第146話「初版完売」
自分の言葉で得たお金は、金額以上に重く感じます。
まして、前の人生で一度も完成させられなかった一冊なら、なおさらです。
『地図の外の一年――王核大陸ゼルハーン滞在記』の初版は、千二百部だった。
王都の大手出版社としては少ない。学生の体験記としては多い。
金環商会の印刷所では、活版式の魔導印字機が夜まで動き、青灰色の表紙が積み上がった。表紙には、断航海域の向こうへ伸びる一本の未完成な線と、小さく【また戻る場所】と記された地図が使われている。
発売初日の朝、レイルは王都中央書店の向かいに立っていた。
「中へ入らないの?」
リィナが尋ねる。
「買う人の邪魔になる」
「著者が入口で隠れてる方が怪しいよ」
「売れ残った時に店員と目が合うのが嫌だ」
「一年間、大陸で魔王種と戦った人が、売れ残りは怖いんだ」
「戦闘は準備できる。本の売れ方は制御できない」
レイルは外套の襟を上げた。
隣にはセレネ、フィア、アルド、ノア、少女型ニアがいる。ニアは正式修理前のため光学投影だけで、レイルから一・五%を借りていた。
『大丈夫ですって。ニアちゃんの欄外コメント、試し読み人気トップらしいですよ』
「俺の本だ」
『共同制作でーす』
「契約上、翻訳注釈協力者です」
フィアが訂正する。
『肩書きが固い』
開店と同時に、十人ほどの客が入った。
学院生。冒険者。地図商。旅行記を集める老婦人。王核大陸を魔境と信じ、危険情報を求めて来た男性もいる。
最初の一冊を買ったのは、年の離れた兄妹だった。
兄が表紙を見せ、妹へ言う。
「ほら、魔王が鍋を作るって書いてある」
「嘘じゃない?」
「欄外に『鍋ガチ勢』ってあるよ!どんな意味だろ」
レイルがニアを見る。
『ガズルの説明、一般語にしただけです』
「一般語か?」
「少なくとも専門語ではありません」
セレネが真顔で言った。
昼までに百八十冊が売れる。
夕方には三百六十冊。
王都だけでなく、学院購買、冒険者組合、金環商会の各支店へ出した分も動いた。
売れた理由は一つではなかった。
未知の大陸への好奇心。
帰還ゲートの仕組み。
魔王種の生活。
灰橋宿の「最初の椀は無料、二杯目は仕事」という制度。
リィナが食べた肉串十四本。
アルドが頻繁に迷った記録。
ニアの欄外注釈。
そして、帰還者が失敗を隠していないこと。裏表のない正直なところが受けているようだ。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
書籍が販売開始されて三日目の夕方、リオンが学院食堂へ駆け込んできた。
いつも整っている金茶色の髪が乱れ、短外套の留め具が一つ外れている。
「師匠ォォォォ!」
「その呼び方で報告を始めるな」
「初版、完売しましたよおおおおっ!」
食堂の一角が静かになる。
レイルは聞き返した。
「千二百部全部?」
「はい。返品見込みを引いても完売です。第二版は五千部で契約交渉を進めています」
「五千だって??」
「王都外から注文が来ています。学院教材として採用したいという話もあります」
「待て。増刷条件と印税率を確認する」
「さすが師匠。利益より先に契約条件を見るんですね」
「誰の教育だと思ってる?」
「私の師匠です」
「違うけどな」
リオンは机へ厚い契約書と、小さな革袋を置いた。
袋が重い音を立てる。
「初版分の著者利益です。校閲協力料、流通費、印刷費、税、王核大陸還元基金への積立を引いた残額」
レイルは袋を開いた。
金貨十八枚。銀貨と小貨が幾つか。学生が数年かけても貯められない額だった。
レイルは前世で、小説投稿画面の閲覧数を何度も更新した夜を思い出す。
書きかけの物語。
誰にも読まれないまま閉じた頁。
完成させれば何か変わると思いながら、続きを書かなかった自分。
今、目の前にある金は、存在しない世界を上手に作れた報酬ではない。
実際に歩き、失敗し、助けられ、帰ってきた一年を、最後まで書いた報酬だった。
(俺の文章で――稼げた......)
喜びが先に来ると思っていた。
実際には、怖さの方が少し早かった。
これだけの人が読んだ。書き方を間違えれば、王核大陸への偏見も同じ数だけ広がる。
「第二版の修正期間は?」
「三日です」
「短いな」
「売れている間に出す必要があります」
「誤りを残して急ぐ理由にはならない」
「重大な修正はありますか」
「灰橋宿の仕事制度。『無償労働を強制する』と読んだ感想があった。断れることと、一杯目だけで退出できることをもっと明確にする」
「では一頁追加。印刷費は上がります」
「俺の取り分から引いていい」
「師匠、商人としては簡単に言わないでください」
「師匠じゃない。著者として必要だと言ってる」
リオンは少しだけ笑った。
「分かりました。必要な修正として出版社へ通します」
リィナが金貨袋を覗く。
「これで何食べる?」
「最初に家族の滞在費を返すんだ」
「リオンが受け取らないでしょ」
「両親へ直接渡す」
「受け取るかな」
「受け取らせる」
セレネが契約書を読んでいる。
「同行者への協力料が均等ではありません」
「作業量に応じて分けた」
「リィナの食事描写協力料が高すぎます」
「食事に関する頁が一番読まれているという調査結果です」
リオンが答える。
リィナの顔が輝く。
「食べた分が仕事になった!!」
「次から経費だと思って増やさないでくれ」
「売れるならいいでしょ?」
「食費が利益を超えるぞ」
『リィナ、次巻は料理監修として正式契約アリかもです』
「ニアまで煽るなって」
アルドは自分の協力料明細を見ていた。
「方向記録協力、とある」
「迷子とは書いていません」
フィアが言う。
「頻繁に道を外れた記録へ協力した、という意味です」
「同じでは?」
ノアが尋ねる。
「表現上は異なります」
「私の血統監修料より高いのは納得できません」
「読者人気です」
リオンが答えた。
ノアの赤紫の瞳が細くなる。
「読者は、百二十年の研究より方向音痴を評価するのですか」
「両方評価しています。ただ、笑える方が感想を書かれやすい」
「次版で私の術式解説を増やします」
「一般読者が読める範囲でお願いします」
「査読前に制限しないでください」
フィアは笑いを堪えるように記録札へ視線を落とした。
出版記念の小さな食事会は、学院食堂の隅で行われた。
レイルは両親へ金貨の一部を差し出す。
母エナは受け取らなかった。
「あなたが帰ってくるまで近くにいたくて使ったお金よ。返してもらうためじゃない」
「でも、俺がいなければ必要なかった」
「あなたがいなかったから必要だったの。意味が違うわ」
バルドは袋を持ち上げ、重さを確かめる。
「全部は受け取らん」
「父さん」
「お前が働いて得た金だ。半分だけ預かる。家の修理と、お前が次に帰ってくる部屋の修繕費へ使う」
「次に帰る部屋?」
「また行く気だろ、お前は」
レイルは黙った。
父は続ける。
「止めても行く顔をしている。なら、次に帰ってくる場所を作ってやらなくちゃな」
レイルは袋から金貨を半分だけ渡した。
残りは、オムニアと七環導杖の修理費。王核大陸還元基金。新しい研究帳。王核諸語の印刷辞典。そして、自分の手元へ少し残す。
リィナが横から聞く。
「自分の分、何に使うの?」
「次の旅の装備かな」
「全部?」
「必要な物が多いから」
「一つくらい、今使ってよ」
「何に」
「みんなで食べること!」
セレネが頷く。
「共同執筆の慰労として妥当な案ですね」
「私は高級な血液保存瓶を提案します」
ノアが言う。
「それ、食事ではありません」
フィアが訂正する。
「アルドは?」
「地図を買う」
「これ以上増やさないでください」
フィアとノアが同時に止めた。
結局、レイルは初めて自分の文章で得た金から、学院近くの食堂を一晩だけ貸し切った。
豪華ではない。灰橋宿の鍋を思い出す骨付き肉の煮込み、硬い黒パン、魚の香草焼き。リィナのために量だけは多くした。
セレネは食事の途中、大陸記の豪華版を一冊取り出した。
「購入したのか」
「最初の読者として、完成版を持っておきたかったので」
「校閲用の見本を渡しただろ」
「あれは書き込みがあります。これは、貴方が完成させた一冊です」
淡い金髪の少女は、表紙を大切そうに撫でた。
「前世でも、それがしたかったの?」
リィナが唐突に尋ねる。
レイルの手が止まる。
前世のことを全て話したわけではない。書きかけの小説を何度も投げたことだけ、王核大陸の夜に少し話した。
「たぶん、な」
「今度は最後まで書けたね」
「ああ」
「次の巻は?」
「また行ってからになるだろう」
「じゃあ、次は私の食事量を少なめに書いて」
「事実は変えられないぞ」
「次は数えさせないから」
「だからって食べる速度を上げるな」
笑い声が食堂へ広がった。
その夜、学院購買から最後の一冊が売れた。
初版完売の札が、空になった棚へ掛けられる。
だが大陸記は、完成した過去を閉じる本ではない。
最終頁には、レイルが書き直した一行が残っている。
【この記録は、次に彼らに会うまでの途中経過である】
次に会うためには、オムニアを直し、通信網を作り、海の両側へ新しい道を伸ばさなければならない。
それはたやすいことではないだろう。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
翌朝、ロッテから正式修理開始の通知が届いた。
封筒には、短い追記があった。
【ニア少女型用魔力槽、完成率九十九%。残り一%、原因不明】
大陸記の一冊目は売り切れた。
だが、本当に向き合うべき問題は、まだ表紙を開いたばかりだった。
【今回の登場人物】
・レイル・アルヴァート
前世で果たせなかった文章収入を一冊の大陸記で実現し、利益より先に誤解を生む記述の修正を選んだ少年。
・リィナ・アルセイル
食事描写が読者人気と協力料へ変わったことを喜び、次巻では数えさせないという別方向の対策を立てた剣士。
・セレネ・グランツ
校閲見本とは別に完成版を購入し、レイルが最後まで書いた一冊を自分の手元へ残した少女。
・リオン・ゴルディス
初版千二百部を完売させ、第二版五千部と利益配分を整えながら、師匠呼びだけは契約外で継続した同級生。
・フィア・レコード
協力料の名目を正確に分け、アルドが新しい地図を買う計画だけはノアと同時に止めた目録官。
・アルド・クロイツ
迷子ではなく方向記録協力として印税を受け取り、その金でさらに地図を増やそうとした少年。
・ノア・エルグラム
百二十年の血統研究より方向音痴が読まれた事実へ納得せず、次版の術式解説増量を決めた研究者。
・ニア
欄外コメントで読者人気を集め、食事監修契約まで提案しながら、正式修理の九十九%問題へ戻る疑似人格。
・エナ、バルド
息子の利益を全て受け取らず、半分だけを次に帰ってくる部屋へ使うと決めた両親。
【今回の能力・設定メモ】
・大陸記初版
千二百部が三日で完売。第二版は五千部。レイルの利益は金貨十八枚前後で、協力料、流通費、印刷費、税、還元基金を差し引いた額。
・大陸記の利益用途
家族への一部返済、オムニアと七環導杖の修理、王核大陸還元基金、研究帳、辞典、共同執筆者との食事へ使用する。
【章中間・現在ステータス】
【レイル・アルヴァート】
年齢:十四歳後半。
所属・立場:王立結着学院三年次・総合術式科特別監督枠。
冒険者資格・公的資格:Eランク冒険者。王核大陸帰還者。大陸記著者。
魔法認定:六基礎現象・初級無詠唱安定。中級【風刃】のみ仮認定。
戦技:【裂息歩法】実戦使用。
固有律:【未完】二件安定、三件監督下、四件再使用禁止。
主要技能:【重層無詠唱】、灰環交易語日常会話。
現在の制限:四件保持後遺症。中級無詠唱連続使用禁止。睡眠と魔力吸引の管理が必要。
章内の更新:同年代平均を大幅に上回る魔力量、回復速度、形成精度が判明。文章による初収入を得た。
未習得・保留:中級無詠唱の実戦安定、外部魔力槽、未完崩壊への対策。
【リィナ・アルセイル】
年齢:レイルと同年代。
所属・立場:王立結着学院三年次・武装戦技科。
冒険者資格・公的資格:Eランク冒険者。王核大陸帰還者。
剣術:中級剣士上位から上級入口相当。学院正式査定は継続。
戦技:【噴歩・瞬駆】【噴歩・逆制】【噴歩・返脚】。
独自流派:【無終剣・返環】成立。
章内の更新:瞬間加速と制動が同学年測定上限級。救助試験でレイルの中級無詠唱を守った。
現在の制限:噴歩の屋内出力制限。筆記、契約文、人間圏地理の補習。
【セレネ・グランツ】
年齢:レイルと同年代。
所属・立場:王立結着学院三年次・術式設計科。
固有律:【並列思考】。
主要技能:【分岐術式設計】三案形成、終点変更。
章内の更新:レイルの中級無詠唱工程を整理。大陸記の術式・地理・文章校閲を担当。
現在の関係:告白済み。返事を急かさず、授業、研究、執筆を通じて思いを深めている。
現在の制限:三案同時完成は不可。不要案を破棄する判断が課題。
【フィア・レコード】
年齢:レイルたちと同年代。
所属・立場:王立結着学院三年次・記録契約科。
主要技能:【可変条件目録】、複数人状態管理、誤情報照合。
章内の更新:アルドの完遂条件を途中訂正。ノアとアルドへの感情を非公開記録として認めた。
現在の制限:安全管理を一人で背負いすぎる傾向。曖昧な感情表現の整理が必要。
【アルド・クロイツ】
年齢:レイルたちと同年代。
所属・立場:王立結着学院三年次・武装護衛科。
固有律:【完遂】。
主要技能:【誤命断ち】、長時間護衛、荷重耐久。
章内の更新:フィアの命令訂正を受け、未完了の任務から別任務へ移行できた。
現在の制限:単独での地図運用禁止。方向感覚は未改善。
現在の関係:フィアとノアの感情へ僅かな違和感を覚え始めるが、明確には理解していない。
【ノア・エルグラム】
年齢:百三十歳以上。外見二十代前半から半ば。
所属・立場:学院客員共同研究員、特別聴講生、医療監督付居住者。
称号:【九十九魔導士】。
主要技能:九十九%固定術式、白環制式語解析、血統魔法、オムニア修復理論。
章内の更新:ニアの日常循環負荷を設計。アルドとフィアの戦場連携を認め、自分の感情と役割を分け始めた。
現在の制限:血液管理、学院倫理審査、白環施設再現禁止。アルドへ恋愛上の約束を求めない。
【ニア】
所属・立場:疑似人格、王核大陸帰還者、暫定研究協力者。
形態:猫型安定。少女型は光学投影のみ仮運用。犬型は探索用。
主要機能:術式表示、危険照合、言語照合、魔力残量監視。
章内の更新:【日常循環負荷】による一日一~二%の安全吸引を開始。大陸記の言語注釈で人気を得た。
現在の制限:人間圏では少女型半実体を維持できない。正式外部魔力槽は完成率九十九%。
【ナディル・セオン】
年齢:二十九歳。
所属・立場:Aランク探索隊【青渡り】隊長。三年次実地試験官。
専門:海上探索、長距離通信、撤退航路、漂流者救助。
章内の更新:帰還者の経験を実地単位として評価し、英雄的無茶を加点しない基準を示した。
【イレーネ・ヴァルセイド】
年齢:四十二歳。
所属・立場:Sランク特例指定冒険者。【天渡り】代表。
専門:世界境界、都市級結界、大規模転送、災害封鎖。
章内の更新:帰還者の三年次編入を認めつつ、各能力の危険な運用を制限した。
【次回】
九十九%で止まった少女型魔力槽を、ロッテとノアが正式に修理します。
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