第9話 「お引き取りくださいませ、もう一度だけ」
朝、屋敷の朝食室には、父も母も揃っておられた。父侯爵が、朝食の席に揃ってくださるのは、本日が四日続けてのことだった。
父は、いつもの朝刊を、いつもより少しだけ早く畳まれた。そして、わたくしの方を、一度、ご覧になった。
「ジゼル」
「はい、お父さま」
「本日は、しっかり、ご返事なさいなさい」
それだけ仰った。父は、四年間、わたくしの婚約のことについて、ほとんどお口を出されなかった方だった。本日、初めて、お声をかけてくださった。
「はい、お父さま。承知いたしました」
母が、わたくしの手に、新しい紅茶のカップを置いてくださった。父は、もう一度、新聞を開いて、無言で読み始めた。けれど、お読みになっているお顔の眉が、いつもよりも、ほんの少し、寄せられていた。
朝食室の窓の外で、四月の終わりの薔薇の蕾が、まだ固く、青かった。今年は、開花が、少しだけ遅れているらしい。四年前のあの春、わたくしの婚約発表の夜会の頃には、もう半分ほど、咲いていたはずだった。
応接間に紅茶が用意される。本日も、ダージリンだった。マリーが選んだのではないと思った。母が、選ばれたのだろう、と思った。
カップの縁に、湯気が薄く立ち上る。わたくしは、応接間の窓際に立って、庭の方を見ていた。馬車寄せの方から、車輪の音が、近づいてきた。時計を確認する。約束の時刻より、十分ほど早かった。先日と、同じだった。
レオン殿下は、二日続けて、わたくしの屋敷に、約束より早く到着なさった。
母は、本日、応接間には入らない、と仰っていた。「先日は、わたくしも、申し上げるべきことが、ございました。本日は、あなたが、お一人で、お決めになる日です」――そう仰って、母は、朝食の後、ご自分の部屋へお戻りになった。
応接間の扉が開いて、執事が、レオン殿下のお越しを告げる。
「お通しいたしますか」
「ええ、お願いします」
執事の所作は、いつも通りだった。ただ、扉を閉める時の一拍が、いつもより、ほんの僅か、長かった。執事も、四年間、見てきた人だった。
レオン殿下が、入ってこられた。
先日の謁見の時の藍色の正装ではなく、いつもの王太子候補の上着、でもなかった。今朝の殿下は、灰色の、簡素な上着をお召しになっていた。帯剣もなさっていなかった。王太子の身分のお印になる、襟元の徽章も、お外しになっていた。
「ジゼル」
殿下は、ソファの正面に立たれた。先日とは違って、申し訳なさそうな笑みは、つくられなかった。代わりに、わたくしの目を、見て、それから、目を伏せられた。
「殿下、まずは、お座りくださいませ」
「ああ。失礼する」
殿下は、向かいのソファに腰を下ろされた。腰を下ろす動作が、先日よりも、半呼吸、遅かった。殿下は、紅茶のカップに手を伸ばさなかった。代わりに、両手を膝の上で組まれた。しばらく、何も仰らなかった。応接間の柱時計が、ひとつ、刻みを進めた。その音だけが、間に落ちた。
「ジゼル、僕は」
殿下のお声は、思っていたよりも、低かった。
「君に、謝りたい」
殿下は、目を伏せたまま、お続けになった。
「先日、母上に言われて、初めて気づいた。君が、四年間、僕とノエルのために、何をしてくれていたか。何も、見ていなかった。四年間、毎月、君が、王宮事務局に提出していた、あの分厚い綴りを――僕は、表紙の革の擦れ具合さえ、覚えていなかった」
殿下は、ご自分の組んだ両手を、もう一度、軽く組み直された。
「先日、母上が、あれをお開きになるまで、僕は、あの綴りを、ちゃんと見たことが、なかった。署名の文字も、追記の墨の色も、欄外のメモも――全部、君が、四年間、毎月、書き続けてきたものだ。なのに、僕は、あれを、母上が事務局に書かせている、と、思い込んでいた」
殿下のお声が、震えた。
「君なら分かってくれる、と、思っていた。四年間、ずっと、そう思っていた。けれど――それは、君が、毎月、僕の見えないところで、整え続けてくれていたから、回っていたのだ」
殿下は、そこで、一度、長く息を吐かれた。
「だから、何も、見ていなかった僕に、もう一度、最初からやり直させてほしい、とは、言えない。ただ、せめて、謝らせてほしい」
殿下は、ようやく、目を上げて、わたくしの方を見た。
「四年間、すまなかった」
殿下の頭が、下げられた。王太子候補のお辞儀の角度ではなかった。二十四歳の、ただの青年のお辞儀の角度だった。
応接間の柱時計が、もうひとつ、刻みを進めた。
わたくしは、紅茶のカップを、左手の指先で、軽く支えた。口元には、運ばなかった。殿下のお言葉が、半分ほど、わたくしの中の四年前の春に、届いていく。残りの半分は、届かなかった。届ききらなかった、というのが、正しいかもしれなかった。
四年間、わたくしが、毎月、提出してきたあの綴りの、革表紙の角の擦れ具合を、殿下は覚えておられなかった。それは、もう、変わらない。本日、覚えていらした、ということにも、ならない。ただ、本日、殿下は、ご自分が、それを覚えていなかったことを、わたくしの前で、お認めになった。それだけは、四年前の春と、違うことだった。
「殿下」
声が、自分でも驚くほど、穏やかだった。
「お引き取りくださいませ、もう一度だけ」
殿下は、頭を上げて、わたくしの方を見られた。何かを、仰ろうとして、口を半分開きかけられた。
わたくしは、続けた。
「殿下が、本日、お気づきになったことは、四年前から、わたくしも、王妃陛下も、筆頭侍女マルグリットも、社交界の貴婦人方も、隣国の王弟殿下も、皆さま気づいておられました。気づいておられなかったのは、殿下、お一人でございます」
殿下のお顔が、ほんの少し、強張った。
「それは、殿下が悪人だったからではございません。殿下は、ご自分が、大切にしたいと思われた方を、本当に、大切にしようと、なさいました。ただ、優先順位を、間違え続けただけです。そして、わたくしが、『分かってくれる』と思い続けたから、殿下は、間違いに気づく機会を、失われたのです」
「それは、わたくしの罪でもございます」
わたくしは、紅茶のカップを置いた。
「四年間、わたくしの方が、もっと早く、線を引いていれば、殿下も、ノエル様も、こんなに大きく崩れる前に、立ち止まれたかもしれません。けれど、今のわたくしは、過去を、悔やむより、自分の未来を、選びたいのです」
「謝罪は、お受けいたします。けれど、過去には、戻りません」
殿下は、長く、黙っておられた。紅茶の湯気が、殿下のカップの上で、もう、ほとんど立っていなかった。殿下は、立ち上がられた。立ち上がる動作が、先日、謁見の間で、ご自分の席に座られた時と、ほぼ、同じ動作だった。
「ジゼル」
「はい、殿下」
「君を、ありがとう、と、言ったことが、四年間で、何度あっただろうか」
殿下のお声は、半分、独り言だった。
「数えても、片手に、足りないかもしれない。これから、半年、僕は、父上に言われた通り、自分自身が、何を見て、何を見ていなかったかを、再考する。半年後の再審査の結果がどうあろうと、僕はもう、君の整えた席に座る資格を、二度と取り戻せない。それだけは、先日の謁見の間で、はっきりと、分かった」
殿下は、応接間の扉の方を、振り返らずに、お続けになった。
「君の四年間の、あの綴りを、母上から、お借りしてある。半年間、毎月、一冊ずつ、僕は、それを読むよ」
殿下は、ようやく、わたくしの方を、お振り返りになった。
「君の、未来を、邪魔しないことを、約束する。お元気で」
殿下は、もう一度、頭を下げた。その一礼は、王太子候補のお辞儀ではなかった。ただの二十四歳の青年のお辞儀でもなかった。四年間、わたくしのことを、毎月の綴りの差配者として、見ようとしてこなかった人が、本日、初めて、一冊の綴りを読む人として、わたくしに、頭を下げていた、お辞儀だった。
殿下は、応接間を出ていかれた。執事が、扉を閉めた。馬車寄せから、車輪の音が遠ざかっていく。
わたくしは、紅茶のカップを、もう一度、引き寄せた。殿下のお手元のカップは、結局、本日も、一口も、お口に運ばれなかった。冷めた紅茶を、一口、飲んだ。四年前と、今と、味の違いを、確かめるために、飲んだ。確かに、違った。何が、どう違うのかは、まだ、上手く、説明ができなかった。
その日の夕刻。
母が、わたくしの部屋を訪ねてこられた。
「ジゼル、王宮から、お遣いの方が、いらしておりますよ」
「お遣い、ですか」
「ええ。アルベリク殿下からの、お申し出だそうです。今夜、王宮の中庭で、お話しさせていただきたい、と」
母は、わたくしの方を、ご覧になった。
「お受けになりますか」
「……はい、お母さま」
「では、お支度を」
母はそれだけ仰って、扉を閉めになった。扉を閉める前に、ほんの一瞬、わたくしの方を振り返りになった。何か仰りたそうな目だった。結局、何も仰らなかった。母は、本日も、わたくしに、ご自分でお決めなさい、と仰っているのだろう、と思った。
王宮の中庭は、四月の終わりの夕方の光で、半分、藍色だった。中庭の薔薇の蕾は、屋敷の庭よりも、少しだけ、開いていた。王宮の庭園師は、毎年、薔薇の開花を、夜会の予定に合わせるために、温度を調整する、と、四年前にマルグリットから聞いたことがあった。今年は、誰のために、開花を、合わせていらっしゃるのか。それは、もう、わたくしの関わるところでは、なかった。
中庭の白い長椅子の前に、アルベリク殿下が、お立ちになっていた。外交特使の正式徽章は、お外しになっていた。ヴァロワール王国王弟としての、お紋章だけが、上着の襟元にお付けになっていた。
「ジゼル嬢、お越しくださり、ありがとう存じます」
殿下は、深く一礼をなさった。
「殿下、本日も、お時間を頂戴いたしまして、誠にありがとう存じます」
「お座りください」
殿下は、白い長椅子の片側を、お示しになった。殿下は、わたくしが腰を下ろしてから、ご自分も、もう片側の端にお座りになった。二人の間に、長椅子の端から端、二人分ほどの距離があった。殿下が、ご自分で、その距離を選ばれたのだ、と分かった。
「ジゼル嬢」
殿下のお声は、いつもより、低かった。
「本日、わたくしの兄王、ヴァロワール国王陛下から、正式な承認を、得ました」
殿下は、ご自分の右手を、軽く、膝の上に置かれた。
「兄王には、過去二年間で、合計で、十一度、わたくしから、お話を、申し上げております。最初の数度は、お聞き流しになりました。後半の数度は、お叱りも、頂戴いたしました」
殿下のお声に、ほんのわずか、苦笑のような色が混じった。
「本日、ようやく、お許しが、出ました」
殿下は、わたくしの方を、ご覧になった。
「ジゼル・オルランド侯爵令嬢、わたくしは、あなたに、隣国ヴァロワール王国の王弟妃として、お迎えしたい、と、申し入れさせていただきとう存じます。役割としてではなく、わたくしの隣に、立ちたいと願う、人間として、お受けいただきたい」
殿下の声は、低く、けれど、震えてはいなかった。
中庭の薔薇の蕾が、夕方の風で、一度、揺れた。
わたくしは、しばらく、何も言えなかった。返事が、出なかった。返事を、用意していなかった、わけでは、なかった。頭の中では、いくつかの返事の選択肢が、並んでいた。ただ、その選択肢のどれもが、本日のわたくしの輪郭よりも、ほんの少しずれて、いるような気がした。
「殿下」
声が、少し、震えた。
「少し、お時間を、いただいてもよろしいでしょうか」
殿下は、軽く頷かれた。
「もちろんで、ございます」
「わたくし、本日、レオン殿下に、『お引き取りくださいませ、もう一度だけ』と、申し上げました。けれど、それは、過去のことを、決着させるための、お言葉でございました。殿下のお申し出への、お返事は、過去のことの延長線では、お返しできないことに、気がついたのです」
わたくしは、長椅子の端で、ご自分の両手を、膝の上で組んだ。
「わたくしは、四年間、誰かの『分かってくれる』ために、整えてまいりました。整えていない、わたくしが、どんな人間なのかを、わたくし自身が、まだ、よく、知りません。殿下が、先日、別室で、『私個人として』と仰ってくださいました。そのお言葉を、頭の中で、何度も、繰り返してまいりました」
ここで、わたくしは少し言葉に詰まった。
「……上手く、申し上げられないのですが」
殿下は、何も、お遮りにならなかった。
「殿下が、お選びくださっている『あなた自身』が、わたくしの中の、どこに、いるのか――わたくし自身が、まだ、見えていないのです」
中庭の薔薇の蕾が、もう一度、夕方の風で、揺れた。
「殿下、少しだけ、お時間を、くださいませ。一晩だけ。ですけれど、お返事は、明日の朝、必ず、差し上げます。中庭で、お待ちくださいませ」
殿下は、長く、お黙りになった。それから、軽く、頷かれた。
「では、明日の朝、再び、この中庭で。お待ち申し上げます」
殿下のお声は、いつもより、柔らかかった。
「ジゼル嬢、そのお言葉……、伺えたこと、それだけで、本日はもう」
殿下は、最後まで、言い切られなかった。代わりに、もう一度、頭を下げて、それで終わりになさった。
「明日の朝、もう半分のお返事を、お聞かせくださいませ」
殿下は、立ち上がって、礼を取られた。それから、中庭の小径の方へ、お進みになった。足音は、最後まで、控えめだった。
殿下のお姿が、薔薇の生垣の角を、曲がる前に、もう一度、わたくしの方を、お振り返りになった。何か、仰ろうとして、結局、仰らなかった。代わりに、頭を下げて、生垣の角を、曲がっていかれた。
殿下のお姿が、見えなくなってから、わたくしは、長椅子の上に、長く、座っていた。中庭の薔薇の蕾が、夕方の風で、何度か、揺れた。四月の終わりの、藍色の光が、ゆっくりと、中庭から、引いていった。
その夜、屋敷に戻って、自室の机の前に座った。
机の上に、本日、王宮事務局から届いた一枚の書類が置かれていた。王太子候補殿下のご資質審査、ならびに、第七条発動事案について、本日付で、正式に審査結果を、両王家の公式記録に、記載した旨の、業務通達だった。
その下に、もう一枚。王妃陛下から、私用紋の、お便りだった。
ジゼルへ。王宮宝飾庫より、十二点の伝来品、本日付で、無事、回収を完了しました。ジゼルが、四年前から、宝飾庫事務局と粘り強く交渉してくれていた、あの「貸与」の書類の文言が、本日、王家を、救いました。ありがとう。クロディーヌ。
便箋の縁を、指で、軽く整えた。王妃陛下が、わたくしに、二度目の「ありがとう」を、お書きになっていた。
紅茶のカップを、引き寄せる。今夜は、淹れたての、温い紅茶だった。机の上には、もう一つ、机の隅に、新しい便箋と、ペンが、用意されていた。
明日の朝までに、お返事を、まとめておく。書いた言葉を、口に出してみる。口に出した言葉が、わたくしの輪郭と、合うかどうかを、確かめる。合わなかったら、書き直す。合っても、もう一度、書き直す。そんな夜だった。
四年間、誰かのために整えてきたわたくしが、初めて、ご自分の言葉を、ご自分のために、整える夜だった。
紅茶を、一口、飲んだ。冷める前に、飲んだ。窓の外で、夜の風が、薔薇の蕾を、もう一度、揺らしていた。




