第3話:名前をつける人
その人は、また来た。
やっぱり同じ場所。
やっぱり同じ時間みたいな顔で。
「はじめまして」
もう、驚かなかった。
ただ、胸の奥が少しだけ冷える。
慣れてきている自分が、少しだけ怖い。
「……うん」
うなずく。
それ以上は何も言わない。
「ここで何してるんだ?」
「花、見てる」
同じやり取り。
同じ流れ。
でも今日は、少しだけ違う。
ぼくは、あらかじめ用意していた。
石を一つ。
白い花――リアのすぐ横に置いておいた。
昨日、置いたもの。
そのままの位置にある。
その人はしゃがみこんで、花を見る。
「強いな」
そして、石には――
目も向けなかった。
「……それ、昨日もあったよ」
言ってみる。
指を差す。
「ん?」
その人は、初めて石を見るみたいに首をかしげた。
「そうか?」
手に取る。
少しだけ眺める。
でも――
「ただの石だな」
興味を失ったみたいに、元の場所に戻す。
その瞬間。
何かが、はっきりした。
覚えていないんじゃない。
認識されていない。
でも。
「リアは覚えてる」
ぼくは言う。
「リア?」
その人は、すぐに花を見る。
そして。
ほんの一瞬だけ、目が変わった。
「ああ」
ゆっくり、うなずく。
「リアか」
その名前を口にしたときだけ。
その人の中で、何かが“定まる”のがわかった。
視線が、ぶれない。
声が、揺れない。
そこに“ある”ものとして、ちゃんと見ている。
石を見るときとは、まるで違う。
「いい名前だな」
ぽつりと言う。
「……覚えてるの?」
聞いてみる。
「ん?」
「その名前」
その人は少しだけ考える。
遠くを見るみたいに、目を細める。
「……いや」
首を振る。
「今、聞いた」
胸の奥が、静かに沈む。
でも、続きがあった。
「でも」
その人は、もう一度花を見る。
「違和感がないな」
ぼくは息を止める。
「最初から、そう呼んでた気がする」
風が吹く。
花が揺れる。
その言葉は、どこか曖昧なのに。
なのに――
確かに、何かを掴んでいる感じがした。
「ねえ」
ぼくは、少しだけ前に出る。
「どうして、名前つけるの?」
その人は、一瞬だけ黙った。
いつもより、少し長く。
「……覚えておくためだ」
静かな声だった。
「覚えておかないと、消えるから」
その言葉に、体の奥がひやりとする。
「消える?」
「記憶から」
あっさりとした口調。
重さを感じさせないのに。
言っていることは、やけに重い。
「名前がないと」
その人は続ける。
「輪郭が曖昧になる」
石を指差す。
「こういうのと同じだ」
ぼくは石を見る。
さっきまで、そこにあったはずなのに。
ほんの少しだけ。
“見えにくくなっている”気がした。
「意識しないと、そこにあるかどうかもわからなくなる」
その人は言う。
「だから、名前をつける」
花を見る。
「そうすれば、そこにあるって、ちゃんとわかる」
その理屈は、どこか納得できた。
でも。
ひとつだけ、引っかかる。
「じゃあ」
喉が、少しだけ乾く。
「ぼくは?」
その言葉を出した瞬間。
空気が、わずかに止まった気がした。
その人は、ぼくを見る。
まっすぐに。
でも。
どこか、焦点が合っていない。
「……お前は」
言いかけて、止まる。
言葉を探しているみたいに。
でも――
「……わからないな」
そう言って、少しだけ困ったように笑う。
「なんでだろうな」
軽く言う。
いつもの調子で。
でも、その一言で。
全部が、繋がった気がした。
名前がないと、消える。
記憶から。
認識から。
だから、この人は――
ぼくのことを、覚えない。
最初から。
最初から、ずっと。
「……そっか」
声が、少しだけかすれた。
でも、その人は気づかない。
リアを見るときと違って。
ぼくを見る目は、少しだけぼやけている。
そこに“いる”はずなのに。
はっきりしない。
まるで――
名前のないものみたいに。
「じゃあ、俺は行く」
その人が立ち上がる。
「また来るよ」
同じ言葉。
ぼくは、今度はすぐにうなずいた。
「うん」
止めなかった。
どうせ、止めても。
次に来たときには、全部“はじめまして”になる。
その人は歩いていく。
背中が、遠ざかる。
ぼくは、その場に残る。
風が吹く。
白い花が揺れる。
「……リア」
名前を呼ぶ。
ちゃんと、そこにある。
それだけは、確かだった。
だから、思う。
もし。
もし、ぼくにも名前があったら。
この人は、ぼくを――
覚えてくれるんだろうか。




