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未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――  作者: 勇者ヨシ君
第9章「九十九パーセントの魔法」

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第144話「魔境と書かない報告書」

 知らない土地を、怖い名前で呼ぶのは簡単です。

 けれど、そこで暮らす人の名前を一つ覚えれば、地図の色は少し変わります。

 三年次への特例編入が決まった週、レイルは王国大陸調査局から呼び出された。

 学院南門の外にある王都出張庁舎おうとしゅっちょうちょうしゃは、白い石壁と青い屋根を持つ堅苦しい建物だった。廊下には旧大陸図が並び、断航海域の向こう側は灰色で塗り潰されている。


 会議室の机へ、担当官が一冊の表紙案を置いた。

【魔境大陸生還報告――異邦の子供たちが見た魔族領】

 レイルは表紙を見たまま、しばらく何も言わなかった。

 隣にはセレネ、フィア、学院代表のエルシア、商業協力者としてリオンがいる。猫型ニアはレイルの椅子の背へ浮かび、環状の尾をゆっくり揺らしていた。


「題名を変えてください」


 レイルが言う。

 担当官は愛想のよい笑みを崩さなかった。


「仮題です。一般読者へ内容が伝わりやすい言葉を選びました」

「魔境ではありません。正式名称は”王核大陸ゼルハーン”です」

「人間圏の公的地図では、魔物勢力圏を広く魔境と分類します」

「そこに住んでいる人たちは、自分の土地をそう呼んでいない」

「行政分類と現地呼称は両立します」

「本の表紙で最初に見える言葉は、行政の欄じゃない。読者がその土地をどう覚えるかです」


 担当官の笑みが少し薄くなる。


「ですが、王核大陸という名称は一般へ浸透していません。『魔境』の方が販売上も――」

「販売のために、助けてくれた人たちを魔物と同じ欄へ入れたくない」


 レイルの声は大きくなかった。

 それでも会議室の空気が止まった。

 王核大陸で、最初に言葉を教えてくれたミュラ。負けた者を拾うラガン。鍋を分けたガズル。灰橋宿の老女。敵であっても、自分の名と理由を持っていたディルガ。

 人間圏の一語で塗り潰すには、もう顔を知りすぎていた。

 セレネが表紙案を自分の前へ引いた。


「副題へ危険地域であることを示すのは構いません。ただし、現地名を主題にしてください。本文でも、魔物、魔王種、獣人、半吸血種を同一分類にはしません」


 フィアも記録札を開く。


「本文中の情報は、確認済み、当事者証言、推定、未確認を分けます。一般向けに単純化しても、事実の分類は崩しません」


 リオンが表紙案を裏返した。


「商品としても、『魔境から帰った』だけでは一度読まれて終わります。『知らない大陸に生活があった』方が、続巻と再版の価値があります」

「商業上の意見ですか」


 担当官が尋ねる。


「はい。倫理と利益が同じ方向を向くなら、わざわざ安い方を選ぶ理由はありません」


 エルシアは椅子の背へ深く寄りかかった。


「うちのバカ弟子が、珍しく準備なしで言い切ったんだ。題名くらい聞いてやりな」

「準備してきた」


 レイルが反論する。


「昨日、候補を十二個書いた」

「病気。そういうところだよ」


 最終的に、調査局へ出す公文書と、一般向けに出版する大陸記を分けることになった。

 公文書は【王核大陸帰還者共同報告】。

 大陸記の題名は、まだ決めない。

 学院へ戻った夕方、レイルとセレネは術式塔の小研究室へ並んで座った。

 窓の外では、武装戦技塔の生徒たちが夕方の走り込みをしている。遠くにリィナの赤茶色の髪が見えた。隊列の先頭を走り、後ろへ声を掛けながら速度を調整している。

 机の上には、王核大陸から持ち帰った単語帳十三冊、フィアの記録札、セレネの術式対訳、ニアの音声記録が積まれていた。


「何から書きますか」


 セレネが尋ねる。


「転移事故から順番に」

「読者は最初の十頁、レイルが荷物を確認している場面を読むことになります」

「必要な確認だった」

「本の導入として必要かは別です」

「帰還用の予備札を三枚持っていたから、一枚は王核大陸でも使えた」

「残り二枚は?」

「転移時に燃えた」

「では、一枚役立った事実と、二枚分の重量を分けて書いてください」


 レイルは不満そうに筆を持った。


「普通の人が読めるように、とリオンは言った。でも、専門用語を減らすと正確さが落ちる」

「減らすのではありません。読者が歩ける道へ置き換えます」

「術式を道に例えるのか?」

「例えば、王核大陸の契約文は人間圏式より、出口条件を先に書きます。『扉の開け方より、閉じ込められた時の出方を先に決める』と説明すれば、専門外でも意味は伝わります」

「正確だ」

「でしょう?」


 セレネは嬉しそうに眼鏡の位置を直した。

 レイルはその横顔を見た。

 淡い金髪が夕日に透け、青紫の瞳は原稿だけを追っている。告白以前なら、距離が近いことへ気づけばすぐ椅子を引いたはずだ。今は肩が触れても動かない。


「手伝ってくれるのか」

「既に手伝っています」

「試験が終わったから、補習時間ではない」

「分かっています」

「セレネの研究もあるだろ」

「これは私の研究にもなります。異文化術式、言語、帰還ゲート。それに――」


 セレネは一度筆を止めた。


「貴方が何を残したいのか、最初の読者として知りたいです」

「報告書を読むだけじゃなく?」

「報告書では、貴方が夜中に単語帳を作りながら眠って、頬へ灰札字を写したことは分かりません」

「それは書かなくていい」

「読者には必要です」

「なぜだ」

「魔法と帰還ゲートだけでは、一年間生きた人間が見えないからです」


 レイルは返事をせず、白紙へ最初の場面を書いた。

 古書市で、人間圏の航海記録を見つけた夜。

 同じ月が見えるなら、海の向こうにも道があると考えたこと。

 セレネがその文章を読み、ゆっくり息を吐く。


「私は、貴方の文章が好きなのではないと思っていました」

「思っていた?」

「正確には、術式の考え方が好きなのだと。余白へ逃走経路を書くところ、完成前に失敗条件を探すところ。ですが今、少し訂正します」


 彼女はレイルの書いた【王核大陸】の文字へ指を置いた。


「貴方が、出会った相手を勝手な名前で呼ばないところも好きです」


 これは再告白ではない、はずだ。

 好きになった理由が、また一つ増えたという報告だった。

 レイルは筆を持ったまま、言葉を失った。

 セレネは返事を求めず、次の頁をめくる。


「続けましょう。今のところ、第一章が月を見ただけで終わっています」

「余韻が必要だ」

「三頁は長いです」


 扉が勢いよく開いた。


「夕食、持ってきたよ」


 リィナが大きな盆を抱えて入ってくる。訓練後で髪は少し乱れ、頬が赤い。机の上の原稿と、隣り合う二人を見て、足が止まった。


「お邪魔だった?」

「違います」


 セレネが答える。


「なら、なんでレイルは固まってるの?」

「文章の校閲中です」

「校閲でそんな顔になる?」

「セレネが、好きな理由が増えたと言った」


 レイルが正直に答えた。

 リィナの盆が僅かに傾く。


「どうしてその説明だけ早いの!?」

「聞かれたから」

「私がいない間に、そういう話するんだ」

「流れで――」

「授業も研究も流れも、全部セレネと増えていくじゃん」


 リィナは盆を机へ置いた。皿が音を立てる。


「別の教室なのは分かってる。セレネが手伝う方が、この本が良くなるのも分かる。でも、私が王核大陸で一緒にいた一年まで、二人だけの言葉で書かれるのは嫌」


 セレネはすぐに反論しなかった。


「では、リィナも校閲してください」

「術式は分からない」

「生活と戦闘は、私よりリィナの方が覚えています。特に、レイルが無茶を隠した場面は」

「それなら全部覚えてる」


 リィナが目を輝かせはじめ、レイルが眉を寄せる。


「全部書く必要はない」

「失敗も記録するんでしょ?」

「公開する記録と個人記録は違う」

「じゃあ、私が肉串を十四本食べた話も個人記録」

「王核大陸の食文化を示す比較資料だ」

「食文化じゃなく、私の量を示してる!」


 セレネが原稿を確認する。


「十四本の後に灰麦パンを四枚とあります」

「そこまで書いたの!?」

「事実だから」

「じゃあ、レイルが宿代を聞き間違えて三倍払った話も入れる」

「翻訳精度が五十九%だった」

「失敗は失敗でしょ!自分だけ入れないのはズルいよ」


 ニアが猫型から声を上げる。


『その件、誤訳候補に「美人注意」が混ざったやつですね。読者ウケ、かなり期待できます』

「入れない」

「入れる」


 リィナとニアの声が揃った。

 結局、大陸記の校閲担当は三人になった。

 セレネは術式、地理、数字。

 リィナは食事、戦闘、日常。

 フィアは日付、事実、未確認の区分。

 ニアは現地語注釈。

 ノアは血統と白環施設。

 アルドは、自分が迷った回数の削除申請を出す予定だ。


 夜、レイルは新しい表紙案を一つ書いた。


【『地図の外の一年(アウトランド・イヤー)』】

 その下へ、小さく副題を足す。

【王核大陸ゼルハーン滞在記】


 魔境とは書かなかった。

 それだけで、本の向く方向が決まった気がした。


【今回の登場人物】


・レイル・アルヴァート

 売れる言葉より現地の名を選び、魔境という仮題を拒否して大陸記の一行目を書き直した少年。


・セレネ・グランツ

 専門用語を読者が歩ける道へ変え、レイルを好きな理由へ「相手を勝手な名前で呼ばないこと」を加えた少女。


・リィナ・アルセイル

 二人だけの言葉で一年を書かれる寂しさを隠さず、生活と戦闘の校閲担当として原稿へ加わった幼なじみ。


・リオン・ゴルディス

 倫理と利益が同じ方向を向く商品設計を示し、公文書と一般向け大陸記を分けた商人志望の同級生。


・フィア・レコード

 確認済み、証言、推定、未確認を区別し、一般向けでも事実分類を崩さない方針を定めた目録官。


・エルシア・ヴァント

 珍しく即断した弟子の題名を支持しつつ、十二案準備済みだった事実も忘れず指摘した師匠。


・ニア

 宿代三倍と美人注意の誤訳を読者向け素材として推し、レイルから掲載拒否された疑似人格。


【今回の能力・設定メモ】


・大陸記『地図の外の一年』

 学院・王国向けの公文書とは別に、一般読者へ王核大陸の生活、言語、失敗、帰還を伝える出版用記録。


・校閲分担

 セレネは術式と数値、リィナは生活と戦闘、フィアは事実分類、ニアは言語、ノアは血統と白環を担当する。


【次回】


 書く内容が決まった後は、書かない名前と場面を選ばなければなりません。


 灰色に塗られた地図へ現地の名を書き戻すように、レビュー、ブックマーク、フォローで『地図の外の一年』の最初の道を広げてください。

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