第134話「荒海の向こうの声」
声が届く時間が短いほど、伝えたい言葉は多くなります。
けれど、待っている人が最初に知りたいのは、長い説明ではないのかもしれません。
王核大陸へ転移して、十一か月目。
全ての分散座標が揃った夜、【万式魔導環】は断航海域の向こうから、極めて弱い人間圏の反応を拾った。
灰橋宿の地図塔最上階には、王核大陸側で集めた五枚の座標片が円形に並べられている。
中央にはオムニア。
外周にはセレネの三重術式環。
フィアの記録札。
ノアの九十九式固定具。
ミュラが地脈音を読むための小さな骨笛。
レイルは壊れたままの【灰環仮導杖】を床へ立てた。
帰還ゲートを開くのではない。
まずは、掌ほどの観測窓を作る。
――それは、向こう側の現在座標を、十秒だけ見るための接続だった。
「確認します」
フィアが記録札を開く。
「目的は生存確認と現在座標の照合。個人帰還座標の固定は行いません。接続時間は最大十秒。白環命令の混入を確認した場合、即時切断します」
「十秒では短い」
レイルが言う。
「中盤の人間圏側転移実験は、接続を延ばしたことで断航海域上空へ出口がずれました」
「分かってる。でも、十一か月分を十秒で説明するのは無理だろ?」
「説明する必要はありません」
セレネが淡金髪を耳へかけ、青紫の瞳で術式環を見る。
「最初は、こちらがみな、生きていると伝えるだけです。研究報告も、王核大陸の政治も、後でできますから」
「後がある保証は?」
「保証がないから、最初の十秒で全てを詰め込むのですか。それでは一語も届かない可能性がありますよ」
レイルは返事を飲み込んだ。
(言いたいことは山ほどある。心配をかけたこと。帰れなかった理由。新しい仲間。王核大陸が同じ世界だったこと。ニアが少し触れられるようになったこと)
けれど、母が最初に聞きたいのは、報告書ではない。
「レイル、紙」
リィナが大きな白紙を差し出した。
「何を書く?」
「一番先に見せたいこと」
「全員の名前か?」
「長い。窓が小さかったら読めないよ」
「じゃあ、何だよ」
リィナが炭筆を握る。
大きく、二文字を書く。
【生存】
その下へ、レイルが書き足す。
【全員】
「これでいい」
「四文字だね」
「十分だな」
ニアが少女型で紙の上から覗き込む。
『ニアちゃんも全員に入ってます?』
「もちろん、入ってる」
『即答、アゲです』
ノアが術式筒を接続する。
「観測窓の九十九%を形成します。最後の一%は、人間圏側の受信波が重なった時だけ完成させます」
「向こうが受け止めていなければ?」
アルドが尋ねた。
「窓は開きません。断航海域へ光が漏れるだけです」
「なら、向こうが待ってくれていると信じるしかないな」
「ただ信じるのではなく、前回から続く周期信号を根拠にしています」
「言い方を変えただけで、同じでは?」
「違います」
『でもノア様、ちょっとだけ信じてる顔してますよ』
「ニア、口をふさぎますよ」
『はいはい、作業しまーす』
ミュラが骨笛へ息を吹く。
低い音が地図塔の床を震わせる。
「地脈、東。海の下、細い。三回目で、人の側」
ラガンが窓の外を警戒する。
ガズルは大鍋炉へ火を入れ、魔力供給を安定させる。
ノエラはノアの背後に立った。娘には触れない。
ただ、血統経路が乱れた場合に支えられる距離を保っていた。
「人間圏側、周期接近」
ニアの表示が赤から金へ変わる。
『三、二、一――今!』
「九十九式、終端解放!」
ノアが叫ぶ。セレネの三重術式が一つへ絞られる。
レイルは完成圧力を一瞬だけ【未完】として受け、フィアの合図で返す。
「第一番――完成!」
空間へ、掌ほどの円が開いた。
最初は白い霧。
次に、石造りの広い室内。
王立結着学院の地下実験室。
そこには、エルシアがいた。
いつもと同じ二十代後半ほどの若い外見。だが金髪は乱れ、目の下には濃い疲労がある。隣ではロッテが受信盤へしがみつき、ユノが剣で逆流する魔力を切り流し、カインが石板を掲げていた。
映像だけで、音は届かない。
レイルは紙を窓へ向ける。
【全員、生存】
向こう側で、エルシアの目が見開かれた。
ロッテが口元を押さえる。
ユノが両手を大きく振る。
カインは石板へ文字を刻み、窓へ掲げた。
【帰路、維持】
フィアが秒数を読む。
「残り七秒」
エルシアの後ろへ、人が増える。
レイルの母エナ。
栗色の髪を乱したまま、窓へ走り寄る。
父バルドは、普段より痩せた顔でその肩を支えていた。
リィナの家族。
セレネの関係者。
学院教官。
そして、見知らぬ顔だが、おそらく捜索隊。
「残り五秒!」
ロッテが受信線を一つ追加する。
映像へ音が混じった。
激しい雑音。
その中から、エナの声が届く。
「レイル――無事でよかった! 帰ってきて!」
レイルの喉が閉じた。
準備していた説明が、全て消える。
バルドが窓へ近づく。
「何人増えていても構わない。帰ると言った全員を連れてこい!」
リィナの家族の声も重なる。
「剣を置いて帰れとは言わない! 折れていても、そのまま帰ってきなさい!」
「残り三秒」
レイルは声を出そうとするが、出ない。
リィナが背中を叩いた。
「レイル!」
息が戻る。
「……帰ります!」
声が震える。
「全員で帰る!」
観測窓が閉じた。きっちり十秒だった。
誰もその場ですぐには動けなかった。
レイルは紙を持ったまま、閉じた空間を見る。
(帰る場所は残っていた。俺が変わっても、人数が増えても、昔のままじゃなくても)
リィナが横へ立つ。
「......言えたね」
「説明は何もできなかった」
「最初はあれでいいでしょ」
「母さんの顔、痩せてた」
「私の家も。お母さん、怒ってた」
「帰ったら謝ろう」
「私も。たぶん、最初に抱きしめられて、その後で怒られる」
「順番が逆じゃないか」
「家によるよ」
セレネは眼鏡を外し、目元を指で押さえていた。
レイルが見ると、すぐにかけ直す。
「......泣いてないですよ?」
「何も言ってないが」
「言いそうな顔でした」
「泣いてもいいと思う」
「その許可は不要です」
言い切った後、セレネの周囲へ小さな光球が三つ浮いた。
『感情光、三個。泣いてない判定はちょい厳しいかも』
「ニア」
『はい、黙りまーす』
ミュラは窓が閉じた場所を見上げていた。
「レイル、帰る?」
「ああ」
「ミュラ、行かない」
「分かってる」
「分かってる顔、嫌い」
ミュラは骨笛を握りしめ、地図塔を飛び出した。
レイルが追おうとする。
ラガンの太い腕が前へ出た。
「すぐ慰めるな」
「でも――」
「残る側にも、自分で怒る時間がいる。お前が帰ると決めたことを、あいつが今すぐ笑って受け入れる必要はない」
「放っておけと?」
「後で行け。今は追えば、あいつが泣く場所と時間まで奪う」
レイルは足を止めた。
(待つことは、何もしないことじゃない。リィナに教えられたばかりだ)
その時、観測窓の跡へ白い線が走った。
円形の光が、地図塔の天井近くまで広がる。
アルケインが現れた。
白い長衣。
性別も年齢も断定できない整った顔。感情のない静かな微笑。
「座標は確認されました」
声は優しい。
「正規帰還ゲートを使用できます」
白い円の向こうに、人間圏の学院が映る。
さきほどの不安定な観測窓とは違う。
揺れない。
雑音もない。
完全に見える。
あまりにも正しく、美しい帰還ゲートだった。
人間圏側では、観測窓が閉じた後も作業が続いていた。
エナは窓の跡へ手を当てている。
バルドが隣へ立つ。
「全員で帰ると言ったな」
「あの子らしい」
「一人なら早く帰れると言われても、断るだろう」
「だから、こちらが全員分を開けておかないと」
エルシアが受信盤へ戻る。
「泣くのは後。今の接続で向こうの現在座標が取れた。受信杭を再調整するよ」
「先生、目が赤いです」
ユノが言う。
「睡眠不足だ」
「レイル君と同じ言い訳ですね~」
「勇者候補。余裕があるなら外周杭を三本増設」
「はいはい。照れ隠しの追加作業、受理します」
「誰に習った、その口」
カインが石板へ書いた。
【バカ弟子の周囲】
エルシアが石板をひったくる。
「お前まで乗るんじゃない!」
笑いが起きた。
十一か月ぶりの声は、両側へ次の作業を残した。
【今回の登場人物】
・レイル・アルヴァート
十一か月分の説明を捨て、両親へ「全員で帰る」と最初の約束だけを届けた少年。
・リィナ・アルセイル
声を失ったレイルの背中を叩き、自分の家族へも今の剣を持ったまま帰ると決めた少女。
・セレネ・グランツ
十秒の接続を欲張らず生存確認へ絞り、閉じた後に感情光を三つ浮かべた術式設計者。
・ミュラ
レイルの帰還を理解しながら、残る側の怒りと寂しさを隠さず地図塔から飛び出した案内人。
・ラガン・ティグリス
泣く場所まで奪うなとレイルを止め、残される側へ自分で感情を扱う時間を渡した虎人戦士。
・エナ・アルヴァート
昔のままではなく、王核大陸で変わった現在の息子へ帰ってこいと伝えた母親。
・バルド・アルヴァート
同行者が何人増えていても、全員を連れて帰れと息子へ託した父親。
・エルシア・ヴァント
十秒の観測成功を感傷で終わらせず、現在座標を使った受信杭の再調整へ入った師匠。
・アルケイン
両大陸が苦労して作った観測窓よりも完全な正規帰還ゲートを、静かに提示した白い案内人。
【今回の能力・設定メモ】
・観測窓
帰還ゲートを開く前に、両大陸の現在座標を十秒だけ接続する小規模空間術式。個人座標は固定しない。
・現在座標
一年前の出発位置ではなく、現在の学院と現在の帰還者を結ぶために必要な情報。
【次回】
完全な正規帰還ゲートが、王核大陸で得た一年を切り落とす条件を提示します。
十秒の窓でも、「”帰ってきて”」という声は海を越えました。レビュー、ブックマーク、フォローで、両大陸へ届いた最初の約束を応援してください。




