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未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――  作者: 勇者ヨシ君
第9章「九十九パーセントの魔法」

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第146話「初版完売」

 自分の言葉で得たお金は、金額以上に重く感じます。

 まして、前の人生で一度も完成させられなかった一冊なら、なおさらです。

 『地図の外の一年――王核大陸ゼルハーン滞在記』の初版は、千二百部だった。


 王都の大手出版社としては少ない。学生の体験記としては多い。

 金環商会(きんかんしょうかい)の印刷所では、活版式(かっぱんしき)の魔導印字機が夜まで動き、青灰色の表紙が積み上がった。表紙には、断航海域の向こうへ伸びる一本の未完成な線と、小さく【また戻る場所】と記された地図が使われている。

 発売初日の朝、レイルは王都中央書店の向かいに立っていた。


「中へ入らないの?」


 リィナが尋ねる。


「買う人の邪魔になる」

「著者が入口で隠れてる方が怪しいよ」

「売れ残った時に店員と目が合うのが嫌だ」

「一年間、大陸で魔王種と戦った人が、売れ残りは怖いんだ」

「戦闘は準備できる。本の売れ方は制御できない」


 レイルは外套の襟を上げた。

 隣にはセレネ、フィア、アルド、ノア、少女型ニアがいる。ニアは正式修理前のため光学投影だけで、レイルから一・五%を借りていた。


『大丈夫ですって。ニアちゃんの欄外コメント、試し読み人気トップらしいですよ』

「俺の本だ」

『共同制作でーす』

「契約上、翻訳注釈協力者です」


 フィアが訂正する。


『肩書きが固い』


 開店と同時に、十人ほどの客が入った。

 学院生。冒険者。地図商。旅行記を集める老婦人。王核大陸を魔境と信じ、危険情報を求めて来た男性もいる。

 最初の一冊を買ったのは、年の離れた兄妹だった。

 兄が表紙を見せ、妹へ言う。


「ほら、魔王が鍋を作るって書いてある」

「嘘じゃない?」

「欄外に『鍋ガチ勢』ってあるよ!どんな意味だろ」


 レイルがニアを見る。


『ガズルの説明、一般語にしただけです』

「一般語か?」

「少なくとも専門語ではありません」


 セレネが真顔で言った。


 昼までに百八十冊が売れる。

 夕方には三百六十冊。


 王都だけでなく、学院購買、冒険者組合、金環商会の各支店へ出した分も動いた。

 売れた理由は一つではなかった。


 未知の大陸への好奇心。

 帰還ゲートの仕組み。

 魔王種の生活。

 灰橋宿の「最初の椀は無料、二杯目は仕事」という制度。

 リィナが食べた肉串十四本。

 アルドが頻繁に迷った記録。

 ニアの欄外注釈。


 そして、帰還者が失敗を隠していないこと。裏表のない正直なところが受けているようだ。


♦ ♦ ♦ ♦ ♦


 書籍が販売開始されて三日目の夕方、リオンが学院食堂へ駆け込んできた。

 いつも整っている金茶色の髪が乱れ、短外套の留め具が一つ外れている。


「師匠ォォォォ!」

「その呼び方で報告を始めるな」

「初版、完売しましたよおおおおっ!」


 食堂の一角が静かになる。

 レイルは聞き返した。


「千二百部全部?」

「はい。返品見込みを引いても完売です。第二版は五千部で契約交渉を進めています」

「五千だって??」

「王都外から注文が来ています。学院教材として採用したいという話もあります」

「待て。増刷条件と印税率を確認する」

「さすが師匠。利益より先に契約条件を見るんですね」

「誰の教育だと思ってる?」

「私の師匠です」

「違うけどな」


 リオンは机へ厚い契約書と、小さな革袋を置いた。

 袋が重い音を立てる。


「初版分の著者利益です。校閲協力料、流通費、印刷費、税、王核大陸還元基金への積立を引いた残額」


 レイルは袋を開いた。

 金貨十八枚。銀貨と小貨が幾つか。学生が数年かけても貯められない額だった。

 

 レイルは前世で、小説投稿画面の閲覧数を何度も更新した夜を思い出す。

 書きかけの物語。

 誰にも読まれないまま閉じた頁。

 完成させれば何か変わると思いながら、続きを書かなかった自分。

 今、目の前にある金は、存在しない世界を上手に作れた報酬ではない。

 実際に歩き、失敗し、助けられ、帰ってきた一年を、最後まで書いた報酬だった。


(俺の文章で――稼げた......)


 喜びが先に来ると思っていた。

 実際には、怖さの方が少し早かった。

 これだけの人が読んだ。書き方を間違えれば、王核大陸への偏見も同じ数だけ広がる。


「第二版の修正期間は?」

「三日です」

「短いな」

「売れている間に出す必要があります」

「誤りを残して急ぐ理由にはならない」

「重大な修正はありますか」

「灰橋宿の仕事制度。『無償労働を強制する』と読んだ感想があった。断れることと、一杯目だけで退出できることをもっと明確にする」

「では一頁追加。印刷費は上がります」

「俺の取り分から引いていい」

「師匠、商人としては簡単に言わないでください」

「師匠じゃない。著者として必要だと言ってる」


 リオンは少しだけ笑った。


「分かりました。必要な修正として出版社へ通します」


 リィナが金貨袋を覗く。


「これで何食べる?」

「最初に家族の滞在費を返すんだ」

「リオンが受け取らないでしょ」

「両親へ直接渡す」

「受け取るかな」

「受け取らせる」


 セレネが契約書を読んでいる。


「同行者への協力料が均等ではありません」

「作業量に応じて分けた」

「リィナの食事描写協力料が高すぎます」

「食事に関する頁が一番読まれているという調査結果です」


 リオンが答える。

 リィナの顔が輝く。


「食べた分が仕事になった!!」

「次から経費だと思って増やさないでくれ」

「売れるならいいでしょ?」

「食費が利益を超えるぞ」

『リィナ、次巻は料理監修として正式契約アリかもです』

「ニアまで煽るなって」


 アルドは自分の協力料明細を見ていた。


「方向記録協力、とある」

「迷子とは書いていません」


 フィアが言う。


「頻繁に道を外れた記録へ協力した、という意味です」

「同じでは?」


 ノアが尋ねる。


「表現上は異なります」

「私の血統監修料より高いのは納得できません」

「読者人気です」


 リオンが答えた。

 ノアの赤紫の瞳が細くなる。


「読者は、百二十年の研究より方向音痴を評価するのですか」

「両方評価しています。ただ、笑える方が感想を書かれやすい」

「次版で私の術式解説を増やします」

「一般読者が読める範囲でお願いします」

「査読前に制限しないでください」


 フィアは笑いを堪えるように記録札へ視線を落とした。

 出版記念の小さな食事会は、学院食堂の隅で行われた。

 レイルは両親へ金貨の一部を差し出す。

 母エナは受け取らなかった。


「あなたが帰ってくるまで近くにいたくて使ったお金よ。返してもらうためじゃない」

「でも、俺がいなければ必要なかった」

「あなたがいなかったから必要だったの。意味が違うわ」


 バルドは袋を持ち上げ、重さを確かめる。


「全部は受け取らん」

「父さん」

「お前が働いて得た金だ。半分だけ預かる。家の修理と、お前が次に帰ってくる部屋の修繕費へ使う」

「次に帰る部屋?」

「また行く気だろ、お前は」


 レイルは黙った。

 父は続ける。


「止めても行く顔をしている。なら、次に帰ってくる場所を作ってやらなくちゃな」


 レイルは袋から金貨を半分だけ渡した。

 残りは、オムニアと七環導杖の修理費。王核大陸還元基金。新しい研究帳。王核諸語の印刷辞典。そして、自分の手元へ少し残す。


 リィナが横から聞く。


「自分の分、何に使うの?」

「次の旅の装備かな」

「全部?」

「必要な物が多いから」

「一つくらい、今使ってよ」

「何に」

「みんなで食べること!」


 セレネが頷く。


「共同執筆の慰労として妥当な案ですね」

「私は高級な血液保存瓶を提案します」


 ノアが言う。


「それ、食事ではありません」


 フィアが訂正する。


「アルドは?」

「地図を買う」

「これ以上増やさないでください」


 フィアとノアが同時に止めた。

 結局、レイルは初めて自分の文章で得た金から、学院近くの食堂を一晩だけ貸し切った。

 豪華ではない。灰橋宿の鍋を思い出す骨付き肉の煮込み、硬い黒パン、魚の香草焼き。リィナのために量だけは多くした。

 セレネは食事の途中、大陸記の豪華版を一冊取り出した。


「購入したのか」

「最初の読者として、完成版を持っておきたかったので」

「校閲用の見本を渡しただろ」

「あれは書き込みがあります。これは、貴方が完成させた一冊です」


 淡い金髪の少女は、表紙を大切そうに撫でた。


「前世でも、それがしたかったの?」


 リィナが唐突に尋ねる。

 レイルの手が止まる。

 前世のことを全て話したわけではない。書きかけの小説を何度も投げたことだけ、王核大陸の夜に少し話した。


「たぶん、な」

「今度は最後まで書けたね」

「ああ」

「次の巻は?」

「また行ってからになるだろう」

「じゃあ、次は私の食事量を少なめに書いて」

「事実は変えられないぞ」

「次は数えさせないから」

「だからって食べる速度を上げるな」


 笑い声が食堂へ広がった。


 その夜、学院購買から最後の一冊が売れた。

 初版完売の札が、空になった棚へ掛けられる。

 だが大陸記は、完成した過去を閉じる本ではない。

 最終頁には、レイルが書き直した一行が残っている。

【この記録は、次に彼らに会うまでの途中経過である】


 次に会うためには、オムニアを直し、通信網を作り、海の両側へ新しい道を伸ばさなければならない。

 それはたやすいことではないだろう。


♦ ♦ ♦ ♦ ♦


 翌朝、ロッテから正式修理開始の通知が届いた。

 封筒には、短い追記があった。

【ニア少女型用魔力槽、完成率九十九%。残り一%、原因不明】


 大陸記の一冊目は売り切れた。

 だが、本当に向き合うべき問題は、まだ表紙を開いたばかりだった。


【今回の登場人物】


・レイル・アルヴァート

 前世で果たせなかった文章収入を一冊の大陸記で実現し、利益より先に誤解を生む記述の修正を選んだ少年。


・リィナ・アルセイル

 食事描写が読者人気と協力料へ変わったことを喜び、次巻では数えさせないという別方向の対策を立てた剣士。


・セレネ・グランツ

 校閲見本とは別に完成版を購入し、レイルが最後まで書いた一冊を自分の手元へ残した少女。


・リオン・ゴルディス

 初版千二百部を完売させ、第二版五千部と利益配分を整えながら、師匠呼びだけは契約外で継続した同級生。


・フィア・レコード

 協力料の名目を正確に分け、アルドが新しい地図を買う計画だけはノアと同時に止めた目録官。


・アルド・クロイツ

 迷子ではなく方向記録協力として印税を受け取り、その金でさらに地図を増やそうとした少年。


・ノア・エルグラム

 百二十年の血統研究より方向音痴が読まれた事実へ納得せず、次版の術式解説増量を決めた研究者。


・ニア

 欄外コメントで読者人気を集め、食事監修契約まで提案しながら、正式修理の九十九%問題へ戻る疑似人格。


・エナ、バルド

 息子の利益を全て受け取らず、半分だけを次に帰ってくる部屋へ使うと決めた両親。


【今回の能力・設定メモ】


・大陸記初版

 千二百部が三日で完売。第二版は五千部。レイルの利益は金貨十八枚前後で、協力料、流通費、印刷費、税、還元基金を差し引いた額。


・大陸記の利益用途

 家族への一部返済、オムニアと七環導杖の修理、王核大陸還元基金、研究帳、辞典、共同執筆者との食事へ使用する。


【章中間・現在ステータス】


【レイル・アルヴァート】


年齢:十四歳後半。

所属・立場:王立結着学院三年次・総合術式科特別監督枠。

冒険者資格・公的資格:Eランク冒険者。王核大陸帰還者。大陸記著者。

魔法認定:六基礎現象・初級無詠唱安定。中級【風刃】のみ仮認定。

戦技:【裂息歩法(ブレス・ステップ)】実戦使用。

固有律:【未完(ノット・コンプ)】二件安定、三件監督下、四件再使用禁止。

主要技能:【重層無詠唱レイヤード・サイレント】、灰環交易語日常会話。

現在の制限:四件保持後遺症。中級無詠唱連続使用禁止。睡眠と魔力吸引の管理が必要。

章内の更新:同年代平均を大幅に上回る魔力量、回復速度、形成精度が判明。文章による初収入を得た。

未習得・保留:中級無詠唱の実戦安定、外部魔力槽、未完崩壊への対策。


【リィナ・アルセイル】


年齢:レイルと同年代。

所属・立場:王立結着学院三年次・武装戦技科。

冒険者資格・公的資格:Eランク冒険者。王核大陸帰還者。

剣術:中級剣士上位から上級入口相当。学院正式査定は継続。

戦技:【噴歩・瞬駆(ふんぽ・しゅんく)】【噴歩・逆制(ふんぽ・ぎゃくせい)】【噴歩・返脚(ふんぽ・へんきゃく)】。

独自流派:【無終剣・返環むしゅうけん・へんかん】成立。

章内の更新:瞬間加速と制動が同学年測定上限級。救助試験でレイルの中級無詠唱を守った。

現在の制限:噴歩の屋内出力制限。筆記、契約文、人間圏地理の補習。


【セレネ・グランツ】


年齢:レイルと同年代。

所属・立場:王立結着学院三年次・術式設計科。

固有律:【並列思考(パラレル・シンク)】。

主要技能:【分岐術式設計ブランチ・フォーミング】三案形成、終点変更。

章内の更新:レイルの中級無詠唱工程を整理。大陸記の術式・地理・文章校閲を担当。

現在の関係:告白済み。返事を急かさず、授業、研究、執筆を通じて思いを深めている。

現在の制限:三案同時完成は不可。不要案を破棄する判断が課題。


【フィア・レコード】


年齢:レイルたちと同年代。

所属・立場:王立結着学院三年次・記録契約科。

主要技能:【可変条件目録】、複数人状態管理、誤情報照合。

章内の更新:アルドの完遂条件を途中訂正。ノアとアルドへの感情を非公開記録として認めた。

現在の制限:安全管理を一人で背負いすぎる傾向。曖昧な感情表現の整理が必要。


【アルド・クロイツ】


年齢:レイルたちと同年代。

所属・立場:王立結着学院三年次・武装護衛科。

固有律:【完遂】。

主要技能:【誤命断ち】、長時間護衛、荷重耐久。

章内の更新:フィアの命令訂正を受け、未完了の任務から別任務へ移行できた。

現在の制限:単独での地図運用禁止。方向感覚は未改善。

現在の関係:フィアとノアの感情へ僅かな違和感を覚え始めるが、明確には理解していない。


【ノア・エルグラム】


年齢:百三十歳以上。外見二十代前半から半ば。

所属・立場:学院客員共同研究員、特別聴講生、医療監督付居住者。

称号:【九十九魔導士きゅうじゅうきゅうまどうし】。

主要技能:九十九%固定術式、白環制式語解析、血統魔法、オムニア修復理論。

章内の更新:ニアの日常循環負荷を設計。アルドとフィアの戦場連携を認め、自分の感情と役割を分け始めた。

現在の制限:血液管理、学院倫理審査、白環施設再現禁止。アルドへ恋愛上の約束を求めない。


【ニア】


所属・立場:疑似人格、王核大陸帰還者、暫定研究協力者。

形態:猫型安定。少女型は光学投影のみ仮運用。犬型は探索用。

主要機能:術式表示、危険照合、言語照合、魔力残量監視。

章内の更新:【日常循環負荷】による一日一~二%の安全吸引を開始。大陸記の言語注釈で人気を得た。

現在の制限:人間圏では少女型半実体を維持できない。正式外部魔力槽は完成率九十九%。


【ナディル・セオン】


年齢:二十九歳。

所属・立場:Aランク探索隊【青渡り】隊長。三年次実地試験官。

専門:海上探索、長距離通信、撤退航路、漂流者救助。

章内の更新:帰還者の経験を実地単位として評価し、英雄的無茶を加点しない基準を示した。


【イレーネ・ヴァルセイド】


年齢:四十二歳。

所属・立場:Sランク特例指定冒険者。【天渡り】代表。

専門:世界境界、都市級結界、大規模転送、災害封鎖。

章内の更新:帰還者の三年次編入を認めつつ、各能力の危険な運用を制限した。


【次回】


 九十九%で止まった少女型魔力槽を、ロッテとノアが正式に修理します。


 初版最後の一冊が棚から旅立ったように、レビュー、ブックマーク、フォローで『地図の外の一年』と第9章後半への増刷を応援していただければ幸いです。

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