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未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――  作者: 勇者ヨシ君
第9章「九十九パーセントの魔法」

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第151話「断航岬の一本目」

 遠くへ声を届けるには、大きな声より、相手が聞き取れる間隔が必要です。

 最初の一本は、道ではなく、互いがまだそこにいると確かめるために立てられます。



 三年次継路遠習サード・ルート・エクスペディション四日目。

 蒼潮港から北西へ半日進んだ断航岬(だんこうみさき)は、陸地の終わりというより、海へ突き出した巨大な刃に見えた。


 黒い岩肌が何層も斜めに重なり、その下で白い波が砕けている。潮風は港より冷たく、真っすぐ立っているだけでも制服の外套を背後へ引いた。岬の先端には、百年以上前の観測塔跡と、錆びた鉄杭が数本残っている。その向こうには、雲と海の境が曖昧になる灰青色の空間が広がっていた。


 断航海域(だんこうかいいき)。人間圏の船が航路を失い、転移術式が出口を定められなくなる外海だった。

 学生たちは安全索(あんぜんさく)を腰へ結び、三人一組で資材を運んでいた。

 通信杭は一本でも、人が持ち上げられる太さではない。六つに分割された黒銀色の柱材、地脈固定爪(ちみゃくこていづめ)風圧避雷環(ふうあつひらいかん)音声変換板(おんせいへんかんばん)、王核諸語の符号板(ふごうばん)。組み上がれば三階建ての建物ほどの高さになる。

 

 ナディル・セオンは岬の縁へ立ち、右耳へ手を添えて海の音を聞いていた。

 左耳の貝殻型補聴具には、肉声ではなく魔力振動が流れ込んでいる。波が崖へ当たる音、風圧環の回転、地脈の低い脈動。それらの間へ混ざる不規則な震えを、彼は目を閉じたまま選り分けていた。


「今から七分、外海側の風が落ちる。第一柱を立てるなら、その間だ」


 気象観測班の教官が空を見上げる。


「雲の動きは変わっていません」

「雲じゃない。海の下を流れる魔力が右へ寄った。波の高さは同じでも、杭へ当たる横圧が減る」


 ナディルは帆槍の石突を地面へ差し、補聴具の薄板を開いた。


「俺の左耳が聞いているのは、音より遅い揺れだ。断航海域は目だけで読むな。見えてから動くと、杭が先に折れる」


 レイルは王核大陸で記録した灰環通信周期を符号板へ写していた。

 隣ではセレネが三枚の術式案を空中へ並べ、現在の地脈流へ合わせて一案ずつ修正する。淡金髪は潮風で頬へ何度もかかり、そのたび片手で耳へ掛け直していた。


「人間圏側の基本周期は四拍です。王核側から返る信号は、灰環宿場で使われていた三拍と五拍の組み合わせでした」

「そのまま送ると、人間圏の中継器が雑音として切る」


 レイルが言う。


「最初の二拍だけ学院式へ合わせて、後半を灰環式にする。向こうに人がいれば、どちらかは拾うはずだ」

「二つの規格を連結した箇所へ位相差が出ます」

「俺の七環導杖(セプテムロッド)の第三環で吸収できる」

「正式修理後、初めての長距離接続です。最大負荷は使わせられません」

「六割なら?」

「いえ四割です」

「低すぎる」

「壊れた場合、交換部品は学院にあります。ここにはありませんから」

「じゃあ五割」

「四割五分で!」

「細かいな......」

「交渉へ応じた結果です」


 セレネは四割五分で設定を固定した。

 リィナの沿岸救助班は、杭を立てる区画の外周へ安全索を張っていた。長い金茶色の髪を低い位置で束ね、剣帯の上から作業用の太い革帯を締めている。風に煽られた学生がいれば、足元へ踏み込み、腰の索を掴んで戻す役だった。


「レイル、足元」


 符号板へ集中していたレイルの踵が、濡れた岩の縁へ半歩近づいた。

 リィナが背中の帯を引く。


「安全線の中だ」

「線の中でも滑る。紙だけ見て歩かない」

「紙じゃなくて符号板だ」

「名前の話してない!」


 レイルは一歩戻った。


「ありがとう」

「最初からそう言えばいいの」

「引かれたから驚いた」

「落ちてから引くよりいいでしょ」


 リィナは帯を離さず、レイルが乾いた場所へ移るまで見届けた。

 第一柱の組み上げが始まる。


「固定爪、第一番」


 フィアの声が風の中へ通った。

 灰銀色の髪を短い布で覆い、記録札を胸元の防水箱へ入れている。護衛班の学生へ番号を割り振り、資材の位置、作業者の残魔力、索の張力を同時に確認していた。


「第二番、柱材下部。第三番、避雷環。アルドは第四番を運び、戻り次第、北側退避路へ入ってください」

「受理」


 アルドは通信板を収めた金属箱を肩へ担ぎ、濡れた斜面を下った。

 銀髪は風にほとんど乱れない。足取りも重さを感じさせなかったが、地図を持っていないため、曲がり角ごとにフィアの指示を待つ。


「次は右です」

「右へ進む」

「そちらは左です」

「海を向いていた」

「基準を変えないでください。私の右と言ったら、アルドから見た右です」

「了解した」


 近くの学生が笑う余裕を見せた直後、海側から強い横風が吹いた。

 安全索が鳴る。

 アルドは金属箱を抱えたまま膝をつき、身体で風を受け止めた。箱の角が岩へ当たり、固定金具の薄い覆いが割れる。鋭い破片が右前腕を切った。


「アルド、停止してください」


 フィアの声が変わった。


「第四番はその場へ下ろす。歩かないでください」

「箱は無事だ」

「腕を確認します」

「浅い」

「私が見ます」


 フィアが斜面を下り、袖を捲った。

 傷は長さ七センチほど。深くはないが、潮と金属粉が入っている。血が手首まで流れ、安全索の布を赤く濡らしていた。

 通信研究班からノアが走ってくる。小柄な身体へ白い研究外套を重ね、赤縁眼鏡の奥の瞳が傷へ固定された。


「洗浄水を。フィア、止血布を外さないでください。アルド、指を動かしなさい」

「動く」

「全てです。一本ずつ」


 アルドが五本の指を曲げる。


「腱の損傷なし。傷を洗浄し、縫合を三針。十分で処置できます。痛みが収まれば作業へ戻れます」

「撤退させます」


 フィアが言った。

 ノアの手が止まる。


「傷は軽度です。治療後、荷物を持たなければ班内待機が可能です」

「横風は予報より二割強く、アルドは今の一度で姿勢を崩しました。次は傷口だけで済む保証がありません」

「姿勢を崩したのは箱を守ったためです。腕の可動を戻し、役割を変更すれば――」

「治った直後の腕へ、再び安全索の負荷がかかります」

「固定具を追加します」

「固定具が外れた時、本人は痛みを理由に手を離せない可能性があります。アルドは完遂を優先します」


 ノアの声に苛立ちが混じる。


「私の治療を信用しないのですか」

「信用しています」


 フィアは傷口から目を逸らさなかった。


「ノアが縫えば、皮膚は閉じます。出血も止まります。だから周囲は、もう働けると思うでしょう。アルド自身もそう考えます。私は、閉じた傷の下へ負担が残ることまで予定へ入れます」

「なら、数値を測ってから決めるべきです。最初から撤退へ固定するのは早い」

「測定結果が良ければ、ノアは戻すと言います。悪ければ撤退です。今のアルドへ、戻る可能性を先に見せる必要がありますか」


 ノアは返事を失った。

 治せる自信があるからこそ、その自信がアルドを作業へ戻す理由に使われる。フィアは治療を否定していない。傷が閉じた後に始まる次の無理を止めようとしていた。

 アルドが二人の間へ声を入れた。


「フィアの判断に従う」


 ノアが彼を見る。


「治療後も動けます」

「分かっている。ノアの治療は信用している」

「なら、なぜ」

「フィアは、俺が動けると言うことまで含めて止めた。今の任務は第四番を運ぶことではなく、怪我を増やさず戻ることに変更された」


 アルドは左手で金属箱を示した。


「箱は別の者へ渡す。ノアは傷を治してくれ。フィアは帰路を指示してほしい」


 ノアの唇が一度引き結ばれた。


「……受理します。ただし、縫合後に自分で歩けるかは私が判断します」

「分かった」

「帰還後、炎症確認まで作業復帰は禁止です」

「従う」


 フィアが短く息を吐いた。


「帰路は私が付き添います。護衛班の代理を第五番へ依頼します」

「フィアまで抜けると記録が――」

「記録は副担当へ渡しました。一人で全班を持たない条件です」


 ノアは何も言わず、治療を始めた。

 三針目を結び終える頃、アルドが小さく顔をしかめる。


「痛みますか」

「少し」

「最初から言ってください」

「治療の邪魔になると思った」

「痛みを隠される方が邪魔です」


 ノアは怒っていたが、包帯を巻く指は慎重だった。


「帰ったら、腕を高くして休んでください。私が後で確認に行きます」

「研究員宿舎から?」

「医療上必要ですから」


 フィアが記録札へ一行加える。


「訪問理由は診療と記載します」

「事実です」

「はい」


 視線が一瞬だけ交わり、二人とも先に逸らさなかった。

 アルドが撤退した後、第一柱の作業は続いた。

 七分間の低風圧時間が残り三分へ減る。


「柱材、起こすぞ!」


 ナディルの指示で、学生たちが牽引索(けんいんさく)を引いた。

 黒銀色の柱がゆっくり立ち上がる。リィナは【噴歩・逆制(ふんぽ・ぎゃくせい)】を低出力で使い、横へ流れた柱脚へ肩を当てて位置を戻した。最大出力は禁止されているため、足元の噴射は一瞬だけ。押し切るのではなく、傾きが戻る方向へ力を足す。


「固定爪、今!」


 レイルが足裏から【硬土】を流し、地面の割れを止める。

 セレネが第一案を破棄し、第二案の地脈接続へ切り替えた。


「海側位相、六度ずれています。レイル、七環導杖の第三環を四割五分で接続。増やさないでください」

「四割五分、接続」


 正式修理された杖の第三環が淡い青に光る。

 王核大陸の傷跡を残した灰色の導線へ、海の魔力が流れ込む。以前なら白環命令が中枢へ向かった経路を、灰環式の退出線が外周へ逃がした。

 柱が立った。

 岬の上へ、最初の【双岸通信杭ツイン・ショア・アンカー】が風を受けて低く鳴った。

 音声変換板へ、レイルが作った混成周期を入力する。


「送信内容は三件です」


 セレネが確認する。


「【こちら人間圏】、【帰還者生存】、【受信可能なら応答】」

「王核側へ伝わる文字は?」

「灰環交易語へ変換済みです。ただ、意味が崩れた場合に備え、地脈符号も併記します」


 少女型ニアは光学投影だけで符号板の上へ立っていた。


『周辺魔力、海域方向へ流出中。レイルからの吸引は申請しません。通信優先でーす』

「正しい」

『たまには褒めてください』

「よく判断した」

『急に素直だと、逆に不安です』


 送信が始まった。

 四拍。

 三拍。

 五拍。

 海へ向かって放たれた魔力は、光にも音にも見えない。通信杭の環が回り、岬の岩から地脈へ、地脈から海底へ、細い震えを送り出す。

 最初の一分、返事はなかった。

 二分。

 三分。

 学生の何人かが息を吐き、教官は次の調整を始めようとした。

 ナディルだけが左耳の補聴具へ手を当てたまま動かない。


「待て」


 全員の手が止まる。


「外から来る。波じゃない。弱いが、同じ間隔を二度繰り返してる」


 音声変換板へ、一本目の光が灯った。

 短い。

 長い。

 短い。

 ニアが符号を拾い、少女型の両手へ文字を展開する。


【生存】


 次の信号。


【受信】


 三つ目。


【誰】


 レイルの喉が固まった。

 灰環式の単語順。最後の短い符号には、小角族が相手を呼ぶ時に使う地脈音の癖が混ざっている。


「これ、()()()だ」

「断定根拠は?」


 セレネが尋ねる。


「最後の二拍。灰橋宿でミュラが自分の名を書く時、いつも間を一つ早く置いた。たぶん、同じ癖だ」

『一致率、六十八%。ミュラ候補、最上位です』


 レイルは返信板へ手を置いた。

 すぐ書きたい言葉が多すぎた。

 ただいま。

 全員帰った。

 約束を守った。

 また行く。

 元気か。

 灰橋宿は無事か。

 それらを一度に送れば、今の細い通信は崩れる。


「三件に絞ってください」


 フィアの副担当から記録を受け取ったセレネが言った。


「レイル。今、向こうが知る必要がある順で」


 レイルは指を動かした。


【レイル】


【全員帰還】


【また話す】


 送信環が回る。

 三つの言葉が海へ消えた。

 返事は来なかった。

 海域の魔力が再び乱れ、ナディルが通信を切る。


「追うな。今日は一本目だ」


 レイルは返信板から手を離した。


「届いたか分からない」

「向こうも同じことを思ってる」


 ナディルは左耳の補聴具を閉じた。


「だから次の杭を立てる。声を大きくする前に、戻ってくる間隔を作るんだ」


 夕暮れの断航岬で、一本目の通信杭が風を受けていた。

 海の向こうへ渡る道は開いていない。

 それでも、誰かが生きていると送り、こちらも生きていると返した。

 たった六つの言葉が、地図の両端へ初めて同じ線を引いた。


【今回の登場人物】


・レイル・アルヴァート


 送りたい言葉を三件へ絞り、海を渡らず【レイル・全員帰還・また話す】を一本目の通信杭から返した少年。


・セレネ・グランツ


 人間圏式と灰環式の通信周期を接続し、レイルが多すぎる言葉を今必要な三件へ選べるよう支えた術式設計者。


・リィナ・アルセイル


 安全線の内側でも足元を見失うレイルを引き戻し、低出力の噴歩で傾く通信杭の柱脚を支えた剣士。


・ナディル・セオン


 目に見えない海底魔力の流れと外から返る微弱な振動を左耳の補聴具で拾い、通信を追いすぎず切った探索隊長。


・フィア・レコード


 アルドが治療後も作業へ戻ろうとすることまで予測して撤退を決め、自分の記録役を副担当へ渡して付き添った目録官。


・ノア・エルグラム


 治療すれば戻せるという自信をフィアへ止められ、傷を閉じた後の無理まで考えてアルドの撤退を受け入れた研究者。


・アルド・クロイツ


 通信箱を守って右腕を負傷し、ノアの治療を信じたまま、フィアが変更した帰還任務を自分の意志で選んだ少年。


・ニア


 通信優先のため吸引を申請せず、三つの王核側信号を【生存・受信・誰】へ変換してミュラ候補を示した疑似人格。


【今回の能力・設定メモ】


・【双岸通信杭ツイン・ショア・アンカー


 人間圏式と灰環式の周期を接続し、断航海域を越えて短い符号を送受信する通信設備。転移機能は持たない。


・最初の王核側信号


 【生存】【受信】【誰】の三件。小角族の地脈符号に似た癖から、ミュラによる応答の可能性が高い。


【次回】


 九十九秒で止まる少女型と短い通信を伸ばすため、最後の一%が誰のために空いているのかを調べます。


 荒海を越えた六つの短い言葉は、一本目の杭が倒れなかった証です。レビュー、ブックマーク、フォローで、次の応答へ続く細い通信を支えていただければ幸いです。

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