第148話「Sランクは何でもできません」
強い人がいれば、危険そのものが消えるわけではありません。
強さを頼るなら、その人が何を引き受け、何を引き受けないかも知らなければなりません。
レイルたちが人間圏へ帰還して、三か月が経過していた。
朝の王立結着学院中央講堂は、三年次生の話し声で天井まで震えていた。
半円形に並んだ長椅子には、術式設計科、武装戦技科、記録契約科、魔導工房科、治療科の制服が入り交じっている。壇上の背後へ掛けられた大地図には、人間圏西岸から断航海域までが描かれ、その先だけが古い青色で塗り潰されていた。
レイルが講堂へ入ると、近くの会話が一瞬だけ細くなった。
「あいつら......帰還者だ」
「測定環を二つ替えたって、本当か」
「総魔力が三年次平均の五倍だろ?」
「でも冒険者ランクはDなんだよな」
囁きは聞こえていた。
レイルは聞こえないふりをして席を探したが、術式科の同級生たちが通路を空ける速度まで以前と違う。恐れられているほどではない。けれど、近くで見たい好奇心と、うっかり触れて何か起きないかという警戒が混ざっていた。
セレネが自分の隣の席へ鞄を置き、空席を確保していた。
「こちらです」
「席取りは禁止されていなかったか」
「私が先に来て、自分の荷物を管理しているだけです」
「二席分使っている」
「貴方が来ましたので、今は一席分です」
レイルが座ると、セレネは鞄を膝へ移した。淡金髪の毛先が制服の襟へ触れ、以前よりわずかに長くなっている。隣同士で机へ腕を置くと、幼い頃より肩の位置が近かった。
武装戦技科の列から、リィナがこちらを見つけた。
金茶色の瞳がセレネの鞄、レイルとの間隔、空いている反対側の席を順に見る。やがて剣帯を揺らして階段を上がってきた。
「そこ、空いてる?」
「武装戦技科の指定区画は下段です」
セレネが講堂入口の案内札を示す。
「始まるまでならいいでしょ。レイルに話がある」
「朝練で話していた」
「朝練の後に増えた話」
「何が増えたんだ」
「今日の昼、絶対に術式塔から出てきて。私が行くと、また食べながら補習になるから」
「昼の課題が残っている」
「残ってても外で食べられるよね」
「資料が――」
「持ってこない」
リィナはレイルの机へ両手を置き、少し身を屈めた。
「昨日は成功した魔法の話を、私が聞くまで言わなかった。今日は、聞かなくても話して。朝と昼と放課後しか会えないんだから、その時間まで授業の続きをしないで」
「放課後は訓練がある」
「そう。だから昼は一緒に食べるのっ」
断る余地を残さない言い方だったが、瞳の奥には怒りより先に不安があった。
「分かった。中庭へ行く」
「約束ね、指切り」
リィナは満足して下段へ戻った。
セレネは前を向いたまま、机の端へ指を揃えている。
「私との補習は、昼休みから外します」
「時間が足りなくならないか」
「放課後の研究日に回します」
「リィナの訓練日と重なる」
「曜日を調整します。私は、リィナから時間を隠してまで貴方と過ごしたいわけではありません」
「隠しているとは思っていない」
「レイルが思わなくても、リィナは知らない時間が増えるたび不安になります。私は告白を済ませていますから、その不安を知らないふりで利用したくありません」
セレネの声は静かだった。
「ただ、私の時間まで譲るつもりもありません。研究日は残します」
「そこは譲らないのか」
「はい。好きな人と術式を組む時間を、自分から全て減らすほど、私はお人よしではありません」
レイルは返事を探したが、その言葉を紡ぐ前に壇上の扉が開き、講堂が静まった。
最初に入ってきた男は、潮焼けした褐色の肌と、青緑がかった黒髪を持っていた。二十九歳。髪は首の後ろで束ね、風を受ければ帆のように広がりそうな青い長外套を片肩へ掛けている。左耳には、薄青い貝殻型の魔導補聴具。背中へ斜めに背負った槍は、穂先ではなく折り畳まれた帆骨のような形をしていた。
Aランク長距離探索隊【青渡り】隊長、ナディル・セオン。
彼は壇上へ上がる途中、左側から声をかけた学院教官へ反応せず、右側へ回られて初めて気づいた。
「悪い。こっちは魔力嵐へ置いてきた」
ナディルは左耳の補聴具を指で叩いた。
「聞こえないままでも仕事はできるが、学生の質問を無視したことにされると評判が落ちる。質問は右から頼むぜ」
軽い笑いが講堂へ広がった。
続いて入ってきた女には、笑いが起こらなかった。
四十二歳。短く切った銀金色の髪、薄い空色の瞳、背の高い身体を包む白灰色の外套。装飾の少ない黒い実戦服の右肩から先には肉体の腕がなく、代わりに透明な結界板を重ねた【界層義腕】が浮かんでいる。板の一枚一枚へ異なる術式が走り、指を曲げるたび細い光が重なった。
Sランク特例指定冒険者。【天渡り】代表、イレーネ・ヴァルセイド。
学院長が紹介を始めようとしたが、イレーネは一歩だけ前へ出た。
「肩書は今聞いたとおりです。先に、誤解を一つ減らします」
声量を上げていないのに、最上段まで明瞭に届いた。
「私はSランクですが、断航海域を安全な海へ変えられません。海域中央に発生する空間断層を一人で閉じることも、失敗した転移先から必ず学生を回収することもできません。今回の遠習へ私が参加すると聞いて、王核大陸まで行けると思った者は、その期待を今ここで捨ててください」
講堂のどこかで、落胆の息が漏れた。
レイルの大陸記が売れた影響もあり、王核大陸は危険な魔境ではなく、行ってみたい未知の大陸として学生たちの関心を集めている。レイルたちが帰ってきた事実だけを見れば、自分たちにも渡れると思う者が出るのは何も不思議なことではなかった。
イレーネは地図の断航岬を義腕の指で示した。
「三年次学院行事【三年次継路遠習】。期間は十日。目的地は蒼潮港と断航岬。実施内容は港湾クエスト、救助訓練、物資計画、野外宿泊、遠距離通信、中継杭の設置です」
次に、地図の沖へ一本の線を引く。
「学生が越えてよいのは、沿岸警戒線まで。断航岬の外へ出る船には乗せません。転移ゲートも開きません。私たちが作るのは通信網です」
ナディルが帆槍を肩から外し、床へ立てた。
「海は勇気を採点しない。帰れた航路だけが、次の地図になる。王核大陸から帰った七人には、向こうで生きた経験がある。だが、海域を渡る専門家になったわけじゃない。そこを混ぜると、次は帰れない」
下段の学生が手を上げた。
「Sランクがいるのに、どうして沖へ出られないんですか」
「俺が答えよう」
ナディルは右耳を質問者へ向けた。
「イレーネは都市級結界を張れる。俺は魔力嵐の流れを読む。船もある。だから沿岸での事故なら、かなりの確率で学生を連れ帰れる。だが、沖へ百里出れば、その確率が下がる。二百里で、救助船まで帰れなくなる。お前たちを学ばせるために、救助する側の帰路まで賭ける理由はない」
「でも、帰還者たちは――」
「強制転移で飛ばされた。選んで行った旅じゃない」
ナディルの軽い口調から笑いが消えた。
「生還した子供へ、もう一度同じ目に遭えと言う大人にはなるな。経験は借りる。傷まで再現させない」
レイルは机の下で左手首を押さえた。
左手首に痛みはなかった。それでも、自分たちの一年を武勇伝ではなく救助の記録として正面から言い切られ、身体の奥が強くこわばった。
壇上のイレーネが、今度はレイルへ視線を向ける。
「レイル・アルヴァート」
「はい」
「あなたは学生協力員として、王核側の言語、通信周期、分散座標の記録を提供します。ただし、現場指揮権はありません。異常を発見しても、一人で術式へ触れない。保持を増やさない。海域へ出ない。守れますか」
全員の視線が集まる。
以前なら、必要な場合の例外を先に尋ねていただろう。レイルは少し考え、答えた。
「異常を見つけたら、ナディルさん、イレーネさん、学院教官、フィアの順に共有します。緊急で誰かの命が危ない場合でも、単独で未完の四件目は持ちません」
「三件目は?」
「監督者がいなければ持ちません」
「言い換えて逃げなかった点は評価します。必ず、守ってください」
イレーネは次にリィナ、セレネ、アルド、フィアへ、それぞれ異なる制限を確認した。
リィナには、沿岸施設内での【噴歩】最大出力禁止。
セレネには、許可なく通信術式へ分岐案を追加しないこと。
フィアには、全班の安全管理を一人で引き受けないこと。
アルドには、単独で地図を見て移動しないこと。
「最後だけ能力制限ではない気がするな?」
アルドが言うと、ナディルが真顔で答えた。
「海で方向を間違えると、次の陸地まで数百里だ。陸の迷子より規模が大きい」
「地図は十二枚持っている」
「はは、それは一枚にしろ」
「不足しないか?」
「十二枚が全部違う方角を向いていたら、迷う回数も確率も十二倍になっちまうぜ」
講堂が笑いに包まれた。
行事説明の後、参加者ごとの班分けが掲示された。
レイルとセレネは通信術式班。
リィナは沿岸救助・実戦班。
フィアとアルドは学生護衛・避難班。
ノアは学院生ではなく、通信研究班の客員監督。
掲示板の前で、ノアの赤紫色の瞳が一行を長く見つめていた。
「配置に異議があります」
「どこですか」
フィアが尋ねる。
「アルドと私の班が離れています。血液提供者の健康状態を継続観察するには、同一班が合理的です」
「通常の血液提供予定はありません。緊急時も学院医療規則を優先します」
「健康観察は採血の有無に限りません。食事、睡眠、負傷、過労――」
「朝食の席や就寝前の会話まで含める予定ですか」
「必要なら」
「それは医療観察の範囲を越えています」
「記録官が範囲を決めるのですか」
「遠習中の学生生活は私の担当です」
ノアはフィアを見た。
フィアも目を逸らさない。
アルドが掲示板の地図を逆さに持ち直しながら言う。
「同じ班の方が命令を受けやすい。フィアの番号指示は分かりやすい」
ノアの指が、異議申請用紙の端で止まった。
「……そうですか」
「ノアの治療も必要だ。怪我をしたら通信研究班へ戻る」
「怪我をする前提で動かないでください」
「怪我をしないよう動く。した場合の話だ」
ノアは申請用紙を取らなかった。
「配置への異議を撤回します。学生護衛班としては、フィアとの組み合わせが最適です」
「私情で変更しないのですね」
「私は百二十年以上、理論を現実へ合わせてきました。感情一つで安全配置を崩すほど未熟ではありません」
フィアは少しの間を置いて話し出した。
「感情は、あるのですね」
「今の発言は質問として不適切です」
「回答は記録しません」
「なら聞かないでください」
ノアは早足で掲示板を離れた。耳が赤い。
アルドがフィアへ尋ねる。
「なぜ怒った」
「怒ってはいません」
「ノアも同じことを言う」
「同じにしないでください」
その日の夕方、学院は帰還者家族向けの説明会を開いた。
レイルの父バルドは、教室の前列で腕を組んでいた。日に焼けた大きな手は膝の上へ置かれているが、遠習計画書の角が指の下で少し曲がっている。母エナは隣で資料を読み、時折レイルの顔を確かめた。
「帰ってきて、まだ三か月しかたっていないぞ」
バルドは計画書から目を上げた。
「学院へ戻ることには反対しなかった。勉強も、訓練も必要だと思う。だが、もう海へ行くっていうのか?」
「王核大陸へ渡るわけじゃない。蒼潮港と断航岬までだ」
「行方不明になる時も、学院の実習だったはずだが」
そういいながらバルドは学院側をじろりとにらんだ。
その一言へ、レイルはすぐ返せなかった。
「今度は違う」と言い切るには、前回も全員が安全だと思っていた。
エルシア・ヴァントが壁際から椅子を引き、バルドの正面へ座った。金色の髪を無造作にまとめた師匠は、普段の軽口を挟まなかった。
「バルドよ、前回、私たちは地下端末の危険を読み切れなかった。学院側の失敗だよ。今回も絶対に何も起きないとは言わない」
「なら、行かせない方がいいだろうが」
「それも一つの判断だ。でもレイルたちは、王核大陸とつながる技術を誰かが作る限り、いつか関わる。知らない大人だけで作った通信網へ、後から巻き込まれるより、今のうちに学生の立場で制限を学ばせたい。それに、レイルがお前が止めても行く子だっていうことは、わかっているだろう?」
バルドの眉間の皺は消えない。
「また、こいつが全部背負わない保証はあるのか」
「保証はできないね」
エルシアはレイルを見た。
「だから、今回は背負った時点で止める人間を増やした。Aランク、Sランク、学院教官、フィア、ニア、ノア、セレネ、リィナ。バカ弟子が一人で賢くなるのを待つより早い」
「師匠の説明としてどうなんだ」
「三か月で四件保持の癖が治るなら、もっと上品に言うんだがね、あたしゃ」
イレーネも家族の前へ立った。
「学生は断航岬より外へ出しません。私と青渡りが先に危険を引き受けます。また、私たちの判断で全日程を中止する場合があります。その時は、学生の希望は聞きません」
バルドは義腕へ目を向けた。
「その腕は、昔の仕事で?」
「境界崩壊を切断した時に失いました」
「子供を守るために、また何か失うつもりか」
「失わない計画を作ります。それでも選択が必要になれば、学生より先に私が負います。大人として、その順番だけは譲りません」
エナがレイルへ尋ねた。
「ねえレイル。あなた自身は、行きたいの?」
レイルは計画書を見た。
王核大陸と通信できるかもしれない。ミュラたちへ、生きて帰ったと伝えられるかもしれない。次に会う約束を、地図の文字だけで終わらせずに済む。
「母さん。僕はまた行きたい。でも、前みたいに何でも試したいわけじゃない。通信杭を作って、決められた場所から帰ってくる。途中で中止されたら従うよ」
「誰かが向こうから助けを求めたら?」
母の問いは、計画書より厳しかった。
「……すぐに飛ばない。場所と人数と、こちらから届く方法を確認する。一人では決めない。僕には仲間がいる」
「その答えを、忘れないでね」
エナは資料へ署名した。
バルドはまだ迷っていたが、最後に大きく息を吐き、父親欄へ名を書いた。
「帰る日を決めてから行け」
「十日後だ」
「遅れる時は」
「通信する」
「通信できない時は」
「ナディルさんとイレーネさんの判断で撤退する」
「自分で全部背負うなよ」
「分かった」
バルドは署名した紙をレイルへ渡さず、イレーネへ直接預けた。
「こいつが条件を増やしたら、止めてください」
「承知しました」
「父さん、俺より信用されてないか」
「実績の差だな」
帰り道、ニアが猫型でレイルの肩へ座った。
『本日の少女型維持、ゼロ%でした。説明会で実体化すると、ご家族の警戒値が上がるため自粛しましたニャン』
「正しい判断だ」
『なので、明日二%へ繰り越しを――』
「繰り越さない」
『魔力ポイント制度、導入予定ナシです?』
「ない」
『マジサゲですー』
隣を歩くリィナが笑い、セレネは遠習の時間割へ早くも赤字を入れていた。
学院の外へ出る許可は出た。
王核大陸へ渡る許可ではない。
それを物足りないと思う自分が、レイルの中にはまだいる。
だからこそ、帰る日まで書かれた一枚を、今度はなくさないよう鞄の一番内側へ入れた。
【今回の登場人物】
・レイル・アルヴァート
学生協力員として通信遠習へ参加する条件を一つずつ答え、今度は海へ出ず、決めた日に帰ると家族へ約束した少年。
・リィナ・アルセイル
朝、昼、放課後しか会えない時間を授業の続きで埋めないよう求め、遠習では沿岸救助班へ配属された剣士。
・セレネ・グランツ
リィナの不安を利用せず時間割を調整しながら、自分の研究時間と好意まで全て譲る気はないと明言した少女。
・ナディル・セオン
左耳を魔力嵐へ失いながらも、帰還経験と海域越境の専門技術を混同させなかったAランク探索隊長。
・イレーネ・ヴァルセイド
Sランクでも断航海域を安全にはできないと最初に告げ、大人が危険を先に引き受ける順番を家族へ約束した冒険者。
・ノア・エルグラム
アルドと別班になる寂しさを医療観察で包もうとしたが、安全配置を崩さず異議申請を取り下げた客員研究員。
・フィア・レコード
学生生活と医療観察の境界をノアへ示し、同じ護衛班となったアルドの番号指示を担当する記録官。
・アルド・クロイツ
地図を十二枚持つ計画を止められ、ノアとフィアがなぜ同じ言葉で怒るのか分からないまま護衛班へ入った少年。
・エルシア・ヴァント
絶対安全を約束せず、弟子が一人で背負った時に止める人間を増やしたと家族へ説明した師匠。
・エナ、バルド
前回の学院実習を忘れず不安を言葉にし、帰還日と撤退条件を確認してから息子の参加へ署名した両親。
【今回の能力・設定メモ】
・【三年次継路遠習】
蒼潮港と断航岬で行う十日間の学院外実習。港湾依頼、救助訓練、通信杭設置を含むが、学生の断航海域越境は禁止される。
・【青渡り】と【天渡り】
長距離探索と世界境界を専門とするA・Sランク部隊。学生の実地経験を評価しつつ、再現できない生還を安全技術として扱わない。
【次回】
十日分の荷物を三袋へ収めるため、食料、本、研究器材、地図の削減交渉が始まります。
海の先へ進む前に帰る日を書いた参加届のように、レビュー、ブックマーク、フォローで、無事に戻るための条件を一緒に支えていただければ幸いです。




