第175話「卒業旅行ではありません」
学校を出た翌日から、急に大人になれるわけではありません。
ただ、失敗した時に帰る教室がなくなれば、自分たちで記録を持ち帰る必要があります。
卒業式から七日後の朝、王立結着学院西門前には、旅立ちにしては大きすぎる荷車が三台並んでいた。
先頭車には食料、水、野営具、治療箱。二台目には術式板、記録帳、実験器具、交換用魔石。最後尾には予備の車輪、折り畳み担架、排圧具、予備の予備として用意された空箱まで積まれている。
荷台の脇へ立ったレイル・アルヴァートは、黒灰色の旅外套の留め具を直しながら、手元の一覧へ十七本目の訂正線を引いた。卒業したばかりの十六歳にしては落ち着いた顔立ちになったが、暗い灰褐色の髪は今日も前髪だけ素直に揃わず、青灰色の目は荷物より先に壊れそうな箇所を探している。
(最後尾の左車輪は新品だ。新品は実地で摩耗していない。古い右車輪より信用できるとは限らない)
書き足そうとした筆先を、横から伸びた指が止めた。
「もう!いい加減閉じてよっ」
リィナ・アルセイルがレイルから計画帳を取り上げた。赤栗色の髪を首の後ろで高く結び、学院制服ではなく、濃い赤茶の軽装鎧と丈の短い旅外套をまとっている。剣帯へ下げた愛剣は卒業演武で使ったものと同じだが、鞘の口には新しい擦り傷が増えていた。金茶色の瞳が帳面から荷車へ移る。
「昨日の夜にも閉じさせたよね。なのに今朝、項目が二十三個増えてるのはどうして?」
「夜露で縄が緩む可能性と、街道上で荷車を一台失った場合の再配分を追加した。人数が増えているから、以前の計画をそのまま使う方が危険だ」
「人数が増えた原因の半分は、レイルの予備だよ」
「予備は人数に数えない」
「荷車へ乗って場所を取るなら数えるんだってば!!」
リィナは帳面を胸元へ抱え込み、返す気がないことを態度で示した。成長しても、彼女は腹を立てた時ほど真正面から距離を詰める。学院へ入る前なら見上げていた顔が、今は近すぎて視線の置き場に困る高さにある。
(先週までは制服だった。服が変わっただけで、どうして見慣れないんだろうか......)
「ねえ、何を見てるの?」
「剣帯の位置だ。前より二つ指分高い」
「……本当に?」
「長距離歩行用に変えただろ。腰への負担は減るが、抜剣位置が変わる。朝練で確かめた方がいい」
「そっちかあ」
少しだけ期待したように見えた口元が下がる。レイルは何を外したのか分からないまま、リィナが背を向けるのを見送った。
「で、計画帳は返してくれ」
「だめ。出発してから。今返したら、西門を出る前に第四稿になるでしょ」
「現在が第六稿だ」
「はあ?もっと悪いじゃんか!」
荷車の反対側で、セレネ・グランツが留め縄の張力を測っていた。淡い金髪は旅用に低い位置でまとめられ、細い眼鏡の奥にある青紫色の瞳が測定環と一覧表を往復している。紺青の外套は無駄な飾りを省いているが、襟元と袖口には術式用の銀糸が細く縫い込まれていた。
「リィナ、その帳面は没収したままで構いません。追加案が元の旅程を改善しているとは限りません。昨日の第四稿以降、荷物の総重量だけが百四十七キロ増えています」
「第六稿だ」
「訂正ありがとうございます。悪化の回数が二回増えましたね、レイル」
「セレネまで数え方が敵側だな」
「私は最初から重量側ですが? 荷車は貴方の安心感を運ぶために作られていません」
セレネが測定環を閉じると、三台目の荷台から工具のぶつかる音がした。
「その安心感、右後輪の上へ寄せないで。軸が泣いてるんだけど」
ロッテ・ベルクマンが木箱の隙間から顔を出す。茶褐色の髪は頭の後ろで短くまとめ、額へ上げた作業用ゴーグルには昨夜の煤が残っていた。袖を肘までまくった旅用作業着、腰には大小の工具と交換部品。彼女は空箱を一つ抱え、容赦なく地面へ下ろした。
「これは置いていくよ」
「破損部品の回収箱だ」
「壊れてから現地で作る。空箱を三か月運ぶ方が先に車軸を壊すからね」
「回収時に適切な寸法がなければ――」
「布で包む。縄で縛る。現場には現場のやり方があるの」
「汚染部品なら?」
「封印袋を十二枚積んだら、貴方が二十四枚へ増やしたよね。もう十分」
レイルは反論の前提を並べかけ、荷車の脇に立つミレア・ノクスと目が合った。
銀灰色の長髪を背へ流したミレアは、白を基調とする治療衣の上へ薄灰色の外套を羽織っている。眠そうな紫の目の下には淡い隈が残るものの、卒業前より血色は戻っていた。片手には脈診具、もう片方には出発前診察の名簿がある。
「レイル、荷物へ言い返す前に手を見せてください」
「今日は震えていない」
「私が確認します」
「昨夜は六時間眠った」
「五時間四十七分ですよ」
フィア・レコードが隣から訂正した。短い黒髪は顎の下で揃い、灰色の旅服には記録札を差す細いポケットがいくつも並んでいる。指先には早くも黒いインクが付いていた。
「入眠確認は二十二時十三分、起床は四時です。レイルは寝台へ入った時刻を睡眠へ含めています」
「横になっていたんだが――」
「考え事をしていましたよね。筆記音を三度記録しています」
「暗い部屋でどうして分かった」
「静かだったので」
逃げ道がない。レイルが手を差し出すと、ミレアは爪、手首、肘の内側を順に確かめた。
「脈は少し速いです。出発前の緊張として許容範囲ですが、今夜の見張りからは外れてください」
「初日の道を確認しておきたい」
「道は昼に見てください。夜は眠るものです」
「初めて使う宿営地だ。周辺の――」
「私も起きています」
リィナが戻ってきて、没収した帳面を自分の鞄へ入れた。
「レイルが見たいところは私が見る。セレネも地図を持ってる。ニアもいる。全員を信用できないなら、最初から一人で行けば?」
声音は強かったが、怒鳴ってはいなかった。
レイルは彼女の腰に揺れる計画帳を見てから、視線を上げた。
「信用していないわけじゃない。俺が決めた見落としで誰かが怪我をした時、他の人に見てもらっていたとは言い訳できなくなるんだ」
「言い訳にしなくていいよ。私が見落としたら私も謝る。セレネが計算を外したらセレネも記録する。レイル一人の失敗にまとめないで」
「失敗の責任者は必要だ」
「隊長としては最終責任は必要です。が、全部の担当者になる必要はありません」
セレネが会話へ入る。彼女は縄の測定表をフィアへ渡し、レイルの前まで歩いてきた。
「貴方が全項目を確認すれば、私たちは確認したふりをする補助者になります。私はそれを望んでいません。術式も旅程も、私の名前で引き受けますから」
セレネの声はいつも通り整っていたが、最後の一文だけは数値も期限も伴わなかった。
(卒業の日にも似たことを言われた。食事も旅も、失敗した後の生活も、自分から隣へ来ると)
レイルが答えを探している間に、少女型のニアがオムニアから飛び出した。黒銀色の猫耳と環状の尾を持つ幼い姿が、荷車の天幕へ腰を下ろす。
『はいはーい、出発前から重い空気案件だね。ニアちゃんの診断では、荷物より会話の方が過積載です』
「今、診断項目を増やすなニア」
『でも事実。あと、レイルの予備靴ひも七組は多い。まじ盛れてない』
「切れた時に必要になるんだ」
『七回連続で切れたら、靴じゃなくて歩き方を疑ってくんない?』
荷車の前方で、白銀の胸甲を締めていたアルド・クロイツが振り返った。十六歳ながら一行で最も大柄で、金褐色の髪を短く整え、背には長剣と大盾を負っている。
「もう出発時刻を過ぎた」
「二分だけです」
フィアが記録板を見る。
「訂正。二分十三秒でした」
「なら始めるぞ」
「その前にアルド、馬車の向きが逆です」
ノア・エルグラムが淡い金髪を肩越しに払い、赤縁眼鏡の位置を直した。外見は二十代前半だが、百年以上の研究歴を持つ半吸血種である。豪華な魔導衣は旅用に短く直されても、焦げ跡と補修布がいたるところに残っていた。
「東門へ進む配置になっています。目的地は西ですよ」
「門の名が西門なら、前へ出れば西ではないのか」
「結論。貴方を先頭の道案内から外します」
「護衛の開始位置は先頭だ」
「護衛と案内を同じ仕事にしないでください。貴方は自信を持って逆へ完遂します」
「記録上、三回あります」
フィアが補足すると、アルドは少し考え、馬の頭をセレネへ渡した。
「方向は任せる。道が決まったら俺が前へ出る」
「了解です」
ノアは満足そうに眼鏡を押し上げた。
西門の内側から、杖が石床を打つ音がした。
「まったくアンタらときたら。旅へ出る前から役割分担が崩れてるねえ」
エルシア・ヴァントが歩いてくる。小柄な身体を包む大きな灰紫の外套、銀色へほどける長髪、広いつばの魔女帽。見た目は二十代後半でも、琥珀色の瞳には弟子たちの十年分を見てきた疲れと愉快さが同居していた。
その隣には、白を基調とした監査衣をまとったクラリス・オルビスがいる。淡い銀金の髪を胸元へ垂らし、透き通った青白い目で一行と荷物を静かに見渡していた。
「任務を確認します」
クラリスが封書を開く。
「特殊結着調査隊は、双岸継信網の西方中継点を巡回し、白環旧設備、帰還不能勇者記録、王核大陸側との通信障害を調査します。現地共同体の契約と受諾を優先し、教会、学院、組合のいずれも単独の接収権を持ちません」
「監査役として、クラリスも同行するのか」
「前半区間のみです。私の術式が現地の選択を奪う危険も、同じ記録へ残しておいてください」
彼女は自分の力を疑う言葉を、他人へ言わせず自分で述べた。
エルシアが封書の下端を杖で持ち上げる。
「それと、これは卒業旅行じゃない。任務だよ。――もちろん、観光してもいいし、うまい物も食べな。恋愛の答えを出せないまま遠くへ逃げても構わないぞ」
「最後は任務と関係がないだろ?」
「関係あるよ。旅先で気まずくなって隊列を崩されたら、誰が報告書を書くと思ってるんだい」
「私が書きます」
フィアが答えた。
「まったく。そういう意味じゃない」
リィナとセレネが同時にレイルを見る。二人の視線を受けて、レイルは咳払いした。
「任務中に私情で隊列は崩さない」
「任務外なら?」
リィナが間を置かず聞いた。
「宿営後の行動規則を――」
「規則の話に逃げないで」
「逃げてはいない。まだ答えを整理できていないだけだ」
「整理が終わるまで、私は横へいるよ。でも止まって待たない。前にも言ったからね」
「私も研究室へ戻って待つつもりはありません。比較対象が近くにいる方が、貴方の曖昧な返答を見逃さずに済みます」
「比較対象って私?」
「他に誰がいますか」
「それ、喧嘩売ってるの?」
「共同監視です」
リィナの眉が上がり、セレネの眼鏡が朝日を反した。レイルが止める言葉を探しているうちに、エルシアが杖で荷車を叩いた。
「はい、とっとと出発しな。バカ弟子の恋愛会議で日が暮れたら、それこそ卒業旅行だろ」
西門が開く。
学院都市の外へ続く街道には、春の終わりの薄い霧が残っていた。城壁の向こうで、野原と低い丘が朝日を受け、遠くの継路塔が細い光を上げている。
レイルは一度だけ振り返った。
四年間暮らした塔、訓練場、何度も壊しては直した研究棟。門の脇には父バルドと母エナも立っていた。バルドは腕を組んだまま頷き、エナは旅外套の袖を直す仕草を遠くからしてみせる。
(帰還予定日は九十日後。予定どおりでなくても、帰還報告は必ずする)
レイルは門の外へ足を置いた。
右にはリィナ、左にはセレネ。背後では荷車の軸が鳴り、アルドが進路を確認し直し、フィアが出発時刻を記録している。
「特殊結着調査隊、出発します!」
フィアの声と共に、一行は学院を離れた。
【今回の登場人物】
・レイル・アルヴァート
卒業後初任務の予備を増やし続け、仲間に役割を渡すよう叱られながら、帰還予定日のある大陸巡行へ踏み出した調査隊員。
・リィナ・アルセイル
計画帳を没収し、夜の確認も失敗の責任も分けると告げ、返事を待って止まらないままレイルの右隣を選んだ剣豪。
・セレネ・グランツ
荷物の重量とレイルの抱え込みを同時に削り、自分の名前で術式と旅程を引き受けると左隣から伝えた設計術師。
・アルド・クロイツ
出発時刻を守ろうとして逆方向へ馬を向け、案内を仲間へ任せた後で護衛の最前列へ立った騎士。
・フィア・レコード
睡眠時間から出発の遅れまで正確に記録し、全員が門を越えた時刻を調査隊最初の一件として残した目録官。
・ノア・エルグラム
アルドの方向感覚を実証済みの危険要因として却下し、旅先でも理論と査読を手放さない九十九魔導士。
・ミレア・ノクス
出発前からレイルの脈と睡眠を確認し、初日の夜番を本人の希望より身体の要求で外した治療担当。
・ロッテ・ベルクマン
空の回収箱を荷車から下ろし、必要な部品は現地の壊れ方を見て作ると決めた魔導技師。
・ニア
少女型で荷物と会話の過積載を診断し、七組の予備靴ひもより使用者の歩き方を疑った案内人格。
・エルシア・ヴァント/クラリス・オルビス
弟子たちを任務へ送り出した師匠と、救済術式そのものも監査対象へ含めて同行する教会監査役。
【今回の能力・設定メモ】
・【双岸継信網】
人間圏と王核大陸側の旧継路設備、観測塔、期限付き通信契約をつなぐ中継網。現在は白環旧設備の混入による障害が増えている。
【次回】
初日の朝練で、レイルは三件目の【未完】を抱えたままリィナの剣を受けます。
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