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未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――  作者: 勇者ヨシ君
第10章「眠らない聖女」

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第165話「サインは一人三冊まで」

 名前が広がれば、会ったことのない人まで喜んでくれます。

 同じ列には、祝福だけでなく、名前を止めたい誰かも並べます。

 剣術部門の表彰式から一夜明けても、鉱山都市ヴァルグレンの熱は冷めなかった。

 旧採掘場を改装した中央広場には、朝鐘が鳴る前から人の列が四重に折れ曲がっている。先頭には『地図の外の一年(アウトランド・イヤー)』初版を胸へ抱いた老人、その後ろには児童向け挿絵版を持つ姉弟、さらに学院教材版へ付箋を何十枚も挟んだ学生たちが続いていた。

 広場の中央へ設けられた長机には、レイル、リィナ、セレネ、ニアの席が並ぶ。机の後方では、リオンが在庫札と休憩札を同時に動かし、エリオが首から下げた三本の筆記具を忙しなく揺らしていた。


「一人三冊までですー! 握手は希望者だけ、長話はNGです。ご質問のある方は後方の質問箱へお願いします! 師匠の手首は魔導具ではないので、交換部品がないッスからね!」

「誰がその説明を考えた」

「自分ッス!」

「いや、もっと削れよ」

「分かりやすいのにぃ!」


 エリオが不満そうに頬を膨らませる。

 隣でリオンは、蜂蜜色の髪を耳へ掛け、集計板へ新しい数字を書き込んだ。


「大師匠、開始前からなんと九百三十一名が並んでますぞ。午前分だけでも予定を二百名超えています」

「昨日の道で十分会っただろ」

「昨日は非公式です。本日は購入冊数が記録へ残ります」

「人の数より売上を見てないか?」

「両方見ています。このリオン・ゴルディス、読者の満足と手首の耐久を同時に守ります!」

「声が大きいッス、リオン先輩」

「あなたに言われたくありませんぞ」


 開場を告げる鐘が鳴った。

 最初の老人は、長い旅で擦り切れた冒険者証と本を一緒に机へ置いた。


「わしゃあ若い頃、断航海域の手前まで行った。越えられずに帰ったが、この本を読んで、海の向こうにも朝飯を作る人がいると知ったよ」

「俺たちも、向こうで同じことを知りました」

「そうか。なら、名前を一つ頼む。孫へ残したいのじゃ」


 レイルは老人の名を聞き、表紙の裏へ丁寧に書いた。

 その後も列は途切れなかった。

 リィナには食事量を尋ねる子供が集まり、セレネには術式図の誤植を確かめたい学生が並ぶ。少女型の光学投影で椅子へ座ったニアは、黒銀色の猫耳を動かしながら、読者が持参した自作の猫型人形を一体ずつ採点していた。


『この尻尾、環状じゃなくて普通の猫じゃん。減点一ですぅ』

「ニア、採点を頼んだ覚えはない」

『でも愛は感じるから百点!』

「差し引きが合ってないぞ」


 昼前、若い女性がレイルの前へ立った。

 栗色の巻き髪へ青い花飾りを付け、緊張で本の端を折りかけている。


「昨日、王城へ向かうところを見ました。今日は、ちゃんと順番を待ってきました」

「ありがとう。お名前は?」

「マリエです。それから、あの……握手もいいですか」


 レイルが手を差し出す前に、右隣からリィナの視線が刺さった。

 左隣では、セレネが署名を続けながら、筆の動きを一度だけ止めている。


()()()()


 セレネが穏やかに告げた。


「何が?」

「昨日、貴方が決めた時間です」

「そうだった」

「私が数える」


 リィナが身を乗り出した。


「一二、三、四、五。はい、終わり」

「今、速くなかったか?」

「普通でしょ」

「一と二の間がほとんどなかったです」

「セレネは細かいなあ」

「貴方の数え方が速いのです」


 マリエは二人を見比べ、頬を赤くしたまま小さく笑った。


「皆さん、本当に書いてあった通りなんですね」

「何がだ?」

「いえ。これからも陰ながら応援しています」


 誰を、とは言わずに去っていく。

 リィナとセレネは同時にレイルを見た。


「本に何を書いたの?」

「恋愛については削ったはずだが......」

「削ったから、逆に分かることもあります」

「どういう意味だ」

「自分で読み返してください?レイル」


 次に並んだのは、三人組の女子学生だった。制服の色はそれぞれ異なり、三学院から一人ずつ来たらしい。三人とも大陸記の学院教材版を抱え、レイルの前へ立った途端、相談していた順番を忘れたように一斉に口を開いた。


「レイル先生、弟子は本当に取らないんですか?」

「王核諸語の授業だけでも!」

「握手しながら、私の魔力経路を見てもらえませんか?」

「俺もまだ学生だぞ。それに最後のは診察になる。ここではやらない」

「では、握手だけお願いします!」

「私も!」

「私も両手で!」


 右からリィナの椅子が、石床を擦ってギギギと半歩近づいた。

 左ではセレネが、卓上の案内札へ新しい一文を書き足す。


【握手は片手・五秒以内】


「両手は駄目なのか?」

「片手で十分でしょう」


 セレネは筆を置いた。青紫色の瞳は穏やかだったが、案内札の文字だけ妙に濃い。


「リィナ、数をお願いします」

「任せて。一二、三、四、五」

「また二までが速いです」

「今日は昨日より遅いよ」

「比較対象が昨日なのは問題です」

「二人とも、握手の規則だけは連携がいいな」


 少女型のニアが机の端へ頬杖をつき、環状の尾を揺らした。


『右側と左側、嫉妬っぽい反応が同時に上がってる。レイル、今日の退路ゼロじゃん』

「やめて! 測らないで!」

「その判定項目は削除してください」


 リィナとセレネの声が重なった。

 女子学生たちは顔を見合わせ、握手より嬉しそうに騒いだ。


「本物だ……」

「大陸記より近い……」

「レイル先生、やっぱりお二人のどちらかと――」

「はい次の方!」


 リィナが列を進めた。

 セレネも無言で次の本をレイルの前へ置く。レイルは質問の続きを聞けないまま署名した。


 その後ろから、胸板の厚い中年の魔導具職人が進み出た。立派な口髭を撫で、教材版と自作らしい七環模型を机へ置く。


「レイル殿!!吾輩も弟子にしていただきたい! 年齢は四十七、工房歴二十九年。寝ずの作業にも自信がある!」

「いやいや、あんたは最初に寝てくださいッス!」


 エリオが列整理の札を掲げた。


「師匠の弟子枠は自分とリオン先輩で満員ッス!」

「満員になっていません」


 リオンが即座に訂正する。


「正確には、第一志願者である私と後発志願者が審査待ちです」

「二人とも不採用だ。新しい人を追い返す理由に使うな」

「では吾輩にも審査の機会が!」

「ありません」


 レイルが答えると、周囲から笑いと拍手が起きた。

 笑われる理由が分からずレイルが眉を寄せる横で、リィナとセレネはまだ机を挟んだ両側から離れなかった。


♦ ♦ ♦ ♦ ♦


 午後の部へ入って間もなく、エリオが署名机の後ろへ運ばれてきた木箱の前で足を止めた。

 補充用のインク瓶が十二本。形も封蝋も、朝から使っている品と同じだった。

 エリオは一番端の瓶へ顔を近づけ、丸眼鏡の奥で目を細める。


「リオン先輩、この箱、どこから来たッスか?」

「会場指定の文具商です。納品札もあります」

「朝の箱と紙が違うッス」

「外箱の製造所が違うだけでは?」

「繊維が細いッス。あと、糊に甘い匂いが混じってるスね」


 エリオは指へ魔力を集めた。

 初級記録魔法【紙紋照合(ペーパー・トレース)】が、箱の角へ薄い線を浮かべる。朝の納品札と午後の納品札を並べると、同じ商標の下で紙繊維の走り方だけが逆になった。


「師匠!! そのインク、触っちゃ駄目ッス!」


 声が広場へ通った。

 ちょうどレイルが新しい瓶の封蝋へ指を掛けたところだった。

 リィナが椅子を蹴り、レイルの手首を横から払う。瓶は机の上を転がり、床へ落ちる前にセレネの【軟風膜ソフト・エア・フィルム】へ包まれた。

 黒い液体が瓶口から一滴漏れる。

 風膜へ触れた部分だけ、白煙を上げて焦げた。


「全員、手を止めて!」


 フィアの声が会場係の鐘より先に響いた。

 黒髪の短いボブを揺らし、人の列と机の間へ入る。


「前列から座ってください。出口へ走らない。贈答品と筆記具には触れず、手を見える位置へ。会場係、北門を開放。西門は閉鎖したままです」

「西門を開けないのか?」


 警備員が尋ねる。


「納品路とつながっています。犯人の逃走経路かもしれません。避難は北と南へ分けます」


 人波の奥で、灰色の外套が動いた。

 女が列から外れ、西門へ向かう。

 リィナは追おうとしたが、机の前に子供が三人取り残されていた。

 その瞬間、広場の外周から藍色の髪が跳ねた。


「カイン、西!」


 勇者候補ユノ・アステルが、見物席の手すりを越えて着地する。旅装の上へ短い白外套を羽織り、抜いた剣へ淡い光を集めた。

 隣では、長身の青年が石板をユノへ投げ渡して両手を空ける。暗褐色の短髪、喉を横切る深い古傷、簡素な軽鎧。カイン・ヴェルドは声を出さず、灰色の女と西門の間へ身体を差し込んだ。

 女――レムナ・ヴェスパが袖を振る。

 三本の細針が光った。

 カインは長剣の鞘で二本を叩き、最後の一本を肩当てで受ける。針は装甲へ浅く刺さっただけで、皮膚まで届かない。

 レムナは踵を返し、観客席下の通路へ消えた。


「追う!」


 ユノが走り出す。

 カインは外套の端をつかんで止め、ユノから石板を取り返した。白墨が短く走る。


【群衆が先】


「分かってる。でも今なら捕まえられる!」


【出口、二つ】


 カインは石板で北門と南門を指した。

 ユノは歯を食いしばり、剣を収める。


「……了解。北を開ける」


 勇者候補の光が、今度は人を傷つけない幅へ薄く伸びた。倒れた柵だけを切り離し、北門までの道を空ける。

 アルドは南側へ回り、白銀鎧の肩で傾いた看板を支えた。


「子供から出す。走らせるな。フィア、人数を頼む」

「南列、現在百八十二。負傷者三、うち一名は足首です」

「ノア!」

「聞こえています!」


 ノアが豪華な魔導衣の裾を持ち上げ、転倒した老人へ駆け寄る。細い赤縁眼鏡の奥で深紅の瞳が足首を確かめた。


「骨折はありません。冷却と固定で歩けます。アルド、抱えてください」

「了解した」

「正面の階段は使わないでください。右へ出れば治療区画です」

「右だな」

「貴方から見て右です」

「分かっている」

「念のため言いました」


 アルドは老人を抱え、正しく右へ向かった。

 フィアは一度だけ見送り、目録帳へ【右、確認】と書き込む。

 会場が空になるまで、レイルはインク瓶へ触れなかった。セレネが風膜を維持し、ニアは猫型へ戻って空気中の毒反応を走査する。


『毒は皮膚浸透型。揮発は弱いけど、触ったらかなりヤバい。レイル、指先を確認して』

「封蝋には触れていない」

『見せて。自己申告は信用度ひくめ』

「ニアまでミレアみたいなことを言うな」


 治療席から、銀灰色の長髪を揺らしたミレアが歩いてくる。眠そうな紫の瞳は、今だけ細く冴えていた。


「手を出してください。触れていないと言った人ほど、袖や机へ当たっています」

「本当に触れていない」

「はい。確認してから信じます」


 レイルは両手を差し出した。

 ミレアが指の間、爪、手首、袖口まで診る。その間、リィナは右側から離れず、セレネも風膜を解かなかった。


「皮膚反応はありません。ふわぁぁ……一つ安心したので、次は全員の手を見ます」


 緊張が少しだけ緩む。

 エリオは木箱の前で立ち尽くしていた。顔色が悪い。自分が叫ばなければ、と考えた後で、自分が瓶を開けていた可能性にも気づいたらしい。

 レイルは少年の前へしゃがむ。


「エリオ、よく見つけたな」

「匂いが違っただけッス。犯人は逃げたし、自分、追えなかったッス」

「追わなくていいんだ」

「でも、師匠が狙われたのに」

「お前が箱を止めたから、誰も触らなかった。追跡は護衛と組合の仕事だ。全部やろうとすると、最初に見つけた証拠まで失うだろう?」

「……箱を見張るのが、自分の担当ッスか?」

「ああ。紙と瓶を一つも動かさず残してくれ」


 エリオは唇を結び、丸眼鏡を押し上げた。


「任せてくださいッス、師匠。紙一枚まで残すッス」


♦ ♦ ♦ ♦ ♦


 事件により、午後のサイン会は中止となった。

 観客を全員外へ出した後、大会運営本部は緊急会議を開いた。毒入りインク、偽造納品札、逃走した女。大会の継続そのものを止める意見も出たが、国王観覧予定の混成総合決勝と救助競技は、会場変更と警備増員を条件に続行される。

 さらに、運営委員が一枚の追加日程を掲げた。


「明日の午後、招待選抜演武を行います。剣術部門優勝者リィナ・アルセイルと、勇者候補ユノ・アステル。続いて、護衛剣士カイン・ヴェルドとの一撃制演武です」


 リィナの金茶色の瞳が大きくなる。

 ユノは椅子へ深く座り、藍色の髪を掻いた。


「だっるぅ。私たち、毒騒ぎの証言に来たんだけど。どうして試合まで増えてるの?」


 カインが石板へ書く。


【断れる】


「断ったら、リィナはその顔のまま帰るでしょ」

「やりたい」


 リィナは即答した。


「勇者候補の剣を、前から一度受けてみたかったんだもん」

「受ける前提なんだ?」

「そっから返す!」

「私の光、返すと増えるよ?」

「なら、返し方を変える」


 ユノは少し笑った。


「いいね。勇者候補って看板を見て、最初から遠慮される方が面倒だった。勝つつもりで来てよね」


 カインは石板をリィナへ向けた。


【その後、俺】


「二人続けて??」


【嫌なら断れ】


 リィナは長剣の柄へ手を置く。


「断らないし」


 レイルが横から口を挟んだ。


「今日の右手と左脚の状態を確認してからだ」

「分かってる。勝手には出ないよ」

「ならいい」

「でも、止めても出るけどね」

「分かってないだろやっぱ!!」


 ユノが吹き出し、カインの石板へ新しい文字が増えた。


【似ている】


「誰と誰が?」


 レイルとリィナが同時に尋ねる。

 カインは石板を裏返した。


【後でな】

【今回の登場人物】


・レイル・アルヴァート

 読者へ署名を続けながら毒入りインクへ手を伸ばしかけ、エリオの警告とリィナの一手で無傷のまま止まった著者。


・リィナ・アルセイル

 女性読者との握手を素早く五秒で切り上げ、毒瓶からレイルの手も払い、翌日の勇者候補戦を一息で受けた剣術部門優勝者。


・セレネ・グランツ

 握手を片手五秒へ正式化し、毒液を風膜へ封じ、群衆を刺激せず術式を維持した設計術師。


・エリオ・フェーン

 紙繊維と糊の匂いから偽造納品箱を見抜き、犯人を追う代わりに証拠を一枚残らず守る役を選んだ弟子志願者。


・リオン・ゴルディス

 十万部記念会を運営し、事件後は読者、在庫、贈答品、証拠の全てを帳簿から失わなかった同級生。


・ユノ・アステル

 逃走者を追う足を止め、勇者候補の光で群衆の退路を開き、翌日のリィナとの演武を受けた藍髪の剣士。


・カイン・ヴェルド

 細針を鞘と肩当てで防ぎ、逃走者より群衆を優先し、石板一枚でリィナへ次の対戦を告げた無言の護衛剣士。


・アルド・クロイツ

 南側の避難路を白銀鎧で支え、ノアとフィアの細かな方向確認を受けながら負傷者を正しく治療区画へ運んだ護衛科生。


・フィア

 出口、人数、負傷、贈答品を分けて記録し、逃走路となり得る西門を閉じたまま二方向避難を成立させた記録担当。


・ノア・エルグラム

 転倒者の足首を診断し、アルドへ患者と正しい方向を渡しながら、毒の成分解析へ備えた客員研究員。


・ミレア・ノクス

 レイルの両手と袖口を自分の目で確かめ、毒へ触れていないことを確認した後で初めて欠伸を戻した治療師。


・レムナ・ヴェスパ

 毒入りインクを署名机へ紛れ込ませ、細針でカインの足を止めて西通路へ逃げた暗殺者。


【今回の能力・設定メモ】


・【紙紋照合(ペーパー・トレース)

 紙繊維、糊、インク、付着魔力の差を比較する初級記録魔法。犯人を自動で示さず、差異を見つける観察力が必要となる。


・招待選抜演武

 大会成績へ直接加点しない特別試合。剣術部門優勝者が、国家指定の勇者候補や外部護衛剣士から実地評価を受ける。


【次回】


 リィナは、受けるほど光を増す勇者候補の剣へ、自分の【返環】が通じるかを試します。


 十二本の中で匂いの違う一本を止めた記録の目が、千人の手を毒から守りました。レビュー、ブックマーク、フォローで、次に交わる勇者候補の光と赤栗色の剣路を見届けていただければ幸いです。


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