第144話「魔境と書かない報告書」
知らない土地を、怖い名前で呼ぶのは簡単です。
けれど、そこで暮らす人の名前を一つ覚えれば、地図の色は少し変わります。
三年次への特例編入が決まった週、レイルは王国大陸調査局から呼び出された。
学院南門の外にある王都出張庁舎は、白い石壁と青い屋根を持つ堅苦しい建物だった。廊下には旧大陸図が並び、断航海域の向こう側は灰色で塗り潰されている。
会議室の机へ、担当官が一冊の表紙案を置いた。
【魔境大陸生還報告――異邦の子供たちが見た魔族領】
レイルは表紙を見たまま、しばらく何も言わなかった。
隣にはセレネ、フィア、学院代表のエルシア、商業協力者としてリオンがいる。猫型ニアはレイルの椅子の背へ浮かび、環状の尾をゆっくり揺らしていた。
「題名を変えてください」
レイルが言う。
担当官は愛想のよい笑みを崩さなかった。
「仮題です。一般読者へ内容が伝わりやすい言葉を選びました」
「魔境ではありません。正式名称は”王核大陸ゼルハーン”です」
「人間圏の公的地図では、魔物勢力圏を広く魔境と分類します」
「そこに住んでいる人たちは、自分の土地をそう呼んでいない」
「行政分類と現地呼称は両立します」
「本の表紙で最初に見える言葉は、行政の欄じゃない。読者がその土地をどう覚えるかです」
担当官の笑みが少し薄くなる。
「ですが、王核大陸という名称は一般へ浸透していません。『魔境』の方が販売上も――」
「販売のために、助けてくれた人たちを魔物と同じ欄へ入れたくない」
レイルの声は大きくなかった。
それでも会議室の空気が止まった。
王核大陸で、最初に言葉を教えてくれたミュラ。負けた者を拾うラガン。鍋を分けたガズル。灰橋宿の老女。敵であっても、自分の名と理由を持っていたディルガ。
人間圏の一語で塗り潰すには、もう顔を知りすぎていた。
セレネが表紙案を自分の前へ引いた。
「副題へ危険地域であることを示すのは構いません。ただし、現地名を主題にしてください。本文でも、魔物、魔王種、獣人、半吸血種を同一分類にはしません」
フィアも記録札を開く。
「本文中の情報は、確認済み、当事者証言、推定、未確認を分けます。一般向けに単純化しても、事実の分類は崩しません」
リオンが表紙案を裏返した。
「商品としても、『魔境から帰った』だけでは一度読まれて終わります。『知らない大陸に生活があった』方が、続巻と再版の価値があります」
「商業上の意見ですか」
担当官が尋ねる。
「はい。倫理と利益が同じ方向を向くなら、わざわざ安い方を選ぶ理由はありません」
エルシアは椅子の背へ深く寄りかかった。
「うちのバカ弟子が、珍しく準備なしで言い切ったんだ。題名くらい聞いてやりな」
「準備してきた」
レイルが反論する。
「昨日、候補を十二個書いた」
「病気。そういうところだよ」
最終的に、調査局へ出す公文書と、一般向けに出版する大陸記を分けることになった。
公文書は【王核大陸帰還者共同報告】。
大陸記の題名は、まだ決めない。
学院へ戻った夕方、レイルとセレネは術式塔の小研究室へ並んで座った。
窓の外では、武装戦技塔の生徒たちが夕方の走り込みをしている。遠くにリィナの赤茶色の髪が見えた。隊列の先頭を走り、後ろへ声を掛けながら速度を調整している。
机の上には、王核大陸から持ち帰った単語帳十三冊、フィアの記録札、セレネの術式対訳、ニアの音声記録が積まれていた。
「何から書きますか」
セレネが尋ねる。
「転移事故から順番に」
「読者は最初の十頁、レイルが荷物を確認している場面を読むことになります」
「必要な確認だった」
「本の導入として必要かは別です」
「帰還用の予備札を三枚持っていたから、一枚は王核大陸でも使えた」
「残り二枚は?」
「転移時に燃えた」
「では、一枚役立った事実と、二枚分の重量を分けて書いてください」
レイルは不満そうに筆を持った。
「普通の人が読めるように、とリオンは言った。でも、専門用語を減らすと正確さが落ちる」
「減らすのではありません。読者が歩ける道へ置き換えます」
「術式を道に例えるのか?」
「例えば、王核大陸の契約文は人間圏式より、出口条件を先に書きます。『扉の開け方より、閉じ込められた時の出方を先に決める』と説明すれば、専門外でも意味は伝わります」
「正確だ」
「でしょう?」
セレネは嬉しそうに眼鏡の位置を直した。
レイルはその横顔を見た。
淡い金髪が夕日に透け、青紫の瞳は原稿だけを追っている。告白以前なら、距離が近いことへ気づけばすぐ椅子を引いたはずだ。今は肩が触れても動かない。
「手伝ってくれるのか」
「既に手伝っています」
「試験が終わったから、補習時間ではない」
「分かっています」
「セレネの研究もあるだろ」
「これは私の研究にもなります。異文化術式、言語、帰還ゲート。それに――」
セレネは一度筆を止めた。
「貴方が何を残したいのか、最初の読者として知りたいです」
「報告書を読むだけじゃなく?」
「報告書では、貴方が夜中に単語帳を作りながら眠って、頬へ灰札字を写したことは分かりません」
「それは書かなくていい」
「読者には必要です」
「なぜだ」
「魔法と帰還ゲートだけでは、一年間生きた人間が見えないからです」
レイルは返事をせず、白紙へ最初の場面を書いた。
古書市で、人間圏の航海記録を見つけた夜。
同じ月が見えるなら、海の向こうにも道があると考えたこと。
セレネがその文章を読み、ゆっくり息を吐く。
「私は、貴方の文章が好きなのではないと思っていました」
「思っていた?」
「正確には、術式の考え方が好きなのだと。余白へ逃走経路を書くところ、完成前に失敗条件を探すところ。ですが今、少し訂正します」
彼女はレイルの書いた【王核大陸】の文字へ指を置いた。
「貴方が、出会った相手を勝手な名前で呼ばないところも好きです」
これは再告白ではない、はずだ。
好きになった理由が、また一つ増えたという報告だった。
レイルは筆を持ったまま、言葉を失った。
セレネは返事を求めず、次の頁をめくる。
「続けましょう。今のところ、第一章が月を見ただけで終わっています」
「余韻が必要だ」
「三頁は長いです」
扉が勢いよく開いた。
「夕食、持ってきたよ」
リィナが大きな盆を抱えて入ってくる。訓練後で髪は少し乱れ、頬が赤い。机の上の原稿と、隣り合う二人を見て、足が止まった。
「お邪魔だった?」
「違います」
セレネが答える。
「なら、なんでレイルは固まってるの?」
「文章の校閲中です」
「校閲でそんな顔になる?」
「セレネが、好きな理由が増えたと言った」
レイルが正直に答えた。
リィナの盆が僅かに傾く。
「どうしてその説明だけ早いの!?」
「聞かれたから」
「私がいない間に、そういう話するんだ」
「流れで――」
「授業も研究も流れも、全部セレネと増えていくじゃん」
リィナは盆を机へ置いた。皿が音を立てる。
「別の教室なのは分かってる。セレネが手伝う方が、この本が良くなるのも分かる。でも、私が王核大陸で一緒にいた一年まで、二人だけの言葉で書かれるのは嫌」
セレネはすぐに反論しなかった。
「では、リィナも校閲してください」
「術式は分からない」
「生活と戦闘は、私よりリィナの方が覚えています。特に、レイルが無茶を隠した場面は」
「それなら全部覚えてる」
リィナが目を輝かせはじめ、レイルが眉を寄せる。
「全部書く必要はない」
「失敗も記録するんでしょ?」
「公開する記録と個人記録は違う」
「じゃあ、私が肉串を十四本食べた話も個人記録」
「王核大陸の食文化を示す比較資料だ」
「食文化じゃなく、私の量を示してる!」
セレネが原稿を確認する。
「十四本の後に灰麦パンを四枚とあります」
「そこまで書いたの!?」
「事実だから」
「じゃあ、レイルが宿代を聞き間違えて三倍払った話も入れる」
「翻訳精度が五十九%だった」
「失敗は失敗でしょ!自分だけ入れないのはズルいよ」
ニアが猫型から声を上げる。
『その件、誤訳候補に「美人注意」が混ざったやつですね。読者ウケ、かなり期待できます』
「入れない」
「入れる」
リィナとニアの声が揃った。
結局、大陸記の校閲担当は三人になった。
セレネは術式、地理、数字。
リィナは食事、戦闘、日常。
フィアは日付、事実、未確認の区分。
ニアは現地語注釈。
ノアは血統と白環施設。
アルドは、自分が迷った回数の削除申請を出す予定だ。
夜、レイルは新しい表紙案を一つ書いた。
【『地図の外の一年』】
その下へ、小さく副題を足す。
【王核大陸ゼルハーン滞在記】
魔境とは書かなかった。
それだけで、本の向く方向が決まった気がした。
【今回の登場人物】
・レイル・アルヴァート
売れる言葉より現地の名を選び、魔境という仮題を拒否して大陸記の一行目を書き直した少年。
・セレネ・グランツ
専門用語を読者が歩ける道へ変え、レイルを好きな理由へ「相手を勝手な名前で呼ばないこと」を加えた少女。
・リィナ・アルセイル
二人だけの言葉で一年を書かれる寂しさを隠さず、生活と戦闘の校閲担当として原稿へ加わった幼なじみ。
・リオン・ゴルディス
倫理と利益が同じ方向を向く商品設計を示し、公文書と一般向け大陸記を分けた商人志望の同級生。
・フィア・レコード
確認済み、証言、推定、未確認を区別し、一般向けでも事実分類を崩さない方針を定めた目録官。
・エルシア・ヴァント
珍しく即断した弟子の題名を支持しつつ、十二案準備済みだった事実も忘れず指摘した師匠。
・ニア
宿代三倍と美人注意の誤訳を読者向け素材として推し、レイルから掲載拒否された疑似人格。
【今回の能力・設定メモ】
・大陸記『地図の外の一年』
学院・王国向けの公文書とは別に、一般読者へ王核大陸の生活、言語、失敗、帰還を伝える出版用記録。
・校閲分担
セレネは術式と数値、リィナは生活と戦闘、フィアは事実分類、ニアは言語、ノアは血統と白環を担当する。
【次回】
書く内容が決まった後は、書かない名前と場面を選ばなければなりません。
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