第136話「全部の帰り先」
選択肢が多いほど自由に見えます。
けれど、一つも選べないまま立ち続けるなら、それもまた別の檻です。
王核大陸へ転移して、一年まで残り五日の時。
アポリアが開いたのは、一つの帰還ゲートではなかった。
地図塔の壁も床も天井も消え、無数の円形ゲートへ置き換わる。
大きさも色も違う。
向こう側に見える場所も違う。
レイルの正面には、前世の自室があった。
狭い部屋。机。
積み上げた原稿。
けれど、記憶と違う。
全ての原稿へ【完結】と書かれている。
本棚には刊行された小説が並び、表紙へ前世の名前が印刷されていた。
間宮玲司。
最後まで何も終えられなかった男が、全てを完成させた人生。
(欲しかった。ずっと、これが欲しかったはずだ)
ゲートの向こうにいる前世の自分は、満足そうに笑っている。
だが、その部屋にはリィナも、ニアも、エルシアもいない。
王核大陸の地図もない。
完成した原稿だけがある。
アポリアの声は、どこからともなく響く。
【選ばなくてよい】
【全てを可能性のまま残せば、何も失わない】
【この部屋へ帰る自分も、人間圏へ帰る自分も、王核大陸へ残る自分も、同時に存在できる】
リィナの前には、レイルが一度も傷つかなかった世界が開いていた。
幼い二人が故郷の野原を走っている。
レイルは【未完】を持たない。
心停止も、白環転移も、四か月の別離もない。
別のゲートでは、成長したリィナが剣神として立ち、レイルと二人だけで帰還している。
「二人だけ……」
リィナの指が僅かに動く。
レイルが気づく。
「リィナ」
「見てるだけだよ」
「入りたいか?」
「少しは......」
リィナは正直に言った。
「レイルが一度も死にかけなくて、私が失敗しても誰も傷つかなくて、二人で帰れるなら、ちょっとくらい欲しいって思う。でも、その私、ヴァルカにも会ってない。ミュラの言葉も知らない。――そんなの、今の私じゃない」
剣の柄を握る。
「それに、セレネたちを置いて二人で帰ったら、帰ってからレイルを殴ると思う」
「帰ってから?」
「ゲートの中で殴ったら事故になるでしょ」
『そこだけ安全管理できてるの、リィナ成長しましたね』
「ニア、褒めてる?」
『かなりですー』
セレネの前には、全ての術式が一つの正解へ整った学院がある。
レイルは最初から彼女の研究相手で、リィナと出会わない。
期限も誤差もない。
セレネは長く見つめた後、眼鏡を外した。
「綺麗な世界ですね」
「入りたい?」
リィナが尋ねる。
「研究者としては。ですが、あの世界の私は、誰かへ術式の最後を預けることを知りません。レイルを共同研究者と呼んでいても、本人の判断を必要としていない」
「それ、嬉しくない?」
「はい。私が欲しかったのは、私の理論へなんでも従うレイルではありませんから――」
少し顔を赤くする。
「私の術式を見て、余計な危険条件を三つ追加し、それでも最後に選んでくれるレイルを選びたいです」
「褒めてるのか怒ってるのか分からない」
「両方です」
フィアの前には、一切空欄のない完全な記録があった。
誰が誰を好きか。
どの判断が正しいか。
未来の結末まで番号で記されている。
アルドの欄には、誰とどの道を歩くかまで書かれていた。
フィアは一歩近づき、止まる。
(知りたい。昨夜から記録できなかった感情へ、名前が付いているなら)
だが、答えを読む前に記録札を閉じた。
「未来の感情を先に記録すれば、今の私が選ぶ余地がなくなります」
アルドの前には、道を一度も間違えない人生がある。
別の円では、リィナがアルドの手を取っている。
さらに別の円では、フィアが隣を歩く。
ノアが研究室でアルドの腕をつかんでいる未来もある。
「どれを選ぶ――?」
ノアが、少し緊張した声で尋ねる。
アルドは三つの円を見比べた。
「分からない」
「即答しないのですね」
「俺が知っているフィアとノアは、そこにいない」
「私はいます」
「今、隣にいる」
アルドの答えに、ノアとフィアが同時に黙る。
「未来の方を選ぶ理由がない」
「リィナの未来も?」
フィアが尋ねる。
「あれは、俺が欲しかった可能性かもしれない。だが、リィナが選んだ未来ではない」
ノアの胸に、温かさと痛みが同時に生まれる。
フィアも記録札へ何も書けない。
ノアの前には、父が生きている研究室が開いていた。
ノエラは一度も去っていない。
三人で机を囲み、完成しない大魔法について議論している。
別の円には、吸血を必要としない自分。
さらに別の円には、アルドとフィアのどちらも失わない未来。
「卑怯ですね」
ノアの声から研究用語が消えた。
「父を使うのは、卑怯です」
ノエラが隣へ立つ。
「入りたいか」
「入りたいです」
ノアは否定しない。
「父に会いたい。貴方がなぜ帰らなかったのか、三人で話したい。血を欲しがらない身体も欲しい。アルドとフィアへ、こんな面倒な感情を持たずに済むなら、その方が楽です」
「なら――」
「ですが、父が教えてくれたのは、観測結果を都合よく選ぶことではありません」
涙を眼鏡の奥へ残したまま、ゲートへ背を向ける。
「父がいない現在を嫌って、父が生きる可能性へ逃げたら、父から受け継いだ研究まで捨てることになります」
ニアの前には、無数の自分がいた。
猫型。
犬型。
少女型。
成長した成人型。
完全な肉体を持つ人間のような姿。
レイルから独立し、一人で魔法を使える自分。
レイルのそばへ永遠に残る自分。
『全部ほしいですー』
ニアは素直に言った。
『猫型も好き。犬型で走るのも好き。少女型で手を使うのも好き。完全な身体も、自分の魔力も、いつか欲しいです』
レイルが尋ねる。
「今は、どの姿でいたいんだ?」
ニアは周囲の無数の自分を見る。
『少女型ですねー。今はみんなと話したいです。魔力が減ったら猫型。追跡が必要なら犬型ですぅ』
「一つへ決めなくていいのか」
『一生の形を今決める必要はないです。でも、今の十五分は選べます』
少女型の輪郭が安定する。
アポリアの声が強くなる。
【選ばなければ、誤りは生まれない】
【全てを故郷にできる】
【全てを愛し、全てを残せる】
レイルは前世の自室を見つめた。
完成した本。欲しかった人生。
けれど、その完成は今の仲間を含まない。
「故郷は、一つじゃなくていい」
レイルは言った。
「でも、今日どこへ帰るかは選ぶ。今回は人間圏へ帰る。その後、また王核大陸へ来る」
【一つを選べば、他を失う】
「失うんじゃない。今日は行かないと決めるだけだ」
【後悔する】
「するかもしれない」
レイルは認めた。
「それでも、選ばなかったことを言い訳にするよりいい」
無数のゲートへ背を向ける。
リィナ、セレネ、フィア、アルド、ノア、ニアも続く。
王核大陸側でアポリアの誘惑が広がった時、人間圏側の受信陣にも存在しない座標が次々と映っていた。
レイルたちが失踪する前日の学院。
一年ではなく、失踪当日へ戻る座標。
レイル一人だけが帰る座標。
リィナだけが家族の前へ現れる座標。
誰も転移しなかった世界。
エナの前には、失踪前のレイルが立っていた。
まだ王核大陸を知らず、十一か月分の傷もない少年。
「母さん」
幻が呼ぶ。エナの手が動く。
バルドが止める前に、彼女自身が下ろした。
「これは、私が待っていた子じゃありません」
「同じ顔だ」
学院上層部の一人が言う。
「失踪前へ戻せるなら、何も失わずに済む」
「違います」
エナは幻から目を離さない。
「私が待っているのは、十一か月を生きた後の息子です。向こうで何を見たか、誰と会ったか、どれだけ変わったか。全部知らなくても、その時間までなかったことにはしません」
バルドが頷く。
「帰ってくる時間まで、こちらで勝手に選んだりせんぞ」
リィナの家族も、幼い娘の幻へ手を伸ばさなかった。
「剣を持つ前へ戻ってほしいと思ったことはあります。でも、それを選ぶのは今のあの子じゃない」
エルシアが受信陣へ四つの条件を固定する。
【現在時刻】
【現在の学院座標】
【帰還者全員】
【記憶・技能保持】
「この四つ以外を受信するな。過去も理想もいらない。今のあいつらが選ぶ信号だけを待つぞ」
ロッテが偽座標を一つずつ切る。
ユノは幻へ剣を向けた。
「可能性そのものは斬らないよー。今の道へ重なる偽物だけを外しちゃう」
カインが石板へ書く。
【待つ】
人間圏側から送られた四条件が、断航海域を越えて微かな脈となる。
レイルのオムニアが、その信号を拾った。
『現在時刻、現在座標、全員、記憶保持。向こうから同じ四つ、来てます』
レイルは笑った。
「待ってる側も、今の俺たちを選んだ」
アポリアの無数のゲートが崩れ始める。
アルケインの唯一解も使わない。
アポリアの無限保留も使わない。
残ったのは、自分たちで組み上げる未完成の術式だけだった。
「帰還契約を作る」
セレネが言う。
「本人同意、途中中止、再訪可能、役割削除なし。条件を全部入れます」
「完成しない可能性があります」
フィアが答える。
「完成させる相手がいます」
ノアがレイルを見る。
「私たちは九十九%まで作ります。最後の一%を、今度は一人へ押しつけません」
レイルは頷いた。
「全員で帰るゲートを作ろう」
「「「了解!」」」
【今回の登場人物】
・レイル・アルヴァート
完成した前世の人生を望みながらも、今日帰る場所を人間圏へ選び、王核大陸への再訪を別の未来として残した少年。
・リィナ・アルセイル
レイルと二人だけで帰る可能性へ惹かれつつ、今の仲間を置く未来は自分の選択ではないと拒んだ剣士。
・セレネ・グランツ
一つの正解へ整った研究世界より、判断を返してくる現在の共同研究者を選んだ少女。
・フィア・レコード
未来の恋愛結果まで記された完全記録を読まず、現在の自分が選ぶ空欄を残した目録官。
・アルド・クロイツ
リィナ、フィア、ノアとの複数の未来を見ても、本人たちが選んでいない道へ入る理由はないと答えた少年。
・ノア・エルグラム
父が生きる研究室を欲しいと認めながら、父から受け継いだ研究姿勢を守るため幻へ背を向けた九十九魔導士。
・ニア
全ての形を欲しいと認め、一生ではなく今の十五分だけ少女型を選んだ疑似人格。
・エナ、バルド、リィナの家族
失踪前の子供ではなく、十一か月を生きた現在の帰還者を待つと偽座標を拒んだ家族たち。
・エルシア、ロッテ、ユノ、カイン
現在時刻、現在座標、全員、記憶保持の四条件を送り、アポリアの無数の偽帰還先から現実を示した人間圏支援組。
・アポリア
何も失わないように見える無数の可能性を開き、選択そのものを永遠に保留させようとした未定神。
【今回の能力・設定メモ】
・アポリアの無数ゲート
理想、過去、未来を含む可能性を見せるが、到着先を本人が固定できない。自由ではなく選択不能へ導く。
・人間圏側の四条件
現在時刻、現在の学院座標、帰還者全員、記憶・技能保持。独自帰還ゲートの受信条件となる。
【次回】
両大陸は別々の言語で、同じ全員帰還の契約を組み始めます。
全部を残す幻より、今日帰る場所を一つ選びました。レビュー、ブックマーク、フォローで、可能性の檻から現在へ戻った七人を応援してください。




