第5話:呼ばれるたびに
「レイ」
呼ばれる。
「うん」
答える。
それだけのことが、こんなにも嬉しいなんて知らなかった。
並んで歩く。
同じ景色を見る。
同じ風を感じる。
それだけで、ちゃんと“ここにいる”と思えた。
名前があるだけで。
世界は、こんなにも優しくなる。
「この辺りは、あまり人が来ないな」
その人が言う。
「静かでいい」
「うん」
返事をする。
ちゃんと、会話になっている。
それが嬉しくて、少しだけ笑った。
でも。
その瞬間。
「……ん?」
その人が、ふと立ち止まった。
「どうしたの?」
「いや……」
ぼくを見る。
視線が、少しだけ揺れている。
「今、なんて言った?」
胸の奥が、ひやりとする。
「……うん、って」
「そうか」
納得したように頷く。
でも。
どこか、引っかかっている顔だった。
その違和感は、すぐに消えた。
「行こう、レイ」
「うん」
また歩き出す。
さっきのことは、なかったみたいに。
でも。
ぼくの中には、残った。
小さな、ひびみたいな違和感。
しばらくして。
「レイ」
また呼ばれる。
「うん」
答える。
そのとき。
ふと気づいた。
自分の声が、少しだけ遠い。
耳に届くまで、わずかに遅れているような。
そんな、変な感覚。
「……レイ?」
その人が、もう一度呼ぶ。
「聞こえてるよ」
慌てて答える。
ちゃんと、届いている。
ちゃんと、そこにいる。
そう言い聞かせるみたいに。
「……そうか」
でも、その人は少しだけ首をかしげた。
「なんか、さっきより……」
言いかけて、やめる。
「いや、気のせいだな」
その一言で、終わる。
終わってしまう。
それが、少しだけ怖かった。
さらに歩く。
時間が過ぎる。
その間にも、何度も名前を呼ばれる。
「レイ」
「レイ」
「レイ」
そのたびに、返事をする。
でも。
回数が増えるほど。
何かが、おかしくなる。
声が、薄くなる。
体が、軽くなる。
景色が、遠くなる。
そして。
「レイ」
呼ばれたとき。
一瞬だけ。
自分の名前が、わからなくなった。
「……」
口が、止まる。
何を返せばいいのか、わからない。
「……レイ?」
その人の声が、少しだけ強くなる。
その音で。
思い出す。
「あ……うん」
遅れて、答える。
でも、その瞬間。
確信してしまった。
これは、助かってない。
名前をもらったのに。
ちゃんと呼ばれているのに。
それでも。
ぼくは、少しずつ――
削れている。
「大丈夫か?」
その人が聞く。
「うん」
反射で答える。
本当は、よくわからない。
「少し休むか」
「……平気」
強がる。
ここで止まったら、何かが終わる気がした。
だから、歩き続ける。
その人の隣に、いられるうちは。
でも。
その人は、ふと立ち止まった。
「……なあ」
「?」
「さっきから、名前を呼んでるのに」
少しだけ、困った顔をする。
「ちゃんと届いてるか?」
胸が、強く締まる。
「届いてるよ」
すぐに言う。
でも。
その声は。
さっきより、少しだけ――
薄かった。
その人は、ぼくを見る。
じっと。
まっすぐに。
でも。
ほんの一瞬だけ。
焦点が、揺れた。
それは、前にも見た。
名前がなかった頃の、あの目。
それと、同じ。
「……レイ」
もう一度、呼ぶ。
確かめるみたいに。
「うん」
答える。
でも。
そのやり取りの間に。
小さな“空白”があった。
確実に。
少しずつ。
確実に。
ぼくは。
間に合っていない。




