第155話「七日後に帰る島」
帰る日を決めることは、旅の終わりを決めることではありません。
戻って続きを話すために、海へ出る前から残しておく約束です。
出航届の帰還予定欄には、七日後の日付が書かれていた。
断航海域外縁の無人中継島まで二日。旧観測塔の調査に三日。帰路に二日。海況悪化、白環命令検出、通信不能、学生の負傷。どれか一つでも基準を越えれば調査を打ち切る。
前回の旅では、帰れる日を誰も知らなかった。今回は父バルドの署名があり、母エナの小さな予備毛布があり、学院と冒険者組合へ同じ行程表が残っている。
それでもレイルは、出航前の桟橋で荷物を三度開け直していた。
「予備の帰還信号札は四枚で足りると思うが」
「え?五枚入ってるよ」
「一枚は予備の予備だ」
「今、四枚で足りるって言ったよね? てか――まさかさらに予備があるんじゃないよね?」
「もちろん、予備の予備がダメになった時の予備は必要だろう?」
「はぁ......やっぱレイルってそういうとこビョーキよね」
リィナは赤みのある栗色の髪を高い位置で結び直し、荷袋から突き出していた六枚目の札を引き抜いた。学院制服の袖はいつものように肘までまくられ、剣帯には使い込まれた長剣が一本だけ収まっている。
「一枚は戻して、これは私が持つ。これでレイルの荷物は四枚」
「全体数は減っていない」
「レイルが一人で持たないこと。それが大事なの」
「紛失箇所が二つに増えるだろ?」
「そういう言い方をするから、また全部持たされなくなるんだよ」
脇で聞いていたセレネが、外海調査用の細い銀縁眼鏡を押し上げた。肩甲骨まで届く淡金髪は潮風にさらわれ、そのたび青紫色の瞳の前を横切る。規則どおり着た制服の胸元では、魔導演算石が淡い光を返していた。細身で、隣に立つリィナより背がわずかに高い。
「研究枠の私も一枚預かります。学生協力員二名という制限に対し、私は学院術式研究補助員として参加を認められました。役割が分かれている以上、信号札も分散させる方が妥当です」
「二人とも、俺の荷物を減らすことだけは意見が一致するんだな」
「そこは以前から一致しています」
「うん。恋愛の方は別として、ね」
リィナが何気ない声で続けたため、レイルの指が荷紐の結び目で止まった。
セレネは耳の先を赤くしたが、視線を逸らさなかった。
「告白済みである事実は、海へ出ても変わりません」
「今、確認する必要があったか?」
「七日間も一緒なら、最初に確認した方がいいでしょ」
「何を確認するんだ」
「レイルが、調査中だからって全部忘れたふりをしないこと」
「忘れていない」
「ならいいよ」
リィナは満足したように五枚目の札を腰袋へ入れた。
セレネは小さく笑い、それからレイルの荷袋へ手を伸ばす。
「予備インクも一本減らせます。私が二本持っていますから」
「待て。それは原稿用と報告用で成分が違う」
「同じ製造所の同じ黒です」
「粘度が僅かに違う」
「海へ落ちた場合は、どちらも使用不能です」
「その想定は必要か?」
「今の貴方が言いますか?」
返す言葉を探している間に、背後から低く長い欠伸が聞こえた。
「ふわぁぁ……皆さん、荷物の診察は終わりましたか?」
黒白の聖衣を着た少女が、治療箱を両手で抱えて立っていた。
銀灰色の長髪は背中の半ばまで真っすぐ流れ、紫色の瞳は今にも閉じそうに細い。目の下には薄い隈がある。華美な冠や宝石はなく、腰へ並ぶのは包帯、薬瓶、細い脈診具だった。
眠そうな見た目に反して、聖衣の袖口も白い手袋も汚れ一つない。
「はじめまして。ふぁぁああ......。私、ミレア・ノクスです。治療生命科四年次、今回の医療監督補助を担当します。レイルさん、手を見せてください」
「初対面で? てかお前すごい眠そうだな」
「基本眠いんです。――初対面の人でも脈はありますので」
ミレアは治療箱を桟橋へ置き、右手の手袋を外した。細い指がレイルの手首へ触れる。
眠そうだった紫の瞳が、脈を取った瞬間だけ少し開いた。
「レイルさん。昨夜、何時間眠りましたか?」
「横になったのは五時間前だ」
「眠った時間を聞いています」
「途中で二度起きた」
「合計は?」
「……一時間半くらいだと思う」
リィナとセレネの空気が同時に冷えた。
「レ イ ル く ん? 一体どういうつもりなのかなぁ?」
「昨夜は通信周期の再確認が――」
「私が作った確認表は、二十二時で終わっていました」
「予備周期を追加した」
「誰の許可で?」
「必要だと思ったから」
ミレアはレイルの手を離さなかった。
「ふわぁ……指先が冷たいです。脈は速い。肩も固い。出航まで二時間ありますね」
「積み込み確認が残っている」
「ナディルさんとロッテさんが確認しています。今からとっとと船室で眠ってください」
「島へ着くまででも眠れるが......」
「船酔いする可能性があります。海へ出てから眠れる予定は、睡眠計画に入りません」
「俺は船酔いしない」
「王核大陸から戻った時より海が荒れています。どうなるかわからないので、眠れるうちに寝といてください」
声は柔らかいままだったが、指先だけが逃げ道を塞ぐように手首を押さえている。
レイルはリィナを見た。金茶色の瞳には助け舟の気配がない。
セレネも眼鏡の奥で静かに首を振った。
「二人とも見張る必要はない」
「私は歩き方がおかしいのに気づいてた。言っても大丈夫って返されると思って、強く止めなかった」
リィナはそこで一度息を飲み、声を少し落とした。
「帰ってきてから、レイルが眠ってると安心するはずなのに、今度は眠ってる間に何か起きるんじゃないかって私も怖くなってる。でも、だからって起き続けていいとは思わない。七日後に帰るなら、最初の日から無理しないで」
セレネは荷袋を閉じた。
「私は計画を作れば眠れると思っていました。貴方が計画を増やして眠らなくなる可能性を、計画へ入れていませんでした。次からは就寝確認も共同作業にしましょう」
「そこまで管理されるのか?!」
「それが嫌なら自分で眠ってください」
レイルは二人の顔を見てから、ミレアへ視線を戻した。
「一時間で起こしてくれ」
「二時間です」
「出航時刻に間に合わない」
「船室で寝たまま出航できます」
「それは参加したことになるのか」
「眠っている間も乗船名簿には載っています」
桟橋の先から、Aランク探索隊【青渡り】隊長ナディルが手を振った。
「よっ! こっちは積み込み完了だ! 寝た学生は荷物として運ぶぞ!」
「人として扱ってくれ」
「自分で歩きたいなら、まず二時間寝ろ!」
逃げ道がなくなった。
レイルは船室へ連行され、寝台へ座らされた。黒灰色の学院外套を脱ぐと、腰や胸元に下げた保持札が小さく鳴る。
ミレアが一本ずつ確認し、現在の【未完】保持対象がゼロであることをフィアへ伝えた。フィアは桟橋側の記録卓から時刻を返し、ニアは猫型でレイルの枕元へ乗る。
『睡眠時安全条件、成立。レイル、ガチ寝推奨です』
「その言い方は誰から覚えた」
『前世語彙候補です。セレネの眉間の皺が深くなる前に寝ちゃいましょう』
扉の近くにリィナが立ち、窓際の椅子へセレネが座った。
「二人とも見張る必要は――」
「さっき聞いたからそれ」
「同じ反論は却下します」
「調査資料は?」
「貴方が眠った後に読みます」
「朝練は?」
「今日はしない」
「術式確認は?」
「ぜぇんぶ、起きてからです」
レイルは毛布を胸まで引き上げた。
右を向けばリィナがいる。左にはセレネがいる。枕元ではニアの黒銀色の尾が環状に揺れ、足元ではミレアが脈診具をしまっていた。
(ここまで揃っていて眠れないと言ったら、たぶん本当に病気扱いされる)
目を閉じる直前、セレネの淡金髪が窓の光を受けて白く透けた。リィナは腕を組んだまま、眠るまで視線を外さなかった。
レイルが次に目を開けた時、船はすでに岸を離れていた。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
外海中継島へ到着したのは二日後の夕方だった。
黒い岩盤だけが海から持ち上がった小島で、中央には半壊した観測塔が立っている。塔の上半分は風雨で削られ、白環式の増設環だけが腐食を免れて淡く光っていた。
調査隊は予定どおり外周だけを確認し、日没前に野営区を設営した。
レイルは塔へ近づきすぎず、ニアの解析表示だけを見る。
『旧式観測回路。白環制式語ハ後付ケ。地下カラ低出力波形アリ』
「種類は?」
『覚醒、音、意識固定ニ類似。完全一致セズ。』
ミレアが眠そうな瞳を塔へ向ける。
「嫌な感じがします。眠気が少し遠くなりました」
「眠いのに分かるのか?」
「私はいつも眠いので、減ると分かります」
夜半、調査隊全員の寝つきが悪くなった。
身体は疲れているのに、意識の縁だけが薄く光っている。レイルは保持札へ手を伸ばしかけ、止めた。塔の仕組みも完成条件も分からない。今触れれば、何を完成させるかさえ選べない。
代わりに、ロッテが用意した遮断箱へ地表の欠片を一つだけ収める。
「深部へ行けば、もっと分かる」
「行きません」
ミレアの声から欠伸が消えていた。
「今日は外周だけです。未知の塔へ入る工程は外しました。今夜どれだけ眠れたかを記録して、明朝に撤退を決めます」
「七日間のうち、まだ三日残っている」
「日数が残っていても、無理に使い切る理由にはなりませんよ」
レイルは塔の白い環を見上げた。
遠くで、欠けた窓の内側に人影のような光が立った。輪郭は一瞬で崩れ、白い文字だけが壁面へ浮かぶ。
【前歴名――マミヤ】
続きは擦れて読めなかった。
レイルの右目へ、閉じ切らない輪が薄く浮かぶ。
「レイル?」
リィナの声で視線を戻す。
「今、何が見えたの?」
「俺の前世に関係する文字かもしれない」
「かもしれない?」
「全部は読めなかった。だから、決めつけられない」
セレネが記録板を閉じた。
「画像だけ保存しました。解析は学院へ戻ってから、複数人で行います」
「今回は入らないの?」
リィナが尋ねる。
「入らない。調査目的は中継島の安全確認と地表資料の回収だ。前世名があっても、予定を変える理由にはしない」
口にすると、胸の奥に引っかかっていたものが少しだけほどけた。
知りたい。すぐ確かめたい。その気持ちは消えない。それでも、知りたいことが見つかったたびに帰還日を延ばしていたら、また誰かを待たせる。
翌朝、ナディルは深部調査を延期し、覚醒波の欠片だけを持ち帰ると決めた。
島を離れた船は予定より半日早く人間圏へ向かった。
七日目の午後、王立結着学院の港へ船が入る。
桟橋にはバルドとエナが立っていた。
「父さん。ちょうど七日後だ」
レイルが言うと、父は日付を確かめるように空を見た。
「ああ。今度は、書いた日に帰れたな」
エナは予備毛布を受け取って匂いを嗅いだ。
「レイル、使いましたか?」
「一度だけ」
「では持たせた意味がありました」
「船の毛布でも足りたのに......」
「母親枠ですから、えっへん!」
制度は今回も解除されなかった。
レイルは苦笑しながら、持ち帰った遮断箱を学院の研究員へ渡した。
箱の中では、小さな白い結晶片が眠らない光を灯していた。
【今回の登場人物】
・レイル・アルヴァート
未知の前世名らしき文字を見ても深部調査へ進まず、七日後の帰還予定を守った学院生。
・リィナ・アルセイル
レイルの歩幅と睡眠不足を見逃した自分にも腹を立て、荷物と心配を一人へ集中させなかった剣士。
・セレネ・グランツ
研究枠として外海調査へ同行し、前世名の画像を保存しながら解析を帰還後へ回した術式設計科生。
・ミレア・ノクス
銀灰色の長髪と眠そうな紫の瞳を持ち、出航前からレイルを寝台へ運んだ治療生命科生。
・ニア
猫型で睡眠時安全条件を監視し、旧観測塔の覚醒波を危険候補として表示した疑似人格。
・ナディル・セオン
学生の好奇心より帰還条件を優先し、外海中継島の深部調査を延期した青渡り隊長。
・バルド、エナ
帰還届の日付と母親枠の予備毛布を持ち、七日後の桟橋で息子を迎えた両親。
【今回の能力・設定メモ】
・【常醒波】候補
旧観測塔から検出された低出力波。眠気を遠ざける一方、身体疲労を消す性質は確認されていない。
・外海中継島調査
今回は地表安全確認と資料回収のみ。地下・塔内の本格調査は、覚醒波への対策を整えてから再申請する。
【次回】
外海から持ち帰った眠らない欠片を横に、レイルたちの四年次が始まります。
五枚目の信号札を仲間へ分け、書いた日に桟橋へ戻れました。レビュー、ブックマーク、フォローで、深部へ急がず持ち帰った白い結晶片と次の四年次を応援していただければ幸いです。




