第150話「海へ行く学院」
いつもの教室を離れると、同じ仲間でも隣にいる時間が変わります。
旅行のような一日は、知らなかった距離を見つける日にもなります。
三年次継路遠習初日。
夜明け前の学院正門には、青白い魔導灯と眠そうな学生が並んでいた。
長距離移動用の軌輪魔導車は六両。黒い車輪の外側へ風圧環が取り付けられ、車体側面には学院の七塔紋と、蒼潮港行きの行程札が掲げられている。荷物係の教官が袋数を確認するたび、まだ暗い石畳へ番号が響いた。
レイルは三袋と母の毛布を抱え、四度目の重量確認を受けていた。
「毛布が個人荷物欄にありません」
フィアが一覧を見る。
「母親枠らしい」
「規定に存在しません」
「母さんが教官へ交渉した」
荷物係が別紙を差し出した。
「保護者追加防寒具、一点。学院長承認済みです」
「本当に枠ができたのですね」
「前例になるのか」
「次回から申請欄が増える可能性があります」
レイルは母の行動力を少し恐れた。
リィナは共有食料袋を含む四袋を運び、セレネは共同資料箱を両手で抱えている。アルドの地図はフィアの鞄へ移され、本人はノアの研究箱二つを持っていた。
ノアは朝から箱の持ち方へ口を出している。
「右側が三百グラム重いので、肩の高さを揃えてください。身体を傾けると腰へ負担が移ります」
「この方が歩きやすい」
「短距離だけです。十分後に左の腰が張ります」
「十分後に替える」
「張る前に替えてください」
「分かった」
アルドは素直に持ち直した。
フィアはその様子を見て、少しだけ視線を下げた。ノアの助言が正しい時、対抗する理由はない。それでも、アルドが自分以外の言葉へすぐ従う姿を見ると、胸の奥へまだ名前のない引っかかりが残る。
「フィア」
「はい」
「地図を頼む」
アルドが言った。
「俺が持つと逆になる。到着まで管理してほしい」
「受理します」
短い依頼だった。
それだけで、引っかかりが少し軽くなったことを、フィアは記録しなかった。
乗車札に従うと、レイルは第三車両の通路側だった。
窓側にはセレネの名札がある。
「事前予約ですか」
リィナが札を覗く。
「班ごとの指定です。通信術式班は同じ車両にまとめられています」
「私は第四車両」
「沿岸救助班ですから」
「分かってるけど、出発くらい一緒でよくない?」
リィナは自分の札を裏返し、何か見落としがないか確かめた。
少女型ニアが光学投影で座席の背から顔を出す。
『臨時座席交換、規則上は教官承認があれば可能です』
「本当?」
『ただし、セレネと交換すると通信術式班の連絡効率が低下します』
「じゃあ、ニアが真ん中に座れば?」
『ニアちゃん、物理座席ありません』
「半実体になれば座れる」
「そのために俺の魔力を使うな」
『出発日の思い出、プライスレスです』
「消費は一%だろ」
『現実的な値段ついてますねえ』
結局、ニアが外部槽から一%だけ受け、レイルとセレネの間の狭い肘掛けへ半実体で腰を下ろした。
リィナは通路へ立ったまま、その配置を見た。
「それ、私が座る場所なくない?」
「最初から第四車両です」
「セレネ、正論で追い返さないで」
「追い返してはいません。出発まで話す時間はあります」
発車鐘が一度鳴る。
リィナはレイルの肩へ手を置いた。
「昼、停車地で会うから。先に食べないでね」
「共有食料はリィナが持っているだろ」
「学院の弁当があるでしょ」
「分かった。待つよ」
「絶対だよ」
リィナは第四車両へ走っていった。
車輪がゆっくり回り、学院の塔が窓の外へ流れ始める。
レイルが振り返ると、正門前で両親がまだ手を振っていた。エナの隣で、バルドは腕を上げず、こちらが見えなくなるまで立っていた。
魔導車が王都を抜ける頃、車内の緊張は遠足の騒がしさへ変わった。
術式科の学生は窓へ走る地脈線を数え、工房科は車輪の排圧音へ耳を澄ませる。通路の向こうではカード遊びが始まり、別の席から甘い焼き菓子の匂いが漂った。
レイルとセレネは最初こそ通信杭の資料を開いたが、ニアが二人の間から紙を押し下げた。
『出発一時間目から補習禁止。リィナとの夕食報告で、また怒られますよ』
「移動時間を使わないのは非効率です」
セレネが言う。
『セレネ、今日は窓の外見てもいい日です。たぶん』
「根拠が曖昧です」
『学生遠習の満足度調査、景色見た班の方が高いです』
「その調査はどこで?」
『今、即興でニアちゃんが作りました』
「却下です」
それでもセレネは資料を閉じた。
窓の外には、朝露を残した麦畑と、遠くまで続く低い丘が流れている。レイルは王核大陸の赤い岩地を思い出し、無意識に景色を地図へ置き換えていた。
「何を見ていますか」
「川の曲がり方。王核大陸の灰橋宿へ入る川と少し似ている」
「私も思いました」
セレネの声が柔らかくなる。
「向こうでは、窓から景色を見るだけの移動はありませんでした。荷車へ乗っても、白環の痕跡や追跡獣を探していたので」
「今も地形を見てる」
「癖はすぐには抜けません。ただ、今日は襲撃経路を探していないでしょう」
「崖崩れの可能性は見てる」
「半分しか抜けていませんね」
セレネは笑い、窓枠へ頬杖をついた。
「こうして同じ景色を見る時間を、私は欲しかったのだと思います」
「研究じゃなくても?」
「研究だけなら、貴方が別の人を好きになっても続けられます。私が欲しいのは、それだけではありません」
告白を繰り返す声ではなかった。
好きだと伝えた後に、欲しい時間の形が少しずつ分かってきた人の声だった。
「王核大陸へ次に行く時も?」
「同行したいです。研究者として役に立ちます。それから、研究者でなくても隣にいたい」
レイルは返事を急がなかった。
セレネも求めなかった。
窓へ映る二人の間では、ニアがすでに猫型へ縮んで眠っている。片方の肘掛けから尾が落ち、車体の揺れに合わせて動いていた。
昼の停車地で、リィナは約束どおり第三車両まで迎えに来た。
「待った?」
「十分くらい」
「先に食べなかった?」
「食べてない」
「よし」
リィナは芝地へ敷物を広げ、共有食料袋からパンと肉、果実を並べた。
セレネも隣へ座る。
「車内で何してた?」
「景色を見ていました」
セレネが答える。
「二人で?」
「ニアもいました」
『途中から猫型で寝てましたけどねー』
「それ、二人で見てたってことじゃん」
「はい」
セレネはごまかさなかった。
リィナは果実を一口齧り、少し考える。
「楽しかった?」
「楽しかったです」
「レイルも?」
「ああ。王核大陸の移動より静かだった」
「そっか」
リィナはそれ以上責めなかった。
「じゃあ午後は、私の車両に来て。班の子がレイルの測定値のこと聞きたがってる」
「俺が見世物になるのか」
「違うよ。魔力量が五倍って、本当に五倍の魔法が出るのかって聞かれた」
「出ないだろ」
「それを本人から説明して。私が言うと『幼なじみだから庇ってる』って言われる」
「庇ったのか」
「当然でしょ。レイルは化け物じゃないって言った。むしろ病気だってね!」
リィナはそこで一度、言葉を止めた。
「……数値は、ちょっと化け物っぽいけど」
「庇えてないじゃないか」
「本人は普通だからいいの!」
午後、レイルは第四車両で同学年の質問攻めに遭った。
「本当に平均の五倍あるの?」
「総魔力量の学院指数はそれくらいみたいだ」
「じゃあ中級魔法を五倍撃てる?」
「瞬間出力は平均の一・六倍程度。五倍出そうとしたら俺の魔力経路が焼ける」
「一時間戦っても精度が落ちないって?」
「落ちる。基礎魔法なら崩れにくいだけだ」
「王核大陸では普通だったって本当?」
「四本腕で魔力炉が四つある魔王種や、大型魔獣と比べれば、総量だけで勝てる数値じゃない」
質問者の少年は、想像が追いつかない顔をした。
「それでも、人間ではすごいんだろ」
「同年代では多いみたいだな。でも、魔力量があっても知らない海は渡れない」
レイルは前方車両にいるナディルを思い出した。
「俺が知ってるのは、王核大陸で生きる方法の一部だ。断航海域の航路は知らない。だから今回は教わる側だ」
リィナは隣席の背へ腕を置き、満足そうに頷いた。
「そういうこと。あと、レイルは走ると私より遅いよ」
「比較に必要か?その情報」
「近くで勝てる人がいるって教えてる」
「剣でも負けるよな」
「私、無詠唱は負ける」
「なら公平か」
「また公平って言った」
周囲が笑い、レイルは何が悪かったのか分からないまま口を閉じた。
夕刻、魔導車は蒼潮港へ到着した。
車窓の向こうへ海が現れた瞬間、車内の話し声が一度途切れた。
空と同じ色の水面が、街の向こうから地平線まで続いている。港には白帆の商船、黒い鉄殻船、漁船が幾列も停まり、塔ほど高い荷揚げ機が太い鎖を巻き上げていた。潮の匂いへ魚、油、濡れた木材の匂いが混ざる。風は学院の丘より強く、制服の裾と髪を絶えず引いた。
リィナは長い髪を片手で押さえ、目を輝かせた。
「わあ――大きいね」
「王核大陸から見た海より穏やかだな」
「比べるの、そこなの?」
「波の高さが違う」
「私は、まず綺麗とか言うと思った」
「ああ。綺麗だ」
レイルが続けると、リィナは不意を突かれたように黙った。
「海が?」
「海も。――リィナも」
「……風で髪ぐちゃぐちゃなんだけど」
「朝より少し乱れている」
「そこを分析しない!」
照れ隠しに彼女はレイルを少し小突いた後、リィナは髪を結び直すため背を向けた。耳まで赤い。
少し離れた場所で、セレネが荷物札を確認しながら二人を見ていた。レイルの言葉が自然に出たことへ、胸の奥が小さく痛む。それでも、リィナの赤い耳を見て、不機嫌さだけを持ち続けることもできなかった。
夜までに、学生たちは混成班へ分かれて最初の港湾依頼を受けた。
レイルの班は、倉庫街の結界柱修理。
セレネは別の通信器材点検。
リィナは漂着した小型魔獣の追い払い。
フィアとアルドは迷子になった低学年見学者の捜索。
ノアは研究員として港の魔力観測所へ向かった。
いつもの仲間だけで固まらない配置は、思った以上に落ち着かなかった。
レイルは初めて組む工房科生へ結界柱の修理手順を任せ、自分は基礎【硬土】で傾いた台座を支える。工房科生が失敗し、接続線が火花を散らしても、手を出す前に本人へ修正案を尋ねた。
「帰還者なら、すぐ直せるんじゃないか」
「直せるかもしれない。でも、明日から管理するのは君たちだろ」
「失敗したら?」
「台座は俺が支える。結界が切れたら教官が止める。だから今、やってみてくれ」
工房科生は二度目で接続を通した。
遠くの波止場では、リィナが【噴歩・逆制】で濡れた石畳の停止線ぴったりへ止まり、小型魔獣の前へ剣の鞘を突き出している。速さよりも、荷運び人へぶつからず止まったことに、救助班の同級生たちが驚いていた。
夕食後、約束どおり三人で一日の話をした。
港宿舎の屋上。潮風を避ける低い壁の内側へ座り、リィナは魔獣を追い払った話、セレネは通信器材の古い規格へ苦労した話、レイルは工房科生へ手を出しそうになった話をした。
「我慢できたの?」
リィナが尋ねる。
「一回、工具へ手が伸びた」
「伸びたんだ」
「途中で止めた」
「偉い」
「子供を褒める言い方だな」
「十四歳でしょ」
「リィナもだ」
「私は手を出しすぎない」
「魔獣を港の外まで追いかけようとして、班長へ止められました」
セレネが記録を読む。
「なんで知ってるの?」
「共通報告板にありました」
「自分の話だけ綺麗にまとめた!」
笑いが潮風へ流れた。
その頃、研究員宿舎の入口では、ノアが廊下の時計を見ていた。
学生宿舎とは建物が別で、門限後は相互の出入りができない。王核大陸では同じ野営地へいたアルドとフィアが、今夜は別の棟にいる。
ノアは自分で選んだ研究員資格の便利さと、その資格が作る距離を同時に味わっていた。
玄関が開く。
アルドが研究箱を一つ抱え、フィアと一緒に入ってきた。
「忘れ物だ」
「一人で来なかったのですね」
「夜間の単独移動は禁止です」
フィアが答える。
「私が止めました」
「規則なら従うべきです」
ノアはそう言い、箱を受け取った。
「残念そうに見えます」
「見間違いです」
「記録官としては――」
「私的な表情を記録しないと決めたのでは?」
「必要な場合は本人へ確認します」
「今は不要です」
アルドが箱の中身を確認する。
「壊れていないか」
「問題ありません。持ってきてくれたことには感謝します」
「明日も通信班か」
「はい。貴方は救助班です」
「怪我をしたら来る」
「怪我をしないでください」
「努力する」
ノアは一度だけ、アルドの手へ視線を落とした。傷は昨日より薄くなっている。
「フィアも、明日は気をつけてください」
「私もですか」
「アルドだけへ言えば、不公平だと考えるのでしょう」
「私は公平を求めているわけではありません」
フィアは少し考えた後、続けた。
「ですが、気遣いは受け取ります。ノアも、夜通し研究しないでください」
「予定は三時間です」
「昨日も同じことを言って、五時間でした」
「誤差です」
「二時間は誤差に含めません」
アルドが二人の間へ立つ。
「明日の朝、起きていなければ迎えに来る」
「研究員宿舎へ学生は入れません」
「入口で待つ」
「待たせません。三時間で終えます」
ノアは初めて、少し笑った。
三人は同じ宿舎へ戻れない。
けれど、明日の集合時刻は同じだった。
学院が海へ来た一日目は、事件も転移も起こさず終わった。
普通の旅行に見える時間の中で、レイルたちは、自分が誰の隣にいると落ち着き、誰がいないと気になるのかを、少しずつ知り始めていた。
【今回の登場人物】
・レイル・アルヴァート
魔導車ではセレネと景色を見て、港ではリィナを綺麗だと不意に褒め、混成班では他人の失敗へ手を出すのを途中で止めた少年。
・リィナ・アルセイル
昼食を先に食べない約束を守らせ、海風で乱れた姿を褒められてから、分析を足したレイルへ真っ赤になった剣士。
・セレネ・グランツ
研究以外の景色もレイルと共有したいと伝え、幼なじみへ自然に出た褒め言葉へ痛みを覚えても二人を責めなかった少女。
・ニア
出発日の思い出を理由に一%を吸引して肘掛けへ座り、補習資料を押し下げて学生らしい移動時間を作った疑似人格。
・フィア・レコード
アルドから地図の管理を頼まれたことを私的には記録せず、夜間規則を守って研究員宿舎まで同行した目録官。
・アルド・クロイツ
地図をフィアへ預け、ノアの忘れ物を一人で運ばず、翌朝起きなければ入口で待つと約束した護衛科生。
・ノア・エルグラム
研究員宿舎という大人の立場がアルドたちとの距離も作ると知り、二人へ同時に気をつけるよう伝えた研究者。
【今回の能力・設定メモ】
・軌輪魔導車
地脈と風圧環を利用する学院の長距離移動車。班ごとに車両を分け、蒼潮港まで一日で移動する。
・蒼潮港の混成班実習
いつもの仲間だけで固まらず、異なる科の学生と低危険度依頼へ挑む。帰還者の経験を他の生徒へ渡す訓練でもある。
【次回】
断航岬へ最初の通信杭を立て、荒海の向こうから三つの短い言葉を受信します。
窓から同じ景色を見た時間も、別々の宿舎から同じ朝を待つ約束も旅の一部です。レビュー、ブックマーク、フォローで、海へ来た学院の二日目以降も見守っていただければ幸いです。




