第145話「書かなかった名前」
記録へ残すことが、いつも誠実とは限りません。
誰かを守るために書かない余白も、書いた人の責任です。
大陸記の初稿が半分を越えた頃、レイルたちは学院の小会議室へ集まった。
卓上には、赤、青、黒、灰の札が並ぶ。
赤は公開不可。
青は本人同意が必要。
黒は公開可能。
灰は、通信がつながるまで保留。
フィアが一枚ずつ読み上げた。
「ミュラ・ノクテ。未成年。地脈聴取能力と故郷の位置が記載されています。公開すると白環、灰環利用派、他国の探索対象になる可能性があります」
「名前は伏せる」
レイルが赤札へ置く。
「小角族の地図師見習い、まで」
「本人へ確認できるまで灰札でもよいのでは?」
セレネが尋ねる。
「大陸通信はまだ安定していない。出版を待てば、支援費の返済も遅れる」
「返済を急ぐために、当事者の安全を急いではいけません」
「分かってる。だから固有名は出さない」
リィナはミュラの記録頁を撫でた。
「石を投げて助けてくれたことは書いていいよね」
「場所と能力が特定されない形なら」
フィアが黒札と灰札の間へ置く。
「ラガン・ティグリス。成人。A級相当の戦闘能力、裂息戦技、灰環保護派との関係」
「名前を出しても、本人は気にしなさそう」
リィナが言う。
「気にしないと推測することと、同意は別です」
フィアが訂正する。
「灰札です」
ノアは自分とノエラの頁を読んでいた。
赤縁眼鏡の奥で、赤紫の瞳が何度も同じ行を行き来する。
【百年以上会わなかった母娘】
【第一世代と第二世代の半吸血種】
【母の血による血脈励起】
「血統構造は研究価値があります」
ノアが言う。
「ですが、私とノエラの関係を一般読者へ感動的な再会として売るなら、全て削除してください」
「そうは書いていない」
レイルが答える。
「母と呼ばなかったことも、許していないことも書いた」
「それはそれで私生活です」
「公開しない方がいい?」
ノアはすぐ答えなかった。
「父のことは、名前も研究室の場所も出さないでください。白環血統庫の構造も簡略化。ノエラの血を使った回数は事実として残して構いません。ただし、母の愛によって覚醒した、などという表現を一文字でも入れたら、原稿を燃やします」
「入れない」
「後ほど、精読します」
「お願いします」
ノアは少し驚いた顔をした。
「反論しないのですか?」
「専門部分はノアの方が正しい。本人の話でもある」
「……その判断は適切です」
フィアが次の札を持つ。
「アルド・クロイツ。王核大陸で迷った回数、暫定二十九回」
「削除を申請する」
アルドが即座に言う。
「理由は?」
「帰還と関係がない」
ニアが少女型で卓上へ浮かぶ。
『かなり関係ありますよ。迷った先でノアを見つけたので、物語的には重要ですねー』
「一回で十分だ!」
「二十九回が一回になるのは改竄です」
フィアが言う。
「全回数を書く必要はない」
「では、『頻繁に迷った』へ置換します」
「頻繁ではない」
「二十九回です」
「一年間なら、月三回未満だ」
「平均化で印象を変えないでくださいよ」
会議室に笑いが起きた。
最後に残ったのは、恋愛に関わる頁だった。
環越祭で、リィナとレイルが手をつないだ夜。
古書市で、セレネがレイルの肩へ額を預けた再会。
灰橋宿で三人が同じ毛布を分けた夜。
ノアがアルドの手を握り、「しばらくこのままで」と頼んだ場面。
フィアがそれを見て、記録できなかったこと。
レイルは全てへ赤札を置いた。
「全部削る」
リィナが顔を上げる。
「どうして?」
「個人的な場面だから」
「私が嫌だと言う前に、レイルが決めるの?」
「公開されたいのか?」
「そうじゃない。でも、私との場面も、セレネとの場面も、ノアたちの場面も、全部同じ理由で消すのが嫌」
「公平だと思った」
「公平に消されたら、特別じゃなかったことになる」
レイルは返事に詰まる。
セレネが、自分の再会場面の原稿を指で押さえた。
「私も公開を求めません。ただ、レイルが”個人的だから”としか説明できない点は問題だと思います」
「他に何がある?」
「書けば、自分がどう感じたかまで言葉へしなければならない。それを避けているのではありませんか」
「事実だけなら書ける」
「額を肩へ預けた、という事実だけ書けば、読者は勝手に意味を決めます。意味を書けば、貴方が選ばなければならない。だから削る」
レイルは否定しようとした。
だが、自分の初稿を思い出す。
戦闘や術式は、失敗まで細かく書いた。
リィナと再会した時、胸の奥がどれほど軽くなったかは書かなかった。
セレネが告白した夜のことも、事実だけで止めた。
名前を付けなければ、選ばずに済むと思っていた。
「二人とも大事だから、同じように書かないのは駄目なのか」
リィナの表情が曇る。
「それ、優しい言い方に聞こえるけど、ずっと答えを出さないためにも使えるよ?」
セレネも目を逸らさない。
「私は告白しました。返事を急かさないと決めましたが、存在しなかったことにはしていません。レイルも、知らないふりはしないと言いました」
「してない」
「では、書かない理由を”公平”だけにしないでください」
会議室が静かになる。
レイルは赤札を一度外した。
「公開はしない。でも、原稿から完全には消さない。関係者用の非公開記録へ移す」
「どう書くの?」
リィナが問う。
「環越祭の夜、帰る場所を選ぶ前に、リィナと手をつないだ。離れたくなかったから」
声へ出した途端、リィナの顔が赤くなる。
「そこまで言えって言ってない!バカ」
「意味を書けと言っただろ」
「今、みんないるじゃんか!」
セレネの髪の周囲へ小さな光球が浮かぶ。
「もちろん、私の場面も、同じ精度でお願いします」
「張り合うところか?」
「公平ではなく、正確さの問題です」
「セレネ、ちょっと楽しんでるよね?」
「半分は、ですね」
ノアが咳払いをした。
「私たちの場面は、非公開記録にも詳細不要です」
アルドが尋ねる。
「手を握ったことが問題なのか」
「問題ではありません。貴方が真面目な顔で尋ねることが問題です」
フィアは記録札へ視線を落とした。
「私は、灰橋宿の石段で見た接触を記録対象外としました。しかし、今は判断を訂正します」
「記録するのですか」
ノアが問う。
「医療記録ではありません。当事者間の非公開記録として、ノアが自分からそばにいてほしいと頼んだ事実を残します」
「感情まで?」
「私が見た感情を、ノア本人の感情として断定しません。私が見て、胸が痛んだことは、私の記録へ残します」
ノアはフィアを見つめた。
「それは、私への宣戦布告ですか」
「未確定事項の共有です」
「厳密ですね」
「貴方に教わりました」
アルドだけが意味を理解できず、二人を交互に見ていた。
「俺は何を記録すればいい」
「今は何も」
ノアとフィアが同時に答える。
会議後、レイルは一人で原稿の非公開頁を整理した。
公開版には、私的な恋愛場面を細かく書かない。
だが、存在しなかったことにも戻さない。
書かない理由と、残す場所を自分で決める。
最終頁へ、見覚えのない一文があった。
【彼らは人間圏へ帰還し、二度と地図の外へ戻らなかった】
レイルの筆跡ではない。
セレネの整った文字でも、フィアの記録字でもない。
白く、線の太さが一切変わらない文字。
アルケインの文法だった。
レイルはその一文へ筆先を置く。
【未完】で止めるのではなく、自分の筆で拒む。
線を引こうとした瞬間、胸の奥で”間宮玲司”という前世名が響いた。
手が止まる。
それでも、線を引き切った。
代わりに書く。
【この記録は、次に会うまでの途中経過である】
完成した結末を、他人に先へ置かせない。
書かなかった名前も、書き直した最後の一行も、レイル自身の選択だった。
【今回の登場人物】
・レイル・アルヴァート
当事者の安全を守るため名前を伏せ、感情から逃げるための公平さも捨て、他人に書かれた結末を自分で直した少年。
・リィナ・アルセイル
恋愛場面を消されることより、特別だった時間を同じ理由で平らにされることへ怒った幼なじみ。
・セレネ・グランツ
返事を急かさなくても告白は存在すると伝え、レイルが感情を言葉へしない理由を正確に指摘した少女。
・フィア・レコード
記録対象外として逃がした痛みを、自分自身の非公開記録へ残すと決めた目録官。
・ノア・エルグラム
母娘関係を感動的な商品へされることを拒み、フィアの感情共有を宣戦布告かと受け取った研究者。
・アルド・クロイツ
二十九回の迷子記録を月平均へ薄めようとし、恋愛記録では最後まで何を書けばよいか分からなかった少年。
・ニア
アルドの迷子を物語上重要と主張し、公開情報と個人情報の境界整理へ参加した疑似人格。
・アルケイン
大陸記の終章へ「二度と戻らない」という完成済みの一文を混入させ、前世名の記憶を刺激した神格。
【今回の能力・設定メモ】
・公開記録と非公開記録
一般出版版では現地人の位置、能力、私生活を伏せ、当事者用記録には存在した出来事を消さずに残す。
・アルケインの文章干渉
完成した結末を記録へ混入させるが、レイルは【未完】で止めず、筆による選択として線を引き書き直した。
【次回】
書かなかったものを守った本が、今度は大勢の読者へ届きます。
公開しない赤札も、次に会うまで残す灰札も、記録を守るための選択です。レビュー、ブックマーク、フォローで、書かなかった余白まで見届けてください。




