第173話「聖女も眠る」
誰かを起こし続ければ、助けているように見える時があります。
その人が眠る権利まで奪ったなら、救済という言葉は空っぽになります。
地下礼拝室へ通じる道は、鉱山会社の図面に存在しなかった。
第三横坑の壁裏へ、教会式の白い石材で細い階段が造られている。坑夫が使う鉄梯子や木組みとは違い、煤も傷もなく、長年誰にも踏まれていないように見えた。
先頭はカイン。
暗褐色の短髪へ粉塵をかぶり、軽鎧の左肩には細針が擦った新しい傷がある。長剣を抜いたまま、石板は胸元へ戻していた。
その後ろをリィナ、アルド、ユノが進む。
フィアは少し離れて記録し、セレネが階段の荷重を監視する。
ミレアは中央にいた。
銀灰色の長髪を低く結び、紫の瞳は一度も欠伸で閉じない。
レイルは地上治療所に残るよう命じられていた。
【生命保全圏】の反動で魔力は三割以下。歩行もまだ不安定だった。本人は反論したが、ミレア、ノア、フィア、リィナ、セレネ、ニアが同じ判断を出し、さすがに押し切れなかった。
代わりに、ニアの遠隔投影と通信札で礼拝室の状況を受け取っている。
『レイル、聞こえてる?』
「聞こえてる。映像は少し遅い」
『今日は画面越しで我慢して。歩いたらリィナが本気で縛るって』
「言ってない」
通信の向こうでリィナが答えた。
「縛る準備はしただけだよ」
「もっと悪いだろそれ」
「そこで寝てて!」
セレネの声も重なる。
「礼拝室の術式解析はこちらから送ります。貴方は白環文法の照合だけをしてください。完成処理へ触れないでください」
「分かってる」
「あなたはそうやって、返事が速い時ほど心配です」
「本当に分かってるって」
ミレアは通信へ口を挟まなかった。
階段の最下部に、白い扉がある。
扉の中央へ成環教会の慈救印。その周囲へ白環文字が七重に刻まれている。教会が白環遺物を隠して使っていた証拠だった。
カインが扉の蝶番と床を見て、石板へ書く。
【開くと起動】
セレネが術式線を追う。
「扉の開閉が常醒装置の出力切替へつながっています。壊せば最大出力になる可能性があります」
「解除できる?」
リィナが尋ねる。
「内側の制御鍵が必要です。外からは三工程までしか触れません」
ミレアが扉へ近づく。
「私の血統鍵です」
「ミレアの?」
「幼い頃、覚醒術の実験へ使われた時に登録されました。あの人は私を鍵として残しています」
声は平らだった。
リィナは何か言おうとし、止めた。
代わりに、扉の前へ半歩出る。
「一人で開けないで。私が隣にいる」
「ありがとうございます」
ミレアが手袋を外し、掌を慈救印へ置く。
扉が音もなく開いた。
地下礼拝室は、祈りの場所には見えなかった。
中央に巨大な白環制御柱。壁際には覚醒魔晶粉の製造槽、採血台、拘束具、幼児用の小さな寝台が並ぶ。天井から吊られた透明管には、都市全域へ伸びる魔力脈が映っていた。
制御柱の前に、ベネディクト・オルドレイが立っている。
白髪も聖衣も乱れていない。白い手袋へ血も煤も付いていない。
その横では、レムナ・ヴェスパが短弩を構えていた。
「遅かったですね、ミレアよ」
ベネディクトは穏やかに笑う。
「救助を優先したからです」
「昔からそうでした。目の前の一人へ時間を使いすぎる。聖女には広い視野が必要です」
「貴方の言う広い視野は、遠くから人数を数えるだけでした」
レムナが弩弓を向ける。カインが長剣を上げた。
ユノの剣へ光が集まりかけるが、セレネが小さく手を上げて止める。
「ここで強い光を使うと、制御柱へ流れます」
「じゃあ、剣だけでやるよ まじダルいけど」
ユノは光を消した。
ベネディクトは満足そうに制御柱へ触れる。
「外では何人助けましたか?」
「現在、救出二百六十一。重篤四十七。死亡確認十二。未確認者が残っています」
フィアが答える。
「正確ですね。死者が十二人。十分な悲劇です。王国中の新聞が書くでしょう。眠らない聖女と、聖級へ到達した未完の魔導士。国王暗殺未遂まで添えれば、教会への寄付は十年分は集まる」
ミレアの指が僅かに曲がった。
「十二人を、寄付の数に使うのですか」
「死者は戻りません。残った価値を使う方が合理的でしょう」
「常醒波を止めてください」
「止めれば、地下の仮固定が崩れます。患者が死ぬかもしれない」
「だから、段階停止を行います。ロッテとセレネが手順を作っています」
「あなたが制御柱へ残れば、もっと安全に止められます。以前のように七十二時間、眠らず維持してください」
レイルの通信越しでも、室内の空気が冷えたのが分かった。
ミレアは幼い頃、ここで眠らせてもらえなかった。
意識が落ちるたび【覚醒固定】を重ねられ、何日目まで治療を続けられるかを測られた。その結果だけが「奇跡」として教会へ報告された。
「私が起きていれば、患者を救えると教えましたね」
「事実です」
「倒れた後は?」
「次の聖女候補を育てます」
ベネディクトは迷わず答えた。
悲しみも、歪んだ愛情もない。
便利な器具を交換する話と同じ声だった。
「レイル君も同じです。彼が壊れれば、その記録から次の術師を作ればよい。大陸記が十万部も売れたのです。模倣者はいくらでも生まれる」
通信札の前で、エリオが息を呑んだ。
地上治療所には、レイル、ノア、エリオ、リオン、ロッテが集まっている。エリオは大陸記初版を両手で抱えていた。
「師匠は、一人しかいないッス」
ベネディクトには聞こえない。
それでも、エリオは画面へ向かって言った。
「真似したら、師匠の代わりになるわけじゃないッス」
レイルは少年を見た。
「エリオ」
「自分、前は師匠と同じことをすれば近づけると思ってたッス。でも、眠らず記録しても、危ない場所へついていっても、自分が師匠になるわけじゃない。自分の名前で書くッス」
リオンが隣で頷く。
「その発言は記録しておきます。弟子順位とは関係ありませんが、よい判断です」
「今それ言うッスか、リオン先輩!」
礼拝室で、ミレアが制御柱を見上げる。
「ふわぁぁ……眠いです」
この場に似合わないほど、柔らかな欠伸だった。
ベネディクトの笑みが深くなる。
「常醒波の中で眠いはずがありません」
「身体が覚えています。貴方の前に立つと、昔の睡眠不足まで戻ってくるので」
「なら、起こして差し上げましょう」
「要りません」
欠伸が消えた。
「私は、貴方の役に立つためには起きません。患者へ必要な時間だけ起きます。終わったら眠ります。私が眠っている間は、仲間が続きをします」
「仲間は失敗しますよ」
「私も失敗します」
「聖女がそれを認めるのですか」
「治療師なので認めます。隠した失敗は、次の患者へ移ります」
エルシアからレイルへ教えられた言葉が、ミレア自身の形で出た。
ベネディクトの表情から、初めて笑みが薄れた。
「あなたは商品として価値を失いました」
「それはとても、よかったです」
言い終わるか否か――
暗殺者レムナが引き金を引いた。
矢先はミレアを外れ、制御柱の基部へ向いた。
毒矢が刺されば、証拠槽が焼け、常醒波が最大出力へ跳ね上がる。
リィナは肩の動きを見た。
カインは弦の音より先に踏み込んだ。
二人の剣が同時に走る。
リィナの長剣が矢を弾き、カインの鞘がレムナの手首を打つ。短弩が落ちる。
レムナは袖から細針を出す。
アルドが白銀鎧の腕を間へ入れた。針が装甲へ刺さる。
「逃走路は塞いだよっ」
ユノは礼拝室の出口へ立ち、光を使わず剣を構える。
「もう観客の中へは戻れないよ」
レムナは四方を見た。
カインが石板へ一語だけ書く。
【降伏?】
「あれが――すると思う?」
カインは石板を腰へ戻し、剣を下げない。
レムナがアルドの足元へ煙玉を投げる。
セレネが形成済みの風術式で煙を天井へ吸い上げた。
フィアが出口、弩、毒針、煙玉へ番号を振る。
「逃走手段、残り一件。右靴の踵です」
アルドがレムナの右足を踏み、踵から出かけた細刃を止めた。
「終わりだ」
レムナは歯を食いしばり、両手を上げる。
カインが拘束具を付ける。捕縛完了。
ベネディクトは一度も彼女を見なかった。
「まったく、役に立たない暗殺者ですね」
レムナの顔から血の気が引いた。
見捨てられた瞬間の驚きはなかった。最初から、自分が使い捨てだと知っていた顔だった。
「フィア、今の発言も記録してください」
ミレアが言う。
「記録済みです」
地上では、エリオの【紙紋照合】とリオンの納品帳簿、ノアの毒分析、ロッテの部品記録が一つへつながっていた。
毒入りインクの外箱。
覚醒魔晶粉の包装紙。
制御環を運んだ教会馬車の荷札。
全て同じ下請け工房の紙繊維を使っている。
「証拠経路、完成しました」
リオンが通信へ告げる。
「中央慈救局の予算から、鉱山会社、偽装文具商、覚醒装置へ資金が流れています。帳簿の写しは三箇所へ送りました。ここを焼いても消えません」
ベネディクトは目を閉じた。
「用意がよいな」
「商人は、商品が届くまでの道を記録します。貴方は人の苦痛まで商品にした。なら、その道も残ります」
制御柱へ赤い警告が走る。
ベネディクトが手袋の指を一度曲げた。
警告線は停止環を通らず、自壊命令へ直結した。
同時に、自分の奥歯へ仕込んだ毒を噛んだ。
ベネディクトの口元から血が流れる。
「ふふ......証言者が死ねば、裁判は長引くでしょう」
膝が崩れる。
ミレアが受け止めた。
憎んでいる相手の脈へ、迷わず指を当てる。
「毒、即効性。呼吸低下。心拍不整」
通信越しのレイルが【生命診断】を起動する。
遠隔では完全に読めない。ニアが礼拝室側の媒体から脈と魔力反応を送り、ノアが毒の経路を照合する。
「舌下から血流へ入ってる。胃へは少ない。首の左右を圧迫して速度を落とせ」
ミレアが位置を変える。
「覚醒固定を使います。裁判へ送るために、今は意識を維持します」
ベネディクトの瞼が開いた。
「死なせないことを、救済と呼ぶのですか」
レイルは通信札へ顔を近づけた。
「救済かどうかは決めない。生きて、話して、裁かれる時間まで残す」
「あなたは私を許さない」
「許す話をしてない」
ノアが解毒術式を送る。
セレネが礼拝室の媒体へ接続し、ミレアが毒の流れだけを弱める。ベネディクトは死ねなかった。
制御柱の自壊命令は、ロッテの【安全破断式】で証拠槽と出力槽を分離する。ユノが外周の常醒流を三方向へ逃がし、カインとアルドが物理支柱を固定した。
フィアが段階停止を数える。
「第一出力、七割へ。患者反応、維持」
「第二、五割」
「第三、三割。地上治療所、鎮静開始」
ミレアが最後の制御鍵へ手を置く。
「停止します」
白い光が消えていく。
都市全体で、何百人もの瞼がようやく重くなった。
泣きながら眠る者、治療の途中で意識を手放す者、眠るのが怖くて誰かの手を握る者。
常醒波がゼロへ落ちた時、ミレア自身の身体も大きく揺れた。
「ミレア!」
リィナが支える。
「大丈夫です。……いえ、今の言葉はやめます」
ミレアは自分で言い直した。
「もう立てません。眠ります」
「地上まで運ぶ」
「患者は?」
「ノアと学院治療師が引き継いだ。フィアが記録してる。私たちもいる」
ミレアは紫の瞳を閉じる。
今度は閉じられた。
「では、お願いします」
アルドがベネディクトを担ぎ、カインがレムナを連行する。ユノは制御柱の外周を最後まで確認し、セレネは証拠術式を複写した。
リィナは眠ったミレアを背負う。
軽い。
何日も眠らず働かされていた頃の身体が、この軽さへ残っているように感じた。
坑道を上がる途中、ミレアの呼吸は少しずつ深くなった。
地上治療所へ着いても、彼女は起きなかった。
ノアが患者記録を引き継ぎ、フィアがベッド番号を読み上げ、ニアが脈拍を表示する。
治療は止まらない。
ミレアが目を覚ましたのは、十二時間後だった。
最初に見たのは、空になった治療札と、椅子で眠るレイル、左右からその肩へ寄りかかって眠るリィナとセレネだった。
「……本当に、続いていましたね」
誰も起こさないよう、小さく呟く。
自分が眠っている間も、患者は生きていた。
その事実を確かめ、ミレアはもう一度だけ目を閉じた。
今度は恐れず、自分の意思で。
【今回の登場人物】
・ミレア・ノクス
自分を交換可能な聖女候補として扱うベネディクトを拒み、患者へ必要な時間だけ起き、終わった後は自分から「立てない、眠る」と伝えた治療師。
・ベネディクト・オルドレイ
死者、寄付、聖女、レイルの知名度を同じ利益表へ置き、証拠を消すため自死を図っても生かされた純粋悪の黒幕。
・リィナ・アルセイル
カイン戦で学んだ無言の予備動作からレムナの矢を再び読み、最後には眠ったミレアを地上まで背負った剣士。
・カイン・ヴェルド
レムナへ【降伏?】と選択を示し、拒まれた後は剣と拘束具で逃走手段を一つずつ奪った無言の護衛剣士。
・ユノ・アステル
強い光を制御柱へ与えず、外周の常醒流だけを三方向へ逃がして段階停止を支えた勇者候補。
・アルド・クロイツ
毒針を白銀鎧で受け、レムナの最後の踵刃を踏み止め、捕縛後はベネディクトを地上へ運んだ護衛役。
・フィア
黒幕の発言、逃走手段、停止出力、患者反応を別番号で残し、感情で証拠の順序を崩さなかった記録担当。
・セレネ・グランツ
礼拝室の白環制御へ遠隔解毒術式と安全破断を接続し、常醒波を一度に落とさない停止境界を維持した設計術師。
・レイル・アルヴァート
地上で休息条件を守りながら遠隔【生命診断】へ加わり、ベネディクトを裁判へ送るため毒を消して生存させた学院生。
・リオン・ゴルディス/エリオ・フェーン
教会予算から偽装文具商までの納品経路を帳簿と紙繊維でつなぎ、礼拝室が焼けても消えない証拠を三箇所へ送った二人の弟子志願者。
【今回の能力・設定メモ】
・常醒装置の段階停止
出力を一度に切ると、結晶による仮止血や意識維持が同時に崩れる。患者反応を確かめながら七割、五割、三割、停止へ下げた。
・【安全破断式】
装置が壊れる場所を先に指定し、証拠槽、出力槽、人体側の媒体へ破損を連鎖させないロッテの技術。
【次回】
事故調査、大会結果、卒業認定、冒険者Bランク査定が行われ、眠れなかった一年の終わりに学院門が開きます。
常醒波を七割、五割、三割へ落とし、最後には聖女自身が「眠る」と選びました。レビュー、ブックマーク、フォローで、眠っている間も続いた治療と卒業の日を見届けていただければ幸いです。




