第176話「三つ目で声が混ざる」
二つまで持てたから、三つ目も同じように持てるとは限りません。
増えた一件には、増えた分だけ名前と置き場所が必要になります。
学院を出て最初の宿営地は、旧街道から少し外れた石積みの避難野営地だった。
腰ほどの石壁が風を遮り、中央には雨水を流す浅い溝が掘られている。夜のうちに降った雨は上がり、東の雲間から差し込む朝日が濡れた草を白く光らせていた。
レイルが目を覚ました時、焚き火の灰はまだ温かかった。
外套を畳み、寝台布を巻き、靴の紐を締め直す。見張りから戻ったセレネの記録では、周囲に大型魔物の痕跡はない。荷車の車軸にも異常なし。昨夜、ミレアから夜番を外されたため、睡眠は七時間近く取れている。
(条件は悪くない。三件目を試すなら、移動前の今だ)
避難地の外では、すでに木剣が風を切っていた。
リィナは赤栗色の髪を高く結び、薄い訓練着の上へ胸当てだけを付けている。踏み込みのたび、濡れた地面から水滴が跳ねた。剣を振り切らず、腰を返し、次の一歩へつなぐ。学院を卒業しても朝練の時間だけは変わらない。
「起きたなら走るよ!」
「今日は保持訓練を先にしたいんだ」
「走りながらやればよくない?」
「三件目の混線が出た場合、転倒する」
「じゃあ転ばない速さで走ろうよ」
「目的が逆だ。安定した姿勢で保持だけを確認してから――」
「昨日、エルシア先生に何て言われた?」
「固有律の使い方まで師匠へ投げるな」
「その前」
「基礎を怠るな」
「それ」
リィナが木剣を一本投げてよこした。
受け取った瞬間、レイルの掌へ湿った木の重さが乗る。朝練用の剣は何年も使ってきたものより長く、今の身体へ合わせて作り直されていた。
「三件持てても、近づかれて全部落としたら意味ないでしょ。今日は私が近づく。レイルは逃げながら未完を持つ」
「攻撃速度は?」
「最初は遅くするよ」
「最初だけかよ」
「ちゃんと避けたら遅いまま。変なことしたら速くなる」
「基準が主観的すぎる」
「私が相手なんだから、私の主観で決めるし」
それ以上言い返しても変わらない顔だった。
レイルは木剣を右手へ持ち、左掌を開いた。小さな風圧核を形成する。詠唱は口へ出さない。始動、形成、照準、結着までの工程を身体の内側で順に組み、最後の結着だけを【未完】へ預ける。
風は放たれず、掌から消えた。
右目の奥へ、閉じ切らない輪が一つ浮かぶ。
【未完記録・第一番】
次に、右足裏へ二つ目の【微風】を形成した。移動補助へ使う角度を残し、結着直前で止める。
二つ目の輪が、最初の輪と重ならない位置へ収まった。
【未完記録・第二番】
ここまでは安定している。
少女型のニアがレイルの肩上へ投影され、空中に二本の細い環を表示した。
『第一、左手。第二、右足。負荷はいつも通り。顔も今のところ人間っぽい』
「最後は必要か?」
『安心材料』
「ねえ、始めるよ」
リィナが木剣を中段へ置いた。
右足が地面を押す。濡れた草を踏み潰した音がした直後、彼女の剣先がレイルの左肩へ伸びてきた。
レイルは右足を引かず、身体を外側へ開いた。木剣の腹を合わせ、正面から止めずに下へ滑らせる。リィナの剣が腰の横を抜ける間に、保持している右足の微風を使わず、自分の脚だけで二歩離れた。
「一撃目は合格」
「おい、速くしただろ」
「遅くしても受け方を間違える人はいる」
リィナの剣が返る。今度は手首を狙う短い横薙ぎ。レイルは柄を立て、鍔元へ受ける位置をずらした。衝撃が手首から肘へ抜ける。木剣同士が擦れたまま、左掌へ三つ目の風圧核を形成した。
魔力を始動させ、掌の内側で風圧核を形成すると、正面の標的杭へ照準を合わせたまま最後の結着だけを奪う。
三つ目の輪が右目の奥へ入った瞬間、二つの保持記録が同時に震えた。
左手の風圧が、右足の微風の軽さを帯びる。右足へ預けたはずの移動方向が、標的杭への射線へ引かれた。
耳元でニアが何か言った。
同時に、リィナの声も聞こえた。
『第三番、分類が――』
「レイル、目が――」
二つの声が重なり、どちらが先に届いたのか分からなくなる。
(第一番は左手。第二番は右足。第三番も左手。違う、左手は第一と第三で――)
木剣へ入っていた力が抜けた。
リィナの横薙ぎがそのまま押し込み、レイルの剣を外へ弾く。胸当ての中央へ、彼女の柄頭が届いた。
レイルは後ろへ倒れかけ、右足へ預けていた微風を反射的に完成させた。
風が地面を蹴る。
身体は転倒を免れたが、予想より強く後方へ跳び、石壁の手前まで滑った。左掌の二件も同時に揺れ、第一番の風圧が指の間から漏れかける。
「一番だけ返す!」
フィアの声が避難地の内側から飛ぶ。
「第一番の完成条件は標的杭、距離八歩。第二番は既に使用済み。第三番を保持したまま、一番を先に完成してください」
レイルは標的杭へ左手を向けた。
「未完記録、第一番――完成」
圧縮風が杭へ当たって濡れた木肌を鳴らし、三番目の輪だけが掌へ残った。レイルはその震えが止まるまで呼吸を数え、別の二件が混じって戻ってこないことを確かめた。
リィナが木剣を放り出し、駆け寄ってくる。金茶色の目が右目の輪を確かめ、両手でレイルの頬を挟んだ。
「私が何を言ったか分かる?」
「目がどうかした、と」
「その前」
「ニアと重なって聞こえなかった」
「名前を呼んだ」
「……聞き取れなかった」
リィナの指先が少し強くなる。
「三つ目を持った時、右目の輪が三つに増えたんじゃない。輪の中へ別の線が入り込んだ。私を見てたのに、急に誰も見てない目になった」
「意識はあった」
「そういう返事が欲しいんじゃない」
「では、何を――」
「怖かったって言ってるの!」
朝の避難地へ声が響いた。
荷車のそばで装備を整えていた全員が、こちらを見ていた。リィナは気づいても手を離さなかった。
「剣を当てたことじゃない。レイルが私の前にいるのに、どこか別のものを見てた。呼んでも戻らなかった。それが怖かった」
レイルは頬へ触れる手の温度を感じた。
(俺は三件の分類だけを見ていた。リィナの剣も声も、危険条件の外へ押し出していた)
「悪かった。三件目を持った時点で中止するべきだった」
「それも必要。でも、今は次の訓練計画なんて聞いてない」
「……俺も、聞こえなくなった時は怖かったよ」
口へ出すと、胸の奥に残っていた冷たさが形を持った。
「二件までは、どちらも俺が作った魔法だと分かる。三件目が入ると、完成しようとする方向が混ざった。どれかを間違えて返せば、リィナの近くで撃つ可能性があった。動けなかったんじゃない。動いてはいけないと思った」
「だったら最初にそう言って。平気な顔で『意識はあった』だけだと、また一人で処理するつもりに見える」
「平気な顔をしていたか?」
「してた。むしろ普段より無表情」
「自覚はないんだよな俺」
「知ってる。だから言ってる」
リィナはようやく手を離したが、代わりにレイルの外套の襟を握ったまま立たせた。
ミレアが手袋を外しながら近づく。
「座ってください。右目、指先、呼吸を診ます」
「第三番が残っている」
「座ったまま保持できます」
「姿勢を変えると条件が――」
「今の姿勢で続ける条件は、私が認めません」
低い声だった。レイルは石壁へ腰を下ろした。
ミレアが瞳孔、脈、指の震えを確認する。セレネは三つの環を術式板へ書き写し、フィアは発生時刻と完成順を記録していた。ノアはしゃがみ込み、レイルの左掌と右足の魔力残滓を見比べる。
「結論。保持容量だけの問題ではありません」
「何が混ざった?」
「一件目と三件目は同じ左掌から形成しています。二件目は右足。貴方は対象を番号で分けたつもりでも、身体は導出端ごとにまとめています。三件目が入った時、第一番と第三番が同じ出口を取り合いました」
「同じ属性なら干渉が少ないと思った」
「属性が同じでも目的が違います。一番は標的杭へ撃つ攻撃、三番は未指定の予備。完成条件の空欄が、既存の射線へ寄った可能性があります」
セレネが術式板を回した。
「さらに、第二番を回避へ使った際、全体の負荷配列が変わっています。三つを持つだけなら数秒は可能でも、移動や剣戟を加えた瞬間、どの記録が身体のどこへ結びついているか再計算が必要です」
「再計算を毎回意識していたら、戦闘速度へ追いつかない」
「ええ。現在の方法では追いつきません」
セレネの答えは容赦がなかった。
ニアが少女型から猫型へ縮み、レイルの膝へ前脚を置いた。危機時の軽口は消えている。
『第三番ノ負荷、現在ハ安定。中止ヲ推奨シマスにゃ』
「完成させる」
『完成条件ガ未指定デス』
レイルは三番目を形成した時の感覚をたどった。予備として作った風圧。照準は空欄。使い道を後で決めるつもりだった。
(それが一番危ない。完成先を決めず、可能性だけ残した。前世と同じだ)
「上へ逃がす。高度二十歩、風圧を広げて消散させる」
セレネが空を確認し、リィナが周囲の鳥を追う。フィアが新しい完成条件を読み上げた。
「第三番、上空二十歩。広域消散。人、荷車、継路塔への影響なし。完成可能です」
「未完記録、第三番――完成」
左掌から放たれた風が真上へ走り、朝霧を丸く押し広げた。
三つ目の輪が消える。
右目の奥に残っていた痛みが遅れて押し寄せ、レイルは眉間を押さえた。
「今日の訓練は終了です」
ミレアが言う。
「一回しか試していない」
「一回で混線しました」
「原因は分かった」
「身体が回復したわけではありません」
「次は導出端を分けて――」
「レ イ ル」
リィナが呼んだ。
さきほど聞き取れなかった声より低く、近い。
「今日は終わり。続きは全員で考える。今度また私の声が聞こえなくなったら、木剣じゃなくて本気で殴るから!」
「ふわあ。治療中の患者を殴らないでください」
ミレアが止める。
「治った後にする」
「暴力を予約しないでください?」
レイルは反論を飲み込み、石壁へ背を預けた。
三件を持つには、魔力を増やすだけでは足りない。番号、導出端、完成条件、身体の感覚。そのどれか一つを自分だけで抱えれば、また声を失う。
(仮に八発を撃つなら、八件を持つ必要がある。今は三件目で、隣の声さえ聞こえなくなるのに、できるのか――?)
遠い目標が、初めて具体的な距離として見えた。
【今回の登場人物】
・レイル・アルヴァート
三件目の【未完】を抱えながら剣戟を続け、完成条件と導出端の混線でリィナの声を聞き取れなくなった魔導士。
・リィナ・アルセイル
朝練の一撃より、目の前のレイルが誰も見なくなったことへ恐怖し、平気な言葉で隠さず怖かったと伝えた幼なじみ。
・セレネ・グランツ
三件保持へ移動と剣戟が加わるたび負荷配列の再計算が必要だと示し、現方式では実戦へ追いつかないと判定した設計担当。
・ミレア・ノクス
原因が分かったというレイルの理屈を身体の回復と混同せず、初回の混線だけでその日の訓練を終了させた治療師。
・フィア・レコード
混乱中も第一番だけを安全に返す順序を示し、空欄だった第三番へ上空消散の完成条件を記録した目録官。
・ノア・エルグラム
保持番号より身体の導出端が優先して魔法をまとめた可能性を示し、容量以外の問題を初めて切り分けた研究者。
・ニア
通常の軽口を止めて三件目の負荷を照合し、完成条件のない予備魔法へ中止を勧告した案内人格。
【今回の能力・設定メモ】
・三件保持の現状
二件は安定。三件目は静止状態で数秒から十数秒。移動、剣戟、導出端の重複が加わると、完成条件と身体感覚の混線が起きる。
【次回】
ノアは重層無詠唱の設計書へ、最初の一文として「八発撃つなら八件持て」と書き込みます。
三つ目の輪で声が混ざっても、怖かったと伝える言葉までは未完にしませんでした。レビュー、ブックマーク、フォローで、八件へ続く最初の失敗と次の査読を見守っていただければ幸いです。




