第132話「自分で帰ってきた」
待つことは、何もしないことではありません。
戻る人が迷わないよう、同じ場所を守り続けることも一つの戦いです。
王核大陸へ転移して、十か月目。
リィナが戻ると約束した日を二日過ぎても、レイルは灰橋宿の朝練を一日も休まなかった。
夜明け前。
レイルは宿の裏手を走りながら、左右の掌へ別々の魔力を形成する。
左に【微風】。
右に【灯光】。
足裏には【裂息歩法】。
百歩目。
光球が揺れず、風も進行方向へ引かれなかった。
『百歩成功。前を見る課題も、今日は壁に勝ちました』
少女型ニアが宙を並走する。
「昨日もぶつかってない」
『昨日は木箱にぶつかりました、ニアちゃん見てましたよ!』
「壁ではない」
『勝負する分類を狭くして勝ったことにするの、だいぶズルいです』
レイルは走る速度を落とし、訓練場の入口を見る。
そこには――誰もいない。
二日前から、同じことを何度もしていた。
『リィナの約束、日付じゃなくて“戻れるようになったら”でしたよ?』
「地図の移動速度なら、一昨日には着く」
『寄り道、怪我、依頼、食事休憩。リィナなら食事休憩だけで半日ありえますし』
「食料は持たせてもらったはずだ」
『持ってたら食べる速度も上がります』
レイルは反論できなかった。
(追わないと決めた。心配だから追わない。そう言ったのは俺だ)
それでも、朝練の水筒は二本用意していた。
その日の昼前、灰橋宿の警鐘が鳴った。
北門から白環回収獣。
西の崖道から四極戦団の斥候。
目的はオムニア、分散座標、レイル、そしてリィナの帰還経路だった。
「住民を地下倉へ! 第一避難路が塞がった場合は第二へ切り替えます!」
フィアの声が広場を通る。
「アルド、北門二番。ラガン、西壁。セレネ、宿の防壁を三案で形成してください」
「了解した」
「受理しました」
レイルは白環回収獣の群れへ向き直る。
以前なら、近い危機から順番に自分で持とうとした。
今は違う。
「セレネ、右側の水流刃を形成してくれ。完成時刻だけ預かる」
「二件目として渡します。左側は私が最後まで持ちます」
「フィア、俺の保持は一件まで」
「確認。二件目を登録しようとした場合、強制中止します」
『ニアちゃんも監視します。勝手に四件チャレンジしたら、全員へ大音量でバラします』
「しないって」
『前科ある人の“しない”は、条件付きで受理でーす』
一体目が跳ぶ。
レイルは左手を地面へ向けた。
無詠唱【硬土】。
土壁が住民の前へ立つ。
右手には無詠唱【風弾】。
回収獣の横腹へ当て、跳躍軌道を逸らす。
【裂息歩法】で一歩横へ。
保持済みの【閃光】を敵の眼前で完成。
「未完記録、第一番――完成」
白い群れの視界が焼ける。
その隙へ、セレネの【水流刃】が三方向から走った。
レイルが預かったのは、中央の一件だけ。
「第二――」
「訂正。現在の保持番号は第一です。前件は完了しています」
フィアが即座に言う。
「第一番、完成!」
水の刃が回収獣の脚を切り、群れを転倒させる。
四つの魔法が無詠唱で重なったように見えた。
だが、レイルが新規形成したのは二件。
保持は一件ずつ。
セレネの術式を奪ったのではなく、完成時刻だけを預かった。
【重層無詠唱】。
『見た目だけなら四重無詠唱。実際は新規二、保持一、共同一です。盛るのは禁止なので、あとで報告書にちゃんと書きます』
「今は敵を見ろ」
『レイルのその台詞、本日二回目でーす』
西壁で爆発が起きた。
四極戦団の斥候が、帰還経路の道札を奪おうとしている。
アルドがフィアの番号指示で走る。
「三番路、右。次の分岐は左です」
「右から左だな」
「はい。今の右は正しい右です」
「前は間違っていたのか」
「過去の誤差を今確認しないでください」
アルドは迷わず斥候の前へ出た。
ノアは後衛で防壁を支える。血素は減っていたが、保存血を使い、前衛から取らない。
フィアが時折アルドを見ていることに気づいた。
昨夜から続く小さな距離は、まだ消えていない。
だが、戦場では互いの判断を疑わなかった。
回収獣の一体が、レイルの死角から飛びかかる。
『後ろ!』
ニアの警告より先に、赤栗色の光が地面を走った。
剣閃。
回収獣の外殻が割れる。
赤栗色の髪をなびかせた少女が、レイルの前を通り過ぎ――なかった。
足裏から逆向きの魔力が噴く。
【噴歩・逆制】。
リィナはレイルの半歩前へ、両足で止まった。
「今、助けなくてよかったのか?」
レイルが、以前と同じ問いを口にする。
リィナは振り返った。
四か月の風に焼けた頬。
短く切れた前髪。新しい剣帯に膝の補強布。
それでも笑う顔は、レイルが知る幼なじみのままだった。
「うん。今度は、”自分で帰ってきた”よ!」
「遅いぞ!」
「四か月も待たせたから?」
「約束の日から二日遅い」
「そこ数えてたの?」
「毎日な」
リィナの顔が赤くなる。
「……そういうの、先に言ってよ」
「先に言う相手がいなかった」
「地図札へ書けばよかったでしょ」
「毎日書いたら重いと思った」
「数えて待ってた方が重いよ!」
『再会一分で恋愛重量の計測始めるの、二人とも相変わらずですね』
「ニア、今それ言う?」
『言わないとレイルが日数計算へ逃げます』
リィナは笑い、剣を構え直した。
「話は後。道を開ける」
「俺が射線を作る」
「私が走る」
「戻ってこい」
「今度は言われなくても戻るから!」
二人の連携が再び動き始める。
レイルの無詠唱【微風】がリィナの足元へ流れ、噴射時の横揺れを抑える。
リィナは【瞬駆】で敵陣へ入り、受けられた剣圧を【返脚】へ落とし、二撃目で白環回収獣を斬り倒す。
戦いは一時間後に終わった。
灰橋宿の被害は、外壁二箇所と倉庫一棟。
もちろん、死者はいない。帰還経路の道札も守られた。
戦闘後、アルドがリィナへ近づく。
「綺麗な一歩だった」
「ありがとう。今度は止まれたでしょ」
「ああ。前より強い」
「アルドも、迷わず戦えてたね」
「フィアの指示があった」
「じゃあ、二人とも強くなったんだ」
リィナの言葉に、恋愛の意味はない。
アルドはそれを理解していた。
以前なら、少しだけ胸が痛んだかもしれない。
今は、リィナがレイルの位置を探さず、自分の足で戻ったことを剣士として嬉しく思う。
「戻るのを待っていた。レイルだけではない」
「うん。待っててくれてありがとう」
アルドはそれ以上を求めなかった。
フィアは少し離れた場所から二人を見ていた。
リィナへ向けられた言葉を聞いても、昨夜ほど胸は痛まない。
(私が気にしていたのは、アルドが誰を好きだったかではなく、私の知らない道へ行ってしまうことなのでしょうか)
まだ答えは出ない。
だが、記録不能だからと消すことはしなかった。
ノアが壁へ手をつき、僅かにふらついた。
戦闘で血素を使いすぎている。
「ノア」
アルドが腕を出す。
ほぼ同時に、レイルも採血器を持ってきた。
「八十ミリだろ?俺から取れる」
「俺も前回から間隔は空いている」
ノアが二人を見比べる。
「同時に出さないでください。選択に困るでしょう!」
『体調が良い方から取ればよくないです?』
「ニア、恋情を医療判断へ混ぜないでください!」
空気が止まる。
「今、自分で恋情と言ったぞ」
アルドが指摘した。
ノアの赤紫色の瞳が大きくなる。
フィアは無言で記録札を閉じた。
「なぜ閉じるのですか」
「記録しない方がよいと判断しました」
「なぜです」
「私自身が、正確に書ける状態ではありません」
「……それは、どういう意味でしょう」
「まだ説明できません」
ノアは問い返せなかった。
自分もアルドへ向ける感情を説明できない。
結局、フィアの検査で体調が良かったレイルから、採血器で五ミリリットルだけ提供を受けた。
「座って。右腕。袖を上げて」
「命令口調になってる」
「軽度飢餓です。拒否権はあります。使うなら今です」
「提供する」
「よろしい。では動かない。アルド、見ないでください!」
「なぜ俺だけ?」
「理由は後で通達します!」
『ノア様、今日ずっと自爆多くないです?』
「ニアは黙ってください!」
笑いが広がる。
重い四か月の再会が、ようやく日常へ戻った。
その夜、四極戦団から黒い伝令札が届いた。
【剣士の帰還を確認】
【分散座標を賭け、前回の続きを行う】
署名。
【四返剣将ディルガ・ザン】
リィナは札を握った。
「今度は、レイルに失敗させないから」
「俺も、勝手に全部は持たないよ」
「じゃあ、一緒に勝とう!」
「ああ」
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
同じ瞬間、人間圏側の七本の複核受信杭が一斉に点灯した。
「七つです」
ロッテの声が震える。
「やはり五人ではありません。少なくとも七つの異なる意思反応があります」
ユノが剣を握り直す。
「だる。なら、七つとも帰せばいいじゃん」
「簡単に言うな」
エルシアが言う。
「難しいから、先生たちがいるんでしょう」
エルシアは一瞬目を丸くし、笑った。
「本当に言うようになったねえ」
七本の光は、しばらく同じ周期で脈打っていた。
離れていた一人が、仲間のところへ戻った合図のように。
【今回の登場人物】
・レイル・アルヴァート
追跡せずに守った場所でリィナを迎え、四件を抱えない重層無詠唱で灰橋宿を防衛した少年。
・リィナ・アルセイル
約束から二日遅れながらも、自分の足で戻り、レイルの前へ【逆制】で止まった剣士。
・アルド・クロイツ
リィナへの初恋を答えの要求へ変えず、待っていた一人として剣士仲間の帰還を祝った少年。
・フィア・レコード
自分の嫉妬が誰かの所有ではなく、知らない道へ置かれる恐れかもしれないと気づき始めた目録官。
・ノア・エルグラム
レイルとアルドから同時に血を差し出され、恋情という言葉を自分で口にしてしまった九十九魔導士。
・ニア
再会直後から日数計算へ逃げるレイルを止め、ノアの連続自爆まで正確に突いた少女型ナビゲータ。
・ロッテ・ベルクマン
離れていた反応が一箇所へ集まったことで、七人分の意思波形を初めて同時検出した魔導技師。
【今回の能力・設定メモ】
・重層無詠唱
本物の無詠唱二件、保持済み一件、仲間の共同形成一件を時間差で発動するレイルの戦術。新規四重無詠唱ではない。
・リィナ帰還後の連携
レイルが魔法で射線と踏み場を作り、リィナが瞬駆、逆制、返脚で進入と帰還を自分で完了する。
【次回】
五か月前に敗れた北東旧街道で、ディルガ・ザンとの再戦が始まります。
二日遅れても、自分の足で止まれば「ただいま」は届きます。レビュー、ブックマーク、フォローで、四か月ぶりに並んだレイルとリィナを応援してください。




