しい線を、お引きした。ベルナール卿の隣のお席に、見習い文官の席、と、書き加える。
その時、卓の脇に、アルベリク殿下が、ゆっくりとお入りになっていた。殿下は、わたくしの席の隣に、お腰を下ろされた。殿下のお席は、本日から、わたくしの隣、と、ヴァロワール王妃陛下が、お決めくださっていた。
殿下は、わたくしの手元の図面を、ご覧になった。
「ジゼル」
殿下のお声が、わたくしにだけ、お届きになった。
「整えてくださって、ありがとう存じます」
わたくしは、ペンを置いた。
新しい席次表に、本日、初めての署名を、お入れする。ジゼル・ヴァロワール。
四年前、ジゼル・オルランドが、整え手として記してきた、無数の署名と、似ているようで、ほんの少しだけ、字の角度が変わっていた。譲られる側ではなく、整える側でもお一人ではなく、隣に、お座りくださる方がいる名前だった。
殿下は、わたくしの新しい署名を、ご覧になった。それから、何も、仰らなかった。仰らなかったけれど、殿下のお口元が、ほんの僅か、緩まれていた。
中庭の方から、夕方の風が、ヴァロワール王宮の白い廊下を、吹き抜けていく。四月の終わりの薔薇の蕾は、ヴァロワールでは、夏の薔薇に、変わり始めていた。来月の春の追加茶会のために、王宮の庭園師が、開花を、合わせ始めている、と、本日の朝、侍従が教えてくれた。
殿下は、わたくしの方を、ご覧になった。
「ジゼル」
「はい、殿下」
「次の茶会の席次を、ご相談しても、よろしいでしょうか」
殿下のお声には、笑みの縁が混じっていた。
わたくしは、ペンを、もう一度、お持ちし直した。
「もちろんでございます、殿下」
「あなたの、隣で。いつまでも」
殿下のお声は、本日のうちで、最も低かった。
わたくしの新しい署名の隣に、殿下が、ご自分の名前をお並べになる場所が、卓の上に、まだ、半分、空いていた。その半分を、二人で、これから、少しずつ、整えていく。それが、本日からの、わたくしと殿下の、最初の茶会の、最初の席次だった。
中庭の白い大理石の床に、夕方の光が、長く、伸びていた。光の方向は、四月の終わりに、王宮の中庭で、わたくしが「お受けいたします」と申し上げた、あの朝の光と、少しだけ、違う角度だった。四ヶ月分、太陽の角度が、進んだ証拠だった。
わたくしは、ペンを、卓の上に、軽く置いた。冷めていない紅茶を、一口、飲んだ。次の一口は、もう少し、時間を置いてから、にしようと思った。




