第142話「三年次特例編入試験――筆記」
旅で覚えたことは、机の上でも役に立ちます。
ただし、旅へ出ている間に進んだ授業まで、勝手に追いついてはくれません。
特例編入試験までの十日間、レイルの一日は三つに分かれた。
朝はリィナとの訓練。
昼まではセレネとの筆記補習。
夕方からは帰還報告と、まだ題名のない大陸記の整理。
その隙間時間に、レイルの魔力を少女型ニアが一~二%ずつ吸っていった。
『本日の日常循環負荷、一・五%を申請しまーす』
夜明け前の訓練場で、ニアが光の指を一本半立てる。少女型は光学投影だけで、足元が僅かに透けていた。
「午前に中級術式の補習がある。一%にしとけ」
『それだと午後、右腕が薄くなるんですけどぉー?』
「左腕で足りるだろ?」
『見た目のバランスが終わります』
「訓練効率より見栄えを優先するな」
「じゃあ、映えも加味して一・二五%!」
セレネが横から条件を提示した。
「朝練後の回復食を完食し、午前の基礎形成が二十回以内なら許可します」
「なぜセレネが決めるんだ」
「時間割と魔力消費表を担当しています」
「誰が頼んだ」
「あなたです。昨日、レイルが『抜けがあると危険だから確認してくれ』と言いました」
「確認を頼んだ。管理を頼んだ覚えはない」
「確認した結果、管理が必要でしたから」
リィナが木剣を肩へ載せる。
「話、終わった? 日の出までに走るよ」
「く......一・二五%で受理する」
『成立。セレネ、交渉つよ!』
ニアの輪郭が少し濃くなる。
朝練では、レイルが中級魔法【風刃】の内部工程を無言で組み立てた。
始動。風圧収束。刃幅。進路。切断後の消散。
声に出さなくても、頭の中で五工程を順に通す必要がある。初級魔法の無詠唱より圧力が重く、途中で一つでも曖昧になると、風は刃にならず周囲へ散る。
レイルが三歩走り、右手を振る。
風は木標の手前で崩れ、砂だけを巻き上げた。
「また照準前に形を固めた」
リィナが言う。
「走りながら照準を決めると、刃幅がずれる」
「止まって撃てば?」
「実戦で止まれる保証がない」
「最初から実戦にしようとするから失敗するんでしょ。止まって成功してから、走ればいい」
「順序としては正しい」
「じゃあ、止まって」
「でも、止まった成功だけ覚えると――」
「レイル」
「はい。止まります」
リィナは満足して木標の横へ立った。
「よろしい。私が攻撃するから、まず静止で三回成功。その後、動きながら」
「攻撃は必要か?」
「実戦にしたいんでしょ?」
「段階を踏む話はどこへ行った」
「私の段階は、止まってるレイルへ木剣を当てないところから」
「当てる前提なのか」
リィナは笑った。――当然レイルの頭にたんこぶができたのは言うまでもない。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
午前、術式塔の補習室では、セレネが試験範囲を色別に並べていた。
青はレイルが理解済み。黄は要復習。赤は未履修。
机のほとんどが赤かった。
「一年分というより、人間圏史だけで一冊あります」
レイルがブ厚い教本を持ち上げる。
「私たちが王核大陸へいる間に、北部三領の境界協定が改定されました。旧制度を書けば減点です」
「境界が変わった理由は?」
「雪解けによる河道変更と、魔物防衛費の分担です」
「川が戻ったら?」
「次の協定で再検討します」
「最初から可変境界にすればいいだろうこれ」
「試験答案へ制度批判を書かないでください」
「理由を聞かれたら書く」
「求められているのは現行制度です」
セレネは眼鏡を押し上げた。実験時だけ掛ける細い銀縁眼鏡だが、最近はレイルの補習でも使うようになった。
二人の机には同じ大陸記の下書きが置かれている。レイルが夜に書いた灰橋宿の説明へ、セレネが青い字で注釈を入れていた。
文字を追うため、二人の肩が近づく。
「ここ、『最初の椀は無料』だけだと慈善施設に見えます。二杯目から仕事を選ぶ制度と、後払いを拒否できることまで必要です」
「報告書じゃなく、本にするなら説明が長くないか」
「読者が誤解しない長さへの調整は必要です」
「近くないか、セレネ」
「同じ行を見るための距離ですよ」
「前より近い気がする」
セレネの筆が止まった。
「以前は、貴方に好意を知られていませんでしたから」
「今は知られているから、近くていいのか?」
「少なくとも、慌てて離れる理由はありません」
青紫色の瞳は原稿へ向いたままだった。彼女の耳の先だけが赤い。
レイルは次に何を言えばいいか分からず、灰橋宿の二杯目へ視線を戻した。
(告白されたことを忘れてはいない。忘れていないから、前より近いと困るんだ。だが、困る理由を説明すると、返事を求められていないのに返事の話になってしまうしな......)
考えている間に、セレネが横目で見る。
「また、何を言えば安全か考えていますね」
「危険な言い方を避けているつもりだ」
「何も言わないことが安全とは限りません」
「分かっている」
「では、今はそれで結構です――」
彼女は追及しなかった。その余裕が、告白前よりレイルを意識させた。
昼鐘が鳴ると、リィナが武装戦技塔から走ってきた。
訓練着の上へ制服の上着を羽織り、髪の先は汗で濡れている。三人分の昼食盆を抱えていたが、自分の盆だけ皿が二段になっていた。
「今日は何やってたの?」
「北部三領の可変境界と、中級無詠唱の工程整理です」
セレネが答える。
「レイルは始動と収束を一つの工程として覚えていますが、風刃では分けた方が安定します。王核大陸式は終了条件を先に置くため――」
「待って。二人にしか分からない言葉で、楽しそうに話すのやめて」
「試験内容の説明です」
「説明なのは分かる。でも、私が来る前からずっとその話してたんでしょ」
「午前中は補習ですから」
「補習なら、近くても数えないの?」
昨日と同じ問いが形を変えて戻った。
レイルは慎重に答える。
「距離を数える必要があるのか?」
「ある」
「何のために」
「私が嫌だから」
リィナは言い切った後、少しだけ頬を赤くした。
「ずっと一緒にいろって言ってるんじゃない。別の教室なのは仕方ないし、セレネが勉強を手伝うのも分かってる。でも、全部『授業だから』で片づけられると、私だけ気にしてるみたいで嫌なの」
レイルは盆の上へ視線を落とした。
「気にしていないわけじゃない」
「じゃあ、何を気にしてるの?」
「リィナが昼に来る時間。朝練を短くした分、放課後にどこまで戻すか。セレネとの補習が長引いたら、先に連絡すること」
「それ、予定の話じゃん」
「予定に入れるのは、忘れたくないからだ」
リィナが黙る。
セレネも筆を置いた。
「レイルらしい答えですね」
「褒めているのか」
「半分は」
「残り半分は?」
「私は、授業中の時間まで特別ではないと言われたくありません」
「言ってない」
「今後も言わないでください」
「分かった」
リィナが椅子を引き、レイルの反対側へ座った。
「じゃあ昼は三人。朝は私。授業はセレネ。放課後は曜日で分ける」
「時間割を恋愛で分けないでくれ」
「恋愛って言った!」
リィナの目が丸くなる。
レイルは自分の失言に気づいた。
『記録しましたー』
ニアが嬉しそうに割り込む。
「おい、消せ」
『大事な成長ログなので無理です』
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
筆記試験当日。
科目は継路共通語、算術・計量、人間圏史、契約基礎、魔法安全学、魔物生態、灰環交易語、事故報告。
レイルは灰環交易語と事故報告で満点に近い評価を取った。人間圏史では、知らない制度を推測で埋めず、答案へ【未確認・要補習】と書いた。
監督官が眉を寄せる。
「空欄よりは正直ですが、試験では点になりません」
「誤情報を書くより安全です」
「歴史答案で事故報告の姿勢を持ち込まないでください」
リィナは灰環食材名を問う設問だけ、裏面まで書いた。
「石鱗魚、灰角芋、黒蜜苔、裂皮鳥、鍋炉豆――」
終了後、答案を見た教員が尋ねる。
「食材名を十種と書いてあります」
「余ったので四十七種書きました」
「契約解除条件は三行しかありません」
「食券の返却期限なら書きました」
「別問題です」
アルドは地理問題で地図を上下逆に置き、フィアが直そうとして監督へ止められた。
「試験中の補助は禁止です」
「誤りが発生しています」
「それを測る試験です」
「訂正できる誤りを放置する制度に疑問があります」
「フィア、自分の答案へ戻れ」
アルド本人に言われ、フィアは不本意そうに席へ戻った。
ノアは客員研究員候補として試験を受けない。だが、廊下で終了を待ちながら、アルド用の補習計画を二つ作っていた。
一つはフィアと行う地理補習。
もう一つは、自分が作る方位感覚矯正魔導具の実験計画。
フィアが試験室から出ると、すぐその紙へ気づいた。
「アルドの補習は学院課程で行います」
「補習で治るなら、これまでに治っています」
「魔導具実験の対象へ学生を使うには同意と審査が必要です」
「本人の同意は得ます」
「先に計画を作ったのですか」
「仮説は同意前でも作れます」
「生活管理の範囲を再び広げています」
アルドが試験室から出てくる。
「何の話だ」
「貴方の地図補習です」
「貴方の方位感覚を治す研究です」
「両方受ける」
即答だった。
フィアとノアは互いを見た後、同時に紙へ条件を書き足し始めた。
筆記結果は、全員が合格圏内。
ただし一般教養には補習判定が付いた。
レイルは答案返却の帰り、まだ題名のない冊子へ一行書いた。
【地図を読めても、帰れるとは限らない】
その下へ、アルドの名前を書こうとして止める。
本人の許可が必要だ。
売れる本を書く前に、何を書いてよいかを選ばなければならない。
旅の記録は、記憶を並べれば完成するものではなかった。
【今回の登場人物】
・レイル・アルヴァート
人間圏史の未確認事項を推測で埋めず、恋愛という言葉だけは自分で答案外へ書いてしまった少年。
・セレネ・グランツ
告白済みであることを隠さずレイルの隣へ座り、授業時間も自分にとって特別だと静かに伝えた少女。
・リィナ・アルセイル
別教室の不安を予定の問題へ隠さず、昼休みと放課後の時間を自分から確保した幼なじみ。
・ニア
一・二五%の投影魔力を交渉で獲得し、レイルの「恋愛」発言を成長ログへ保存した少女型疑似人格。
・フィア・レコード
試験中のアルドの地図を直せず苦しみ、試験後は学院補習の条件を即座に整理した目録官。
・ノア・エルグラム
アルドの方位感覚を百二十年の研究課題へ加え、フィアと別方向から補習計画を作った研究者。
・アルド・クロイツ
地図答案を誤っても、フィアの補習とノアの実験をどちらも受けるという迷いのない結論を出した少年。
【今回の能力・設定メモ】
・内在詠唱変換
通常詠唱の始動、形成、照準、結着、終了を内面へ移し、中級魔法を無言で成立させる三年次選択実技。無言でも工程そのものは省略できない。
・中級無詠唱【風刃】
レイルは静止状態でも未成功。走りながらの形成を急ぎすぎ、照準前に刃形を固定して崩している。
【次回】
筆記で埋められなかった空欄を、今度は救助現場で判断します。
答案の空欄も、昼休みの席も、誰かが勝手に埋めれば正解になるわけではありません。レビュー、ブックマーク、フォローで、三人が選び直した時間割を応援してください。




