第157話「大陸記、十万部」
一冊の本が遠くへ届くほど、書いた本人の知らない読み方も増えていきます。
憧れは背中を押しますが、足跡の危ないところまで真似されることがあります。
四年次が始まって十二日目、金環商会の馬車が学院正門を塞いだ。
一台目には本。二台目にも本。三台目には子供向けの挿絵版と、学院教材用の注釈版。最後尾の小型馬車には、王都、港湾都市、北方領の販売記録をまとめた帳簿が積まれている。
馬車列の先頭に立ったリオン・ゴルディスは、育ちのよい濃紺の制服へ金環商会の外套を重ね、蜂蜜色の髪を朝日へ光らせていた。両手には商会印の手帳と、巨大な花束。
「大師匠ォォォォォォォッ! おめでとうございます!」
学院中庭へ声が響き、窓という窓が一斉に開いた。
「はあ?なんだよ朝っぱらから。朝の授業前だ。声を落とせ」
「じゅ、十万部ですよ! 声量を一万分の一へ抑えても十人分ですぞ!」
「計算の使い方がおかしい」
リオンは花束をレイルへ押し付けた。
花の中央には、金色のド派手な文字で【祝!大師匠10万部】と刺してある。数字の周囲には、黒銀色の猫、肉串、眼鏡、長剣、地図、鍋を模した小さな飾りが並んでいた。
「なぜ肉串が十四本もあるんだ?」
「読者投票で最も人気の挿話でした!」
リィナが花束を覗き込み、眉を引きつらせた。
「魔物との戦いとか、帰還ゲートとか、もっとあったよね?」
「ええ、それも――もちろんあります。ですが、子供向け挿絵版の予約特典は【リィナ殿の肉串数え札】です」
「な、なにそれっ! 変なもの、勝手に作らないで!」
「売上の一部は王核大陸還元基金へ――」
「善意を盾にするなって!」
セレネは花束から自分を示す小さな眼鏡飾りを摘まみ上げた。
「これは許可を取りましたか?」
「眼鏡そのものは一般物品です」
「私の髪色と瞳色を再現した台紙が付いています」
「偶然ですなー」
「偶然で青紫色の硝子を用意したのですか?」
「市場調査の結果です!」
リオンの額に、ほんの少し汗が浮いた。
レイルは花束をフィアへ預け、馬車の帳簿を開く。
「――で十万部は、どこまで含む?」
「通常版六万四千。児童向け挿絵版一万八千。学院教材版一万一千。簡易翻訳版七千です。重版分の予約を含めず、買い取り済みのみで十万」
「返品と破損は?」
「差し引いています」
「王核側への還元は?」
「総利益の一割を基金へ回します。現地協力者の名を使った挿話は、本人か灰環盟約の代理窓口へ別に計上しました。通信時間が短くて確認できなかった分は、まだ動かしていません」
「保留金を運用へ回したりしていないだろうな?」
「専用口座へ固定入金しております!」
リオンは胸を張った。
「大師匠から学びました。返事のない金を、同意済みの金へ混ぜてはいけません」
「そこは教えた覚えがない」
「大陸記の校閲会議で三時間話していました」
「聞いていたなら授業ではない」
「授業料を払う理由が増えました」
「またその話か」
十万部の報告を聞きつけ、学院生が中庭へ集まってくる。
上級生は遠巻きに見ているだけだったが、一年次の制服を着た少年が人垣の隙間を縫って飛び出した。
小柄で、癖のある淡い茶髪。丸眼鏡の紐には三本の筆記具が下がり、腰の道具入れには魔石より紙束の方が多い。胸には擦り切れた大陸記の初版を抱えていた。
「師匠っ!」
少年はレイルの前で止まり、息を切らしたまま頭を下げた。
「僕、弟子入りに来たッス!」
「誰が師匠だ」
「レイル・アルヴァート師匠ッス!」
「名前を付けても同じだ」
少年は初版を両手で差し出した。表紙の角は丸くなり、何度も開いた頁だけ背が柔らかくなっている。
「エリオ・フェーン、一年次記録契約科志望ッス! 大陸記を七回読みました!」
「読んだ回数は弟子入り条件にならない」
「八回目は書き込み版で読んでる途中ッス!」
「増やしても駄目だ」
「師匠、今日は、せめてサインだけでもお願いするっす!!」
「嫌だ」
リオンが二人の間へ一歩入った。
「待ちなさい、後発志願者。大師匠の一番弟子枠には、すでに私が申請中です」
「申請中なら未承認ッス!」
「私は授業料を前払いしています」
「勝手に出した捜索費を授業料に変えたら駄目ッス!」
「なぜ知っているのです?」
「十万部記念の新聞記事に書いてあったッス!」
「誰がそこまで載せました!?」
リオンが振り返り、商会広報担当を探す。
レイルは額を押さえた。
「お前らなぁ、――二人とも弟子じゃないんだって!」
「では第一弟子候補は私です」
「未承認同士なら僕も横並びッス!」
「私には、投資実績があります」
「弟子枠って入札制なんスか、師匠!?」
「俺に聞くな。そもそも枠などない!」
周囲から笑いが起きた。
エリオは笑われても引かなかった。丸眼鏡を押し上げ、初版を開く。
挟まれていたのは、危険条件を抜き出した自作の一覧表だった。
「師匠、自分、強い魔法だけ教えてほしいんじゃないッス。出発届の書き方、撤退線の引き方、食料の分け方、失敗した時の報告書。帰ってこられる準備を教えてほしいッス」
さっきまでの勢いが少しだけ落ちた。
少年の指先にはインクが染み、爪の間へ紙粉が入り込んでいる。
「自分の兄貴、二年前に初級冒険者になったッス。強い人の真似ばかりして、帰還時刻を残さず森へ入った。三日後に見つかった時、足を折ってたッス。生きてたけど、帰ってくる準備を誰にも習わなかったって言ってた。大陸記を読んで、強さより先に必要なことがあるって知ったッス」
レイルは少年の一覧表を受け取った。
文字は小さいが、危険条件の横に必ず「中止後の行動」が書かれている。戦闘場面には赤線が少なく、食料、言語、寝床、報告、同行者の確認へ多くの付箋が付いていた。
「ここまで作るのに、どれくらいかかった?」
「入学前から毎晩やったッス。昨日は仕上げで寝てないッス!」
レイルが顔を上げる。
エリオの目の下には、丸眼鏡の影に隠れて薄い青みがあった。
「昨日、何時間眠った」
「二時間くらいッス。でも師匠の全行動を――」
「弟子入り以前に、今から寝ろお前は」
「初めての師匠命令ッスか!?」
「師匠命令じゃない。上級生としてのアドバイスだ」
「了解ッス、師匠!」
「あとその呼び方を直せ」
「起きてから考えるッス!では、師匠!」
エリオは本当にその場で踵を返し、一年次寮へ走っていった。
リオンが腕を組む。
「大師匠、あの少年へ最初の課題を与えましたね」
「寝ろと言っただけだ」
「私には課題を?」
「商会広報が捜索費の記事をどこまで出したか確認しろ」
「承知しました!」
リオンも走り出した。
残されたレイルは、エリオの一覧表をもう一度見る。
自分が本に書いた準備が、知らない誰かの行動へ入り込んでいる。夜を削って記録を作る癖まで、憧れられれば正しいように見えてしまう。
「嬉しくないの?」
リィナが横へ来た。
「十万部も、弟子入りも、すごいことだと思うよ」
「嬉しい。たぶん」
「たぶん?」
「前世では俺の本は、一冊も完成しなかった。今は完成したものが、この世に十万冊あるんだ。それに、読んだ子が学院へ来た。それは……想像していたより嬉しい」
言葉にすると、胸の奥が遅れてじん、と熱くなった。
書きかけの小説を閉じたまま死んだ男には、届かなかった景色が、今、見えている――。
「でも、俺の失敗も正解に見える」
「なら、次に書けばいいんじゃない?」
「何を?」
「寝ないで準備したら怒られた、とか。荷物を持ちすぎたら私たちに分けられた、とか。格好悪いところも大陸記にあるけど、読者は全部を同じ重さで読むわけじゃないんでしょ」
セレネも一覧表を覗き込んだ。
「続巻では、安全規則が成立した背景を詳しく書きましょう。失敗を掲載するだけでは、読者が“失敗しても最後には成功した英雄”と読む可能性があります。何を失いかけ、誰に止められ、どの規則が残ったかまで必要です」
「また原稿量が増えるぞ?」
「十万部の著者が、続編を短く済ませるつもりですか?」
「売れるかは分からない」
「リオン、もう予約っぽいこと始めていますよ、ほら――」
中庭の向こうで、リオンの大声が聞こえた。
「第二巻の予約受付はまだです! 希望者名簿へ名前を書いても、予約は入りません! ただいま絶賛執筆中ですので続報を待たれよ――」
二巻の受付、開始寸前だったらしい。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
その日の午後、学院長室へ王城の使者が到着した。
白地へ王冠と七本の環を織った正式な召喚状。
封蝋には国王レグナート四世の印がある。
帰還、大陸記十万部、双岸継信網の成立。
それら三つの功績を理由に、レイルたち帰還組へ国王謁見と勲章授与の機会が与えられるという。
「王様に会うの? なんかすごいね!」
リィナの声が少し裏返った。
「召喚状には、帰還組全員とあります」
フィアが内容を読み上げる。
「ニアも?」
『ニアちゃん、王城デビューです。礼服いるかなぁ?』
「猫型に礼服を着せるのか」
『勲章付ける場所問題あります。猫型も捨てがたいですが......てか少女型でいいのでは?』
レイルは召喚状の末尾まで読んだ。
謁見日は二週間後。礼法講習を受けること。武器の持ち込みは申請制。褒賞希望がある場合は事前提出。
そして欄外に、王国魔導政策院との面談予定が追記されている。
「これ、お祝いだけでは終わりませんね」
セレネが静かに言った。
「十万部売れたことで、レイルの発言は一個人のものでは済まなくなっています。王核大陸への見方、通信網の管理、魔法研究。王国側が確認したいことは多いはずです」
「勲章をくれるなら、素直にもらえばいいだけじゃない?」
リィナは言った後、少し考える。
「でも、何かと交換って言われたら嫌だなあ」
「交換条件は書かれていません」
「書いてない条件もあるでしょ、きっと」
フィアが召喚状を光へ透かした。
「あります。王城へ行くという事実だけで、周囲は関係があると判断します」
レイルは十万部の花束と王城の封蝋を見比べた。
本が売れた。
金が入り、読者が増え、弟子入り志願者まで現れた。
同時に、会ったことのない王や貴族や役人が、自分の名へ意味を付け始める。
「礼法講習はいつからだ?」
「明日の朝ですよ、レイル君」
学院長が答えた。
「朝練と重なる」
「王城で木剣を振る予定はありません」
「必要になったら?」
「必要にならないよう礼法を学ぶのです」
リィナが小さく呻いた。
レイルは召喚状を折らずに封筒へ戻した。
十万冊の本が開いた次の頁には、王城への道が続いていた。
【今回の登場人物】
・レイル・アルヴァート
十万部を喜びながら、自分の不眠や失敗まで読者へ模倣される責任を知った大陸記著者。
・リオン・ゴルディス
売上、還元基金、権利処理を整えつつ、エリオと未承認の一番弟子枠を争い始めた金環商会の学院生。
・エリオ・フェーン
大陸記を七回読み、「師匠、弟子入りに来たッス!」と現れた一年次の記録術師志望。
・リィナ・アルセイル
肉串十四本の読者人気へ怒りながら、レイルへ嬉しいなら一度きちんと言葉にするよう促した剣士。
・セレネ・グランツ
続巻では失敗の結果だけでなく、安全規則が生まれた背景まで記すべきだと提案した校閲者。
・フィア・レコード
王城召喚状の明記されていない政治的効果まで確認した記録契約科生。
・ニア
十万部記念の猫飾りと王城での勲章装着位置を気にした疑似人格。
【今回の能力・設定メモ】
・大陸記十万部
通常版、児童向け版、学院教材版、簡易翻訳版の買い取り済み累計。王核大陸協力者への利益分配は、同意未確認分を保留している。
・【紙紋照合】
エリオが習得を目指す初級記録魔法。紙の繊維、インク、付着魔力の差を比較する補助術式。
【次回】
王城へ呼ばれたレイルたちは、魔法より難しい礼法と契約の言葉へ向き合います。
十万冊の中から、角の丸くなった初版を抱えた弟子志願者が走ってきました。レビュー、ブックマーク、フォローで、未承認同士の弟子争いと王城から届いた封蝋を応援していただければ幸いです。




