第4話:借りものの名前
次に会ったとき。
その人は、やっぱり言った。
「はじめまして」
でも、もういい。
そこは問題じゃない。
「ねえ」
ぼくは、すぐに言う。
「名前って、つければいいの?」
その人は少し驚いた顔をした。
「……名前?」
「うん」
間を置かない。
考える時間を与えたら、きっと流される。
「ぼくにも、つけて」
はっきり言った。
風が止まる。
花が揺れる音だけがする。
その人は、ぼくを見る。
いつもより、長く。
「……どうしたんだ、急に」
「いいから」
少しだけ強く言う。
「名前がないと、消えるんでしょ」
その言葉に。
その人の表情が、わずかに固まった。
「……誰に聞いた」
「あなた」
少しの沈黙。
その人は、ゆっくりと息を吐いた。
「……そうか」
それ以上は、何も聞かなかった。
「名前、か」
ぼくを見ながら、呟く。
視線が、いつもと違う。
ちゃんと、焦点が合っている気がした。
期待が、少しだけ膨らむ。
「なんでもいい」
ぼくは言う。
「覚えてくれるなら」
その人は、少しだけ困った顔をした。
「名前ってのは、そんな軽いもんじゃない」
「でも」
「……」
言葉が詰まる。
ぼくは、逃げ道を塞ぐように言った。
「消えたくない」
その一言で。
その人は、目を伏せた。
長い沈黙。
風が吹く。
リアが揺れる。
「……わかった」
その人は、静かに言った。
「ただし」
「?」
「これは“借りもの”だ」
意味が、少しだけわからなかった。
「本当の名前じゃない」
その人は続ける。
「お前自身の名前じゃない」
「それでもいい」
即答した。
少しの迷いもなかった。
その人は、ほんの少しだけ目を細める。
「……じゃあ」
考える。
ほんの数秒。
それから。
「レイ」
その音が、落ちた。
「光の、レイだ」
ぼくの中に、その言葉が入ってくる。
「……レイ」
口に出してみる。
不思議な感じがした。
でも。
その瞬間。
何かが、変わった。
世界の輪郭が、少しだけはっきりした気がした。
風の音。
花の揺れ。
空の色。
全部が、ほんの少しだけ濃くなる。
「どうだ」
その人が聞く。
「……わかる」
うまく言えない。
でも、確かに。
「ここにいる感じがする」
その人は、少しだけ息を吐いた。
「そうか」
それから。
ゆっくりと。
「レイ」
名前を呼ぶ。
その一言だけで。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
痛いのに。
少しだけ、うれしい。
「うん」
初めて、ちゃんと返事ができた気がした。
その人は、ぼくを見る。
今までと違う。
ちゃんと、そこに“いる”ものとして。
「じゃあ、レイ」
その呼び方が、当たり前みたいに続く。
「少し、歩くか」
「うん」
並んで歩く。
同じ方向に。
その距離が、少しだけ近い。
それだけで。
全部が変わった気がした。
名前があれば。
覚えてもらえる。
一緒にいられる。
消えないで済む。
そんな、当たり前のことが。
やっと手に入った気がした。
だから。
気づかなかった。
その人が、ぼくの名前を呼ぶたびに。
ほんの少しだけ。
その声に、迷いが混じっていることに。
そして。
ぼくが自分の名前を繰り返すたびに。
どこかで。
“元からあった何か”が、静かに削れていることに。
「レイ」
呼ばれる。
「うん」
答える。
そのやり取りは、確かにあった。
確かに、ここにあるはずだった。
なのに。
なぜか。
少しだけ。
怖かった。




