第172話「九十秒の生命保全圏」
九十秒では、崩れた街も失った手も元どおりにはできません。
次の治療へ渡す九十秒なら、何人もの明日を残せます。
第二救助線の崩落は、仮設治療区画の真下で起きた。
地面が一度沈み、次の瞬間、地下から圧縮された常醒波と粉塵が噴き上がる。治療用の圧力膜が三枚同時に割れ、運び込まれた患者たちの皮下結晶が一斉に膨らんだ。
悲鳴が重なる。
痛覚を失っていた者にまで、結晶が血管を押し裂く痛みが戻った。
フィアの目録札が赤く埋まる。
「急変三十二名。重篤十一。治療格子、第二班と第三班が切断。地上搬送路は西側のみ!」
ノアが二つの格子を同時に支えようとする。
魔導衣の袖口から術式線が溢れ、赤縁眼鏡の奥で深紅の瞳が揺れた。
「主環を閉じれば、まだ間に合います!」
「それだと閉じた後、結晶が残るだろ」
レイルは患者の反応を【生命診断】で見た。
血流が落ちる。毒が広がる。出血点が多すぎる。
一人ずつ治療すれば、十一人目へ届く前に最初の患者が死ぬ。
全員を完全治療する魔力も術式もない。
必要なのは治す順番を作る時間だった。
「なら、”悪化だけ止める”」
レイルが言う。
「傷は閉じない。毒も消さない。九十秒、出血と結晶の進行を遅らせる」
ノアが顔を上げる。
「【生命保全圏】ですか。理論講義しか受けていないでしょう」
「術式は読んだ」
「読んだだけで聖級領域を実地形成しないでください!」
「一人ではやらない。ノアが構造、ミレアが身体、フィアが対象、セレネが境界。ニアは残量表示。俺は規則を置く」
セレネはすでに五枚の術式板を広げていた。
「半径八メートルなら三十二名を入り切れません。重篤十一名と格子が切れた七名、合計十八名を中央へ。残りは通常治療班へ分けます」
「移動で悪化するぞ」
「リィナとアルドに運んでもらいます。地面を動かさず、人を動かすしかありません」
リィナは予備の剣を抜く。
崩落材の向こうへ患者が四名いる。通常の斬撃では結晶柱まで揺らし、再崩落を招くと考えたからだ。
セレネが風圧術式を刃へ薄く巻いた。
「刃の外側だけに風路を作ります。岩を斬らず、隙間の粉塵と小片を先へ流してください」
「レイル、魔力を一回だけ貸して」
「量は?」
「初級風圧二発分」
「よし。受け取れ」
レイルの風圧がセレネの設計を通り、リィナの長剣へ細く沿う。
リィナは大きく振らない。
剣先を崩落材の隙間へ入れ、昨日ユノの光を借りたように、流れる風を足場へ変えた。
「【無終魔法剣・道開き】――原型」
剣先から伸びた風路が、瓦礫の間へ一本の細い道を作る。
粉塵が抜け、小石が外へ流れ、荷重を支える大材だけが残った。
リィナはその隙間へ身体を滑らせる。
「四人いる! アルド、担架!」
「今行く!」
アルドが白銀鎧を低くし、担架を引いて通る。
ユノは治療区画外周で、押し寄せる常醒波のうねりへ剣を向けた。
「光の流れを三つに分ける! カイン、右の支柱!」
カインは石板を胸元へ戻し、長剣で倒れかけた支柱の接合部へ刃を入れる。接合部を全部断ち切らず、危険な上部だけを落として下の搬送路を守る。
ユノの剣が白い波を左右へ逃がした。
完全には消えない。治療区画へ入る量を三割減らす。
「中央へ移動完了、十八名!」
フィアが叫ぶ。
「本人同意が取れていない意識不明者四名。緊急救命規則を適用。家族照合は継続。対象外の患者を一人入れ替えます。十九番は通常治療で維持可能、三十四番を領域へ!」
ミレアは重篤患者の間を歩き、脈と呼吸を確認する。
銀灰色の長髪へ粉塵が積もり、紫の瞳に眠気はない。
「領域開始後、身体の悪化が止まって見えても、治療を止めないでください。九十秒で切れます。患者の意識を起こす必要はありません」
ノアが中心環を地面へ刻む。
「規則文を短くしてください。『治す』を入れない。領域が完成を求めます」
「出血、感染、毒拡大、生命力の急低下を九十秒遅らせる」
「絶対停止は無理です。『遅延』で」
「分かった」
レイルは両手を地面へ置いた。
上級までの魔法は、対象へ力を与える。聖級は、領域へ一時的な規則を置く。
自分の魔力が八メートルの円へ広がり、十八人の生命反応へ触れた。
重い。
十八人の痛みが流れ込む感覚はない。手応えの薄い場所へ規則だけを通す方が怖かった。
【未完】は使わない。
保持で領域を止めれば、切れるべき九十秒まで曖昧になる。
レイルは、完全詠唱を始めた。
「地に残る熱、血に残る流れ、息へ戻る道を借りる。閉じるな。消すな。次の手が届くまで、崩れる速さだけを遅らせろ――」
魔力が足元から抜ける。
ニアの表示が急速に下がる。
『残量七十一。六十二。減り方、かなり速い!』
セレネが境界板を一枚ずつ固定する。
「北境界、成立。東、成立。南が薄いです!」
「俺の左側から回す」
「身体を動かさないでください。魔力だけです!」
レイルは膝を動かさず、流れを変える。
ノアが中心環へ手を重ねた。
「構造補正。結晶反応を治癒対象から外します。今は触れない」
ミレアが患者の脈を読む。
「開始前、重篤十一名。呼吸停止一名、補助呼吸へ移行。レイル、詠唱を続けてください」
フィアが最後の対象番号を確認する。
「対象十八名、重複なし。領域外患者との術式接続、切断完了」
レイルは最後の一節を言う。
「――【生命保全圏】」
淡い緑の光が床を這い、八メートルの円を描いた。
派手な柱は立たない。
傷は閉じない。
患者の顔色もすぐには戻らない。
広がっていた血だけが、流れる速さを落とした。
毒反応が鈍る。
結晶の根が止まり、呼吸が一拍分だけ深くなる。
「九十秒、開始!」
フィアが時計を叩く。
「第一治療班、患者一から三! ノア、血管処置!」
「開始します!」
「第二班、ミレア。呼吸停止者を優先!」
「補助呼吸を続けます。覚醒固定は使いません」
「第三班、学院治療師。出血点を閉じずに仮止血!」
全員が動く。
レイルだけが術に集中しているため、中央から動けない。
目の前でリィナが患者を運び、セレネが境界を支え、アルドが治療器具を渡す。自分も手を出したくなる。出せば領域が崩れる。
『残り六十秒。レイルの魔力四十八%』
汗が目へ入る。
身体が冷える。
常醒波のため意識は冴えているのに、手足の感覚が遠い。
「レイル、呼吸を!」
リィナが患者を置きながら言う。
「止めてない......スゥ――」
「浅い。吸って」
言われた通り吸う。
セレネは境界から目を離さず、声だけを飛ばした。
「四十秒後、南境界を私へ完全移管します。終了時に一気に切らないでください。三秒かけて落とします」
「了解」
ノアが一人目の血管処置を終える。
「患者一、領域外へ!」
アルドが抱えて円外へ運ぶ。
次の患者が入ることはできない。開始時に登録した十八名だけだ。
『残り三十秒。魔力三十一%』
領域外で、切断患者の容体が悪化した。
左手首断端から結晶が伸び始める。
フィアが視線を向ける。
「対象外です。領域へ移せません」
「分かってる」
レイルは中央から動かない。
ノアが若い女性へ走りたい顔をした。
ミレアが止める。
「今の患者を終えてください。切断患者は別班が仮止血しています」
「結晶が神経へ入ります」
「見えています。ここを離れれば、呼吸停止者が落ちます」
ノアは歯を食いしばり、目の前の処置へ戻った。
自分一人で全員を診ない。
他の治療師を信じる。
『十秒』
フィアが数える。
「九、八、七」
セレネが境界を受け取る。
「南、移管。東、移管」
「六、五、四」
レイルは領域の出力を少しずつ落とす。
「三、二、一。終了」
緑の円が消えた。
急変は戻らない。
九十秒の間に、十一名の重篤患者は処置へつながり、呼吸停止者の心拍も再開した。
レイルの身体が前へ傾く。
リィナが抱き止める。
「レイル!」
「大丈夫だ。まだ、意識はある」
「身体は?」
「……立てない」
自分から言えた。
ミレアがすぐに膝をつく。
「そのまま座ってください。覚醒固定は使いません。常醒波ですでに起こされています」
「切断患者を――」
「ノアと私が行きます。貴方は術式中核から外れてください」
「【生体補環】の規則形成が必要だ」
「初回を一人で担当する予定はありません。詠唱補助だけ、横になったままでやってください」
リィナの腕が背中へ回ったまま離れない。
セレネも境界板を片づけると、レイルの手首を取った。
「魔力二十三%。指の震えがあります。ニア、吸引停止を確認」
『もちろんゼロ。今日は一滴ももらわないよー』
「俺は飲み物じゃない」
『今ツッコめるなら、ちょっと安心。でも寝てくんない?ご主人サマ』
常醒波の中で眠ることはできない。
目を閉じ、身体だけを横たえる。
その傍らで、切断患者の再接着準備が始まった。
ノアが血管と骨の接続位置を設計し、ミレアが全身状態を監督する。フィアが同意と停止条件を読み上げ、ニアが神経反応を表示する。クラリスが冷却箱と治療台を事故前の平面へ戻し、ロッテが術式媒体の安全破断位置を指定した。
レイルは横になったまま、聖級術式の規則文を短く整える。
「元の手へ戻す、では駄目だ」
ノアが言う。
「事故前の状態を完全に再現しようとすると、結晶汚染まで戻る可能性があります」
「残っている骨端、血管、神経を基準に、切断部位を接続する」
「成長方向は患者本人の身体へ任せます」
ミレアが女性へ尋ねる。
「今から始めます。途中で生命危機が出れば、手を残す処置を中止します。聞こえていますか」
「聞こえてる。お願いします」
【生体補環】が始まる。
主術者はノアだった。
ノアの術式へ、領域規則の一節だけを渡す。
血管がつながる。
骨端が固定される。
神経は完全には戻らない。細い導線を作り、身体が数か月かけて伸ばす余地を残す。
四時間後、女性の左手は再接着された。
指は動かない。
血色も弱い。
それでも脈が通っている。
「も、戻った……?」
女性が泣きながら尋ねる。
「土台はつながりました」
ノアが答える。
「明日動くとは言えません。数か月かかります。途中で壊死が出れば、追加処置が必要です」
「それでも、戻せた......」
右手で左手を包もうとし、ミレアがそっと止める。
「まだ触れないでください。今は、見るだけにしましょう」
女性は頷き、手を見続けた。
同じ治療所の奥には、腕そのものが見つからなかった少年がいる。
彼へ今夜、腕一本を生やすことはできない。
傷を安定させ、毒を抜き、身体が再生を受けられる土台を作るところから始める。
レイルはその現実も見た。
聖級へ届いた今日も、失った手をその場で元どおりにはできなかった。
だから、次の治療日まで生きられるようにする。
九十秒の領域と、数か月の再生は、同じ治療の別の長さだった。
治療所の入口へ、カインが戻ってきた。
軽鎧には新しい傷があり、石板の白墨が半分消えている。
【暗殺者、地下礼拝室】
その下へ、強い筆圧で加える。
【ベネディクトと合流】
ミレアの紫の瞳から、最後の眠気が消えた。
【今回の登場人物】
・レイル・アルヴァート
十八名の悪化を九十秒遅らせる聖級領域を形成し、終了後には自分から立てないと認めた学院生。
・リィナ・アルセイル
セレネとレイルの風圧を長剣へ借り、瓦礫を崩さず四人分の搬送路を開く【無終魔法剣・道開き】の原型を示した剣士。
・セレネ・グランツ
聖級領域の八メートル境界を維持し、終了時の急落を防ぎながら、治療後はレイルの震える手を確かめた設計術師。
・ノア・エルグラム
目の前の患者を途中で捨てず、仲間の治療班を信じた後、切断された手の血管、骨、神経土台を再接着した研究者。
・ミレア・ノクス
常醒波の上へ覚醒固定を重ねず、聖級術式後のレイルを中核から外し、患者へ停止条件を説明してから再接着を始めた治療師。
・フィア
聖級領域へ入れる十八名を重症度で選び、対象外患者を勝手に追加せず、九十秒の開始と終了を一秒ずつ管理した記録担当。
・アルド・クロイツ
リィナが開いた細い道へ担架を通し、領域内外の患者を順番どおりに運び続けた護衛役。
・ユノ・アステル/カイン・ヴェルド
常醒波を分け、危険な支柱上部だけを切り落として搬送路を守り、最後に黒幕と暗殺者の位置を治療所へ持ち帰った剣士たち。
・クラリス・オルビス/ロッテ・ベルクマン
治療台を安全な形へ戻し、聖級媒体の壊れる位置を定め、再接着術式の事故を防いだ修復者と技師。
【今回の能力・設定メモ】
・【生命保全圏】
領域内の出血、感染、毒拡大、生命力低下を九十秒遅らせる聖級生命魔法。全回復や蘇生は行わず、初回は半径八メートル、完全詠唱、静止、共同監督、【未完】併用禁止の条件で成功した。
・【生体補環】初回共同施術
保存された切断部位を再接着し、血管と骨をつなぎ、神経再生の土台を作った。指はすぐには動かず、壊死監視と数か月のリハビリが必要となる。
・【無終魔法剣・道開き】原型
レイルの魔力とセレネの術式設計をリィナの剣路へ通し、支柱を壊さず粉塵と小片だけを外へ流す連携技。
【次回】
地下礼拝室で、ミレアを眠らない聖女へ戻そうとするベネディクトが、都市全体を奇跡の舞台として使った理由を語ります。
八メートルの円で稼いだ九十秒が十八人の治療を進め、冷却箱の手へ数か月先の脈を戻しました。レビュー、ブックマーク、フォローで、次に白い手袋の黒幕へ返すミレアの答えを見届けていただければ幸いです。




